第10話 お姫様は脱出中
「何者だ。黒き魔女の手先か」
「おいおい、一緒にここまで冒険してきたのに忘れてくれるなよ。俺だよ、ノワールだ」
「なにを言っている?」
「俺は猫のノワール。あんたが苦手な黒猫さ。そろそろ光に目も慣れたんじゃないか? 外に出てきたらどうだ」
確かに目の痛みは引き、塔の内部もよく見えるようになっていた。真っ白に塗られた石組みの壁が清潔そうに見える。扉は大きく開け放たれたままだ。
「行きましょう、イザ。ノワールがせっかく開けてくれたのだから」
「猫がどうやって金属の扉を開けるというのだ」
姫君はぽかんと口を開けた。
「まあ! 本当だわ。ノワール、どうやったの?」
「簡単さ。ノブに手をかけて引いただけ」
「手?」
扉の陰から一人の若者が姿を現した。
「この両手で開けたよ」
姫君は再びぽかんとし、イザは剣の柄に手をかけた。若者は両手を肩のあたりまで上げて、ひらひらと振ってみせる。
「お姫様、その口は閉じた方がいいんじゃないか。乳母に見つかったら、はしたないって叱られるぜ」
姫君は一旦、口を閉じ、すぐに開いた。
「声は確かにノワールだわ。でもどうして? なんで人間の姿をしているの?」
「黒き魔女の呪いに巻き込まれたんだよ」
ノワールは肩にかかった長い黒髪を撫でながらため息をついた。その瞳は金色で瞳孔は縦に細く、たしかに見慣れた猫のノワールの目だった。
「まったく、二本足で歩かなきゃならない日が来るなんて。やってられないぜ」
扉に向かって一歩踏み出した姫君を、イザが押しとどめる。
「待て。得体の知れない者に不用意に近づくな」
「得体は知れたわ、ノワールよ。あの瞳を見て」
「言いくるめられるな。猫が呪われて人間になるなど、そんな馬鹿な話があるものか」
姫君は小首をかしげる。
「黒き魔女は人間を竜に変えてしまう力があると昔話で聞いたことがあるのだけれど、違ったかしら」
「確かに、そういった逸話はある。だが……」
イザのセリフを遮ってノワールが話しかけた。
「イザ、お前さんが噛まれた場所を言い当ててやったら信用するか?」
「なに?」
「俺の母親から聞いたんだがな、人間の男の子に噛みついたって話を。俺は自分の母親の容赦のなさに慄いたね。かわいそうに、あんなところを噛まれるなんて」
姫君が口を挟む。
「あんなところって?」
「そりゃあ、男にとって大事な大事な……」
「やめろ! それ以上話すと剣を抜く!」
ノワールは吹きだし、体を二つに折って大笑いしだした。イザの耳が真っ赤になっているのが、イザの背中にかばわれている姫君にも、はっきりと確認できる。
姫君は未だ剣から手を離さないイザの腕に軽く触れた。
「とにかく、塔から出なければ、なにも始まらないわ」
そう言ってイザの手をすり抜けて、姫君は真っ直ぐに扉に近づいていく。
「お手をどうぞ、お姫様」
ノワールが楽し気に差し出した手を借りて、姫君は塔の外へ出た。
姫君は微笑み、ノワールを見上げる。
「とてもすてきな殿方になったのね、ノワール」
「すてき? 俺が?」
姫君はこくりと頷く。
「とても上品な若者、誠実そうで優しそう。いいえ、違うわね。あなたはノワールなのだから優しそうなのではなくて、心から優しいのだと私は知っているわ」
「そりゃ、どうも」
ノワールは気恥ずかし気に小さく笑った。
二人の後から扉をくぐって出てきたイザがノワールの腕を握り、姫君から引き離した。
「まだ俺を疑ってるのか?」
ノワールは敵意がないと表明するために、また両手を肩まで上げてみせる。その仕草はどこかおどけていて、イザは腹立ちを感じたようだった。
「信用などできるわけがない」
「たかが猫だぜ」
「猫ならなおさらだ! 浮気症で情の薄い動物ではないか。黒き魔女の手下になったとしてもおかしくはない」
ノワールはムッとした様子で眉根を寄せた。
「猫が苦手で近づくこともできなかったあんたが、猫のなにを知ってるっていうんだ」
イザは言葉に詰まったが、ノワールに向けた強い視線は緩めない。
「世間一般で言われていることだ。私が直接知らずとも、常識というものだろう」
二人のやり取りを黙って聞いていた姫君がイザを見上げる。
「私にとってノワールは親切で優しくて頼りになる友人よ。イザが知っている常識の中に、私は入れないのかしら」
姫君の素直な瞳に見つめられて、イザは顔を背けて黙り込んだ。
「そんなにお疑いなら、いいものを見せてやるよ」
ノワールはそう言うと、口を大きく開けた。喉の奥から黒い靄がもくもくと這い上ってくる。イザは姫君の肩を抱いて飛びすさった。
「その靄は黒き魔女の! やはり魔女の手先か!」
剣を抜いたイザの腕に姫君が飛びつく。
「だめ、イザ! ノワールは大丈夫よ!」
「あの靄が見えないのか、あれに触れればどうなるか……。いや、なんだ、あれは?」
黒い靄がノワールの口から出てくるごとに、ノワールの姿が変化していく。足先から体の上部に向かって、靄に引っ張られるかのように人間の姿が歪み、陽炎のように消え、そこに猫の足が現れた。
靄はどんどん吐き出され、地面にわだかまる。地面の靄が大きくなるほどに、人間の姿は消えていき、後ろ足で直立する黒猫の全身が見えるようになった。
「ノワール! 猫に戻れたのね!」
喉の奥から出てくる黒い靄は、今は細い糸状になっていて、どうやらもう少しで吐き出し終えそうだった。
「にゃー」
ノワールは猫の声で悲し気に鳴いた。ケホンケホンと咳をしながら靄の残りを吐きだそうとしているが、靄の根っこは体の奥深くに染み込んでいるかのように出てこない。
「にゃー」
諦めたノワールがもう一度鳴いた。その声が途切れもしないうちに、靄がノワールの足元に擦り寄り、猫の足を包んでいく。見る間にノワールの全身は靄に飲みこまれ、その靄は柱状に伸びあがり、黒衣の若い男性の姿に変わった。
イザはあっけに取られて身動きも出来ず、姫君は悲痛な表情で両手で口を覆った。人間の姿になったノワールは肩をすくめてみせた。
「ご覧の通りさ。喉の奥に靄が引っかかって出てこない。毛玉を吐くようなつもりじゃ、太刀打ちできないみたいだ」
「ノワール、かわいそうに。なんとか掴んで引っ張り出せないかしら」
「やめた方がいいだろうな。靄を触ってしまって二重に呪われたら、たまらないだろ」
我に返ったイザが姫君の顔を見つめた。
「どうしたの、イザ」
「もしや、君も黒い靄を吐けるのか? すべて吐き出してしまえば、記憶が戻るということはないだろうか」
姫君は首をかしげて「コホン」と空咳をしてみた。
「喉には、とくに変わったことはないみたい」
「そうか」
イザは落胆した様子で頷いた。
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