003.03
* * *
食事を終えて、先にシャワーを浴びてこいと言われ、言われるままにシャワーを浴びて出てくるとテレビでも見ていろと言われた。テレビというものをラスは初めて目にしたが、どうやら研究施設や月にあったモニタとは随分違うようだということだけはわかった。
騒がしい画面を見るともなしに眺めながら、ラスはシャツの右袖を捲る。リツヤから借りたものなので、ラスには少々大きい。
左袖も捲ろうか迷っていると、
「ラス、髪乾かさなかっただろ」
背後から声がかかり、ラスは振り返った。シャワーから出てきたらしいリツヤがドライヤーを片手に立っている。
「これ……ああ、使い方はわかるか?」
「はい」
「そうか、よかった。髪乾かさないと風邪ひくぞ」
ドライヤーを手渡され、ラスは目を瞬いた。ドライヤーと濡れたままの髪とがどう繋がるのかわからず、しげしげとドライヤーを見下ろす。するとリツヤはラスの隣に座り、困ったように頭を掻いた。
「ドライヤーを使ったことは?」
「あります」
「ちなみに、どこで、何に?」
「月で、水没した紙の資料を乾かすのに」
「どういう状況? まあいいや。貸して」
「はい」
ラスは頷いてリツヤにドライヤーを返した。それを受け取り、彼は逆側を指差す。
「こういうドライヤーは普通、髪の毛を洗った後に乾かすのに使うんだ。そっち向いて」
言われるまま身体を捻ってリツヤに背を向けると、不意に手で髪を
「あ、ごめん急に。髪を乾かすから」
「はい」
頷き、ラスはリツヤの手が髪を梳くのに任せた。他人に髪を乾かされるというのは初めてなので、どうしたらいいかわからずに硬直する。
(私の髪なぞリツヤには取るに足らないことだろうに)
ラスはリツヤを不思議な人だと思う。よく笑う人だとも。
人間は笑うものだと知っていたが、ラスは他人に笑いかけられた経験はなかった。備品に話しかけたり、ましてや笑顔を向けたりする人間はいないから、当然なのだけれど。
(質問を許されるとは思わなかった)
リツヤは、疑問に思ったら問えという。考えがあれば口に出せという。言われなければわからない、と。人間には相手の考えを読み取る機能は備わっていないので、会話が必要であるというのはラスにもわかる。しかし、ラスにとって自分の考えを口にするというのは革新的なことだ。ただの部品、あるいは研究対象に、意見を求める者はいなかった。
名前に関してもそうだ。備品に人のような名称をつけては、紛らわしいだけだろう。だが、リツヤはラスのことを、備品ではなく人間だと繰り返していた。
頭は動かせないので、ラスは視線だけを下げて左手を見た。左手首の外側を、布越しに右の指先で撫でる。
(備品ではないというのは、どう振舞えばいいのだろう)
今までは、許可されない行動をとったり、指示されていても結果が伴わなかったりしたら叱責され、殴打されることもままあった。道具は使用者の意のままに動くべきで、期待された結果を返すべきだ。そうでなければ、不良品あるいは不要品として処分される。
質問に答える。これは同じ。命令に従う。これも同じ。質問する。これは新しいこと。考えたことを言う。これも新しいこと。あとは、自発的に動いても怒られない。これは発見だ。
頭の中で並べながら、そういえば、とラスは今日一日を反芻する。リツヤはラスに対して一度も暴力を振るわなかった。何度か頭を叩かれはしたが、叩くというよりはやんわりと触れるだけの手は優しかった。あれは一体なんだったのだろうとラスは不思議に思う。叩くのとは違ったのかも知れない。
先程提供された食事は、いつもの固形栄養食とドリンクではなく、人間が食べるような料理だった。スープとサラダ、トマトのパスタという、ラスが初めて口にするものばかりで、リツヤは簡単なもので申し訳ないと言っていたが、どこがどう申し訳ないのかラスにはわからない。どれも、栄養食とは違って複雑な味がした。これが「美味しい」ということなのかもしれない。
そして、最も不可解なのが、食料品店での一件だ。不意を打たれたわけではなく、視界に入っていたものなのだから、ラスは箱を避けることも受け止めることもできた。リツヤの考えがそこに至らないわけがない。
