第54話 崇士と晴香

「晃は野球辞めると思ってた」


 食器を並べる西野晴香の横には、異母兄弟の弟がいた。物置だった喫茶店の二階に間借りしてひとり暮らしをはじめていた。


「連中のおかげって訳じゃないけど、何か立ち向かう姿勢っていうか……よく分かんないけどさ」


「うん。好きなんでしょ、野球」


 顔を掻いた指は大きく、背も晴香よりずっと高かった。でも中身はまるで小学生だ。一晩中、ランニングに行ったり素振りをしたり。


「あ、ああ。野球しか知らないから」


「ふふっ、病院はちゃんと行くのよ」


 二人の父親、清田正樹は刑務所に送られ、恐らく出てくることは無いだろう。ふたりとも複雑な心境ではあったが、兄弟がいれば乗り越えられる気がしていた。あの変わり者の桐畑兄弟でさえ、お互いに信頼できたのだから。


「でも、いつの間にか居なくなったよね。ルパンさんと五右衛門さんと」


「うん。ジャイアンって」


「ふふっ……ジャイアンはないよな。ぷっ」


「アハハハハハ」

「ぷははははは」


 二人は大きな口を開けて笑いあい、晴香は晃の肩をパシパシと叩いた。いつの間にか、互いに一人じゃないと感じていた。


 きっと、自分たち兄弟は助けあえると感じていた。あの不仲で変人の兄弟よりは、絶対にうまくやっていけるはずだと思った。


         ※


 午後の喫茶店に招かれたのが自分だけだと知ると、いてもたってもいられず落ち着いてはいられない。西野先輩は何を考えているのか。

 

「崇士くん。色々助けてくれて、有り難う」


「いっ、いいんだ、俺は好きでやったことだから。誰も来てないの? たくさん料理があるけど、時間を間違えたかな」


 西野晴香は潤んだ瞳でうなずき、崇士のネクタイを軽く引っ張ると、その顔を近づけた。彼女の艶のある唇が目の前にくると、崇士はごくりと唾を飲んだ。


 近づく唇に目を背けるには勇気が必要だった。さすがに鈍感な自分でも、この状況が理解出来ないわけがない。先輩は……その気があるってことだ。


 煩悩を振り払って、彼女を見た。心臓がバクバクと音をたて、胃のあたりでウサギが跳ね回っている感覚。落ち着け、落ち着いて。


「言わなきゃならないことがあるんだ。坂本先輩のSNSなんだけど、書き込みしてたのは冨岡だった。それが無きゃ上手くいってたんだよね。だから、本当は……別れる必要は無かったんだ」


「……」


 彼女は半開きの口を開けたまま、少し困った顔をした。だが、事実を伝えずに火事場泥棒のような真似は出来ない。あるいは、自信が無かったのかもしれない。


 一番大切なことは、彼女の幸せで平穏無事に生きることだ。自分はどうだ? 西野晴香の祖父を刑務所送りにした。


 彼女の父親が死刑台に送られるとしたら、きっと自分のせいなのだ。そんな自分が彼女を愛する資格なんてあるのか。


「もしかして私とキスしたくないの?」


「いっ、いや、そんなことはないよ! だけど……フェアじゃないだろ」


「じゃ何よ」


 先輩らしくない。問題は意外とシンプルなのかもしれない。切り離して考えるのは悪いことだろうか。それでも、動けずにうつむいて手を握った。


「俺にとっては、キスってだけで人生観が変わっちゃう位の大事件なんだ。まあ、正直言ってずっと憧れてたから……先輩に。今回のお礼だとか、記念みたいなキスは受け取れない。後で苦しむことになる」


「く、苦しむって何よ。そんなふうに思ってるなんて知らなかったわ」


「だって、だって……」


 崇士はこう思った。自分だけが、明日も明後日も彼女の事を考えるに違いないと。いや、一ヶ月後も一年後も、十年後だって考えるに決まっている。


 彼女にとっては軽いキスかもしれない。それが自分にとっては、呪いのキスになる可能性すらある。

 

 それほど、崇士は心から彼女を愛していた。軽く振られて気まずい雰囲気になって、友達でもいられず、彼女の人生からフェードアウトするなんて辛すぎる。だからキスのタイミングは今じゃない、絶対に。


 西野晴香は無表情でパチパチと手を打ちならした。崇士は目を丸くして、彼女を見た。ひし形に割れていく皮膚が再構築されてルシエルターミーへと変貌していく。崇士は両手で頭を抱えながらよろよろと後退った。 


『合格です』


「ルシエ……何で……何で? 何で、そんなことするんだ!」


 篤士と悟士、二人の兄と河本が立っていた。一番上のバカ兄貴は嬉しそうに言った。


「崇士よ、お前は真の英雄だ。見返りを求めることなく、ただ目の前にいた女性を救うことをなしとげた。欲にまみれた他の誰もが出来なかったことを、お前はなしとげたのだ。俺はお前を誇りに思うよ」


「お、俺も俺を誇りに思うよ……でもなんか凄くバカにされてる気がするんだけど?」


 また悪夢の続きを見ているのかと思ったが違うようだ。そこには笑みを浮かべた本物の西野先輩がいた。


 崇士は合格という言葉の意味を噛み締めながら、胸を高鳴らせた。こんなサプライズは、いい趣味とは言えないが、自分は合格したんだ。


 そんな俺を彼女は、満面の笑みで迎えようとしている。二番目のバカ兄貴が言う。


「残念ながら河本も合格したと聞いたら、どんな顔をするかな」


「はあ? 何言ってんだよ!」


「……僕もキスしなかったから」


 悟兄は照れたような顔つきの河本の肩を叩いて優しく言った。新たなライバルがまさかの河本とは、基準が分からない。


「だが、河本は自分に見合ったブスと結婚して、毎日のように綺麗だよって言ってやるんだろ?」


「はあ!? 何で僕だけ前世の業みたいな罰を受けるわけ。美人と結婚したっていいだろ。むしろ美人と結婚しなきゃ、僕の遺伝子は絶滅するかもしれないんだぞ」


「いいから、引っ込めウーキー!」


 三人が揉み合いをしている脇をすり抜けて西野晴香は崇士に向かって飛び付いた。ぎゅっと締め付けるほど強く、崇士を抱きしめて言った。


「私は別に女神じゃないよ、ただの人間。もし私がそう見えるんなら、君の前だけ。大好きだよ、崇士くんっ。ずっと前から」


「……ハハハハ、何でだろ」


 崇士は指先で涙を拭った。皆が笑ってるのを見ると、いつもは嫌な気持ちになるのに……バカにするのは辞めろって思っていたのに。


 涙が止まらない。嬉しくて楽しくて、こんなふうに涙が出るなんて、知らなかった。


「すっ……好きです、俺も大好きです」


『いまのは、私です。崇士様』


「おまえ、ルシエル! ちょこまか変装するんじゃねーよ。訳わかんねーよ!」



        【END♪】

   

 

 

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ブレイキングトライヴ 石田宏暁 @nashida

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