002.02
* * *
五番ブロックの内部を順に案内しながら奥へと進み、二人はロッカー・ルームへときていた。
ロッカー・ルームの壁は、出入口の扉とシャワー室へ繋がる扉、大きな姿見以外は全てロッカーで埋まり、扉の前には衝立が、部屋の中央にはベンチが二つ並べて置いてある。
「そっちの扉の奥はシャワーとトイレ。ロッカーは空いてるのを適当に使ってくれ。扉にステッカーが貼ってあるのは誰かが固定で使ってるってことだ。ラスも自分のロッカーに何か貼るといい」
「はい」
「緑のランプがついてるのが、ロックが外れてるロッカー。簡易指紋認証式になってて、取手の下の窪みに指を当てると開く。扉を閉めると勝手にロックされて、もう一回開けられた時点で指紋データは消える」
「了解しました」
頷くラスに頷き返し、リツヤは一つだけ大きさの違うロッカーの前に移動する。
「で、こっちに予備のスーツが……なんだこれ、ぐちゃぐちゃだな」
二種類のスーツが法則性もなく無造作に吊ってあるのを見てリツヤは眉を寄せた。
「ラス用のパイロット・スーツできるまでは、ここから出して使って」
「はい」
「で、そっちのでかい箱がランドリーボックス。汚れ物を放り込んどくとクリーニングされて、隣の箱に戻ってくる。個人的な洗濯物を入れると怒られるから駄目だぞ」
「はい」
言葉の後半は冗談だったのだが、やはりラスは生真面目に頷くだけだった。最早ラスに特別な反応は期待していないリツヤは、説明はこんなものかと周囲を見回した。
「ロッカーに関しちゃこれくらいか? あ、廊下挟んで向かいは女性用のロッカーだ。つくりはこっちとまったく同じ」
「はい」
「よし。それじゃ次に行こう」
言いながらリツヤは部屋を出る。そのままラスと共に廊下を奥へ進み、突き当りの少し開けた場所に出た。飲み物の自動販売機と給水機、観葉植物の鉢がいくつか。あとは低いテーブルとベンチがある。
何よりも目を引くのは、弧を描いている壁が全て透明なことだろう。壁の向こうには、闇色の絵の具を丹念に塗り重ねた上に大小様々なビーズをぶちまけたような宇宙が広がっている。
「ここで最後かな。小さいけど、リフレッシュ・ブースだ。朝から動きっぱなしで疲れたろ。少し休憩しようか」
言い置いてリツヤは自動販売機へ向かう。何が飲みたいかとラスに問おうとして、コーヒーのときのようにわからないと返ってくることが予想できたのでリツヤは思い留まった。少し考えて、これなら大丈夫だろうとオレンジ・ジュースを二本買う。
「ラス……あれ?」
振り返るとラスは窓際に移動していた。何か珍しいものでも見つけたのかと、リツヤは二本のボトルを片手にラスの隣へ移動した。
「何かあったか?」
答えは返らず、不思議に思ってリツヤはラスの顔を覗き込んだ。片手をガラスに触れさせ、食い入るように遠くを見つめるラスの表情を見て、リツヤは続けようとした言葉を飲み込む。
(……なんて顔してんだよ)
ラスは酷く切なげな、絶対に手が届かない何かに焦がれるような顔をしていた。まるで触れているガラスの向こうに生き別れの母親でもいるように。無論、実際は無慈悲な漆黒が広がるだけだ。
今にも泣き出しそうな、見ているほうが胸を掴まれるような表情だが、リツヤには先ほどまでの人形のような顔よりもずっとましに見えた。同時に、ラスにも顔を歪めるほどの感情があるのだと知って奇妙な安堵を覚える。
「……りたい……」
「え?」
あえかな声を聞き取れなかったリツヤが聞き返しても、ラスは外を見つめたまま動かない。もしかすると自分が呟いたことにも気付いていないのではないかと、リツヤはラスを覗き込んだ。
時間が許すなら放って置いてやりたかったが、そうもいかないのでリツヤはぽんとラスの肩を叩いた。
