第十九話
家に帰るとお婆ちゃんがテレビを見ていた。どうやら海が消えた現象について取り上げているみたいだ。この街の名前も出ている。
部屋に行って着替えてから、居間に戻ってテレビを見た。
専門家の人たちが色々と議論をしているけど、結局決定的な答えは出ないで番組は終わった。未来の‘装置’で海が消えたなんて誰一人思ってもないんだろうな。
そのままお婆ちゃんが夜ごはんを用意してくれて、二人で食べた。
夢を見た。
海岸沿いをどこまでも続いてくような道で一人だった。
等間隔に、数えきれないほどの街灯がうねるように走っている。
私は当てもなく歩く。
波の音は聞こえるけど、海は見えない。
不意に、前から誰かが歩いてくるのが見えた。
遠くにいるように見えたその姿が、近づいてくる。
階段を二段飛ばしで走るみたいに、空間を飛び越えて近づいてくる。
気付けば一つ先の街灯の下に、その男が立っていた。
真横に誰かの気配を感じて、横を向く。
空木がいた。
また前を向くと、その男は目の前まで迫ってきた。
そして私の横を通り過ぎる。
横にいる空木にぶつかるようにして、すり抜ける。
すり抜けるとそのまま消えていく。
風が吹いた。海のニオイを伴って。
空木が消えた。砂のように粉々に舞って。
昨日は、結局何も考えられなかった。
空木が未来から来たなんて、そう簡単に信じられるわけない。そんな、陳腐なSF小説みたいなこと。でも、嘘じゃないことも分かっている。私はどうしたいんだろう。自分でもわからなくなる。
カーテンを開けると、空は鬱々しいくらいに晴れ渡っていた。
ごはんも食べずに、スマホも見ずに、一人で考える。ゴールのない迷路を彷徨うように、行ったり来たり。前にもこんなことがあった。モデルを辞める少し前に。
去年の冬、私は撮影に遅刻した。寝坊したわけでも、電車を乗り過ごしたわけでもない。もちろん忘れていたわけでもない。
一緒に事務所に入った子に、その時まで親友だと思っていた子に、裏切られた。その日は一緒に撮影する予定だったから、私はその子に撮影場所を聞いた。そして伝えられた場所に行った。そしたら誰もいなかった。
よくあること。そう思おうとした。
だって、一つしかない席を奪い合うような世界だから。
でも、その子がソロで撮った写真を見た時、どうしても受け入れられなかった。憎らしいとか、羨ましいとか、そんなんじゃない。もっと根本的な、身体の奥底の何かが世界とずれていくような、そんな感覚に耐えられなかった。
後になって、あれは間違えただけで、わざとじゃなかったと聞いた。それが本当かは分からない。どうでもいい。正直、もう恨んではいない。ただ、私に覚悟がなかった、それだけだと思う。
そうだ、いつだって大事な物は自分の中にある。私が覚悟を持てるかどうか、それでいいはずだ。私は覚悟を持つべきなんだ。自分の行動に、思いに対して。
ふと、お母さんの言葉を思い出した。「朱百合、女は覚悟よ」
なんの話だったかは覚えてないけど、お母さんは笑顔でそんなことを言っていた。なんで忘れていたんだろう。お母さんはずっと前から大事なことを教えてくれていたんだ。
スマホを見ると、吾妻さんからラインが来ていた。
『明日は青い物体を追って南の街に行く予定だけど、どうする?』
行く、とだけ返して、空木に電話した。
空は赤く染まりだしていた。私は何日ぶりかの夢ノ見山に向かっている。
祠の前まで行くと、空木はもうそこにいた。
「急に呼び出してごめん。来てくれたありがとう」
「いや、いいけど。やっぱりあんな話は信じられない?」
空木は冗談を言った後みたいに軽く笑った。
「うん、正直半々かな。だから何か証拠を見せてほしい。未来から来た証拠を」
「証拠か、それは困ったな」
空木はまた笑った。
「あの海はどうなるの? 壁はなんなの? 空木なら全部知ってるんじゃないの?」
答えようとしない。ただ私の目をじっと見つめている。
「じゃあ、あの青い物体は? 変な男が歩き回っているのも関係あるの?」
少しだけ驚いたように、眉を動かす。
「そうか、もうそこまで知ってるんだ」
そしてまた笑った。その顔がやけに憎たらしく見える。
「なんで隠すの? 私は協力したいのに。空木は違うって言ってくれたけど、でもやっぱり海が消えたのは私のせいだよ。だから取り戻したいの。空木だって一緒に海を取り戻したいって言ってたじゃん」
もう全部任せるのは嫌だった。
「これが終わったら空木消えちゃうんでしょ? 私も全部忘れちゃうんでしょ? だったら最後くらいいいじゃん。一緒にこの世界を元に戻したい」
「だからだよ」
「え?」
「俺はいなくなるから、これ以上強く誰かの記憶に残りたくないんだ」
その時初めて悲しそうな顔を見せてきた。
「だから、これ以上は関わるな。俺のことももう忘れて、あの男にも近寄るな」
空木はそれだけ言うと、もう私の話なんて聞く気もないという風に、歩いて行ってしまった。一人残された私はこれからどうするか考えた。やっぱりこのままは嫌だ。
