20. あっ
バルブロの用意した煙幕は、予想以上に優秀だった。
街路を満たし、速やかに立ちのぼり、建造物を越えると広がることをやめ、一定の高さでとどまり続けている。
まるでこちらの意図を見透かしているようだ――。
そんな不思議な感覚を覚えながら、シンシャは足早に建物の陰へと身を潜めた。
今は、正面の広場や、迂回する街路に用向きはない。
いかにも裏通りといった
となり合う建物の壁を交互に蹴り上げ、七階分の高さをひと息に跳び上がる。目的は屋上の先にある。煙幕を突き抜け、身をひるがえし、風をはらんだ青い
――いた。
東南と、南の建物に一組ずつ。
他の兵士とは違い、景色に溶け込むような妙な柄の布をかぶっている。
だが、狙撃手の存在を、たしかに屋根の上に確認できた。
「思ったより少ない。
うなずいたものの、どちらの狙撃手も二人一組でいる点が気になった。
もしかして、一人は見張り役ということだろうか?
それならば不用意に近づくことはうまくない。
自分の役目は敵の頭上を奇襲で押さえ、広場のロスペインに続いて、二人目の
シンシャは、街路を満たす煙幕の流れを目で追い、顔を上げた。
それからもう一度、二組の狙撃手を均等にながめた。
いったん屋根を降りて、より近い建物を登り直すべきだろうか?
だが、地上では他の兵に出くわす可能性も低くない。
いずれにしても時間はあまりかけられない。
考えていると、広場で大きな音がし、散っていく煙幕の隙間に赤い外套が現れた。
どうやら、ロスペインが先に動いたようだった。
「ごきげんよう。僕がアデル・ノクスだ。
ところで、今しがたシロアリを踏み潰した。
あまりに貧弱だったが、貴殿らの軍隊とやらはどこにいる?」
その口上に、思わずため息がもれた。
なんて見え透いた挑発だろうか。
「いったい、あれのどこが御主人様なんでしょうか。
まあ、囮になるなら真似る必要もありませんが」
しかし今回にかぎっては、ロスペインの演技がシュナイダーには適切であったらしい。
ほどなくして、撃ての怒号が飛び交い、ホテル前の広場は一瞬で戦場と化した。
「複雑です」
もはや気配を殺す必要もない。
全力で跳躍し、シンシャは屋根づたいに最短距離を移動した。
冬の冷気がごうごうと音を立てながら、露出した耳元を吹きすぎていく。
その風音と浮遊感が、跳躍の一瞬、眼下の世界をどこか遠い存在のように切り離している。
もしかしたら、私は今、高揚しているのかもしれない。
そう思った。
戦いのさなかに、そんなふうに感じることはこれまでなかった。
過去と今。昨日までの自分。
いったい何が違うのだろう。
漠然とした思いがよぎったが、今は集中すべきことが他にあった。
思考を打ち切り、シンシャはかがむようにして衝撃を逃がすと、狙撃手の背後に着地した。
踏みしめた瓦がわずかに砕け、音を立てた。
しかし、それ以上の笑い声が、広場では銃声とともに響いている。
「ははははは! なんだこの弾は。クリーニング屋らしく綿でも飛ばしているのか?
そんな攻撃で僕の障壁を破れると思うな。
僕を誰だと思っている。僕がアデル・ノクスだ!」
とりあえず名乗ればいいとロスペインは思っているのだろう。
息をつきながら、シンシャは兵士に近づいた。
彼らは今、広場の囮しか見ていない。
「なんなんだ、あいつは! この距離で50口径が効かないなんて」
「通常装備じゃ埒が明かない。本部にイェーガー隊の応援要請を――」
「なるほど。別働隊がいるのですね。強力な装備の」
シンシャが言うと、弾かれたように二人の兵士が振り返った。
むろん、振り返らせるために声をかけたのだ。
短く突きだした左の拳が、予想どおりに動いた男のあごを綺麗にとらえた。
男がふらついた。
その頭部を右手でつかみ、力任せに叩きつけた。
短いうめき声。それだけで男はぴくりとも動かなくなった。
視線を移すと、残ったもう一人、大型の銃をかまえていた男は腹ばいのまま固まっていた。
しぼり出すように彼は言った。
「貴様、どこから……」
「失礼。時間がないので」
当て身を入れ、シンシャは男が気絶したのを確認した。
それからすぐ、となりの屋根に飛び移った。
ロスペインはすでに、こちらの場所を把握しているらしい。
「アデル、ノクス!」
技名のように彼女が叫ぶと、広場を挟んだ反対側の建物から土煙が上がった。
「退避ィー! 退避しろ! 第三ポイントまで前線を下げる、負傷者を運べ!」
「はははは、無駄無駄ァ! おまえたちはみな我が覇道の
見よ、この錬金術的なジェノサイドを!」
ふたたび、悲鳴と爆発音がとどろいた。
突風に乗り、硝煙と血の匂いがこちらにも届いてくる。
「疑問なのですが」
歩きながら、自然とつぶやきがもれた。
二組目の兵士も、やはりこちらに気づいていない。
「あなた方は、どうしてあれを御主人様だと思えるのですか」
「な!? 誰だ、きさ――」
「アデル・ノクスです」
握りしめた拳が、見張り役の男のあごを砕いた。
先ほどと同じ経過だった。
ただ、今回は感情の分、余計な力が入っていたらしい。
八つ当たり気味の打ち込みが、男の体勢を大きく崩した。
よろめいた男は、そのまま屋根から転落した。
「あっ」
……これは、まずい。広場の敵に勘づかれてしまう。
焦りを覚え、シンシャは短い時間、逡巡した。
今からでも男を拾いに行くべきだろうか?
