第25話 兄弟の確執
息があがり掴み合いになったまま、俺達は見合っていた。流れ落ちた血が左目に入って、視界は霞み、耳鳴りもしていた。
不思議と頭はすっきりしていた。溢れだしたアドレナリンのせいか、俺と兄貴の声だけがはっきりと聞こえた。
「……パニック障害は自分で克服した。兄貴のやったことは、ただの自己満足だ。親の愛情を独占するのに俺が邪魔だっただけだ」
「はっ、分かってるじゃないか。お前は五歳になっても乳離れ出来なかった究極の甘えん坊だった。母さんの愛情を独占していたのは誰だって? 覚えてないのか」
「も、もちろん覚えてるさっ!」
それは――思い出したくもない、地獄の思い出。ずっと無かったことにしていた黒い歴史の第一章だった。俺と兄貴がいがみ合ってきた発端にある出来事。
ついにパンドラの箱は開かれた。ずっと封印され続けていた記憶の扉が開かれ、最後の審判がくだされるのだ。
※
あの日、珍しく母さんの客がうちに来ていた。仕事の引き継ぎに打ち合わせも兼ねていて、同僚の女性と取引先の偉そうな男達が家にいた。ゴツい顔をして高そうなスーツを着た重役たちだ。
屋敷の玄関ホールには材木が並べられ、見たことのない機械が並んでいた。同僚らしいスーツ姿の女性が母さんと話している。
「ごめんなさい。やっぱり貴方から直接聞きたいってクライアントが後をたたなくて」
「ううん、本当はうちの旦那がやらなきゃならない仕事なんだから、迷惑をかけているのはうちのほうよ」
「……そう言って貰えると助かるわ」
母さんは円形のステージに立ち、マイクを持って小難しい話していた。すごく丁寧で優しい声だった。
原子力発電や化石燃料は熱を生み環境を汚染する。人類には生態系や環境に影響を及ぼさないエネルギーが必要らしい。
「これは樹木を燃やすことなくエネルギーを生み出す装置です。これからの我々の課題は生態系を乱さず、身近な資源からエネルギーを確保していくこと、これが重要になります。無限に復元すると信じられていた地球の環境は私たちの想像以上に繊細で、回復するのには何百年もかかってしまうのです。では、バイオテクノロジーがどのように……」
母さんの話は長くて退屈だった。しかめ面をしたスーツ達に早く帰ってもらいたかった。
「ママ、おっぱいの時間だけど」
ホールが、静まりかえる。五歳の俺は母さんのワンピースを掴んでいた。重役たちは一体何が起きているのか分からないという顔をしていた。
「ご、ごめんなさい。ちょっと待っていて」
「ダメだよ! おっぱいの時間だ」
グレーのスーツを着たクライアントはざわついていた。まさか再生エネルギーより不思議なモノが見られるとは思っていなかったに違いない。
母さんは俺の目線にしゃがんで頭を撫でてくれた。少しだけ困った顔をしていた。どこからか、ヤジが飛んだ。
「あんな大きな子がまだ乳離れしていないのか? アナログ時計が読める年の子が」
「……は、はい、うちは自然体ですので」
母さんは、優しく笑ってクライアントに向き直った。可愛い息子を宣伝に使えると思ったのかもしれない。まだ話を続けようとする、その姿はまさにチャレンジャーだった。
「……この自然から得られる樹木の成長速度を軽量したデータをご覧ください。消費行動がそれを下回ることが出来れば完全自給自足のエネルギーサイクルが産まれます。この研究の素晴らしいところは、遠い未来の子供たちに今のままの環境を残してあげられることです。私たちが研究して分かってきたのは……」
「ママ! ママ、おっぱいの時間だよっ」
甲高い俺の声にマイクが反響する。
「待ってね。いますぐだから、少し向こうで見ていてくれない?」
「ダメに決まってる。ワガママを言うなら、抵抗させてもらうよ。おっぱい! おっぱい!」
ヒソヒソと話すクライアントの声がした。
「何だ、ありゃ? ちょっと気持ち悪いよな。未来の子供たちが胸糞悪いガキにしか思えない」
「ああ、子供を甘やかす研究なんか要らない」
バカにした笑い、呆れた顔、怒った顔、冷たい言葉。そしておっぱいコール。
気持ち悪い? ぼくは気持ち悪い?
