012.03

 ラスは茫然自失の様相で浅い呼吸を繰り返し、小刻みに震えていた。かちかちと歯を鳴らしながら涙の滲んだ双眸でリツヤを見上げる。

「わ、たし、は……マスター、を……」

 リツヤは小刻みに震えているラスを抱き寄せた。幼い頃から、否、生まれる前から擦り込まれたほだしはこんなにも強いのかと、頭を撫でてやりながら耳元で囁く。

主人マスターじゃない、カタリナだ。……守ってくれてありがとう」

「……リツヤ」

 まだ震えの止まらないラスの背をさすっていると、慌ただしい足音が聞こえた。

「リツヤ! ラス!」

「二人とも無事!?」

 駆け込んできたアーサーとフェルンを振り返り、リツヤは頷く。

「なんとか」

「そう、よかった……」

 いいながら近付いてきたフェルンは、リツヤを見下ろして眉を顰めた。

「ちょっと、嘘ばっかり! 怪我してるじゃないの!」

「へ? どこも怪我なんて……おや?」

 フェルンの指摘に左肩を見れば、かなり広範囲に赤い染みが広がっていた。思わず左腕を動かそうとして走った痛みに顔を顰める。掠った銃弾は腕まで傷つけていたらしい。

「おや? じゃないわよ! んもう、この女の仕業ね!」

 倒れているカタリナを睥睨へいげいし、アーサーは小首をかしげた。

「殺したの?」

「気絶させただけです。生きてるうちに犯した罪は生きてるうちに償って貰わないと」

 アーサーへ苦笑を返し、リツヤはラスの様子を見た。ようやく震えが治まったようなので、尋ねる。

「立てるか?」

「……はい」

 まだ顔色は悪いが、乾いた瞳でしっかりと頷いたラスに頷き返し、リツヤは背中を撫でていた腕を下ろした。ラスに続いて立ち上がろうとしてよろめき、アーサーに支えられる。

「すみませ……」

「リツヤを狙ってるって言っただろ……?」

「……怖い。アーサーさん顔が怖いです。あと痛い、痛い痛い痛たたた!」

 魔王もかくやという形相のアーサーに、怪我をしていない方の二の腕を握り潰さんばかりの力で掴まれ、堪らずリツヤは声を上げた。アーサーはリツヤの腕を放すと腹立たしげに眼鏡を押し上げる。

「―――チ」

「舌打ち!?」

「上手いこと命に関わらない程度の怪我しやがって。無傷だったら殴ってやったのに」

「いろんな意味で酷い! てか、人が変わってますよアーサーさん!」

「こっちが地だよ」

「まさかの!」

 声を上げ、リツヤはそんな場合ではないと気を取り直す。

「仕方ないじゃないですか、あのときは俺しか動けなかったんですから」

「閃光弾から庇うんじゃなかった」

 忌々し気に呟くアーサーを、呆れた様子のフェルンが遮る。

「んもー、騒ぐのは後にしてよね。その女と『マザー』をどうにかするのが先でしょ」

 それもそうだとリツヤは倒れたままのカタリナへ視線を向けた。アーサーが渋々と言った様子で彼女を抱え上げる。

「フェルン、そっちお願い」

「え? ああ、これ?」

 アーサーが顎で示したブリーフケースを手に取り、フェルンは不思議そうに首をかたむけた。

「可愛いわね、カタリナのペットかしら」

「多分『マザー』だよ。培養槽、空になってた」

 歩き出しながらアーサーが告げ、フェルンがぎょっと目を剥く。

「嘘! 『マザー』? 魚みたいな感じじゃなかった?  自由に変身できるの?」

「さあ?」

 話しつつ脱出路を戻って行く二人についてリツヤも歩き出すと、寄り添うようについてきたラスが気遣わしげにリツヤの左腕に触れた。

「リツヤ、血が……」

「うん? ああ、平気平気。弾はあたってないから」

擦過射創さっかしゃそうは見た目よりも深いものです。きちんと手当をしないと」

「さっかしゃ……?」

 耳慣れない言葉を繰り返しながら先程の部屋に戻ると、カタリナは空の培養槽の隣に寝かされ、「マザー」の入ったケースは机に置かれていた。

 リツヤは複雑な思いでカタリナを見下ろす。目を閉じている顔は、先ほどまで髪を振り乱して叫んでいた女とは思えない。

(……結局、寄る辺が欲しかっただけなのかもな)

