第2話 僕の知らない僕を、知っている人間

どうやら夢を見ていた。四人掛けのボックス席の右奥に座っていると、次の駅で乗り込んできた五十代半ば程に見える男性がちょうど僕の横に座り、居眠りをはじめた。そこまでは良かったのだが、大きく舟を漕ぐはずみで僕の方に寄り掛かるようになってきた。

僕も興味を持てない講義中にはよく居眠りをしてしまうから気持ちは分かるが、正直困ってしまう。窓側に顔を向けて務めて気にしないように目を瞑っていると、いつの間にか視界がぼやけ、しまいには何も見えなくなった。


タクシーに乗っていた。呼び止めたはなから運転手は露骨に嫌そうな顔をして僕を見る。どちらまで?と聞かれ、夢の中の僕はよどみなく行き先を告げた。ほどなくしてエンジンがかかり車体が動き出す。僕は背負っていた黒のデイパックを膝に置いた。結構嵩があり顎辺りまである。ずしりと重かった。膝上の感触から言って、かなり分厚い本が何冊もあるような感じがする。

背もたれに体を預けると、ルームミラー越しにこちらを伺うような運転手の視線とかちあった。何なんだ。揶揄われている視線だ。感じの悪い運転手に当たてしまったと内心毒づきながら、名前を確認しておこうと視線をルームミラーに戻した。胸元にはプラスチックのネームタグに田口と書かれていた。

「田口さん、どうかしたんですか?」

僕が名前を呼ぶと、露骨に顔をしかめる。自分から意味深な視線を僕に投げかけておきながら、話しかけられると顔をしかめるとは。接客業には向いていない。暫くして仕事と割り切ったのか愛想笑いをした。

とはいえ隠していても人間の目には思っていることが素直に表れてしまうようで、侮蔑とも中傷とも取れない視線が投げかけられる。流石に冷やかしのような視線には耐えきれなかった。

すぐにタクシーを降りると言う手段を考えたが、一度手にしている荷物の重さのことを考えると、このまま駅に戻って再びタクシーを捕まえることはひどく億劫に感じられてしまい、しり込みした。

結局、この運転手に自分の何がおかしいのかを聞くことぐらいしかできることはなさそうだった。最も、こんな運転手とは会話を続けたくはなかったのでそんな質問はしなかったけれど。

「いいえ何も」

そういう割には何か僕自身に特別注意を払っているのはよくわかった。ひょっとしたらこの田口という運転手と僕は知り合いかもしれない。何か彼が僕の知らないうちに僕のことを(運転手の反応から言って、あまりよくないことだろう)を知っているのかもしれない。

「お客さんのほうこそ、最近はどうなんです?見かけないもので」

にやついた口元を隠すことなく、こちらの反応を楽しむように、隙あらばルームミラーを見上げている。やはりそうだ。この男は僕を知っているのだ。一体何を知っているのか知らないが、だからといってこちらが窮する必要もなかった。

こういうタイプの男は弱さを見つけるとネチネチと言ってくる陰湿さを持ち合わせている。僕は努めて落ち着き払い、弱さをまるで見せずに答えた。

「別に移動手段なんてタクシーじゃなくてもいろいろあるでしょう。それだけですよ」

そんな僕の様子にがっかりすることもなく、彼はむしろこの言葉を待っていたと言わんばかりに魚が水を得た顔をした。人の不幸が何よりも好きそうな人種だ。スクランブル交差点に差し掛かり、信号待ちをしている間、嬉しそうにこちらを眺めてはハンドルを見るのを繰り返していた。

「それだけならいいんですけどね。私はやはり、あのことが原因なのかとてっきり」

あの事、と言われてもまるで思い当たることがない。何よりこの男が僕を知っていたとしても僕は彼を知らないのだ。わかるわけもない。

「…あのこと? 何のことでしょう?」

「まさか! 当事者であるあなたが忘れているわけはないでしょう?お母さんのことですよ」

至極驚いた、という声音だった。演技がかっているのが腹立たしい。タクシーは大通りを抜け住宅街に差し掛かる。小さな川の上の橋を渡り、何軒か通り過ぎた折、運転手は車を止めた。

「まだあのままにしていらしてたんですね。あれだけの騒ぎになったのに」

その口ぶりから目的地にたどり着いたのがわかる。タクシーを降り、目前広がる光景に呆然とした。荒れている。通常であればごく普通の一軒家とも見受けられるが、ゴミが玄関からアスファルトの道路にまで溢れ、辺りは異臭が立ち込めている。

家の垣根に植えられた木は手入れが全くなされず、隣の塀までむしばもうと枝を伸ばしている。ビニール袋に入れられたゴミも、鴉の仕業か袋に穴が開いた状態で散乱していた。あまりのことに動けない僕を他所に田口は淡々と料金を請求した。

「あなたのお母さんは近所でも有名ですよ。大変ですね、認知症って。僕は初めてああいう人を見かけたんですが、いやぁ、困りました。何しろ料金を払うことさえ忘れているのでね。大騒ぎになっていたんですよ。偶然運よく、あなたがあの家から出てきて助かりました。人がまさかあんな家に住んでいるのは驚きでしたが」

変わらず侮蔑とも中傷ともとれる笑みを投げかけ、さも面白いものを見たといわんばかりの態度をとる。ここが、僕が本当に向かっていた実家なのか。そのことに驚き、呆然としてしまう。呆けたまま財布をデイバックから探ると、運転手に料金を差し出す。

まだ何か僕に言いたげの様子だったが、呆然とする僕の態度に満足したらしい。受け取ると意地の悪い笑みを浮かべたままタクシーに乗り込み、そのまま来た道に帰っていく。僕はしばらく呆然としたものの、それでも母の待つ家に歩みを速めた。

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