第30話 マドンナのメモ帳
ルシエルが西野さんから借りた洋服は、河本・ターミーのおかげで二度と着れないほど伸びてしまったかと思ったが、そんなことはなかった。
ストレッチ素材の普及は、非常に興味深い。
ポリウレタン繊維という想像以上にナイーブな素材が安定した性能をどこまで保持し続けることが可能なのか。
輪ゴムを何年か放置しておくと、ボロボロになって崩れていくのと同じように、西野さんのこの服も部分的な伸縮性を失い、ある日突然、ボロボロと崩れてしまうのではないだろうか。
ダメージ・ジーンズが持てはやされる近代のファッションとは違った形の新しい崩れファッションを想像してしまう。
いや、正確には西野さんの服が破れるのを想像してしまうだけである。彼女の胸の部分などは特に伸縮性を要する部分なので劣化も早いに違いない。
そう考えると、もっとはやく世界中のポリウレタンに寿命が来て欲しいと願う男子は莫大な数になるのではないかと考えてしまう。
人類のささやかな希望が勝るか、化学技術の発展が勝るか、この戦いは非常に興味深い戦いであると言えよう。
などと、どうでもいい未来を考えながらルシエル・ターミー服を整えていたら、ちいさいメモ帳を見つけてしまった。
万が一、人に見られたくないものだったり、見てはいけないことが書いてあると大変なので……やはり見ておかねばなるまい。まったく世話が焼ける女だ。
「……こ、こ、これは」
『あ行』
相澤くんはサッカーが好き。浦和以外のチームの話をすると、うざがられる。竹田くんや富田くん、スポーツは上手いのに真面目じゃないひとは嫌い。下手でも真面目にやる人が好きみたい。
相原さんは、弟が大好きだから弟を誉めると喜ぶ。趣味で写真を撮ってるけど自分が撮られるのは嫌い。確認しないで撮るとぶちキレる。
相田さんは、頭のいい子と友達になりたいみたい。テストの点を聞いてきても、答えたらダメ。自分より良くても悪くても上手くいかない。相田さんと同じ点数を言うしかない。無理ゲー。スマホ禁止にされてる時は機嫌悪い。
井上くんは音楽が好き。パンクロックとかインディーズ系、カラオケに一人で行って練習してるけど流行りの曲は産業ロックと言って馬鹿にしてる。ミーハーな細井くんや高野さんとは好みが合わないらしい。とにかくテンポが速くて叫ぶやつが好き。
井川さんの両親はPTA、成績を伸ばすために塾を三つも掛け持ちしてる。いつも寝不足で血糖値が低いらしい。アメをあげて、頑張ってるねというと喜ぶ。私も大変なの~みたいな話はうざがられる。
飯田くんは八百屋が――……
俺はハンマーで頭を叩きつけられたような衝撃を受けた。
なんて――すごく――これは……。
「こ、これは…何て、くだらないんだっ」
生徒達の攻略方法がびっしりと何ページにも渡って書き込まれている。
目につくフレーズは『うざがられる』だ。西野晴香は、単純に好かれていたわけでは無かったようだ。
モテるというよりも嫌われないように努めて冷静な分析をしている。根底にあるのは対人恐怖症だろうか?
俺や河本と交流しなかったのは同類だからかもしれない。何か異物を抱えた者どうしという意味で。俺は彼女を誤解していたのかもしれない。
西野フリークスなんて言って彼女のファンを馬鹿にしていたけれど、彼女自身が熱心に、ひたむきに努力を重ねてきていたのだ。
一人一人と心から向き合うこと。どのグループでは、誰が孤立しているか、誰が誰を傷つけるのか。そうだ、俺らは世界に一つだけの花なんだ。ナンバーワンになんか、ならなくていい。
その姿勢は簡単には真似の出来ない真っ直ぐで尊いものだ。こうやって「徳」を積むことに努力を惜しまない人間は、極めて少ない。だから自然と、相談事にいきたくなり信頼を集めるのだろう。
――などと、簡単に人を肯定的に捉える俺ではない。規定の概念が俺に通用すると思うなよ。何だよ「徳」って。俺は成績ナンバーワンだからオンリーワンも兼ねている。
どうあれ、西野晴香。きさまの恋人ぶりは立派だが、変人ぶりは更に立派だ。
パラパラとメモ帳をめくると、河本叡知の名前が目に付いた。
『河本はガラパゴス諸島にだけ生息する希少な生き物。無害なオタク』
やはり河本には安定の塩対応だな。こんな機密文書でなければ、ざまあと言ってやるのだが一人で楽しむしかないのが残念である。
なんとあのクソ兄貴、桐畑篤士があるではないか。どれどれ……。
『全国統一模試でトップを取るほどの天才。でも過去のトラウマで機械音痴というのは致命的。兄弟仲は超悪く、人を見下す最低男。彼を理解するのは望遠鏡で火星探査機を見つけるぐらい難しいと言われている』
驚いた、完璧な評価じゃないか。観察眼ありすぎではないかい。
桐畑悟士は……俺のもあるのか? お前はポケモン探偵か、西野晴香よ。
『頭・運動、非常に良い。友達は河本くん。恐怖心が欠如って何?』
たった一行だけかよ。ちょっと好きだったのに。いや、かなり好きだった時代もあったが、もう過去の女に認定してやる。
誰もが好きになるとは思うなよ。俺は絶対に好きにならないし彼女に優しくしてやる義理も無い。
桐畑崇士よ、我が弟にも惨めで辛辣な苦言を呈することを期待しようではないか。
『すごく可愛い。なのに茶髪にしてから声を掛けづらい。無理に乱暴なふりをしてる。最近兄弟仲が良くなったみたいだけど、あんな家庭だったらどの才能を伸ばしていいのか分からないよね。自分の好きなものを見つけてほしい。一緒にキャッチボールしてたころは最高に楽しかった。急に別人になっちゃったみたい。ううん、大人になったんだ。成長してる。背がのびてるから、まだまだ高くなる。なんでも、やれば出来る。優しいから誰とでも友達になれる』
「なっ……なっ……なんだって! 可愛いって何だよ」
俺は叫んでいた。実際に声をあげてしまっていた。確かに、俺の弟は可愛い。昔から可愛かったから知っている。
だが……なぜ、なぜ貴様がそれを知っている? 俺しか知らないと思っていたのに。
《どうかなさいましたか。悟士さま》
「どうかなさいましたか? 桐畑さま」
俺は慌ててメモをポケットにしまった。デブと茶髪という異色の組み合わせが並んでいる。
河本と弟の崇士である。ルシエルの音声に合わせて調子に乗って聞いてきたのは河本だった。
「いいやぁあぁ…どうもぉしないけどぉ。尋問する気か?」
「……い、いや。しないけど」
「じゃ、なんだ」
「何だって、待ち合わせていたろ? そしたらメモ帳に向かってツッコミいれてる君がいたから……」
「やっぱり、尋問する気だろ」
「そうだよっ、何で分かったんだ?」
「……冗談はやめろ」
俺達は喫茶店の前で待ち合わせていた。西野さんの母親が経営している小さな喫茶店だ。昼下がりの住宅街にポツンとあるオアシス。蝉の音を除けば不安になるほど静かな場所だ。
だがスイーツやベーグルとかパスタとか、お洒落で甘い女の世界がここにはある。さて、見せてもらおうか。女の世界を。
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