追い打ち

 次の日の朝。駅から会社に向かう私の顔面には、明らかな死相が浮かんでいたと思う。


 昨晩、中途半端に食欲を取り戻してしまった私の脳は、自らの体に警告サインを送り続けた。結果私の体は悲鳴を上げて、体液の様な粘度をもった脂汗が全身から滲み出ては体温を奪い、冗談の様な震えが一晩中続いた。勿論、一睡も出来ていない。


 何故まだ生きてるんだろう。あんなに苦しい思いをしたのに、どうして死ねなかったんだろう。――でも、それも今日で終わる。あともう一日頑張って、自宅に帰ればそれで終わりだ。後は何もしなくていい。目を閉じて、静かに死がやって来るのを待つだけだ。


「おはようございます」


 終末への希望に浸っていた矢先、聞き覚えのある声に挨拶された。落していた視線を上げると、歩道に連なる業務スーパーののぼりが目に映る。まさかと思って声のした方向に目をやると――昨日の男性がにこやかに立っていた。


 嘘? まだ8時前だし、店の電気も点いていない。なんでこの人はこんな時間に……?


「ウチのPBプライベートブランド食パンで作ったホットサンドです。ご試食いかがですか?」


「い、いえ……結構です」


 もう昨晩の様な目には遭いたくない。栄養が欠乏している脳に鞭を入れ、息を止めてその場を立ち去る。しかし今の体調では5メートル少々が限界で、店ののぼりが途切れた所で思いっきり息を吸い込む。道路から漂う排気ガス臭と同時に、濃厚なナチュラルチーズの香りが不意打ちの様に飛び込んできた。


「――!?」


 驚いて振り向くと、ホットサンドを持った男性がすぐ後ろに立っていた。


「ちゃんと食べないと、体に毒ですよ。失礼ですが、その様にお見受けしたのですけど」


 朗らかな表情は崩さず、しかし口調はやや強く、当たり前の様に目を細めて紙皿を差し出す男性。既にまともに脳が機能していない私は混乱し、何も答えずに早足で逃げ出す。しかし――


「どうして食べないんですか? 本当に体に障りますよ?」

「味には自信があるんです。チーズも低脂肪の物を使っているのであっさりしていますから」


 信じられない事に、男はついて来た。その説明と匂いのせいで、縮んでいた胃が唸りを上げる。


「本当に結構ですから! それに店を離れたら……仕事中なんでしょう?」


「いえいえ、今は趣味の様なものですから。食材も全て自費で購入した、言わばボランティアです。ですからどうぞ、一口だけでも」


 こちらは必死に歩を進めているのに、男は穏やかに語りかけながら併走してきて振り切れない。このままでは会社まで付いて来られかねないと思うと、途端にその物腰が恐ろしくなってきた。


 逃げる為に前を見据えた先のバス停で、丁度降車中のタクシーを発見する。サイドミラーに映るドライバーに手を振りながら駆け寄り、先客と入れ替わる様に後部座席に滑り込んだ。


「ええと、どちらまで行きましょうか?」


「とりあえず出してください。早く!」


 私の剣幕にドライバーは慄いた様に返事をし、本線に合流して車を直進させる。いくら今日が最終日とは言え、自分に関わりがある場所を特定されるのは気味が悪い。先程のスーパーには近づかないように適当に流してもらい、会社から少し離れた所で降車して、辺りを警戒しながら出社した。


 先程から手の震えが止まらない。これは空腹のせいなのか恐怖のせいなのか。もう自分でも分からなくなっていた。早く死にたい。『死ぬ気になれば怖いものなんて無い』なんて言葉は嘘っぱちだ。死ぬ気であっても、怖いものは怖い。本当に。


 良ちゃん、助けてよ――

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