第32話 変装・西野ターミー

 六時間前。


 西野晴香は通いなれた高校にいた。グランドでは何人かの生徒が朝練の準備を始めていた。野球部員を観るたびに思い出したくもない父親のことを思い出す。


 母さんと別れ、他の女性と結婚して息子を手に入れた人。


 親戚の夏子おばさんは、プロ野球選手である父にサインを貰いに行ったことがある。シーズンオフ中に行われるファン感謝デーのことだった。


 着ぐるみ姿のマスコットとチアガール、初めて入る本物のグラウンド。高額の入会金をだす後援会に紛れて、色紙を持ったおばさんは父さんの肩を叩いた。


「お久しぶりね、正樹さん」


 清田正樹は困惑した顔を見せた。いまひとつ納得していないようすは、どういう立場で彼女と接するか決めていなかったからだろう。


「なっ、夏子さんじゃないか。まだファンクラブに入っていてくれたのか」


「ええ、貴方は嫌いだけどチームに罪はないから。今日はサインを貰いに来たのよ」


「ああ……、御安い御用です」


「親愛なる我が娘へって書いてくれる?」


 清田は失望の表情でペンを持つと、感情のない声で答えた。


「やめてほしいな、そんなお節介は。女の子が野球選手のサインなんて興味ないだろう」


「そんなこと無いわ。野球、やってるのよ。リトルリーグのキャッチャー。貴方にあこがれているのかもね。会ってみたい?」


 父はサインを書きながら首を振った。おばさんの目を見ようともせず漏らした。


「僕は息子が欲しかったんだ。金を出すからおろせって言ったのに。それに当時はまだ若かったからなぁ。若気の至りってやつさ」


 おばさんはハンカチを口にあてがい、驚きを噛み殺した。


「ほ、本気で言ってるの?」


「あ、ああ。つい本音が出ちまった。まったく誰だ、酒なんか飲ませやがって」


「……来るんじゃなかったわ」


 私は夏子おばさんのスカートをぎゅっと握り締めていた。小学生の自分でも、その言葉の意味は分かった。息が詰まって頭がくらくらした。全身の血液が流れるのを止めたみたいに、身体が冷たくなった気がした。


 心が動かなかったら、苦しまなくて大丈夫。そんな考えが自分の身体を麻痺させたのかもしれない。


 ずっと前から楽しみにしていたのは、父に何と言って欲しかったからだろう。何もかも分からなくなっていた。心が止まっていたから。


「おいおい……連れてきたのかよ」


「ええ、何日も前から楽しみにしていたのよ」


 清田は席を立ち、両手を広げた。


「ほら、サインをやるから泣くんじゃないぞ」


 その手が震えるのを感じたおばさんが、私を抱き締めて会場から出してくれたのを覚えている。


 母さんと父さんは、会うと喧嘩ばかりしていた。だから、まだ四歳か五歳だった私は喧嘩が終わるのだと思って、離婚が嬉しかった。


 いつでも母さんは優しかったし、普段から家に居なかった父と別れることは決して寂いことではなかった。離婚が自分のせいだとは思っていなかったのだ。


 あの日の父の言葉――夜中に泣いている母の姿。やっと私は、離婚が自分のせいだと知った。


 野球は中学に上がる前に辞めた。よく試合を見に来てくれた母は、続けて欲しいと言っていたが、本心だとは思えなかった。本当は母さんの為に辞めたかった。野球なんか見たくもないに決まっていたから。


         ※  

  

「どうしても、辞めちゃうの?」


 問い詰める母のセリフは全部、予想の範疇だった。練習通り、言葉はすらすらと出てきた。


「ピッチャーの坂本くん。あんまりサイン通りに投げてくれないんだもん」


「コントロールが悪いだけよ」


「ううん。男の子同士だったらバッテリーとか言って二人が評価されるんだろうけど、わたしは女の子だからね。勝っても誉められるのはピッチャーばっかり。つまらなくなっちゃって」


