第8話
車は小さな運河にかかる煉瓦造りの橋を渡りはじめた。
(この橋・・)
律子は渡りながら記憶を探った。
この煉瓦造りの橋を幼少の頃よく両親と手をつないで歩いた。
運河を山から切り出された杉の丸太を幾つもつなぎ船頭たちが声を出して民謡を歌いながら、海へと下っていった。
小さな海へと下る川に映るその姿が美しい光景として当時の自分の瞳には映った。
前方に神輿を担ぐ地元の少年少女たちの姿が見えた。速度を落としながらゆっくりすれ違っていく彼らの姿を見ると、道の端には赤い幟が立ち、今日祭りが行われることがわかった。
彼らの楽しそうにはしゃぐ声が神輿と一緒に木々に囲まれた鳥居を潜り階段を登っていった。
律子は彼らの姿が消えると、ゆっくり速度を上げ信号で止まった。
そこで暫く信号機を見ていたがやがて手を鼻と口に当て、顔を伏せた。
故郷の時間は自分の期待したように止まってなく、自分が去ったときから動いているのだ、自分は一人ぼっちなのだという思いが自分を襲った。
どうしようもなく悲しくて堪らなかった。あの白い砂浜の日々は、もう消えていた。
(国破れて山河あり・・という気分なのかな・・今の私・・)
そう思った時ドアを激しく叩く音に律子は顔を上げた。
ドン、ドン!
ドア向こうで陽に焼けた若者が律子を密ながらドアを叩いている。
律子は急いで窓を開けた。
「おい、大丈夫か?こんなところでとまってどうする?」
若い声が律子の耳に響いた。
「すいません、ちょっと考え事をしていたもので」
律子はそういうと目を拭いて男のほうを見た。男の手にした釣り竿が揺れている。
目が合うと男が驚く顔が見えた。
男はすぐに運転席のほうに回るとドア越しに「窓を開けてくれないか」と、言った。
「もうだいじょうぶですから」
律子はそう言って車を出そうとした。
「君、月が丘の団地に住んでいた黒田だろ?違うか?」
(えっ)と心の中で叫ぶ律子に衝撃が走った。律子は男の顔を見つめながら車から出た。南国の空の下で、輝く黒い瞳が自分を見ている。
「そうです、昔、月が丘の団地に住んでいました。黒田律子です。失礼ですが、あなたは?」
律子は男を見た。
「僕?忘れたかい、実はウィーンの美術館でもチラッと会ったのだけどね。まぁその時は僕が遠くで見ていただけだから分からなかったとおもうけどね」
「ウィーンで・・?」
まじまじと目の前の陽に焼けた若者の腕や顔を見る。芸術の都で会うような感じではなかった。
照れる様に若者が笑う。
「青山です。青山聖児です」
(青山・・??)
記憶の海を探る様に律子はその記憶の水面へ手を伸ばした。
(誰だろう・・でもこの感じすごく懐かしい・・)
その時、釣り竿が揺れて律子の記憶の水面にポトリと落ち、二匹の鯵が跳ねる音が響いた。
「あ!・・あ・・!」
何かを記憶の水面から掴んできた律子の指が、目の前の若者を指さす。
「そう、思い出してくれた?黒田さん」
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