第3話
全ての生き物が狂乱する春にエデンの園を抜け出して、私たちは『自由からの解放』を手に入れた。二人だけの世界は、多少の不便はあれど大方快適で私たちは楽しい夏の日々を送っていた。
この季節特有の急な悪天候に、その日の放課後は染められていた。つい先程まで、歌声を披露していた蟬たちは、雷鳴に怯える愛おしい恋人に寄り添う為に飛んで行ってしまった。演奏のお礼に彼女の好物の林檎ジュースを買って教室に戻った私は、静かな教室に違和感を抱きながら扉を開けた。急な雷光で目を瞑った。ゆっくりとスクリーンに映し出された光景は衝撃的だった。楽器だったものは、今まさに箱へ納められようとしていた。カラヴァッジョの『キリストの埋葬』だと思った。或いは、ティツィアーノの『埋葬』。どちらも、久しく画集を開いてはいなかったが鮮明に思い出せた。そのくらい、劇的だった。独奏の天才である彼女にとって楽器は神に等しかった。悲愴にくれる彼女を見るのは、天才という絶対的なものが眼前で崩れるのを見るのは、私を根底から揺るがした。私は過去、天才によって筆を引き剥がされた。だが、今、目の前にいる天才は酷く脆弱だった。学校の近くを通りかかった救急車は、窓をステンドグラスのように染めていった。光という光が彼女から、溢れ、こぼれ落ちた。それらの光を受けとっても、楽器は先程の輝きを取り戻すことはなかった。彼女の主は望みも喜びも、もう共にすることはできなくなっていた。
私はそっと彼女の側に座り、手を繋いだ。彼女は拒まなかった。私自身の動揺もあって、何も言葉がでなかった。沈黙を破ったのは彼女の方だった。こっちじゃあ、だめ?と指を絡ませてきた。それが、ぎこちなかったのが嬉しかった。こっそりと持ち出した禁断の果実はいまはじけた。
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