久しぶりに夢ノ見山から街を見下ろす。街の明かりはどこか点々としていて、ただでさえ少ない人口が、また減ったように見える。海はなくて、小さく白い砂浜の先はどこまでも黒い世界が続いていた。
いつもと同じ、朝に駅前で待ち合わせ。私が着いた時には三人とももういた。空木は理由は言わずに、行けないとだけ吾妻さんに連絡していた。
駅に入るとこの前とは反対のホームで電車を待つ。私は南の街に行くのは今日が初めてだ。僅かな潮のニオイを伴って電車が滑り込んでくる。
南の街には吾妻さんのお婆ちゃんが住んでいて、今日はそこの二階から海を見る。青い物体がどこから出てくるか、それからどこに流れていくのかを確かめる。
三つ先の駅で電車を乗り継いで、そこからしばらく行くとその街は見えてきた。どことなく寂れて見えて、私たちの住む街と同じくらい人が少ない気がする。
「お婆ちゃんの家はここからどのくらいなの?」
改札を出ると吾妻さんに聞いてみた。
「バスで十分と、そこから歩いて五分くらいかな」
「じゃあ先にここら辺でお昼にしよう」
宇津野くんがお腹をポンと叩いて言った。
「この辺なんにもないから、コンビニで何か買って家に着いてから食べようよ」
吾妻さんが言って駅前のコンビニに向かう。
私はサンドウィッチを二つと飲み物を買って、三人もパンやお弁当を買っていた。
吾妻さんのお婆ちゃんの家は、私の家よりもさらに年季が入ったように見えた。玄関で挨拶をすると、二階の部屋に向かった。二人が望遠鏡をセットして、それからみんなでごはんにした。
私はサンドウィッチをかじりながら、言葉を出すタイミングを探っていた。私が祠で海が消えるように願ったこと、全部話そうと決めていた。空木はもう関わるなって言っていたけど、そんなことはできない。
「あのね、私、みんなにまだ話してないことがあるんだ」
三人ともきょとんとした顔で私を見てくる。
「海が消えたの、私のせいなんだ」
「え? どういうことなの西堂さん?」
栗城さんが聞いてきて、隣で宇津野くんがお弁当を喉に詰まらせて咳き込んでいる。
「夢ノ見山の祠に願ったの。海が消えればいいのにって。そして次の日には本当に消えちゃった。それで怖くなって、一緒に調べたいって言って」
「いや、ちょっと待ってよ。そんなので本当に消えるわけないでしょ?」
宇津野くんがようやく喋れるようになって私の話を遮る。
「僕も宇宙から来ただとか色々言ったけど、でも、祠に願って海が消えるなんて、そんなのありえないでしょ」
吾妻さんもそれに同意していた。確かに普通に考えればそうだろう。
「でも、私が願ったのは本当なの。だから」
私は、空木のことを言わずにどうやって説明するか迷った。未来の道具で私の願いが叶えられたなんて、信じてくれるわけがない。でも空木が未来から来たことや、未来の出来事を勝手に話すわけにもいかない。
「私、わかるよ」
言葉が続かないでいると、吾妻さんが話し出す。
「そういうことたまに思っちゃうよね。ついそういうこと願っちゃって、それで本当に海が消えたから、西堂さん責任感じちゃったんだよね。でもそれは西堂さんのせいじゃないよ」
違う。本当に私のせいなの。あの祠から海の祠の‘装置’に願いが伝わって、それで海が消えて。だから本当に私のせいなのに、正直に言おうと思っていたのに全然伝えられなくて、泣いてしまった。
「大丈夫だって。あの男のこと突き止めればきっと解決する。だから西堂さんは気にしなくていいんだよ。前に僕が一緒に探している理由聞いたからだよね。ごめん。でも話してくれてありがとう」
私が泣いてしまったことで、完全に私の思い込みだと思われてしまった。なんとか誤解を解こうと思うけど、どうすればいいかも分からず、二人はお昼を終えて望遠鏡の前に行ってしまった。
「本当に西堂さんのせいなの? 海が消えたのって」
それまで大人しく話を聞いていた栗城さんが、ぽつりと言った。
「だとしたら……ひどすぎるよ。海が消えたせいで私のお父さんは仕事できなくなって、私だって転校するのに。ひどい。なんでそんなこと思ったの?」
栗城さんが目を赤らめて私を睨んでくる。
「いや、だからそんなんで本当に海が消えたりしないよ」
吾妻さんがこっちに戻ってきて慌てて間に入る。
「でも、違ったとしてもそう思ってたのは本当なんでしょ? 海が消えればいいって、それで私がいなくなればいいって、そう思ってたんじゃないの?」
栗城さんの大きな瞳に、私は一瞬たじろいだ。
「ごめん……でも栗城さんだってひどいよ。前に私の噂流してたじゃん。私、聞いたよ」
「え? あれは別に……そんなつもりじゃなくて……」
栗城さんは誰にも視線を合わせないで、しどろもどろに答える。
それからは一言も喋らないまま、宇津野くんと吾妻さんは望遠鏡の準備を終えて、私は双眼鏡を使って、観察を始めた。
「ごめん。帰るね」
栗城さんはそう言って帰っていった。
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