003.02

 ラスを伴い、リツヤは部屋を出た。部屋の鍵一つで問答が必要なのだ、前途多難な気配が否めない。

 歩道に出たところで、一歩後ろを歩いていたラスが、思わずといったふうに立ち止まった。リツヤも足を止めて振り返る。

「どうした? 何かあったか」

「いいえ。申し訳ありません」

「なんで謝るんだよ」

「勝手に止まってしまいました」

「いいよそんなの。気になることがあって立ち止まるなんて、普通だろ。あと、遠慮しないで言えって」

 重ねて言えば、ラスはリツヤを見上げて口を開いた。

「外に出るのですね」

「うん? ああ、会社の寮だけどオフィスから直通ってわけじゃないんだ。ここから五〇〇メートルくらい離れてる。自転車使う人もいるけど、俺は歩き」

「リツヤは歩き」

 繰り返すラスが何を考えているのかがわからず、リツヤはきょとんと聞き返す。

「いや、俺だけじゃなくラスにも歩いて貰うけど……いやか?」

「いいえ」

「じゃあ、なんで改めて、歩くのか、なんて?」

「逃亡の危険があります」

「……ラスが、逃げんの? 今?」

「いいえ」

「……なら、いいんじゃない?」

「はい」

 こくりと頷き、歩き出すラスに歩調を合わせてリツヤは隣に並んだ。まったく噛み合わなかった今のやりとりを考え、問う。―――逃亡の危険があるからと、外を自由に歩かせてもらえなかったのだとしたら。

「もしかしてラス、一人で外を歩いたことがないのか?」

「はい」

 予想通りの答えが返り、リツヤは天を仰いだ。

「でも、ずっと月にいたわけじゃないだろう? その前は?」

「地球の研究施設に」

「そこから出たことは?」

「連合軍本部へ移送されるときに出ました。その後、月に輸送されました」

「じゃあ……実質、本当に一度も……」

 リツヤは愕然と呟いた。人形を人間に、というウォンの言葉が蘇る。

(俺には少々荷が勝ちすぎやしないか?)

 自分はそんなにできた人間ではない。前例があるとウォンは言ったが、ラスと彼は別人である以上なんの役にも立たないだろう。

(引き受けちまったものは仕方ないけど……俺にできるのかね)

 一つ息をつき、これ以上考えても詮無いことだとリツヤは思考を無理矢理断ち切った。見えもしない先のことばかり考えていては動けなくなってしまう。

 リツヤは帰り道にある食料品店の前で足を止めた。それに倣うようにラスも立ち止まる。

「ここ寄ってもいいか? 夕飯の材料買わないと」

「はい」

「そういえばラス、料理は……」

 尋ねてから、愚問だったとリツヤは後悔した。ラスはリツヤについて自動ドアを潜りながら生真面目に答える。

「経験がありません」

「だよな。寮っつっても食堂なんかはないからさ、基本的に自炊しないといけないんだよ。外食ばっかじゃ金もかかるし、栄養もかたよるしな」

「わかりました」

「今日は俺が作るとして……そういや、ラスの部屋って荷解きもまだだよな? あーもう、明日が休みだったらいいのに」

 リツヤは言いながら買い物籠に適当に食材を放り込む。綺麗に積んであるトマトに手を伸ばし、ふと顔を上げるとトマト越しに主婦と思しき出で立ちの女性と目が合った。―――否、女性の視線はリツヤを素通りし、後ろに立つラスに注がれている。

(……うお)

 気付いてみれば、ラスは買い物客の注目の的になっていた。素通りしかけた店員すら、驚いたように振り返ってラスを凝視する。

 いかにも仕事帰りだという風情のリツヤはともかく、ダークスーツを着込んだ美形は夕方の食料品店には不似合いである。加えて、整いすぎるほどに整ったラスの容姿は、いやが上にも人目を引く。

 モデルか俳優かという囁きが聞こえて、このままではラスの周囲に人だかりができそうな勢いなので、リツヤは早々に買い物を切り上げることにした。追ってくる視線が少々痛い。

「ちょっとそっちで待ってて。買ってくるから」

「はい」

 ラスと一旦別れ、リツヤは会計を済ませる。離れていたのはほんの数分だったのだが、今日の特売品らしいティッシュ・ボックスの山の隣に直立しているラスはやはり、客と店員の視線を一身に集めていた。果ては、声をかけてみようか、サインをもらおうかという会話が聞こえる有様だ。携帯端末で写真を撮ろうとしている者もいる。

(一人にするんじゃなかった……)