 人形だ負債だと蔑み、突き放しておきながら、カタリナはどうしようもないほどラスに執着していたのだろう。父が最後に創り出し、興味を一身に集めていたラスは、父に顧みられなかった彼女にとって最も憎むべきものであり、同時に最も愛しいものだったのかもしれない。その二つは時を経て歪に変形し、ラスに妄執を抱く結果になった。

(ま、俺に憐れまれるのも憶測されるのも嫌がるだろうけど)

 本人にしかわからないことであり、本人にすらわからないことかもしれない。考えていると、フェルンに肘で小突かれる。

「同情してるんじゃないでしょうね」

「してないよ。でも、俺たちに同情されるのが一番嫌がりそうじゃないか?」

「確かに。よし、力一杯憐れんでやりましょう」

 何故か力強く頷くフェルンにリツヤが笑っていると、隣に立っているラスが無言でカタリナを見下ろし、ぺこりと一礼した。今にも泣き出しそうな、とても痛いのを我慢しているような表情だったが、頭を上げるとそのまま一顧だにせずに『マザー』に近付いていく。

 三人は顔を見合わせ、ラスを追いかけた。ぽつりとアーサーが呟く。

「切り替わった、かな?」

「だといいんですけど……どんな酷い仕打ちを受けていたとしても、幼い頃から近くにいた人間なんでしょうから」

「そんなもの?」

 不思議そうにアーサーに問われ、リツヤは首を左右に振った。

「わかりません。俺はラスじゃないので」

「ま、そうか」

 足を止めたフェルンはラスの手元を覗き込んで相好を崩す。

「やっぱり可愛いわね。新種の小動物って言われたら納得しちゃうわ」

「いいえ。『マザー』です」

 生真面目に応えるラスを、フェルンは横目で軽く睨んだ。

「わかってるわよ。どうやって開けるの、これ」

「やってみます」

 一つ頷き、ラスはケースを開けにかかった。それを見るともなしに眺めていると、アーサーに肩を叩かれる。

「リツヤ、ちょっと」

「はい? いっ……!」

 向き直れば、問答無用で傷を縛り上げられた。止血だろうが、容赦のない力にリツヤは顔を顰める。

「ったい、痛い、痛いですって」

「血痕なんて残したら面倒そうだからね」

「理屈はわかりますが、もうちょっと優しく」

「優しく?」

「……なんでもないです」

 口調は元に戻っているが凄みのある笑顔で言われ、リツヤは目を逸らして反駁を飲み込んだ。これ以上怒らせない方がよさそうだ。

 そのとき、軽い音と共にラスがケースの蓋を開けた。解錠に成功したらしい。

「開きました」

 ケースの中からぴょこりと出てきた『マザー』は、柔らかそうな白い毛並みと赤い瞳を持ち、フェルンの言うとおり新種の小動物だと紹介されたら納得してしまいそうなほど愛らしい姿をしていた。

 机の前に立った四人に気付いたか、飴玉のような両目でくるくると周囲を見回して、「マザー」は机から飛び降りた。床に着く頃には、兎かリスのようだった姿が人のそれに変わっている。それを見てラスを除いた三人はぎょっと目を見開いた。

「ラ、ラス!?」

「変身した!」

「人にも姿を変えられるの!?」

 今や愛らしい動物ではなくラスそっくりの姿になった「マザー」は、四人へ順に視線を向けてから柔らかく微笑んだ。懐かしいものを見たように目を細めたラスが、ぽつりと落とすように呟いた。

「帰りたい……」

 突然何を言い出すのかと、リツヤはラスを見る。

「え?」

「そう……あなただったのですね」

 納得したように頷くラスに応えるように「マザー」が口を開いた。

「感謝します」

 声までもがラスと同じで、リツヤは息を呑む。もしやと思い、「マザー」に問うた。

「それが、あなたの本来の姿なのですか?」

 「マザー」は笑んだままリツヤへ目を向ける。

「わたくしは、わたくし以外の何ものでもありません」

「……では、その姿をとったのは何故ですか」

「相手の言葉を話すには相手の姿になるのがよい方法だと考えます。先ほどの姿ではあなたがたの言葉を遣うことができません」

「相手の姿になれば言葉が通じる?」

「この星の大気は言葉に満ちています。あなたがたは同胞の言葉しか聞き取れず、それでも己の同胞とすら一つになることのできない未熟な生命体。これからの進歩に期待します」

