第二十一話
朝目覚めると、吾妻さんはもう布団を片付けていた。
着替えて下に行くと、吾妻さんのお婆ちゃんが朝ごはんを作ってくれていた。吾妻さんのお婆ちゃんは、久しぶりに賑やかな食卓を囲めてよかったと喜んでくれた。
荷物をまとめて、吾妻さんと二人で家を出た。空には大きな雲が幾つか浮かんではいたけど、日光が眩しく蒸し暑かった。私は麦わら帽子を深く被ってから歩きだした。
最寄り駅に着くと、一旦家に帰る。
今日のことは、夕方に宇津野くんの家に集合して決めることにしていた。
帰り道の途中で栗城さんにラインを送った。
家に着いて部屋に入ったら返事が来て、宇津野くんの家に行く前に夢ノ見山で待ち合わせることにした。
日が傾く前に家を出る。夢ノ見山に入っていくと日陰になっている所を歩いて登る。まだまだ夏の日差しは厳しくて、手には汗が滲む。祠の前まで来ると栗城さんがいた。
「おまたせ」
私はできるだけ丁寧に、言葉の一つ一つを吐き出した。
「ううん、全然待ってない。私も今来たとこだから」
沈黙が襲ってきて、怖くて帰りたくなる。でもこのまま終わりたくはない。大丈夫。ちゃんと話せばきっと分かってもらえる。覚悟よ。
「ごめん」
栗城さんの方が先に口を開いた。
「まさか西堂さんが聞いてたと思わなかった。ほんとにごめん。でもね、本当に違うの。悪気があったわけじゃなくて、その、うまく言えないんだけど」
「わかってる。吾妻さんに聞いたから」
「そっかぁ……ほんとにごめんね。あんなやり方するべきじゃなかった。それなのに一昨日は私怒っちゃって、ほんと最低だよね。そりゃ私なんていなくなればって思うよね。海がなくなればって思うのも無理ないよね」
「違うの。海が消えればって思ったのは栗城さんのせいじゃない。私の問題なの」
空を見上げるともう大きな雲はどこにもなくて、少しだけオレンジに染まっていた。
「私のお母さんが海で死んじゃって。それで嫌いだったんだ。海が。だから栗城さんのせいでもないし、お父さんの仕事のことも全然関係ないの」
「そうだったんだ。私また勝手に勘違いしてたんだね。ごめんね。でも話してくれてありがとう」
栗城さんは目を潤ませながら笑顔を見せてきた。風は少しだけ温度を下げて私と栗城さんの間を走っていった。
私たちはそのまま宇津野くんの家に向かった。
「いらっしゃい。待ってたよ」
宇津野くんに迎えられて部屋に入るとすでに吾妻さんがいた。空木は今日もいない。
「じゃあ早速だけど、今日はこの街に男が現れるはずなんだ。昨日は動画を撮っただけだったけど、今日はいよいよ接触してみようと思う」
宇津野くんは、自信に満ちた笑顔を見せつけるように話し出す。
「まず、昨日のことでハッキリしたけど、あの男は人間じゃない。だからまずは話しかけてみようと思う。それで反応があれば会話をしてみて、何も反応がなければ捕まえようかと考えてる」
「え? 捕まえる?」
栗城さんが驚いて問い返す。
「まぁ捕まえるって言っても、とりあえずは触ってみるだけだよ。向こうからの反応がないと何も分からないからね」
栗城さんはまだ不安そうな顔をしている。私も正直少し怖い。吾妻さんはどうなんだろう。
「それで、どこで待ち伏せするの?」
吾妻さんは、捕まえることは否定せずに話を進めた。
「うん、昨日と同じで海沿いの道をそれぞれ見張ろう」
海沿いの道、あの祠の洞窟への入り口近くに、私は待機することになった。
太陽が沈むとみんなで出かけた。宇津野くんはいつにもまして好戦的というか、張り切っている気がする。吾妻さんも、なんだか今日は宇津野くんを止めようとしない。
私は街灯の少ないその道で男を待った。暗くてハッキリとは見えないけど、空には雲が増えきた気がする。
時間が経つほどに足元から恐怖が襲ってきた。私は昨日あの男を見た。それなのに今はもうその顔を思い出せない。何かがおかしい、そう思うとどんどん怖くなってくる。
何台かの車が過ぎて、スマホが震えた。グループ通話だ。
「男が現れた。海沿いを歩いてる」
