第9話 静寂の鍛冶屋

 ある閑静な住宅地にコンクリートの堀込みガレージがある。真上の建物から来た男がガレージのシャッターを開く。男はクルマを街路へ引き出すと空いたスペースの中央に赤い愛機を据えた。


 床に分厚い毛布が広げられる。ツールワゴンが車体に引き寄せられる。電源タップも配置され照明が機体を照らす。準備が整った。メスが入る。


 シート、サイドカウル、タンク、フロントサイドカウル、フロントアッパーカウルの順に外され、それらはビスと共に整然と毛布の上に並べられていく。


 先ずレギュレーターが交換される。メーカー純正のレギュレーターは残念ながら現代の要求を満たさない。そこで最新のMOS-FETレギュレーターが用意された。既にフレームを避けるよう成形され、やや草臥くたびれたヒューズボックスカバーと共にシルバーに塗装されている。勿論コネクターの互換性も確保しトラスネジは長さを合わせてある。装着に時間はかからない。まるで最初から、そこにあったかのような出来に男は目を細める。


 次にプラグコードが引き抜かれ点火コイルも取り除かれる。使わなくなる部品は白いマジックでマーキングされ淀むことなくに保管箱へと移動される。


 特殊な形状のプラグがエンジンから出される。全周に渡って焼け具合を詳細に観察されたプラグはターミナルを外される。他にはなにもされず、またエンジンに挿入される。一連の動作は四回、繰り返された。


 新たなプラグキャップのような物が並べられる。男はその一本をカムカバーに差し込み慎重に合わない部分を切り取っていく。ぴったりとはまり動かないことを確認すると残り三本も同様に加工して取り付けた。


 続いて用意されたパッケージは特殊な防水コネクターと配線を保護するコルゲートチューブ、ケーブル、端子、熱収縮チューブだ。男はそれらを器用に組み合わせメーカー純正部品の如き二本のハーネスを作り上げた。


 一本が一番と四番、残る一本は二番と三番のプラグキャップのような物に接続される。プラグキャップのような物、それはハヤブサのダイレクトイグニッションコイルだった。


 ハーネスの行く先がチェックされる。間違いなく0.5オームの抵抗を介して昇圧を目的としたスパークブースターとセッティング可能なマルチスパークデジタルイグナイターに繋がっている。


 ガレージのセキュリティカメラにサブタンクが吊される。サブタンクとは一時的にガソリンを直接供給するプラスチック容器だ。整備を知った者には点滴と言った方が通りが良いかも知れない。


 キャブにガスが送られるとスタータースイッチが押された。男はイグニッションが目論見もくろみ通り作動することを確認するとすぐに火を落とした。場所が場所なので騒音には気を使う。必要時以外は点火禁止だ。


 組んだシステムに問題が無いと判断したのだろう。男は残る作業に入る。


 ヘッド上にブルーのゴミ袋が被せられる。エンジン右側のボルトが油温センサーへと換わる。そしてサーモスタット下の水温警告スイッチは社外水温センサーになった。スイッチを取り外した際に流れ出たクーラントがゴミ袋を伝い落下する。


 カウル内側に位置する見易い場所にメーターが設置される。男は目立つメーターを好まない。外からは分からず自分だけが見えるレイアウトに拘る。美意識に妥協はない。


 メーターとセンサーを結ぶ配線がてきぱきと処理されていく。保護にはスパイラルチューブを使用する。ここでダイレクトイグニッションハーネスもタイラップを用い固定される。男は一度キーを捻りメーターの点灯を見届けるとラジエータキャップ口からセンサー装着で抜けた分の冷却水を補充した。


 再びエンジンに火が入る。ご近所様には申し訳ないが冷却経路からエアを抜かねばならない。ついでにレギュレーターが吐き出す電圧も見る。14.3V、上々だ。


 水温計の数字が上昇する。七十三度に達するとアイドリングが切られた。サーモスタットは開いているはずだ。補充口の液面レベルに低下は見られない。キャップが閉じられる。リザーバータンクに適量の補充が施される。男はセルを回し控えめなレーシングを二回行うと即座にエンジンを停止した。


 キャップがまた外される。冷却水の減少はない。閉じる。ゴミ袋が水をこぼさないよう、丁寧に取り除かれる。床面に敷かれたブルーの袋達も回収される。


 完了が近付くと男は琺瑯のケトルにミネラルウォーターを入れコンロにかけた。


 男は今一度、触れた各部を入念に点検し、外した時とは逆の順序で外装を着せていく。縫合だ。


 一歩引き愛機を一周する男。なにか間違いを犯していれば必ずピンと来る。見慣れた姿に違和感はない。


 切り落とされた配線材などを集める。洗車用に設置された水道で手を洗う。


 湯が沸いた。豆を挽く。ドリッパーから滴り落ちる褐色の液体が薫る。男はマン島のコースが描かれたマグカップを傾けつつ研いだやいばの輝きに曇がないか見詰める。


 照明、電源、ツールワゴン、毛布が片付けられる。男は壁面の安っぽいクォーツで時間を知ると一旦、家屋へ引き上げた。


 作業着を脱ぎ捨てライディングスーツ姿となった男がガレージへ戻る。マシンをガレージ外へ移動する。クルマを元の空間へ収納しシャッターを閉じる。


 ヘルメットとグローブを身に着けると男は表通りまでの数十メートル、黙々と単車を押していく。先ほどエア抜きを行ったところだ。これ以上、迷惑はかけられない。


 路側帯に付けられた小刀に鼓動を返す男。短い暖気中、三度のチェックが入る。電気系統に接触不良、リークはないか。配線に無理なテンションはかかっていないか。オイル漏れ、水漏れはないか。


 オーケー。乗車する。咆哮を上げないマルチが去っていった。





(注意) 実際にこのような点火系を組むと問題を起こします。彼ものちに気付くのですが、それはまた別の話。

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