第9話

 律子は車に青山聖児を乗せ、自分が今夜泊まるホテルまで一緒に走った。

 窓を少し開け夏の故郷の風を受けながら田園に広がる緑の中を走った。

 話を聞けば彼は数年前に欧州へ留学に行きその時立ち寄ったウィーンの美術館で律子の姿を見たといった。

 それも美術館で行われた演奏会ではなく美術館から離れた並木通りで外国人の男性と居て、泣いている自分の姿を見たといった。

 声をかけようとしたが自分も急いでおりその場を離れたと律子に言った。

 律子は一瞬ドキリとした。

 その日美術館の広場で律子は他のバイオリニスト達とヨハン・パッヘルベルを演奏した。

 美術館では世界から公募で集められた沢山の彫刻があった。

 その演奏後、律子は帰国する予定だった。

 律子は初めて異国に渡りそこで恋をした。相手の男性はドイツ人で年上の同じバイオリニストを目指す若者だった。

 帰国が迫る中、律子は最後の演奏日に美術館で自分の思いを告白した。側には一つのバイオリンを弾く小さな少女の彫刻があった。律子はドイツ人の男性と多くの彫刻を見て回りながら、やがてこの場所で立ち止まると男性に告白をした。

 しかし自分の恋は実ることは無かった。相手の男性にはもうすでに心に決めた人がおり、とても律子が彼の心の中に座る席は無かった。

 悲嘆にくれて落ち込む律子がその若者に慰められていた瞬間に彼はすれ違ったのだと思った。

 思えば偶然とはいえ、奇遇でありこれほど珍妙なことも無かった。

 それよりも横に座る芸術とは無縁に見える青山聖児が、なぜその演奏会が開かれるあの美術館に居たのかとも思った。

(観光であれば良くあることだ)そう思い、律子は納得をした。

 律子はちらりと横を見る。

 黒い瞳に流れゆく風景が映っては、消えているようだった。時折目を細めて、眩しそうにしている。

(しかし・・)

 と、律子は思った。

(これがあの彼だったなんて・・)

 何とも言えない微笑を浮かべて、再びちらりと青山聖児の顔を見る。

 青山聖児と律子が交流することになったのは律子が転向することになった最後の学年の時だった。

 夏祭りで盆踊りをすることになり、同じ地区の子供たちが集まった。

 当時、律子は別の地区から星が丘地区へ越してきたばかりだった。海が見える丘の上に家が並ぶこの地区を両親が気に入り引っ越してきた。

 青山聖児も同じ頃、父親の仕事の関係で両親が福岡に引っ越した為、彼は父方の祖父母と共に星が丘地区に住んでいた。

 彼は休みの日になると朝早くから釣竿をもって海へ行き一日中魚を追う少年で、地区内では有名な釣好きとして知られていた。

 そんな彼と律子は同じ地区内の盆踊りで顔を合わせてお互いを知ったが、通う学校も違うことからこうした集まり以外で会うことは無かった。

 唯一、律子が朝早くに砂浜でバイオリンの練習をする時に彼と遭遇するときがあったが、釣った魚を投げられるなど律子にとってはあまり気持の良い相手では無かった。

(だけど・・)

 そう思ってミラー越しに流れる風景を見た。

(良い思い出が一つだけ、あった・・)

 流れる風景の先に、澄み渡る様な広い青空が見えた。

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