「でも、晴香がしまっていこー! って言うからチームが頑張れてる気がするけど。最初はほとんどの男の子、やる気無かったわ。酷い状況だったよね」


「あははは。言うだけならベンチで充分だもん」


 あの時、二つ年下の可愛い男の子にキャッチャーのポジションを引き継ぐことになった。彼は、同級生の弟だから気にはなっていた。すごく優秀な二人の兄がいて、ずっとオドオドしているイメージだった。そんな姿が自分と重なって見えたのかもしれない。


 ――更衣室のドアがノックされる。


 早朝の更衣室は暗闇に近かったが、中にいる人間をルシエルは知っていた。


《西野さんですね》


 やや背丈が低く可愛らしい少女は上履きを脱ぎながら言った。


「はい、ルシエル・ターミーさんですね」


《西野晴香さまを認証しました》


 平日と異なり生徒はジャージ姿で登校するため使用される更衣室は限定される。文化部系でも特に人の来ないフロアに彼女はいた。


 校内の駐車場に止まっているヴァンやサッカー部の男子達を注意深く見回してストーカーを探したが、怪しい人は居なかった。


「感激だわ、人造アンドロイドのルシエルさん。あなたの話は聞いているわ。まるっきりアンドロイドには見えない。今度ゆっくり話を聞いてみたいわ……呼吸してるの!?」


《はい。呼吸機能も備わっています。酸素を必要とはしていませんが、内部の温度制御に役立ちます》


「まばたきや、小刻みな動きもあるのね。脈拍があるの?」


《はい。エネルギー循環は油圧動力の調整や、潤滑剤の精製に使われます……聞かれたのは始めてです。エネルギー工学に興味がおありですか》


「意外だわ。貴方って、何だか人間にそっくりで……温かい感じがする」


 彼女を作った父親。いいえ、父親はいない。でも科学者は惜しみない努力をしたのではないかと感じた。彼女を見れば科学者がどんな人間なのか分かるかもしれない。


 同じだと思った。


 わたしには父親という自分を形成する物の一部が欠如している。語り継がれるような自身のルーツが無いのだ。でも、しっかりとわたしを見れば、どういう人間か分かってしまう。わたしの中の冷たくて真っ暗な何か。


《ありがとうございます。では、変装機能を使う前に、全身をスキャンさせていただくので洋服を脱いでください。すべて》


「えっ、全部ですか!?」


《はい。指紋や網膜、声紋も採りますので急いでください》


「あの、ちょっ、えと。そのデータっていうか、誰かに見られたりしませんか?」


《勿論、見られます。見せるための変装です》


「違うなぁ。私の体を見られちゃいますよね。その、胸とかお尻とか」


《勿論、見られます。まずワタシに》


「あん、もう。そういう意味じゃなくて、わたしに変装したルシエルさんの体とか、他の人に見られたりはしませんか?」


《勿論、見られます》


「いやっ、もう! 裸は困りますぅ」


《乳房や、臀部は見られないように努めますが約束は出来ません。西野さんの要請でデータは何時でも消去出来ます》


「わ、分かりました。なら、お願いします」 


 彼女はゆっくりとジャージを脱いだ。十分後にはルシエル・ターミーは完璧な西野ターミーに変装を遂げた。用意してもらったのは綺麗な服だった。伸縮性のある黒いブラウスと白いスカート。


「よくよく考えたら、全部脱ぐことは無かったんじゃないですかね。ルシエルさん」


《リアリティーです》


「はぁ。誰に似たのか想像はつきます」


《では、私は悟士さまと新都心デートへ向かいます。西野さんは一人で目立たないよう下を向いてお帰りください。もっと背中を丸めて、膝を開いて貰えませんか》


「……なんか、その言い方は引っ掛かりますね。別に羨ましくないんですけど」


《羨ましいという感情は、よく理解出来ません。嫉妬という感覚ですか?》


「………」


 冷たくて真っ暗な何かを感じた。

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