第2話 お姫様は牢の中
イザに連れてこられたのは城の地下、じめじめとした石造りの部屋だった。鉄格子で仕切られた小部屋が狭い通路を挟んで左右に三つずつ連なっている。奥には階段があり、さらに地階に続いているようだ。彼女は城内にこんな場所があるということを初めて知った。
通路を奥へ進む。裸足に石床の湿った感触が気持ち悪い。右側の真ん中の部屋にマントのフードを深くかぶった老人がいるだけで、あとの小部屋は空っぽだった。衛兵の一人が老人の隣の部屋の鉄格子を開けた。金属が軋む嫌な音に彼女は顔をしかめた。
「入れ」
大人しく、衛兵に言われたとおりに中に入る。イザはそれをじっと見ていた。音高く鉄格子が閉められてイザと衛兵は部屋を出ていった。
彼女は置いて行かれてどうすればいいのかわからず立ちつくした。
「きれいなお嬢さん、いったいなにをやらかしたんだい」
隣の小部屋から老人の声が聞こえた。声だけでは男性か女性かわからない。彼女は喋るなと命じられ、それを守ろうかと思ったが、話しかけられて答えないのはいくらなんでも失礼だと、壁に近づき小声で返事をした。
「やらかした、のでしょうか。私にはなにが起きたのかわからないのです」
「そういうことも世の中にはあるさ。ある日突然、自分が犯罪者だと気づかされる。気づいた時にはもう遅い。牢屋に閉じ込められて人生は終わりさ」
「私は犯罪者なのですか?」
「牢屋に入れられるのは犯罪者だけさ」
「ここは牢屋なのですか?」
「ああ、こんなに居心地のわるいところが牢屋でなけりゃ、外の世界は天国に違いないよ」
彼女の表情がぱっと明るくなった。
「素敵! 私、一度でいいから本物の牢屋を見てみたかったんです。おとぎ話で聞いて、どんなところか全然わからなかったから」
老人が大きな声で笑う。
「のんきなお嬢さんだ。おとぎ話と本当の区別がついていないんだね。こんななにも知らない赤ん坊みたいな娘にどんな悪さができるっていうのかね」
それきり老人は黙ってしまった。彼女は牢屋を堪能しようと、ぐるりと辺りを見渡した。見渡すといっても、牢屋はとても狭い。天上も低く、イザが入ったら腰をかがめないといけないだろう。
床の三分の二ほどの大きさの木の薄い板が敷いてある。ちょうど人が寝そべることができるくらいの大きさだ。
奥の隅にとても嫌な臭いがする木桶がある。彼女は中を覗いてみたが空っぽで、なにに使うものか見当もつかなかった。
木桶の後ろからなにか紐のようなものが出ていた。引っぱろうと指を出すと、紐はさっと木桶の陰に隠れた。木桶をどけてみようかとも思ったが、手を触れる勇気は出なかった。しばらくじっと待っていると木桶の陰から小さなネズミが顔を出した。
「まあ、ネズミ? 絵本で見たのとそっくりだわ」
嬉しそうにはしゃぐ彼女をネズミは疑わし気に見上げると、チューと鳴いた。
「ネズミを見て嬉しがるなんて変な人間」
「え?」
幼い子どもの声がして、彼女は思わず辺りをきょろきょろと見まわす。牢屋の中に子どもなどいない。立っていって鉄格子から外を覗いてみても子どもはいそうにない。ネズミがまた短くチュッと鳴く。
「今だ、逃げよう」
子どもの声はネズミの鳴き声とぴったり同じタイミングで聞こえてくる。彼女が振り返ると、ネズミが壁の石と石の間の隙間に駆け込んだところだった。
「まさか、本当にネズミが喋るなんて。絵本の中だけじゃなかったのね。マルタにも教えてあげたいわ」
のんきに言いながら彼女は床の木の板に座り込んだ。板も湿っていて服に水が浸みてくる。春とはいえ、日の当たらない地下の石牢は冷え冷えとしていた。膝を抱いてぎゅっと体を縮こまらせる。裸足の爪先も、剥き出しの白い腕も寒さに鳥肌だってきた。
