第6話 横浜から小田原
翌朝、高校の担任に電話を繋いでもらった。母親の病院が変わったので、京都まで家族で行くことになったとだけ伝える。
担当教師は勝手に容態が悪くなったと解釈したようで、何も言わずに暫くの間、休むことを承認してくれた。弟の教師も同様に済ませてやった。何も嘘はついていない。
ターミーの背中が割れて荷台が出来ていた。
「フル充電したら、荷物も十キロまで持ってくれるんだぜ。これで移動が断然楽になった」
「オレが、コンセントを出してやったんだ。オレのおかげじゃねーか!」
「ああ、たかしのおかげだ」
なんとなく兄弟らしい会話をしてはいるが決して仲がいいとは言えない。
「十キロオーバーした場合は、てめえの荷物はてめえで持てよ」
「はあ? たった今オレのおかげっつったろーが」
「寝ぼけてんのか、たかし。お前のスポーツバックが無駄にデカイって言ってんだよ。何でもかんでも持ってきてんじゃねーよ」
「あ、あつし兄は金持ってるから、何でも買えるからいいかもしんないけどさ、着替えも三つは必要だしさ、それに最初はトラックで行くつもりだったしさ」
弟は声を震わせながらも、まっさきにスポーツバックを乗せ、その上から俺と兄貴がリュックサックを置いた。たかしが不良とつるんだのは真面目すぎる性格の反動かもしれない。
「十キロ越えた? ターミー」
《九、九キロです》
「おおっ、セーフ! セーフだよ、あつ兄」
「ふん、良かったな」
※
チェックアウトの十時から、五キロ先の横浜までは一時間かからなかった。繁華街で肉まんを買って弟と食べた。兄貴はさっさと歩けと、俺達のケツを叩き、偉そうなウンチクを垂れていた。
「人間の筋肉の三分の二は下半身に集中しているのは、知っているか? 歩くってのは人間にとって一番大事な行動なんだ。歩くことで血液が循環するだろ? ポンプみたいに血液が体中にいきわたるってわけだ。頭の血行もよくなるし健康にもいい。特に社会人になったら一日中、パソコンやってるか、座って商談なんかしているから、みんな成人病になる。毎日こんだけの距離を歩くっていうのは、動物としては当たり前のことだ。わかるか? さとし」
「……動物じゃないターミーが一番順調に歩いてるけどな。それより社会人さまは、一か月も休んで平気なのかよ」
そのことは話すな、と兄貴の目が言っていた。まだ四月だ。入社して間もない兄貴が一か月も会社を休むのは、簡単じゃない。
まさかと思うが、やっとの思いで入社した商社を辞めたんじゃないだろうか? と俺は思った。
「応援してくれてるよ。会社の連中も彼女もな」
「え? あつ兄って彼女いんの?」たかしが言った。こういうことに敏感な年ごろなのだ。
「いつの間に、彼女つくったんだよ」
「ふっ……どうでもいいだろ」
「どうやって作ったの? 何関係の人」
「うるせえな。まあ、音楽関係のサークルには可愛い女子がわんさかいる。お勧めだな」
「まじかよ! 楽器やっときゃよかった。今からでもやっかな……何の楽器がやるとモテるかな?」
「何をやるかじゃない。誰とやるかだ」
「ひゅう~~!! オレのクラリネットを吹いて欲しいぜ」
「くくっく、お前バカだな」
「あはははは」
どうでもいい――全くもって。調子に乗ってナチュラルハイになっている兄貴は饒舌になっていたが、俺は騙されない。ヤンキー気取りの弟も、見てはいられない。クソ喰らえと思っている。
しかし退屈でもある。何処に行ってもこの国の景色は変わらないので、まったく進んでいる気がしない。
たまに立派な家があると芝生を眺めて横になったら気持ちよさそうだと思う程度である。ラジオか音楽でも持ってくればよかった。
「美味いものを食おう。それくらいしか楽しみがねえ」
「あ、ああ……」
兄貴の言葉に少し驚いた。美味いものを食おうは、クソ喰らえの反対語だと思った。何度もうまい食事を一緒に摂り続ければ、腐れはてた人間関係も回復するのだろうかと考えた。
――そんなことはないな。
「何食べる? やっぱ中華かな。何時に飯?」