なのに、リツヤはラスを庇った。そのことにラスは驚愕し、混乱し、動揺した。理由を知りたいと思うことはこれまで何度かあったが、そもそも質問は許可されていなかったし、
だから、己の欲求を抑えることができずに質問の許可を求めてしまったことに、ラスは我がことながら酷く驚いた。リツヤは怒るだろうし、今度こそ殴られるかも知れないと思ったが、予想は外れた。彼はラスの疑問の答えを探して考えて、ラスに理解できないものだったが回答をくれた。
(理屈では、ない……理屈は、物事の道理や筋道。理屈ではないというならば、道理に合わないこと。反射だとも言っていた)
反射はわかる。刺激に対する無意識の行動―――例えば、目に異物が入ったときに瞼を閉じたり涙が出たりするのがそうだ。だが、と、ラスは胸中で首を捻る。ラスとて他人を庇った経験はある。それは主に出撃時で、戦況や戦術に基づいてだった。己の考えでも、ましてや反射的にというのでもなかった。
考えてもわからない。理解が及ばないのは己に知識が足りないせいだ。やはり備品に人間の思いを解するのは無理なのだろうかと、胸が重くなる。
「はい、終わり」
リツヤの声がして、乾いた髪をくしゃくしゃと掻き混ぜられた。ラスは考えるのをやめ、リツヤを振り返る。すると彼は、ドライヤーを片付けながら言った。
「濡れたままだと
「はい」
頷くラスにリツヤはにこりと笑った。立ち上がってバスルームの方へ歩いていく。ラスはその後姿をぼんやりと眺めた。
(また笑った)
何故笑うのか尋ねてもいいものだろうかと考えていると、リツヤが戻ってきた。彼は部屋の隅にあるデスクへ向かう。
「ちょっと端末使うから……丁度いいや、簡単に使いかた教えるよ。ラスも部屋にもあるやつ使っていいからな」
「はい」
手招きをされ、ラスはリツヤの傍らに立った。リツヤが端末を起動する。
「基本的には汎用の個人端末と同じだ。外部のネットワークにも繋がるし、個人で使いたいソフトがあったら入れてもいい。で、こっちのE-H NETってアイコンは社内のネットワークに繋がる」
(何故馬に角が生えているのだろう)
リツヤが示すカーソルの先には、額に角が生えた白馬の横顔のアイコンがある。ラスがそれをしげしげと見ていると、視線に気付いたらしいリツヤがラスを見上げた。
「アインホルンって、一角獣のことだから。社章のデザインにもなってるよ。ユニコーン、わかるか?」
「はい。見たことはありません」
ラスは事実を返したのだが、何故かリツヤは声を上げて笑い出した。
「はは、うんうん、俺もないよ。見てみたいとは思うけどな。―――で、開いたらここに指を当てる。寮の端末は旧式で、指紋認証なんだよ。会社のは顔と光彩で勝手にID照合してくれるんだけど」
言いながらリツヤは、キーボードの上部にある楕円形の窪みに触れた。
「指紋を読み取って、一致すればログイン完了。全社員に向けた連絡なんかが上がってるから、チェックするといいよ」
「はい」
「んじゃ、悪いけどそっち座っててくれ。すぐ終わらせるから」
「はい」
ラスは頷いてソファに戻った。途中で、充電されている中型の端末に目を留める。両手を広げて並べたほどの大きさのそれは、ラスの見たことがない型だ。
「興味あるなら読んでていいぞ」
気付いたらしいリツヤから声が飛んできて、ラスは振り返った。読むとはなんのことだろうと目を瞬く。するとリツヤは作業を中断して歩み寄ってきた。
「書籍端末、使ったことないか? 本を読むのに特化してるやつ」
「ありません」
「そうか。ここを触ると
端末を手に取り、リツヤは使い方を教えてくれた。一通り説明してからラスに手渡して机に戻る。
ラスもソファに座り直し、教えられたとおりに端末を操作してみる。自由に読めるような書物は与えられたことがなかったので、タイトルを眺めても、いまひとつよくわからない。
とりあえず一覧の一番上にあるものを読んでみようと、ラスはタイトルに触れた。すると紙の本を模した画像が表示され、その表紙には「緋色の研究」とある。
(緋色)
色についての研究論文だろうかと思いつつ、ラスはページを捲った。
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