第二章 「エルドラード、ラブコメ、宣戦布告」

09. おかえりなさいませ。お嬢様

      Ⅳ


 デッドシティには、いかなる場合でも戦闘が禁止されている場所が三つある。

 ピースホール、市庁舎、エルドラード。

 その三つ目、ホテル・エルドラードが、ロスペインの案内した目的地だった。


 ホテルのことを裸になれる場所と表現するロスペインの感覚は分からないが、安全な場所、と言い換えるならば、ホテル・エルドラードほどこの街で安全な場所はないのかもしれない。

 そう思えたのは、エルドラードの入り口に来たときだった。

 ロスペインが、おもむろに手首の鎖をはずしたのだ。


「何してんの……?」


 その鎖は爆弾にでもなるのだろうか。

 投げてホテルに押し入る気だろうか。

 僕は思ったが、ロスペインの返事は違っていた。


「ここでは武器を使わないから。使えないんじゃなくて、使わないのよ。敬意を払って、ここではみんなが掟に従うの」


 エルドラードは、淡いベージュの石壁を持つ美しい建物だった。

 バロック調のファサードを見上げ、正面玄関の階段をのぼると、鏡面に磨かれた黄金の扉が見えた。

 僕は肩越しに、小さくシンシャに呼びかけた。

 もう少しだからな――。

 ロスペインが歩み寄ると、ホテルの扉はひとりでに開いた。


 豪奢な調度品の並ぶ無人のロビーを抜け、受付に寄った。

 男が一人いた。

 蝶ネクタイを締め、髪をきっちり横分けにしている。

 だが真面目というよりは、どことなく優雅な雰囲気のある男だった。

 彼はシンシャを背負う僕にちらと視線を走らせたが、柔和な笑みを浮かべたままロスペインに言った。


「おかえりなさいませ。お嬢様」


 舌打ちが聞こえた。


「ここでは殺しが御法度だからといって、あまり調子に乗らないことね、バルブロ。外出のときは私の影におびえなさい」

「失礼いたしました。いらっしゃいませ、ロスペイン様。ご用命はなんでございましょう」


 ぶっきらぼうにロスペインは言った。


「3泊、3人。それとカール」

「申し訳ございませんが、あいにく支配人は不在でございます」

「あっそ。じゃあ葉巻も買うわ」


 ロスペインは金貨を二枚、大理石の受付に置いた。

 見たことのない金貨だった。少なくともデッドシティの通貨ではない。


「818号室です」


 バルブロは告げて、鍵と葉巻を受付に置いた。それから言った。


「支配人には、ジャッジの件でご相談を?」

「教えない。あなたには関係のないことだし」


 取るものを取り、ロスペインはそっけなく背を向けた。

 その背をおだやかな声が追いかけた。


「昔も今も、あなたをお迎えできることは光栄です。ロスペイン様」


 ロスペインはあからさまに不快そうな顔をした。

 それはめずらしい反応に思えた。

 彼女はいつも不敵に笑っているような印象がある。

 だが、一歩ひいたところで二人のやりとりを見ていると、分かる気もした。

 ロスペインのあの笑みは受付の男に似ている。二人は古い知人なのかもしれない。そう思った。


 蛇腹じゃばら式の扉をあけて、エレベーターに乗った。

 8階を押そうとすると、ロスペインが地階のボタンを先に押した。


「あれ。上じゃないのか? 818って言ってたし」

「部屋はあとよ。まずはシンシャをどうにかしないと」


 僕はホテルの安全な部屋で解呪を行うものだと思っていた。

 しかしロスペインの考えは違ったらしい。

 ハンドルを倒すと、エレベーターが下降を始めた。音もなく動く箱が、ほどなくして地階に到達した。


 地下は真っ暗だった。

 照明がないだけでなく、何もない。

 深い闇の向こうに、がらんどうの空間だけが広がっている。


「はい。これ」


 ふいに、ロスペインが葉巻をさしだした。


「はい、って。僕はそういうの吸わないんだけど」

「いいから」


 断ろうと開きかけた口に、葉巻が無理やりさし込まれた。

 ロスペインの指先に火が灯り、その火が葉巻の先に近づいた。


「回して」

「も?」

「回すのよ。火がつかないでしょ。吸う必要はないわ」


 難しいことを言う。

 というより、シンシャをおぶっている状態では不可能だった。

 口をもごもごさせていると、「どんくさい男ね」と理不尽なことを言ってロスペインが葉巻を回した。


 やがて、火がついた。

 僕の知るどの匂いとも違う、重く深い香りがした。