「ガッつくな。卑しいぞ、たかし」
「飯と休憩はちゃんと、とったほうが効率いいだろ? ターミー、このへんで美味しいもの。検索して」
《はい。市内のご当地グルメを検索します……》
ついでに言うと、エネルギー効率をよくするため、ターミーの中でも電力を循環させている。電力を使って歩きながら発電しているそうだ。
同時に平らな頭からは、ソーラー発電もしているとう優れもの。連続六十時間、あるいはそれ以上の活動を可能にしていると本人が言っていた。
この辺の技術が機密事項になっているので、俺達は一緒に歩行実験をさせられているということらしい。
とは言っても電動自動車はフル充電で三百キロ近く走行可能であることを考えれば、たいした技術でも無いように思える。
※
保土ヶ谷から、戸塚、藤沢に着くと全身が悲鳴をあげた。
すでに五十キロ進んだことになる。俺達の口数は少なくなったが、疲労感や達成感を得ればおのずと会話がしたくなるようだ。
兄弟でなければ、自己中とオタクと不良に接点はない。単に退屈だという気持ちも含めて。
「あのバカ兄貴に彼女が出来たってことはさ、外ではあそこまでバカ兄貴じゃないってことかな。だって、我がままで偉そうにしてる兄貴みたいのと真剣に付き合う女なんていないだろ?」
「聞こえてるぞ、たかし。殴られてぇのか」
「ああん? きっとドMな彼女なんだろうな」
「お前らの頭にはSかMしかねぇのかよ。ったく」
「他にあんの?」
「俺に聞いてるのか」
末の弟は長男に相手にされなくなったのか俺に寄ってきた。
「一番大事なのがあるだろう。Nだ――つまりノーマル。だがNが無ければSもMも成立しないという訳ではないから、世間であまり話題にならない。もしかするとNの人口比率が一番少ないのかもかもしれない。磁石と同じようにS寄り、M寄りといった部分が大半を占めていて中間のNは、辛うじて存在が確認出来るというレベルなんじゃないかと思う。平均的な日本人なんて言い方するのも同じだろうな。平均値を割り出して確認する作業がビジネスで取りはやされているのは起業家に踊らされているだけで、実際の平均値に存在する人口は極めて少ないし、存在を確認するのは非常に難しいだろう。そもそもNであるという条件はなんだと思う?」
「SでもMでもないってことかな?」
「この場合は消去法ではなく、定義を述べなくてはならないが、お前の意見は間違っていない。恐らく、Nの人間と言えるからにはSやMに対して否定的な感情を持ち合わせていなければならないからだ。自分はサディストのように残酷なことは嫌いだ、という考えと同時にマゾヒストに目覚める可能性は完全に消えているという状況が必要になる。Nと公言するにはSに対する羞恥心と、Mに対する嫌悪感という全く別の感情を無意識レベルで保持し続けなければならないわけだ。かなり特殊な存在と言えるかもしれない」
「オタクだな、やっぱ。何言ってるか分かんねぇや」
「そういうセリフは心の中だけで言え。俺はノーマルだ」
「さと兄が特殊な人間だったとは」
「失礼だな。俺は誰よりも特殊だ」
「………。でも、兄貴に身内の人間がいたらさ、きっと変わるような気がするんだよね」
「ふふん、本当に彼女がいるのか怪しいもんだけどな」
「ぷっ、やっぱりさと兄も疑ってたのか」
「当然だろ? あの兄貴だぞ」
身体の、あちこちに痛みを感じていたが、まだ心地のいい疲れと言えた。かかと、つま先、ふくらはぎ、ひざ、すね、腰から背中まで痛かった。
〝ひざは、すねより近い〟というアリストテレスの言葉は、〝血は水より濃い〟という意味に翻訳されたらしい。更に〝慈愛は身内から育つ〟という意味になったそうだ。どう考えても都合よく訳し過ぎだ。
四日目。茅ヶ崎から、小田原まで歩いて地元の銭湯に入った。その日は、誰も歩きたいとは思わなかった。ここまで順調に歩き続けた自分たちを労うことにして、休息日になった。
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