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あれはまだ年が明ける前のことだ。
十二月二十四日。午前中に終業式を行って、晴れて通学の責務からしばし解放されることとなった。冬休みの到来である。それでなくても今日はクリスマスイブ、自然と頬はほころび心が躍る。ちょっと前まで僕もサンタさんに何をプレゼントしてもらおうかなどと考えていた。あの頃は僕も若かった。
しかしそれも今は昔。
今年から中学生となった僕にそんなメルヘンチックな現実は無かった。仰向けに寝転がるのは柔らかいベッドではなく道場の硬い床である。見上げれば煌々と水銀灯が光り輝き、ヌッと人影が現れたかと思ったら、見下ろしてきたのはサンタさんではなくて防具を着込んだ女性である。面の奥に見える眼光が鋭い。彼女は僕の頭長を軽く蹴とばして、言った。
「早く起きろ。もうへばったか」
「流石にもう限界です。ちょっと休憩させてください」
「いいやダメだ。お前ならもっと頑張れるはず、気合を見せよ!」
彼女の名はアカリといい、僕の所属する剣道部の副部長を務めている。その傍らで生徒会長の肩書きを持ち、成績は学年のトップをひた走り、端正な顔立ちのため男子の人気は比類ない。唯一の汚点とも言えるところは他者に対しても厳しすぎるところであり、おかげで他の剣道部員のほとんどが逃げてしまった。中学生女子らしからぬ言動もあって、陰で「女武将」「メスゴリ」などと呼ぶ声もあるのは内緒である。
アカリ先輩がその怪腕で僕を引き起こした。
「さあ、剣をとれ。もう一本だ」
「その言葉何度目ですか? 流石にもう疲れましたよ」
「気合で頑張れ。そんなことではいつまで経っても私には勝てんぞ」
あわや絶命せんとしたところ、部長が割って入ってくれて助かった。
「ここまでにしとけよ、アカリ。ヒロシも困ってるじゃねーか」
「今イイところなんだ。邪魔をするな」
「今日は随分と気が立ってるんだなぁ。生理か?」
「……わかった。まずお前を血祭りしてやる」
アカリ先輩による凄惨たる制裁を横目に見ながら、僕はようやく一息入れた。
傍からみればシゴキともイジメともとられかねない稽古だが、これは今日に限ったことではない。心配されることもあるがむしろ僕から望んで挑戦しているところもある。
断じていうが、Mではない。
実を言うと、僕はアカリ先輩に告白したことがある。真剣に頭を下げて頼んでみたが結果はNG。理由を聞いてみたところ、もっと雄々しくて頼れる人が良いとのこと。「先輩なら頼る必要ないじゃないですか」と僕が言うと「そんなことはない」と先輩は言った。
「私だってそういう人にあこがれるのだ」
先輩が一瞬見せた『女』の顔が今になっても忘れられない。少しでも強くなろうと剣道部の門を叩いたのはその翌日のことである。
チャイムが鳴った。これは午後六時を告げるものだ、そろそろ帰る時間である。
「よし、今日は終わり! お疲れさま!」
ヘッドロックを食らいながら、部長が声を張り上げた。「ヒロシ、気を付けて帰れよ!」
「いや、今週掃除当番だから床拭きしないと……」
「今日くらいは俺たちでやってやる、気にすんな!」
僕は何かおかしいような気がした。アカリ先輩ならまだしも、部長がそんなこと言うだろうか。
「まさか二人で秘密の特訓をするのですか?」
すると部長が声を上げて笑いだした。アカリ先輩は顔を真っ赤にして何も言わない。
「ま、そんなところだ」
「ずるいですよ。僕も仲間に入れて下さい」
「そのうち教えてやるよ。今日のところは早く帰んな」
シッシッと追い払われる形でその日はまっすぐ家に帰った。
〇
剣道部は冬休みの間中ずっと営業日というわけではない。年末年始の数日の他、何日かは休日が設けられている。翌日はまさにその休日だった。
しかし前方をひた走る者に追いつくためにはそれ以上のスピードを出さねばならないのが道理である。アカリ先輩に勝たんと欲すならば、こういう日にこそ頑張らねばならないと考えて、僕は自主練をするべくバスに乗った。