 いまひとつ会話が噛み合わず、リツヤは「マザー」自身に関することを引き出すのを諦めた。別の、気にかかっていたことを問うことにする。

「あなたは、我々のしたことを許してくれますか」

「許し」

 初めて聞く言葉のように言い、「マザー」は瞑目した。しばらく無言でそうしていたかと思うと、唐突にぱちりと目を開けた。

「怒り。そう、これが。あなたがたの概念には興味深いものがあります。それに接触できたことは、有意義だったと考えます」

 ラスと同じ色をした「マザー」の瞳には、怒りも憎しみも恨みもない。言葉通り興味深そうな色が浮かんでいるのを見て、リツヤはゆるゆるとかぶりを振った。

「ですが、あなたの仲間は、地球の人間があなたを攫ったことを怒り、許さないのではないですか」

「仲間」

 やはり「マザー」は繰り返し、思慮深げな表情になる。

「わたくしは彼らであり、彼らはわたくしです。わたくしは個であり、全でもあります。わたくしは、ただ帰ることを望みます」

 言い、「マザー」はつと手を伸ばした。白い手がラスの頬を慈しむように撫でる。

「この星の子。わたくしの一部を持って生まれたわたくしの子。わたくしはあなたであり、あなたはわたくしです。わたくしはわたくしの帰る場所を知っています」

 ラスは無言で「マザー」を見つめた。しばらくの間、誰も動かず声を発さず、周囲に沈黙が落ちる。

 おそらく数呼吸の間だったのだろうが、リツヤには酷く長く感じられた。ラスには選ぶ権利がある。そして、「マザー」と共に行くことを選べば「マザー」は言葉通りにラスを連れて行ってしまうだろう。

 ラスは一度目を閉じ、開くと、頬にある「マザー」の手に自らの手を重ねた。やんわりと「マザー」の手を頬から外し、返すように離す。そして、首を左右に振った。

「いいえ。私は一緒に行けません。私はあなたではありません。あなたも、私ではありません」

 告げるラスの唇が、ほんの僅かに笑みを刷く。

「私は、この星の人間です」

 答えを聞き、「マザー」は静かに頷いた。

「わたくしの子はこの星の子でもあります。わたくしはわたくしの帰る場所を知っています」

 繰り返して言うなり「マザー」は白い鳥に姿を変えた。大きく羽ばたくと、一切の未練を見せずに開け放たれたままの扉から飛び去っていく。

 半ば呆然とそれを見送り、四人はしばらく立ち尽くしていた。すぐ近くで引き攣ったような呼吸が聞こえて、リツヤは我に返る。

「ラス……?」

 両手で顔を覆い、ラスが泣いていた。放っておくことはできず、リツヤはそっとラスの頭を引き寄せる。

「……大丈夫か?」

「はい……」

 リツヤの肩に額を押し当て、小さく頷き、ラスは掠れる声で言う。

「これが、きっと……寂しいということなんですね……」

 おそらく、この先再び「マザー」にまみえることはないだろう。

 「マザー」は、ラスのことを「わたくしの一部を持って生まれたわたくしの子」と言っていた。その存在と別れるということは、ラスにとっては文字通り、身を裂かれるようなものかも知れない。

 言葉が見つからず、束の間沈黙が落ちて、フェルンのやけに明るい声がそれを破った。彼女は手近な端末を弄り出す。

「『マザー』のデータ、残ってないかしら」

 アーサーが微苦笑を浮かべ、フェルンを背後から覗き込む。

「フェルン……せっかく険悪にならずに帰ってくれたのに、おれたちが機嫌を損ねることをしたら台無しじゃないか」

「機嫌を損ねるって、カタリナたちが散々酷いことしたんじゃないの? 怒るならとっくに怒ってるわよ」

「さっきの会話にしたって、地球人と随分価値観が違いそうだったでしょ。何が気に障るかわかんないよ」

「そうだけど。だって、地球外生命体よ? 間違いなく歴史に残るわよ」

「残るだろうけどさ。『マザー』を公にしたら、大騒ぎになるよ。しかも発見者として時の人になって世界的に有名になるんだよ? 英雄か大罪人かは知らないけど。どっちにしてもおれは耐えられないね」