 その香りにかすかな甘みが感じられたとき、濃くたゆたう煙が不自然に動き、周囲の景色が一変した。


 気がつくと、僕たちはバーの入り口に立っていた。

 革張りのソファーに、石造りの壁。

 落ちついた照明と、淡く輝くステンドグラスの窓。

 その場所は、小さな地下教会にグラスと酒を持ち込んだような、不思議な雰囲気の空間だった。


 ロスペインは慣れたようすで先に進んだ。

 葉巻をくわえたまま僕も続いた。

 すると、奥のテーブルで書き物をしている老紳士がいた。

 銀ぶちの眼鏡を鼻先に浅くかけている。

 何か難しいことを考えているのか、眉がわずかにくもっていた。その表情にも気品があった。

 対面に立ち、ロスペインは声をかけた。


「カール」


 難しい顔つきのまま、彼はゆっくり顔を上げた。

 眉根が開かれ、その表情に微笑が浮かんだ。


「ロスペイン」


 静かに言った。彼はペンを置き、眼鏡をはずした。


「めずらしいことだ。私の知るかぎり、きみがこの場所に知人を連れてきたことは一度もない。それも、今夜は二人も」

「連れてきたのは一人よ。ついてきたのが一人いるの」


 カールは目で僕にたずねた。

 目尻に刻まれた幾本のしわが、彼の深い知性を感じさせた。

 対して、葉巻をくわえてモゴモゴするだけの僕はどう見てもただの間抜けだった。おまけと言われても仕方ない。


「頼みがあるの」 とロスペインは切りだした。


 カールは手のひらを軽く見せ、席を勧めた。

 ソファーに座り、ロスペインはもう一度言った。


「頼みがあるの。一つは急ぎ」

「そのようだ」 彼はシンシャに視線を向けた。

「その子は今、放っておくと死に至る呪いを受けてる。でも、死なせずに解呪したいの。ここでできる?」


 彼は目を閉じ、またあけた。


「できるだろう。それなりに時間はかかるが」

「どれくらいかかるの」

「一晩だ」

「お願いするわ」


 ロスペインが金貨を置いた。

 カールはうなずき、テーブルにあったマティーニのグラスを手に取った。


「久しぶりに会った。顔を見られて嬉しいよ。今回の代金はサービスしよう」

「そう。ありがとう」


 ロスペインは微笑し、足を組んだ。

 二人のやりとりはとても自然で、見ようによっては微笑ましい親子のようにも見えた。

 それゆえに違和感があった。

 ロスペインではなく別の誰かを見ているようだった。

 考えていると、カールが僕を見た。


「それで、彼らを私に紹介してくれるのかな」

「ええ。銀髪の子がシンシャ。どうでもいい方がアデルよ」


 ロスペインは僕の口から葉巻を取って、灰皿に置いた。

 それから僕に言った。


「彼はカール・グリフィン。ホテル・エルドラードの支配人で、私の古い知り合い」

「アデル・ノクスです」


 と僕は言った。


「はじめまして。グリフィンさん」

「カールでいい。よろしく、アデル。じつは、きみの噂は以前からよく耳にしていた。一度話してみたいと思っていたんだ」


 カールは葉巻の火を消した。

 すると、となりに気配がした。

 気のせいだろう。

 そう思ってふり向くと、それまで誰もいなかった場所にタキシード姿の女性がいた。反射的に身を引くと、背中でシンシャが小さくうなった。


「レメディオス」


 カールが呼びかけた。

 彼女は無言でカールを見た。

 レメディオスと呼ばれた女性は、喉からあごまでの皮膚が金属で覆われていた。

 どう見てもアクセサリーではない。

 もしかしたら、彼女の声は失われているのかもしれない。


「そちらの女性をサウナへ。衰滅すいめつの呪いだ。適切に処理しなさい」


 返事もうなずきもせず、レメディオスは視線をはずし、シンシャの腰に手を回した。

 その動きがあまりに自然だったので、僕は自分の背中が軽くなるまで彼女の動きに気づけなかった。

 彼女はシンシャを車輪つきの台に寝かせ、無言のままエレベーターで上階に去った。

 カールが目で、僕に席を勧めた。


「何か、飲むかね」


 酒のことだろう。

 いえ、不調法ですので。丁重に断り、席についた。

 カールはロスペインにはたずねず、「ところで」と話を進めた。


「一つは急ぎ、ときみは言ったが。急ぎではない用件もあるのかね」

「二つあるわ」 とロスペインは言った。

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