「ラス」
「っ……」
息を呑んだラスは弾かれたようにリツヤを振り返った。その勢いで身体が流れそうになるのを、腕を掴んで止めてやる。
「どうした? 外に何かあったか?」
「いいえ。申し訳ありません」
リツヤに向き直ると、ラスの顔から表情が削げ落ちた。また人形に戻ってしまったなと、リツヤは胸中でため息をつく。
「謝ることないよ。―――これ」
持ったままだったボトルの片方を差し出すと、ラスは目を瞬いたが素直に受け取った。しかし、ボトルとリツヤとを見比べている。やはり嗜好品に関する知識は乏しいようだと、リツヤは簡単に説明することにした。
「ジュースは、わかるか?」
「はい」
「オレンジは? 果物の」
「知っています」
「うん。で、これはオレンジのジュース。飲んでみな」
言いながらリツヤはストローに口をつける。
手にしたボトルの側面にプリントしてあるメーカーのロゴや成分表示をしげしげと眺めていたラスは、口をつけた途端に
「お、おい、大丈夫か!?」
「……っ、げほっ! げほげほっ!」
口に含んだ分はなんとか飲み込んだようだが、身体を丸めて咳をするラスの背を、リツヤは慌ててさすってやる。
「どうした、何か異物でも?」
「いえ、げほっ、けほけほっ、異物は、何も。少々、喉に刺激がありました」
「……刺激?」
まさか、オレンジの酸味で咽てしまったのかとリツヤは傍らに置いたボトルを見下ろした。果汁100%とはいえ、万人向けの飲料なので、そこまで酸っぱくはない。ラスの反応は酢でも飲んだかのようだ。
(酸っぱいのに慣れてないのか? ジュース飲んだことがないとか言わないよな)
嗜好品は別としても、オレンジの酸味程度で咽ていては、毎回の食事はどうしていたのだろうと不安になる。
咳がおさまったようなので、リツヤはラスの背から手を離してボトルを返した。
「ラスの好きな食べ物は?」
「わかりません」
もう戸惑わず、リツヤは質問の方法を変える。
「月では何食べてたんだ?」
「経口摂取に限れば、固形の栄養食品や栄養剤などです」
「『経口摂取に限れば』?」
耳慣れない言葉を、リツヤは
「必要栄養素の摂取には、経口と経管の二種類があります。経口摂取の目的は内蔵機能の低下を防ぐことです」
「……食事は?」
「固形の栄養食品や」
「そうじゃなくて、料理って言うか……献立って言うか」
「毎回カロリーや栄養素を計算するよりも、数値が固定されている栄養食品を摂取したほうが、データ採取時に誤差が出にくいとのことです」
「……今まで、ずっと?」
「はい」
それが何か、とでも続きそうな口調のラスに、リツヤは返す言葉を持たない。
ラスの話は、リツヤが想像すらしていなかった世界の話だ。「備品」扱いだったということの意味を、まったくわかっていなかった。
(本当に、「物」として……)
リツヤは無言で隣に立つラスの頭をくしゃくしゃと撫でた。
咽ないようにだろう、慎重な様子でオレンジ・ジュースを飲んでいたラスは、ストローから口を離してリツヤを見上げる。その表情こそ変わらないものの、琥珀の双眸には不思議そうな色が浮かんでいるのを見て、目には感情が映るのだなと、リツヤは少しだけ安心した。ラスは感情を持たないわけではないのだ。それを表に出す術を知らないだけで。
「オフィスの方に社員食堂があるんだ。結構美味しいよ。安いし。もうすぐ昼休みだから、そこでランチを食べよう。そんで、午後からは事務手続きなんかの話をしようか」
「はい」
オフィスに戻ったら最初にウォンに文句を言おうと心に決めつつ、リツヤはラスに頷き返した。
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