いや、落下した時点で男の回収に意味はない。
となれば、時間を巻きもどす魔法が必要ということになる。
ただし問題は、その時間逆行魔法の習得が、
しかし考えてみれば、そもそも私が魔術を習得できる日など来るのだろうか?
来ない気がするし、来ると言われても、その未来は私の想像をはるかに超えている。
よく分からない。
分からない上に、問題の論点が何度もすり替わっているような気さえしてくる。
いったい、どうすれば……。
必死に考えていると、思考が本筋にもどるより早く、敵が動いた。
腹ばいでいた狙撃手が身をひねり、振り向きざまにナイフで切りつけてきた。
腕を振りまわすだけの粗い一撃だった。
かわさずに踏み込み、男のひじを尻で受けた。勢いは殺さず、そのままガスマスクに掌底をたたき込んだ。
男の上体が弾けるようにのけぞる。だがそれも予測していた。
ナイフを持っていた男の腕が、上体の動きに合わせてもどってくる。
その腕をつかみ、屋根から落ちないようにしっかり支えた。
「がっ、あ……」
うめいた男の、ガスマスクのレンズは割れていた。
そこからのぞく男の目が、苦痛に歪みながらも、わずかに開きシンシャをにらんだ。
「不意打ちとは、卑怯な。アデル・ノクス」
「三人を相手に、数で攻めるのは卑怯ではないと言うのですか?
いずれにせよ、戦場で考慮することではありません」
答えたが、男は脱力し、すでに意識を失っていた。
束の間できた沈黙に、シンシャは何とはなしに、晴れ渡る青空をながめた。
耳をふさげば、平穏な朝に見える青空だった。
「さて。ひとまずはこれで」
不測の事態はあったものの、概ね奇襲は成功したといえるだろう。
次は、ロスペインの合図をここで待って……。
そう考えたとき、シンシャは気配を感じて、視線をさげた。
それから、ひどく落ちついた気分になった。
べつの言い方をすれば、諦めた、とも言えるかもしれない。
視線の先で、シュナイダーの兵士がこちらを見上げ、指をさしていた。
「……」
今度のシンシャは、あっ、などという間抜けな声は上げなかった。
かわりに、無意識に握ったままでいた左手から力が抜け、支えていた男の体が屋根から落ちた。
下から、わー、と悲鳴があった。
たしかに、目の前で八十キロ強の水風船が破裂し赤い液体をまき散らしたら、わーと叫ぶのも無理はない。
そして手元に銃器があれば、水風船の犯人を撃ちたくなるのも無理はない。
「撃て! やつを殺せ!」
紅白のツートンカラーになった兵士たちから、即座に怒りをはらんだ銃撃があった。
その銃弾をぎりぎりでかわし、ようやく我にもどったシンシャは屋根の死角にあわててさがった。
「敵だ、スナイパーがやられた。あの屋根にいる」
「人数は、一人か?」
そんな怒号にも似た応酬が、屋根の上まで響いてきた。
しかし、彼らの声はすぐに、的確な指示に形を変えたようでもあった。
分隊一つで建物を囲め。残りは前線で時間を稼ぐ。
迅速な判断は、門外漢のシンシャから見てもなかなか優秀なものに思えた。
ただ、彼らの注目がいまだロスペインに偏っているのは問題だった。
シュナイダーを分断するには、こちらの陽動がまだ足りない。
膝をつき、シンシャはポーチから金属の黒い筒を取り出した。
「予定とは違いますが、致し方ありません」
筒の両端を握り、それぞれを逆の方向にぐっとひねった。
三秒待って、広場の方へそれを投げた。
バルブロの焼夷弾は、起動の操作から十秒で発火する。残りは五秒。
「爆弾だ、
誰かが叫び、兵士たちの切迫した声がそれに重なった。
同時にシンシャは、胸中で「ゼロ」とつぶやいた。
瞬間、凄まじい爆音とともに、広場から巨大な火柱が立ちのぼった。
視界を覆うようにして現れたその業火は、屋根の端を建物ごと削り飛ばし、周囲の物体を引き込むように、風を起こした。
強すぎる炎は呼吸だけで肺を焼く。反射的に口を押さえたシンシャは、驚きで見開いていた目の表面が、じゅ、と音を立てるのを聞いた気がした。
鋭い痛みに目を閉じ、力を入れて、数秒待った。
空気を燃焼させる激しい音が、顔の間近で響いている。
その音が少しずつ弱まっていくのを、息を止め、じっと聞いていた。
10秒か20秒。感覚的には、それでも長すぎる時間が経った。
やがて目の痛みが薄れ、顔を炙るようにしていた熱がすっと消えたとき、シンシャはゆっくり目を開いた。
火柱はすでに、細いつむじ風のようになり消えかかっていた。
その
そこではじめて、シンシャは大きく息をついた。
「これが焼夷弾。恐ろしい道具です」
つぶやいた声が鮮明に聞こえたのは、銃撃がやんでいるためだろう。
気配を探りながら、崩れた屋根の端に寄った。
それから身を低くして、シンシャはそっと顔を出した。
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