第3話 お姫様は裁判中
姫君はこの場のすべてを記憶に収めようと目を大きく開いて部屋を見渡す。
石の床は白と黒のチェッカー模様に配され、潔白と罪業を別ける場に相応しい清冽さを持っている。壁に窓はなく松明が灯され、姫君の影の色を深くしている。やましいところのあるものならば、この重々しい空気に怯んでしまうかもしれない。
だが、姫君にはそんなことは関係なく、すべてが物珍しく、広間の観察を続けた。
真っ白い石を積み重ねた堅牢な柱には様々な彫刻が施されている。初代国王が神からこの国の統治を許されたという神話をモチーフに、幻獣や戦争、王に救われ癒される人々など、腕を強く握られていない時であれば物語として面白く観察できそうだ。
天井は高いのだが松明の灯りが届かないためどこまでも暗く、頭を押さえつけられているような圧迫感がある。
父王は普段は見慣れない暗い焦げ茶色のマントを羽織っている。目つきは鋭く、圧倒されるほどの威厳を放っている。姫君が初めて見る、まるで知らない人物を見ているかのような目だ。
姫君が立っている広間の左側には長官と似たような黒い服を着た、裁判官であろう男性たちが十二人、ずらりと並んでいる。その中の一人、細長く青白い顔をした若者が前に進み出た。
「今朝の状況から説明いたします」
若者は手にした木版を顔の前に掲げ不機嫌そうに文字を読み上げる。
「姫君付きのメイド、アリンが起床時刻をお知らせするために姫君の寝室に入ったところ、寝台に姫君の姿はなく、見も知らぬ女が床に倒れ伏していた。アリンはすぐさま室内を探したが姫君のお姿はなかった。廊下に出て助けを呼ぶと乳母殿が駆けつけ、出窓が開いていることに気づかれた」
そこまで一気に読み進めた若者は一旦、口をつぐんだ。掲げていた木版を居並ぶ裁判官の一人に渡して、代わりに二枚目の木版を受けとる。また高々と掲げて続きの文字を読み始める。
「乳母殿はアリンに衛兵を呼ぶよう指示を出された。衛兵が到着するまでの間、女が逃げ出さぬように窓に鍵をかけ、扉近くで女を監視された。衛兵とともに親衛隊所属の騎士・イザ殿も駆けつけ、女を取り押さえた。姫君の行方を尋ねたところ、女は自分が姫君だと言い張り誘拐については知らぬふりを通した」
「誘拐? 私が? だれに攫われたの?」
姫君が思わず尋ねると未だ腕をつかんだままの衛兵が握った手に力を込めた。姫君は顔をしかめて口をつぐむ。
裁判官はそんなやりとりは無視して「以上であります」と宣言し、元の位置まで戻った。
部屋の反対側、裁判官たちと対面するように立っている白い衣装の教会員たちの中から一人、こちらは白髭を長く垂らした穏やかな老爺が進み出た。
「神の慈悲を賜り被告に弁解の時を与えます。なぜ姫君の部屋にいたのか、姫君の行方はどこか、正直に述べなさい」
姫君は言われていることが理解できずに何度も瞬きをした。
「私はここにいます」
老爺は表情を変えることもなく問う。
「被告はまるで自分が姫君であると思っているようですね」
「私は私です」
「私、というのはだれのことでしょうか」
「私は……」
姫君は名乗ろうとして、はたと動きを止めた。名前が思い出せない。
「私は……、私の名前は……」
記憶を探っても自分の名前が出てこない。父王の顔を見上げる。抱き上げられ、名前を呼ばれた記憶が蘇る。だが、その時呼ばれたはずの名前がまったく思い出せない。老爺が静かに尋ねる。
「被告、あなたはだれですか」
姫君は答えようと記憶の中を探り続けた。父も母もいつも愛情を込めて自分の名を呼んでくれた。名付けてくれたのは祖父である先の国王だ。
祖父とは面識がなかったが、神の加護があるようにと神聖な名前を付けられたのだと教会で聞いた。母は幼い頃、自分の名前をハンカチに刺繍してくれた。あのハンカチは今どこにあるのだろう。
友は自分を愛称で呼んだ。その愛称だけでも思い出せれば……。
迷いながら視線をさまよわせていると、騎士団の中にイザの姿があることに気づいた。
「イザ! 私の名前を呼んで!」