 これは、当分ラスを一人で外に出さないほうがいいかもしれないと思いつつ、リツヤは急いでラスの許へ向かった。

「お待たせ。行こうか」

「はい」

 ラスが頷くのとほぼ同時に、ラスに気を取られていた客のカートがティッシュ・ボックスの山にぶつかった。人の背丈よりも高く積んであるそれは容易くバランスを失う。

「ラス!」

 山が崩れるのを見て、リツヤは咄嗟にラスを抱き込んだ。降ってきた一つをかざした左腕で受け止め、思いの外強い衝撃に顔を顰める。

 箱の雪崩が落ち着いてみると、周囲は騒然となっていた。駆けつけてくる店員に捉まると面倒臭そうだったので、リツヤは片付けもそこそこにラスを連れて店を出る。

「びっくりしたな。大丈夫か?」

「はい」

 店から少し離れてから、リツヤは左袖をめくってみた。ティッシュ・ボックスを弾いた前腕には、今のところ異常はない。

 横から注がれる物言いたげな視線に気付き、リツヤはラスを見て首をかしげる。

「ん? どうした?」

 ラスは何度か躊躇ためらってから微かに唇を動かしたが、そこから言葉が出てくることはない。自発的に話すのはまだ抵抗があるのだろうかと、リツヤは微かに笑んで今日何度目になるかわからないことを繰り返す。

「いいんだぞ、思ったことは喋って。俺が訊かなくてもさ」

 そういうこしているうちに、寮の建物に着いてしまう。エレベータ・ホールで立ち止まって、ようやくラスは発言した。

「……けられました」

 短く告げられてリツヤは苦笑する。考える前に動いてしまったが、確かに手出しをする必要はなかったかも知れない。

「そうだな、悪かった。余計なことしたな」

 告げれば、ラスは僅かに瞠目どうもくした。戸惑いをにじませながら言う。

「怪我をするべきだったのは私です」

「なんでだよ。怪我をするべき人間なんていないっての」

「リツヤが怪我をすることはありませんでした」

「俺? どこも怪我なんてないぞ」

「頬に傷が」

「へ? ……痛て。ほんとだ、箱の角んとこでもぶつかったかな」

 左頬に触れれば、微かな痛みがあって指先に僅かながら血がついた。

「これくらい怪我なんて言わないって。すぐ治るよ」

 エレベータが到着したので、二人でそれに乗り込む。やや俯き加減で立っているラスは、無言で考え込んでいる風情だった。会話もなく目的のフロアに着き、エレベータを降りる。

「ええと、俺が〇八一七で、ラスは〇八一八……ラス?」

 部屋番号を思い出しながら廊下を歩き出し、少し進んでからラスがついてきていないのに気付いてリツヤは振り返った。立ち尽くしていたラスは一大決心をしたかのようにリツヤを見つめ、口を開く。

「……質問、を……許可願います」

 ラスのそばまで戻り、リツヤは首をかしげて見せた。

「だから、そういうのいいってば。思ったことを好きに話せよ。なんだ?」

 双眸そうぼうを頼りなげに揺らし、躊躇いがちにラスは言う。

「何故、私を庇ったのですか」

 まさか理由を訊かれるとはは思わず、リツヤは目を瞬いた。考えても特に理由は思いつかない。

「さあ? 咄嗟だったからな、わかんないや。理屈じゃないだろ、そういうの。反射だ反射」

 言ってから気恥ずかしくなり、リツヤは話題を強引に戻した。

「んで、そうそう、部屋の話な。ラスの部屋はそっち。何かあったら呼んでくれ。通信でもいいし、部屋にくるのでもいいから」

「はい」

「うん。―――とりあえず、必要なものだけ出そう。荷物は先に送ってあるんだろ?」

「所持品はありません」

 すぱりと答えられた言葉をリツヤが理解するのに、少々の時間を要した。

「いや、でも……月ではどうしてたんだ?」

「支給されたものを使っていました」

「……つまり、私物はない、と」

「はい」

 リツヤはとうとう無言で頭を抱えた。食材の入った袋ががさがさと音を立てる。

(よーしよしよし。めげるな俺。頑張れ俺。養い子が一人増えたようなものじゃないか、それもすぐに自立できそうなあたり救いがあろう。うん。そうだ。新しい養い子だ)

 胸中で己に言い聞かせ、リツヤは覚悟を決めることにした。変わらぬ無表情で立っているラスを見下ろし、無意味に笑みを浮かべる。

「中、見せてもらってもいいか?」

「はい」

 ラスはロックを外してリツヤを招き入れた。お邪魔しまーす、と間延びした声を投げてリツヤは部屋に踏み込み、電気をつけて周囲を見回した。

(間取りは左右逆だけど一緒……そりゃそうか)

 十五階建ての寮は、一階から八階が単身者用、九階から十五階が家族用の間取りになっている。

 単身者用は例外なく、リビングと寝室、キッチン、バス、トイレ、収納という作りで、基本的な家具と電化製品がそろえてあるのに加え、アインホルン社専用端末が備わっているのが特徴である。しかし、当然と言えば当然なのだが、調理器具、衣類、食器などの日用品や雑貨までは揃っていない。

「仕方ないな、当面必要なものだけでも買いに……ん?」

 ポケットに入れておいた携帯端末が震え、リツヤは言葉を切ってそれを引っ張り出した。アーサーからのメッセージ着信の表示を見てそれを開き、眉を顰める。

《先に謝っておく。ちょうごめん》

(ちょう……?)

