渇望

 予想通り、その夜も私は禁断症状の様な苦しみに見舞われた。一瞬しか嗅いでいないはずのカレーの香りが徐々に神経を支配し始め、それを摂取しろと言わんばかりに脳が攻撃信号を発して体を苛め続ける。


 …………クソ。


 ふざけるなよ。


 さっさと死ねよ、私。


 いくら暴れたって、私は絶対に食べない。お前は黙って私の意志に従っていればいいんだ。カレーの事など、忘れてしまえ。忘れ――


「忘れろ! チクショウが! …………あ」


 自分の寝言に驚いて目が覚める。まだ死ねないのか。冷凍庫のモーターがそれを嘲笑うように回転する。禁断症状は治まっていたが、脳のカレーへの未練はまだ消えていないらしく、香辛料の香りが頭の中で反芻され…………いや、違う。


 カレーの匂いがする。確かに。


 一体どこから?


 冷凍庫が保冷状態に切り替わってモーターが止まる。


 無音になった寝室が静寂に包まれ――――ない。


 ドアの外、誰も居ない筈のキッチンの方から物音が聞こえる。食器を並べる様な、洗い物をする様な。身を起こそうとベッドに手を付くと、馴染みのある感触に触れる。これは、定期券? 私が今朝まで使っていた物だ。間違いなく派遣先に返却した筈なのに。……まさか。


 最悪の展開が脳内で瞬時に描かれ、凄絶な悪寒が走り抜けると同時に全身に鳥肌が浮かび上がる。嘘でしょ? そんな訳ない。だって鍵は……いや、かけた記憶が無い。そもそも家に帰った記憶自体が無い。嫌だ。怖いよ良ちゃん。なんで私ばっかりこんな――


 ふと、物音が一切しなくなる。耳を澄ませるが、何も聞こえず、気配すらも感じない。


 空腹のあまり、幻聴が聞こえていたのかな。きっとそうだ。定期だって返したつもりでいただけに違いない。総務の女に気味悪がられたのも、交通費をカウンターに直置きされたのも、最近見た夢と現実を混同していたんだ。絶対そう。いくらストーカーでも、在宅中に家に上がり込むなんて事、する訳がない。そんな訳がないのに……



 どうしてカレーの匂いが強くなってくるの!!


 カチャ……


 無慈悲に、しかし優しく、寝室のドアが開かれる。立ち入った人影は、間接照明で逆光を浴びているにもかかわらず、不思議と笑っているように見えた。


「ひ……」


 人影はベッドに近付くと、無言でヘッドボードに皿を置く。顔のすぐ近くに置かれたそれは、いくつものスパイスを掛け合わせた芳醇な香りを漂わせる。胃が……痛い。人影は身をかがめ、ゆっくりとその顔を私の眼前に寄せてきた。


 薄暗い中で徐々に鮮明に映る、仮面の様な男の笑顔。この時点で既に私は、『死』以外の逃げ道を選択しようとしていた。


「こんばんは。よかったら当店売れ筋のカレー、いかがですか?」


 頷くしか、道は無かった。体を起こし、震える手で食器を掴む。自制の効かない利き腕ではスプーンを上手く操る事が出来ず、私はカレー皿に直接かぶりついた。――美味しい。


 もう、止まらなかった。私は見栄えも気にせず餓鬼の様にカレーを貪り、この二十日間溜め込んでいた死への想いを、溜息に乗せて大きく吐き出す。


「おかわりもありますが、いかがです?」


 恐怖心が消えた訳ではない。ただ、私は自分の心に嘘をついた。この恐怖を、心の動揺を、恋心のそれにすり替えてしまおうとしていた。はい、と答える私に、彼は再び優しい笑みを与えてくれた。


 

 良ちゃん、ごめんなさい。私、また頑張れなかった。私は、また――

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