例年ならば雪が積もって車内ももう少し混んでいるが今年はまだ降ってもいない。このまま降ることが無かったら数十年ぶりの出来事らしいが、代り映えの無い光景も雪の混雑や時間に遅れる心配がないと考えれば幾分マシだ。
ただ、隣人までもが同じなのは特に歓迎するところではない。同学年のミユキとは家が近い関係で小学校から付き合いがあり、中学になってもこうして通学で肩を並べることが多い。今日は塾の冬期講習に出かけるのだと彼女は言う。
「見てコレ。いいでしょ、昨日クリスマスプレゼントでもらったの」ミユキが首元の白いマフラーを自慢してきた。
「へえ、あったかそうだな。彼氏からか?」
「ばか、親に買ってもらったに決まってるじゃない。アンタは何か貰わなかったの?」
「欲しいものはあるんだけど、売ってるものじゃないからな」
「何が欲しいの?」
「『力』、もしくは『気合』かな」
なんじゃそりゃ、とミユキは言った。
学校前のバス停に着いた。僕はここで到着だが、ミユキは塾までもう少し歩いて行かねばならない。
「じゃ、またね。ところで次の剣道部はいつになるの?」
「明日だ。っていうか自主練するから基本的に毎日通うつもりでいる」
「呆れた。アンタも変わったわねぇ」
大仰にミユキは両手を広げた。「どんだけアカリ先輩が好きなのよ?」
僕は目を見開いて驚いた。口をつぐみ忠実なる後輩の役を演じながらひた隠しにしてきた僕の淡い恋心をどうしてミユキが知っているのか。聞いてみれば「だって告白したんでしょ?」と平然と言った。
それどころか、もっと詳細に語りだした。
「七月五日金曜日の放課後、一年生のヒロシ君が部活へ向かうアカリ先輩を階段の踊り場で呼び止めた。告白の理由は五月の林間学校でのリーダーっぷりがカッコよかったから。しかしあっけなく撃沈、でも強い人に憧れるというアカリ先輩の言葉を信じて、剣道部へと入部した」
「何でそんなに詳しいんだ?」
「女子の恋愛情報網を甘く見ないで。どれだけ隠そうとしたところであっという間にグループLINEで学校中に展開よ」
恐ろしい時代になったものだと僕は思った。
だが、真に恐ろしきはミユキであった。
「そうだ! 今日の夜、イルミネーションでも見に行かない? こっちの塾は四時半くらいに終わるから、五時に香林坊で合流ね」
「僕はいつも通り六時までやってくつもりだ」
「幼馴染を一人夜道で待たせる気? 早く来ないと『一年のヒロシ君に襲われた』ってグループLINEに載せちゃうから」
返事も待たずにミユキは走り去っていった。
なす術も無く僕は学校の方へ向かった。
〇
校門を通りまっすぐに道場へ向かった。
ひょっとしたら今日も先輩たちが秘密の特訓なるものをしているのではと考えていたが、そんなことはなかった。誰もいない道場は音までも凍りついたかのようだった。
荷物を降ろして、僕がいの一番に向かったのは倉庫であった。様々な用具をかき分けて奥から抱えるようにして持ち出したのは古びたマネキン人形である。
これは冬休み前に学校近くのごみ捨て場から密かに拝借したものだ。闇雲に竹刀を振るより人形があったほうが勝つイメージが出来るのではと考えたのだ。ただ、全裸の上にのっぺらぼうとあってはアカリ先輩をイメージするのは難しい、そこで今日はこのマネキンを『アカリ人形』に改造することに決めていた。冬休みはまだ始まったばかりなのだ。
改造は難航を極めた。髪の毛は雑貨屋で買ったカツラを切ったり結んだりしてポニーテールを作ったらそれっぽくなった。
しかし問題は顔だった。都合よく顔写真でもあればよかったがそんなものは持っていない。以前、練習のためにとビデオカメラで撮影させてもらおうとしたら「技術は目でぬすむものだ」と一喝され、せめて写真だけでもと食い下がったら変態扱いされてしまったことがある。学校新聞の解像度の低い集合写真と記憶を頼りに何とか書いてみたところ、魚のようになってしまった。結局、面をかぶせて誤魔化した。