広間の人々の視線がイザに集まる。突然に裁判の中心人物になってしまっても、イザは身じろぎ一つせず堂々と前を見据えていた。その視線は姫君に向かうと、きついものに変わった。
「犯罪者の名を私が知るわけがないだろう。まだ姫君のふりを続けるというのか。そんな嘘をだれが信じると思うのだ」
姫君はイザの今のような表情を見たことはない。幼いころから一緒に遊んだ友人だ。騎士となってからは国王の親衛隊員ではあるが、姫君の身辺警護に加わることも多く、いつまでも友だと思っていた。だが今、イザは自分を知らないと言う。それどころか憎い犯罪者として睨みつけられている。
「いったい、なにが起きているの? なぜみんな私を知らない人みたいに扱うの? そうだわ、お母様! お母様ならわかってくださるはず……」
国王がぽつりと呟いた。
「王妃は姫君がさらわれたと聞き、ショックで倒れた」
「お母様が……」
王妃は元来、体が弱い。そんな母に心労をかけているのは忍びない。なんとか自分自身で姫であると証明しなければならない。
だが、どれだけ考えても名前を思い出すことはできなかった。
「そなたが姫の行方を白状すれば赦免も考えよう」
「陛下、それは」
国王の言葉に裁判官長官が異議をとなえようとしたが、国王は手を上げて長官を押しとどめた。
「どうだ、本当のことを話さぬか。姫の部屋で何があったのだ」
姫君が国王を見上げると、悲しみを感じるほどに真剣な表情で、本当に姫を救うためならなんでもしようと思っているのだろうことがうかがい知れた。
「昨夜、私は結婚式を迎える喜びで眠れず、部屋の中を歩き回っておりました。すると出窓がひとりでに開き、黒い靄のようなものが部屋に入り込んできたのです。その靄は人の形に、とても美しい、けれど真っ赤なまがまがしい瞳を持つ女性に変わりました。その女性に黒い靄を吹きかけられて、私は気を失ったのです。気づいた時には朝で、皆に囲まれ、牢屋に連れていかれました。私が知っていることはこれだけです」
黙って話を聞いていた教会員の老爺が顔をしかめて長官に進言した。
「これは魔術師を召還した方が良いかもしれません」
長官は老爺を睨みつける。
「この女のためにそんな時間を使う必要はない。今すぐに死刑に処すべきだ」
「そんなことをすれば姫君の行方を知る手がかりはなくなってしまいます」
老爺に言われて長官はむっつりと黙り込んだ。国王が親衛隊長に命じる。
「すぐに魔術師を呼んでくるように」
親衛隊長は敬礼すると数人の隊員を連れて、急ぎ、部屋を出ていった。
裁判は一時休止となり、国王や大臣は裁きの間を後にする。姫君は国王の後ろ姿をじっと見つめていたが、王は振り向くことなく、厚く重い扉が閉ざされた。
ぼうっと立ったまま、自分に降りかかったことについて考える。昨夜の黒衣の女性はいったい、なにものだったのか。彼女は自分になにをしたのか。その時、はっと思い出した。ノワールはどうしただろう。必死にかばったけれど、ノワールもあの黒い靄を浴びたのではないだろうか。
「イザ、ノワールはどこ?」
尋ねるとイザは妙な顔をした。幼いころに苦い粉薬を飲まされた時のような嫌そうな逃げ出したいような表情だと姫君は懐かしく思い出す。
「ノワール? なんだ、それは」
眉根を寄せて怪訝な顔をしたイザが聞き返した。
「ノワールのことも忘れてしまったの? 私といつも一緒の黒猫よ」
「なぜそのようなことを私に聞くのだ」
「今朝、私の部屋にノワールはいなかった? もしかしたらあの子にもなにか良くないことが起きているのかも……」
イザは鼻の付け根にしわを寄せて、さも嫌そうだ。
「猫のことなど気にする必要はない。どこにでも好きに出ていけるのだ、知らない女に脅えて逃げ出したのだろう」
そうかもしれない。たとえノワールですら自分のことを忘れてしまったとしても無事でいてくれるだけでいい。イザの言葉で姫君は、ほんの少し安心することができた。
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