 アーサーらしくない言い回しだと首を捻っていると、廊下からあまり歓迎したくない声が聞こえてきた。

「リツヤ! 帰ってるわね!」

「げ」

「いるんでしょ!? 開けなさいよ!」

 インターフォンを通しているわけでもないのにはっきりと聞こえる甲高い声は、近所迷惑以外の何物でもない。しかし、顔を出したが最後、吹き荒れるであろう嵐の予感に、リツヤは騒音公害を阻止するよりも自らの保身を選んだ。

「……すまん、フェルンが万が一こっちきたら俺はいないって言ってくれ。行き先を訊かれたらわからないでいいから」

「わかりました」

 迷いなく頷くラスを拝み、リツヤは買い物袋を置いて寝室へ退避した。アインホルン社の社員ならば、寮の住人でなくとも自由に出入りができる仕様を恨めしく思う。

 リツヤの部屋の前で騒いでいると思しきフェルンは、少ししてわめくのをやめた。しばらくして、この部屋のインターフォンが鳴るのが聞こえる。リツヤの行方を隣家に尋ねようと考えたのだろう。

 いないと言えではなく、出るなと言えばよかったと後悔しても既に遅く、ラスが応答する声が聞こえた。

「はい」

『その声……まさか、ラス・シュルツ?』

「そうです」

『なんであんたがリツヤの隣の部屋なのよ!』

「わかりません」

 ラスは機械的に淡々と答える。スピーカーから響くやかましいフェルンの声は更にボリュームを上げた。

『ずるい! 不公平だわ! あたしもここに引っ越す!』

(また、無茶を……)

 フェルンは《フォルモーント》内に自分の家を持っている。家というよりは屋敷という規模で、数人の使用人と一緒に住んでいるとリツヤは聞いていた。

『まあいいわ、そっちにリツヤいるでしょ? 出しなさい』

「いません」

『嘘ばっかり! アーサーが二人で帰ってったの見たって言ってたわ』

(これか……)

 勘弁してくれ、とリツヤは剥き出しのマットレスに突っ伏した。さっきのメッセージの意味がわかり、リツヤは顔だけを上げて返信を送った。

 フェルンとラスの攻防はまだ続いている。

『リツヤを出しなさい!』

「いません」

『じゃあどこに行ったって言うのよ。あのお人好しのお節介が、あんたの世話を放り出すとは思えないわ!』

(……どう思われてるんだ、俺)

 少なくともフェルンの中でのリツヤの評価は、お人好しでお節介であるらしい。

「ここにはいません」

『だから、それならどこに行ったのよ! 一緒だったんでしょう!?』

「わかりません」

『なんなのよさっきっから、わかりませんいませんわかりませんいませんって。エラーメッセージじゃないんだからちゃんと答えなさいよね! リツヤはどこなの』

「申し訳ありません」

『謝れっつってんじゃないのよ。あんた、わざとやってない?』

 アーサーからの返事はすぐにきた。

《本当にごめん。フェルンに言ったんじゃなかったんだけどね、聞こえちゃったみたいで。多分突撃……もうしてるかな? 頑張ってかわして☆》

ほしじゃねえよ!)

 謝りたいのか面白がっているのかわからない―――おそらく後者だ―――アーサーへ胸中で悪態をつき、リツヤは携帯端末を放り出した。放り出された端末はマットレスの上に軽い音を立てて落ちる。

「こちらにはいません。行き先もわかりません」

『本当ね?』

「はい」

『……いいわ、嘘だったら覚悟しておくことね!』

 捨て台詞を残し、嵐は去ったようだった。やれやれとリツヤは立ち上がって寝室を出る。インターフォンの前に立っているラスへ声をかける。

「ごめんな……」

 振り返ったラスは無表情で目を瞬く。伝わっていないようなので、リツヤは床に置きっぱなしになっていた買い物袋を拾い上げながら苦笑した。

「要らん嘘つかせたこと。あと、ラスが俺の部屋の隣に越してきたってばれたから、多分これからもちょくちょく突撃があると思う……」

「リツヤの仰る『突撃』が今のようなことを指すのであれば、問題はありません」

「いやいや、あいつは恐ろしいぞ。こう、裏をとらずに思い込みで行動することを躊躇わないからな」

 言い、リツヤは買い物袋をテーブルの上に置いた。そしてふと窓を見て、瞠目する。

「雨……?」

 思わず腕時計に目を遣れば、ちょうど七時になったところだった。

「今日、七時から雨なんだっけ」

「わかりません」

 律儀に答えてくれるラスの声を背に、リツヤは念のためにと窓を開けた。外は間違いなく雨が降っていて、今日は朝から色々ありすぎて許容量が一杯になっていたリツヤは、残りを全て明日の自分に押しつけることにした。

「よし。よしよしよし。ラス」

「はい」

「今日と明日は俺の部屋に泊まれ。明後日は休みだから、明後日色々買いに行こう。それでいいか?」

「はい」

「うん。それじゃ俺の部屋に行こう。いい加減腹減った」

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