気づけば正午になろうとしていた。腹も結構空いている。胴体部分は午後やるとして、コンビニのパンを食べながら構想でも練ることにしよう。
「お前、何やってんだ……」
と思っていたら、背後に部長が立っていた。
僕は洗いざらい説明した。
「一応、アカリ先輩には内緒にしておいてくださいね」
「分かった分かった。まったく、お前は大した奴だよ」
部長はしばらく腹を抱えて笑っていた。
冬休み初日だというのに、部長の髪は早くも茶色になっていた。ワイルドなファーのジャケット、ジーンズには銀のチェーンがきらりと光る。念のために自主練ですかと聞いてみたが、やっぱり違った。デートの待ち合わせで学校に来たが、少し早かったので時間つぶしに道場に寄っただけらしい。
「休みの日くらいしっかり休めよ。身体が持たんぜ?」
「先輩たちより強くなってからうんと休むことにしますよ」
「頼もしいこと言ってくれるねぇ。ほんと、お前が剣道部に入ってくれて助かった。救世主だよ」
「お世辞言っても何も出てきやしませんよ」
「本心さ。これでも部のこと考えてんだぜ?」部長がわしゃわしゃと僕の頭を撫でまわした。
「他の部員に逃げられた時、流石のアカリもしょげちゃってさ、励ますのに苦労したもんだ。でも鍛え甲斐のある奴が来てくれて、最近は何だか楽しそうだ」
僕は自分のことだけを考えて行動してきた、なのにここまで感謝されていたならばなんとも恥ずかしくて照れくさい話である。鍛え甲斐があるという発言はどう捉えれば良いだろう。頼れる男になる可能性があると捉えていいのだろうか。
「ところでこのマネキン、アカリに似せるって言ってたけどさ」
部長がマネキンの太ももを指した。「アイツの脚、もっと太いぞ?」
「そうなんですか? まあ胴着も着せるのでそこまで追及しなくてもいいんですが」
「せっかくだからもっとこだわろうぜ。そうだなぁ、あとはやっぱり胸だな。ここが一番似ていない」
「どう違うんです?」
僕の発言すると同時に、再び背後から気配がした。
気配と言うか、凄まじい怒気だった。
僕が振り向くより早く、部長は駆けた。それはまさに風のよう、あっと言う間に道場の外へ飛び出して姿を消した。道場に僕と作りかけのアカリ人形、そして何故か現れた本物のアカリ先輩が取り残された。一巻の終わりだ。
アカリ先輩はまじまじとアカリ人形を眺めまわした。胸と脚は特に重点的に眺めまわした。そして蹴り飛ばすことに決めたようだ、重心が下がり右脚を引かれた。さらば人形、さらば今日の数時間。
と思ったが、鉄槌が下ることは無かった。赤いミニスカートは虚しく揺れた。
「本当にキミはしょうがないな」先輩は僕の頭に手を置いた。
「今日のところは見逃してやる。あまり無理はするんじゃないぞ」
そう言ってアカリ先輩も立ち去った。
胸の鼓動はしばらくのあいだ治まらなかった。
脳裏に先輩の顔が焼き付いていた。赤みがかった頬と口紅、柔らかな笑顔。人形の顔とは似ても似つかないのは言うまでもない。
あれはいつか見た『女』の方の顔だった。
〇
その後、僕は約束通りに香林坊へと脚を向けた。
時刻は午後五時。アトリオ前のピラミッド形のモニュメントの前に着くと、程無くしてミユキが来た。「行こうか」と言って歩き出すと、ミユキも黙ってついてきた。自分でやっておいてなんなんだが、カップルのようなやりとりは少し気恥ずかしかった。
市の中心部に位置する香林坊、その連立したビル群を突っ切る大通りの両側には、規則正しくケヤキの木が並んでいる。今宵はLEDで彩られ、暗くなり行く街中を青白い光で照らしていた。『雪吊り』のように点灯されたケヤキもあった。
なんとも綺麗な光景だった。今年は剣道尽くしの冬を送るつもりであった。もしもその通りに過ごしていたら、僕はきっと後悔して次の冬まで首を長くして待つことになっていただろう。これは素直にミユキに感謝せねばなるまいて。
しかしどういうことだろう、言い出しっぺの表情は暗い。いつもなら頼んでも無いのに無駄口を叩いてくるのに、せっかく僕を脅迫してまで見たがったくせに、ずっとだんまりを決め込んでいる。
