逃げられない笑顔

 昨日は粘着してきた上司も、今日はお化けでも見る様な顔で私を一瞥したきり、一度も話しかけてこなかった。たかだか一晩でここまで扱いが変わるなんて、我ながら驚きの変わり様だ。


 その日も滞りなく業務は進められたが、今朝のスーパーの男の姿が脳裏に焼き付き離れず、時折あの笑顔が頭をよぎる。その度に目眩を起こしていたが、幸い今の私の容貌では誰も近寄って来なかった。


 結局誰にも見送られる事無く、私は5年間お世話になった派遣先を後にした。派遣会社にはこの後は何処にも入れないようにお願いしているので、このまま私が消えたとしても迷惑はかからないだろう。


 後は、家に帰るだけ。とは言えいつもの道を歩く勇気は無かった。駅までの最短ルートだと、またあのスーパーの前を通らなければならない。それはどうしても嫌だったので、またタクシーを拾って一つ先の駅まで乗っていく事にした。今回は頻繁に話しかけてくるドライバー……ハズレだ。


 いつもとは違う駅に到着し、派遣先に返却した定期の代わりに受け取った片道分の小銭で切符を購入する。恐らくこれが、人生最後の金銭のやり取りになるだろう。最後が機械相手というのも今の自分の状態に見合っていて少し可笑しく、そして感慨深かった。もうすぐ、終われる。


 そう思っていた…………のに。


 最寄駅の改札を抜けて駅舎を出たところで、我が目を疑った。そこには――


「こんばんは、お疲れ様です。お住まい、こちらなんですね」


 テナント募集のポスターが貼られた居抜き物件の前に、見慣れた配色の簡易ブース。そこにさも当たり前かの様に、スーパーの男が朝見たままの恰好で笑顔を振りまいていた。


「……!」


 どうして? ありえない。突然の事に恐怖で声も出せず、また、男に見つめられると身がすくんで動く事も出来なかった。しかし男は構わず話を続ける。


「今度、こちらに店舗を構える事になりまして。その宣伝も兼ねた、出張サービスです。よかったらどうぞ、全店で人気№1のビーフカレーです」


 男は慣れた手つきでカレーを盛り付ける。その間も貼り付いた様な笑顔は崩れず、逆に無表情よりも不気味だった。


 男の視線が自分から逸れている今しか逃げられないと判断し、他の利用客にぶつかりながらもその場から全力で走り去る。永遠の眠りに向けて活動を緩めていた心臓が、壊れた様に激しく鼓動を繰り返す。


 そして混乱する脳内であっても感覚器官はしっかりと作用しているようで、香辛料の香りが鼻孔を通って記憶に刻まれてしまう。これではまた、昨晩と同じ苦しみを味合わなければならなくなる……。


 何故?


 なんなの?


 どうして私なの?


 ストーカーめ……もう、私に構わないで!


 声に出さずに毒ずきながら走り続け、二つ目の曲がり角を折れた所で立ち止まる。乾いた喉が貼り付いて呼吸が出来ない。このまま窒息死でも悪くないと思ったが、私の体はそれを許さなかった。激しく咳き込んで強引に気管をこじ開けて、無理やりにでも血液を循環させる。


 もう……嫌だ。良ちゃんお願い、帰ってきて。もう約束破らないから。もう食べすぎたりしないから。良い子だね、頑張ったねって、また頭を撫でてよ。お願いだから――


 悲しいのに涙さえ出ない。乾燥する時期にはまだ早いのに唇もカサついている。恐らく脱水症状が始まっているのだろう。もうすぐ死ねる。死ねたら全てが解決する。落ち着きを取り戻し、自転車が来ていないか後ろを確認したところ――



 数十メートル先の最初の曲がり角に、満面の笑みを浮かべた奴が立っていた。



 目眩と共にブラックアウトしていく視界の中、男はゆっくりと駅の方に消えていく。その後はどうやって帰ったのか覚えていないが、気が付いたら私は、自宅のベッドに倒れ込んでいた。

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