第40話 義弟の苦しみ
清田は、やな奴のはずだった。絶対に許せない最悪の異母兄弟。過去を知れば、彼の言葉を信用することは出来ないはずだった。
何故、こいつは典子さんに相談に来たのだろうか。血縁があるわけではない。彼との共通点は一つだけだ。立場は違えど、清田正樹という男に人生を狂わされたという点。
十年以上前に、晴香の母は清田正樹との離婚を決意した。エンゲルスのピッチャーとして全盛期にあり、金をむしりとることも出来たはずだ。
ここにいる人間は誰一人として、春香の母である典子さんが自分の幸せの為に離婚したとは思わなかった。
――愛すべき娘の晴香の為だと感じた。
清田とは縁を切るべき状況にあったと考えるのが自然なのだ。それは疑りようがない。離婚して一年絶足らずで、この清田晃が産まれているのだから。
「お父さんのプレッシャーに耐えられなくなった。だから、ここに来たのね」
彼女は、初めから知っていたのかもしれない。同じ父親を持つ彼女が、清田を理解しようとしなかったとは思えない。
「あ、ああ。痛み止めを飲みすぎて、何も食えなくなった。でも、ここに来れば何か食べる気になると思ったんだ」
俺は何年か前に、彼の練習を見に行ったことがあった。マウンドに立つ彼は、実の父親からの罵声を浴びていた。あの強烈な悪態を忘れるのは難しい。
『バカ野郎っ、本気で投げてるのか!?』
『やる気が無いなら、さっさと帰れ』
挙げ句のはてに、試合中にもかかわらずマウンドに走った父親は実の息子の襟首を掴んで、地面に這わせた。
『肘が下がってるんだよ。いつも言ってるだろっ!』
立ち上がらせては尻を蹴飛ばしたり、頭を殴ったりしていた。所謂、スパルタ教育というやつだ。それを見て、復讐を誓ったはずの我がチームはすっかりやる気を失った。
こいつが嫌な奴なのは、もう変えようがない。野球でなくても、西野晴香を傷つけた報いを受けさせるつもりだった。
――だが、既にやつは報いを受けていた。どうせ、あんな性格だったら世間が許すわけもない。関わるのはよそう……誰もがそう思った。チームメイトでさえ。
清田は言った。野球をやればやるほど、他の自分がいなくなる感覚だったと。まるで野球をするためのアンドロイドだった。
それなのに甲子園には彼くらいのピッチャーはいくらでもいた。もう何の為に野球をするのか分からなかった。
いっそ、アンドロイドに野球をやらせたほうがマシな気がした。
「俺のことは覚えてる?」崇士は聞いた。
「……いや、覚えてない」
「俺は覚えてる」
ここで一番若いはずの俺が言うべきセリフは限られていると思った。だが逆に、はっきりとした口調で言った。
「俺のことはいいけど、彼女にきちんと言うべきことがあるんじゃないか? お前は自分が傷ついた以上に、彼女を傷つけてきた」
「あ、ああ……ごめん」
清田は西野晴香に真っ直ぐに向き直って座り直して続けた。
「ちゃ、ちゃんと謝ってなかったよな。お、俺は君と立場を入れ替えたいって思っていた。俺のほうが辛い思いをしてるって思ってたんだ。だから、意地の悪いことも言った。あん時は、バカだった。想像力がなかった。ただ……助けて欲しいって思ってた。本当にごめん」
彼女はおおきく息を吐くと清田の体を見て言った。
「坐骨神経痛って、お父さんには話してるんだよね?」
「……まだ、話してない。話したら俺は捨てられる気がする」
「他に相談した人は誰もいないの、友達は?」
「友達っていえるの、一人もいないんだ」
「バカ……」
言葉とはうらはらに彼女の冷たい眼差しはいつの間にか、温かいものに変わっていた。
「――分かったわ、許してあげる」
そう言うと彼女は崇士を見てウインクをした。
「兄弟は選べないもんね」
「ははは、深い言葉だね」
ここまで息子を追い詰める親がいるだろうか。そんなのは愛情でも何でもないと感じた。野球に限らずスポーツはもともと楽しみを求めるものであって義務や責任を背負うものじゃないはずだ。
一定のルールの中で勝敗を競い合うことに、どうしてこんなに必死にならなければならないのか。どうして、辞められないのか。答えは自分の中もあった。
兄弟でキャッチボールをしたことを思い出す。ゴムボールなのに突き指したことを、兄弟は冷やかした。
兄貴たちは遊びでも全力で投げるし、甘えたことを言うとすぐに笑われた。母さんと一緒に病院にいくと、腫れあがった指を見て白衣を着た女性が言った。
『骨折してますね』
無性に腹が立った。きっと俺は野球が好きだからだと思った。好きな野球で、まったく歯が立たないことを知っていたから。どこかのストーカーと変わらない。自分にも周りにも納得できず、誰かのせいにせずにはいられなかった。
「しばらく野球は出来ないな」
「篤兄……どうして、どうして骨折なんかさせたんだよ。兄貴達と関わると、いつも怪我させられるじゃないか!」
「知るかよ。気にするな――野球はスポーツであって人生ではない。諦めることが出来ない人間は、他の可能性も潰す人間だぞ」
俺は野球を辞めた。
自由になりたかったから。髪を茶色に染めて、中田先輩みたいな不良とつるんで遊びまわった。でも、本当に自由になるためには、何かを乗り越えなきゃならない。
俺の場合――それは野球じゃなく、あの兄貴達だったのかもしれない。
「辞めたいとは思わないの? もし私を姉だと思うなら、助言する。辞めてもいいのよ」
あの時、聞きたかった言葉を西野先輩は義理の弟に言った。他人の人生に関わることを口にするのには勇気がいる。
長男が言いたかったことも、今になってみれば理解できた。野球は人生じゃない、野球をやめたって人生は続いていく。
「ありがとう……あ…ありがとう……ありがとう」
清田晃はうつむいたまま漏らすように言った。
彼の呪縛が消えたかは分からない。だが、同じような状況で俺が感じていた兄貴達の酷い仕打ちが――実のところ〝優しさ〟だと感じられるのは、西野先輩のおかげだ。さっきまで気付きもしなかったことが途端に見えてくる。
「きっとそう言って欲しくて、ここに来たのかも俺。ところで典子さんは?」
「昨日は親戚に会うって和歌山まで行ってる。今日は千葉にあるホテルで料理学校主催の勉強会に出る予定なの。私も呼ばれてるんだ」
「どうやって行くの?」工藤さんが聞いた。同じ料理学校に通っているので、参加するようだ。
料理学校の校長から、電話を貰ったのは二週間前だった。ぜひご家族も一緒に参加されてはいかがでしょうかと。
ちょっとしたサプライズがある。学校のホームページに掲載されていた典子さんの創作料理が今年度の大賞に選ばれたのだ。
「全員いっしょに行かない? 母さん喜ぶと思うから」
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