夢現

藤堂 朱

第1話 何一つ変わらない日常

午前九時の駅のホームは通勤ラッシュ時を過ぎているからか人はまばらだった。今日は二限目からの授業だから、長時間の電車通学を差し引きしても十分時間がある。いつもは歩みを速め、人込みをかき分けて電車に乗るしかないが、その必要はなさそうだった。

いつものように乗り場に並び、電光掲示板を眺め、あと十分は待たなければならないとわかると、背負っていた濃紺のリュックから教科書を取り出した。随分と薄い茶色のカバーが特徴的な教科書だ。よくよく目を凝らさないと、小さく書かれた「世界の思想・考察入門」という題名が見えない。教科書のデザインのセンスは皆無だが、南方先生らしいと言えばらしかった。

南方櫂教授、今年五三歳の初老過ぎの教授であり、僕のゼミの担当教授でもある。性格はよく言えば自由奔放、悪く言えば無責任と長短備えた性格で、研究があるからと講座を直前になって休講させることがまれにあった。今回も理由ははっきりとはしないものの一限目は休校になり、駅に向かうバスの中でそのことに気が付いた。

ぱらぱらとページをめくると、前回の授業でマーカーを引いてあるページが現れ、少し考えた。南方教授はテストに出る箇所を前もって言うような教授ではない。むしろ折角買った教科書は一切使わず、自分が今思ったそのままの議題をプリントにして毎回配っていた。彼の授業で教科書を見ることはほとんどないが、僕の性格上毎度教科書は持ってきてしまう。

__胡蝶の夢

マーカーはその単語だけに引かれていた。ほかのページも捲ったが、自分がマーカーを引いているページはなかった。なぜだろう。その下の文章を読むと、道教の始祖の一人ともされ、紀元前四世紀ごろの中国の思想家、荘子が述べたもの。現実と夢という区別は定かではなく、すべてのものは変化し移ろっていくということ。と書かれている。

大学入試でこのあたりの偉人は一通り暗記した記憶があるが、どうにも思い出せない。…と滑り込むように電車がホームに向かってきていることに気づき、慌てて教科書をしまった。

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