母さんも、そう思ってるのかな
みんな、みんな気持ち悪いって思ってるの? だって時間は守らなきゃいけないよ。ぼくはまだ小さいから、食事と排尿排便をコントロールすることは最優先事項なんだよ。
それを何だ。子供のぼくが子供らしくないから気持ち悪いなんて。大人は大人気なくて気持ち悪いと言ってやろうか。そうだ、子供らしく泣いてやればいいか。
「うおおおぉぉん。うああぁぁぁん!」
「………」
重役たちは、口をあけて俺を見ていた。涙をながすでもなく、表情ひとつ変えずに咆哮をあげる俺の姿を。まるで未知の生物と遭遇した探検隊のように。
※
「いやだっ! もう思い出したくない」
俺は頭を抱えてのけ反るように、引き下がった。自分は、なんて愚かで卑しい存在なのか。この世界から消えてしまいたい。
「いや、お前は母さんの商談をぶち壊した。思い出せ! そして母さんも俺も親父も、いつまでもいつまでも乳離れしねぇ、お前を気持ち悪いお荷物だと思っていたんだ!」
「………」
完全に勝負がついたかに見えた。末子のたかしは封印を解いたのは間違いだと思った。河本も、俺の過去をそっとしてあげたいと神に願った。神がオタクの願いを聞いたためしはないが。
だが俺はくじけなかった。最後の力を振り絞り立ち上がった。
「……ああ、知っていたよ。あの時に戻れるなら自分をぶん殴ってやりたいよ。俺は母さんを苦しめた。でも、どんなに研究しても時間を巻き戻すことは出来ないんだよ」
「はっ! お前は、そのことを後悔してパニック障害になったんだ。だから俺が、お前を乳離れさせてやったように、お前を痛めつけて障害も治してやったんだろうが!」
「ち、違う……違うぞ」
俺は兄貴に頭突きを喰らわせた。兄貴は一歩も引かなかった。掴みあったまま、じりじりと頭部を押し付け合った。
「あ、兄貴が、兄貴が材木に火を付けて火事になったのが原因だ。覚えてないのか?」
今度は長男の顔色が変わった。目を見開き、固まったまま、じっとしていた。
「あの日、兄貴は母さんを手伝おうとして研究中の機器をいじったんだ、無茶苦茶に。そして、ホールに積んであった材木に引火した。俺はあの時の恐怖で……炎と煙に包まれて、パニック障害を負ったんだ。母さんの商談をぶち壊したのは、兄貴だ!」
今度は兄貴が頭を抱えて、のけ反った。真っ青な顔をして叫んだ。
「……う、うるせぇ! 思い出したくもない。あれは事故だった。俺はたったの七歳だったんだぞ。何も悪くないっ」
「だったら俺の乳離れが遅かったのだって、悪くないだろ」
「……お前のは、気持ち悪いっ!」
「母さんは国際的な人だからちゃんと知っていたんだよ! 世界の平均卒乳時期は四・二歳だ。日本人は、ミルクメーカーや離乳食メーカーが広めた情報に踊らされているだけなんだ。経済優先、金儲け主義に振り回されているんだ。免疫力の面でも授乳の効果は認められている。オーストリアには六歳でも授乳している子供はいくらでもいるんだあぁ!!」
「くだらねぇこと調べてるんじゃなえよ! 何を息巻いていやがる。その母乳は俺が飲むべきものだったんじゃないのか? お前は自分が、周りの人間に迷惑をかけて甘えていることに何一つ感謝していない。権利を主張する前に、立場を考えるべきじゃないのか」
肉体的な喧嘩が落ち着いて精神的な戦いになっていた。ラップバトルのように二人は叫びあっていた。
たかしは、せっかく
「……河本。もしかして、あの二人が喧嘩している理由は幼少期の母乳の奪い合いなのかな」
「ぼっ……母乳? 象徴とかじゃなくて」
「だって、単純に母乳を返せって聞こえるぜ、あつ兄のはなし」
「でもそんな昔のこと、誰が気にするんだ? 幼少期の記憶ってあんなに鮮明じゃないでしょ、ふつー。もう全部忘れていいんじゃないかと思えるけど」
「まあ、オレと違って二人とも成績トップの天才だからな。頭が良すぎるのも考え物だってことかもね」
「……うん、悲しくなるほどね」
「オレ、バカでよかったよ。あんなふうに争うのは嫌だ。もう不良もやめるよ」
「成長したね、たかしくん」
「実際に成長してみると、バカバカしいけどね」
その時――懐かしい声が響いた。
「ケンカは終わりにしなさい。あなたたちの好きなアイス、用意してあるわよ」
顔中を腫らして、掴み合っていた俺と兄貴は玄関を見た。
そこには、母さんと親父が立っていた。
俺も、兄貴も、たかしも、河本も泣いていた。血で分からないかもしれないが、俺は、みじめな兄弟喧嘩を泣きながら、いつまでも、いつまでも続けていた――最後の大喧嘩を。
俺は、俺達は病気になった母さんが、死んでしまうかもしれない母さんが、戻ってこないかもしれない母さんが、そう言って止めてくれるのを待っていた。
――たった、それだけだったんだ。
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