吾妻さんがそう言った。多分もうすぐ私からも見えるはずだ。
左を見ていると男が歩いてくる。右からは宇津野くんと栗城さんが走ってくる。
やがて男が私たちの側までやってくる。昨日と同じで、不自然な輪郭からは、どこか現実感のないオーラが漂っている。
「あの、ちょっといいですか?」
宇津野くんが話しかけるけど、男は何も答えないでそのまま歩き続ける。
「あの、あなたですよ。すみません、ちょっと止まってもらえますか」
さっきよりも大きな声で話しかけても、やはり何も答えない。
その時、祠の洞窟につながる砂浜から誰かがこっちを見ている気配を感じた。砂浜は暗くて何も見えない。気のせいだろうか。
「聞こえてないんですか。止まってください」
そう言うと、宇津野くんが男の肩を掴もうと腕を伸ばした。それとほぼ同時に砂浜から声が聞こえた。
「触るな!」
そして宇津野くんの手が男の肩に触れた。それは一瞬の出来事だった。
宇津野くんの指が触れた場所が白く光って、それから光が青く歪んでゆく。その歪みの中からザァーと言う音が漏れている。光はどんどん広がっていって、宇津野くんの肩を包み込もうとしている。メラメラと燃える炎のように、ふわふわと浮かび上がる煙のように、形を変えて色を変えて、音もなく近づいてくる。
歪む光を見ていると、心の底の方から恐怖心が浮かんできた。と思ったときにはもう私はその恐怖に飲み込まれていた。
時間が引き伸ばされているみたいに、とても長い時が流れた。気が付くと空木が男を地面に押し倒していた。側には宇津野くんが倒れていて、ものすごく大きな声で意味の分からないことを叫んでいる。
「目をつぶれ!」
空木が叫んで、男の後頭部に手を乗せた。私は目をつぶれずに見てしまった。
男はただじっとしている。体から何かが蒸発していくように煙が出て、全身から色がなくなっていく。見てはいけないと分かっていても目が動かせない。
どんどん蒸発していき体が透けていくと、男が不意に顔を上げた。目が合ってしまう。水分が全部蒸発していくように顔がピキピキと地割れを起こして、皮膚の一つ一つが剥がれていくと、その内側から別の顔が見えてくる。徐々にその顔が判別できるようになってきて、その見覚えのある顔に愕然とする。
お母さん……
剥がれていく皮膚の下からお母さんが私を見つめている。潮のニオイがツンと鼻を突き、吐き気がする。
「見るな!」
空木の叫び声が遠く離れていって、意識がもうろうとしてくる。
男の体はどんどん蒸発していって、もうほとんど透けている。その顔の中にあるお母さんが口を開いて、それを見た瞬間に急激に気が遠くなって目をつぶった。
ザァーという音だけが、遠退く意識の中でいつまでも響いていた。
目が覚めたら海が消えていた。
世界中で消えていく海を戻したくて洞窟の祠に行った。
洞窟の祠では空木が必死に‘装置’を壊そうとしていた。
でも‘装置’は止まることも壊れることもない。
どんどん海が消えていく。
物凄い勢いで吸い込まれるように、海水が空に舞って、それから‘装置’に降り注ぐ。
空木がその海水に手を触れた瞬間、空間に亀裂が生じる。
白い光が見えて、それが青い光になり亀裂のように広がっていく
亀裂の中に‘装置’と空木が飲み込まれていく。
いかないで。そう思って手を伸ばそうとして、目の前で亀裂が消える。
すべてを飲み込んだ亀裂が消えて、祠だけが目の前に静かに置かれている。
空木はどこにもいない。
海もどこにもなかった。
「西堂! 西堂!」
私を呼ぶ声が聞こえてくる。目を開けると空木がいた。
「西堂! しっかりしろ!」
「あれ? 私どうしたんだろう」
私は道の端で横になっていた。重い頭を押さえて上半身を起こす。
「あいつはもういない。お前目を開けてただろ」
そうだあの男の顔を見ていて、それで皮膚が剥がれて、それから……
「思い出すな。全部忘れろ」
空木はそう言って私を胸に抱き寄せた。微かに海のニオイがした。
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