「どうかしたのか?」と聞いてみた。
「私は元気よ。あなたはの方はどうなのよ?」
「もちろん元気だ」
なんだか英語みたいなやり取りになった。
仕方ないので手当たり次第に話題を繰り出し間を持たす。塾で嫌なことがあったのかもしれないので勉強の話題は極力避けた。自然と今日の出来事を口にした。
「先輩たちに合っちゃったの?」意外なことにミユキはこれに食いついてきた。
「ああ、びっくりしたよ。おかげで人形作ってるのがバレちゃった。ま、壊されなかっただけマシだけどさ」
「そんなことどうでもいいのよ。で? 何か話さなかったの?」
「アカリ先輩とはすぐに分かれちゃったからなぁ。部長とは少し話した」
「何って言ってた?」
「僕が剣道部に入って良かったってさ」
「それから?」
「アカリ先輩も鍛え甲斐があるって言ってるらしい」
「あとは?」
「強いて言うなら、アカリ先輩の脚と胸についてかなぁ」
ミユキはあっけにとられた顔を見せた。
そして僕の頭をポカリと叩いた。
「この変態! 人がせっかく心配してあげてるのに!」
そのまま僕を置いて走っていった。
今日はよく人に置いて行かれる一日である。
その時の僕は、何故ミユキがこんな行動に出たのか分かりもしないし考えることもしなかった。そうしてそのまま気に留めることなく部活と自主練を繰り返し、今年最後の稽古を終えて年末休みへと突入した。
真相を知ったのはその時だ。
グループLINEくらい男子だって当然の如くやっている。友人たちとのやり取りので、それは風の噂の如く僕のスマホにも流れてきた。
アカリ先輩が同学年のハヤト先輩との恋を実らせたらしい。
ハヤト先輩とは部長のことだ。
〇
それ後のことを僕はあまり覚えていない。
三十日より始まった年末休み。傷心の僕は泣くことも無く、自暴自棄になることもせず、基本的に部屋にこもりボケっとして、天井を見つめたりして一日を終えた。このとき自分がどんな気持ちであったのか、表現するのは難しい。敢えて一言でいうならば『虚無』である。
このような未来が来るかもしれないであろうことは予測していた。だがこれほどまでにショックとはどうして予測出来ただろう。アカリ先輩に振り向いてほしい、その一心で僕は剣道部の門を叩いた。そして強くなるために練習時間を捻出し、遊びも勉強も睡眠時間も管理した。つまりはここ最近の僕というのは全てアカリ先輩への思いを軸に構築されていたわけであり、それが叶わぬ願いとなった今、自分の中の色んなものが瓦解した。心に開いた穴は大きい。
頭の中を色んな思考がグルグルする。
――部長は確かに強いけどとても『雄々しい』と言える人ではない。アカリ先輩は僕に嘘をついたのだろうか。
――いや、別に宣言通りの人と付き合わなければいけないなどという法は無い。
――アカリ先輩から告白したという噂が本当ならば、先輩は以前より部長のことが気になっていたことになる。僕の気持ちを知ってるくせに、悪いとは思わないのか。
――振った相手に遠慮しろとでもいうのか、このたわけ。
――とにかく、考えるべきは今後のことだ。今後僕は先輩たちとどう接すればいいのだろうか。交際宣言がなされるまで、素知らぬふりを続ければ良いのか。
――そう言えば部長が「そのうち教えてやるよ」って言ってたっけ。確かあれは終業式の日、僕が帰る直前のこと。二人で秘密の特訓をすると言った時。
――秘密の特訓とは何だったのか。
頭の中でいくつもシーンがフラッシュバックし、色々な部分が繋がっていく。
僕が自主練したりイルミネーションを見ていた裏で二人は逢瀬を重ねていたと言うのだろうか。妄想は止めどなく拡大するが、しかし心の穴を埋めることはなかった。
気がつけば新しい年がやって来ていた。
ミユキの獅子舞LINEが届いたそんな時だ。
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