「それはあたしもいや。もう本人はいないから、信じてもらえるかどうかわからないしね。ここはリツヤに出て貰いましょ」

「なんでだよ。俺だっていやだよ」

 勝手なことを言うフェルンに半眼で言い返し、リツヤはカタリナへ目を向けた。

「さて。カタリナをどうするかだけど」

 アーサーもカタリナを見下ろし、首を竦めた。

「放置でいいんじゃない? 外部と連絡できる設備はあるんだろうし、通報だけしてさ」

「逃げませんかね」

「絶海の孤島からどうやって逃げるのさ。……ああ、でも、万が一の脱出手段はいくつか用意してそうだな。そこの非常用通路、きっとそれだよね」

 フェルンがとんとんと端末のある机を軽く叩いた。

「この端末、所内ネットワークに繋がってるんじゃないの? 脱出に使うシステムをちょちょいと検索して、落としておけばいいのよ。通路も閉めて、ロックしちゃうの。ついでに、メインシステムから切り離しとけば復旧に時間がかかるわ。リツヤ、そういうの得意でしょ」

「まあ、できると思うけど……」

 リツヤの懸念を見透かしたように、アーサーが付け加える。

「カタリナ以外の誰かが入ったってことはどうしたってばれるだろうさ。当局の捜査がおれたちに辿り着かなきゃいいんじゃない」

「それはそうですが、なんか……強盗団にでもなった気分です」

 アーサーに返したリツヤの言葉に、フェルンが不満げに唇を尖らせた。

「失礼ね、強盗団だったらこのへんの端末根こそぎ持って帰るわよ。『マザー』ごと」

 フェルンが存外「マザー」にこだわっているようなので、リツヤは揶揄の笑みを浮かべながら横目でフェルンを見た。

「フェルン、実は『マザー』を帰したこと結構後悔してるだろ」

「そんなことないわよ。でも研究者なら、誰でもちょっとは調べてみたいなー、と思うはず」

「やっぱり調べたいんじゃないか」

「うっさいわね。有り余る探求心の発露じゃないの。―――さあ、とっとと帰るわよ。リツヤの怪我の手当をしなきゃね。飛行機に戻れば救急キットがあるけど、帰ったらちゃんと医者に診て貰うのよ」

 大袈裟なと、リツヤは顔を顰める。

「いや、そんなに酷い傷じゃ……」

「ないなんて言わないよね、まだ血が止まってないってのに」

 何故か強引に言葉を引き取ったアーサーが笑顔で、しかし背筋が凍り付くような声音で言い、リツヤは慌てて打ち消した。

「……い、言いません」

「はは、麻酔なしで縫って貰えよ」

「笑いながら言う内容じゃなくないですか?」

 最早口出しはすまいと思ったのか、フェルンは吹っ切るように両手を挙げる。

「あーあ、せっかく地球まできたのに観光もしないで帰るのは勿体ないわね。うちの別荘に寄ってから帰る?」

「それは楽しそうだけど、時間がないな」

 ウォンから与えられた時間は残り二日ほどだ。ここから最も近いマスドライバーは北米なので、ハワイまで行っている余裕はないだろう。とりあえずアラスカに戻ってから考えようと思っていると、顔を伏せていたラスが静かにリツヤから身体を離した。リツヤはラスの背中に置いていた手を下ろす。

「落ち着いたか?」

「……はい。すみません」

「そこは、ありがとう。な?」

「ありがとうございます」

「うん」

 素直に言い直すラスに、リツヤは笑んで頷いた。アーサーがフェルンを見下ろして言う。

「おれも泣いたら慰めてくれるかな?」

「でかい図体して妬いてんじゃないわよ」

「やー。弟や妹に親を取られる気分って、こんな感じなのかな」

「親って、あんたね……って言うか、否定しないのね」

 傍らでどうでもいいことを喋っている二人のことは、無視することにした。だが、ラスがフェルンへ遠慮がちに声をかける。

「あの……フェルン」

「何? ラス」

「『マザー』を調べたいのでしたら、私の細胞を。『マザー』の遺伝子を得られます」

 フェルンはぎょっと目を見開き、慌てた様子で片手を振った。

「な、い、要らないわよ、冗談言っただけ。大体、あんたは『マザー』じゃないじゃない」

 ラスは一度目を瞬き、こくりと頷いた。

「……そうですね」

「そうよ。……ちょっと、あんたたち何笑ってんの」

 フェルンに睨まれ、リツヤとアーサーは顔を見合わせて半笑いのままかぶりを振った。

「笑ってない笑ってない」

「そうそう。なんか微笑ましいなんて思ってないよ」

「嘘仰い! ほらもう、帰るわよ! カタリナが目を覚ましたらまた面倒なことになるじゃないの。リツヤはとっととシステム破壊しちゃって」

「いや、破壊はしないよ?」

 ネットワークを修復できない程度に切断するだけだと、リツヤは端末に向かった。

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