「寒い……」
呟いても、この狭い牢屋からは声ですら出ていけないのではないかと思えた。彼女はそのままの姿勢でじっと待った。なにかが起きるのを待ち続けた。
そのうち空腹になり、それでも待ち続けるしかなく、最後には胃がきりきりと痛みだした。空腹が募ると痛みが起きるなどと想像もしたことがなかった。いつだって彼女の周囲には望むものがすぐに届けられていたのだから。
胃の痛みに慣れたころ、眠くなってきた。寒い中で膝を抱えたままの姿勢でうとうとしていると、隣の牢から老人のいびきが聞こえてきた。いびきというものを初めて聞いた彼女は、なんの音だろうかといぶかりながらも眠気に勝てず、そのまま目を閉じた。
***
「どうしよう、ノワール! いよいよ明日よ。十六歳の誕生日がくるわ」
若芽時の春の初めに生まれた姫君は、親友の黒猫ノワールを胸にギュッと抱きしめた。ノワールはすでに眠たいようで迷惑そうな表情は見せたが、体の力を抜いて姫君のしたいようにさせている。
「本当に、本当かしら。私がお嫁にいくなんて。隣の国のヘンリー王子様、美しくて凛々しくて爽やかで。本当にあんなに素敵な方の妃になれるのかしら」
姫君はくるりと踊るように爪先立って回り、柔らかい真っ白なナイトドレスの裾がひらめいた。照明を受けて長い金の髪がきらめき広がる。天蓋付きのベッドの周りを一周し、ベランダに向かう扉のレースのカーテンを蹴り上げる。ノワールを抱きしめたまま姫君は回り続け、部屋中を巡った。
「お父様、お母様、お見合いのお話を受けてくださってありがとうございます! ああ、明日の朝は一番にお礼を申し上げよう」
その時、出窓がバンと音をたてて開いた。驚いてそちらを見ると、窓の外に黒い靄が見えた。靄は窓の桟を乗りこえると重苦しい空気を撒き散らしながら部屋に入ってくる。
それはうねうねと、まるで蛇のようにうねり、姫君に近づいてくる。姫君はノワールをしっかり抱いたまま後ずさった。
「なに、なんなのかしら、これ」
姫君は恐れながらも興味深く黒い靄を観察した。それは透けることなく、靄の向こうのものは一切見えない。まるで、光を通さない分厚いカーテンかなにかのようだ。
壁のランプの光を浴びても真っ黒なままで、質感はどう見ても靄なのに、床に濃い影さえ落としている。見かけとは違い、小さななにかが集まった集団なのかもしれないと姫君は思った。
靄はうねり、姫君に近づきながら少しずつ形を変えていく。床を這っていたものが徐々に高さを増し、竜巻のように一瞬で柱状になると、手で触れられるような硬さをもっていく。
床の上の靄が黒い光沢のある布に変わり、布は波打ちながら上へ上へと伸びていき、スレンダーなドレスになった。さらに靄が収束して消えると、そこには背の高い女性が立っていた。
女性の肌は青ざめて見えるほどに白く、真っ赤に燃えるような目と薄い唇が黒のドレスと相まって女性を知的に冷酷そうに見せていた。
「あなたは、だれ?」
姫君は、毅然とした態度で問いただした。女性は長い黒髪を背中に払いながら、姫君を鼻で笑った。
「私はあなたを消すためにやってきたものよ」
「消す? 私を? それは殺すということですか」
「まさか、そんな野蛮なことはしないわ。こうするの」
女性は人差し指を姫君に向けた。長く尖った爪の先から黒い靄が吹きだす。姫君は靄の直撃からノワールを守ろうと、ぎゅっと抱きしめてしゃがみこんだ。靄は姫君の頭に降り注ぎ全身を覆う。
「さようなら、お姫様。結婚できなくて残念ね」
女性の声がだんだん遠くなる。姫君の意識は朦朧として横倒しに倒れてしまった。女性が黒い靄となって窓から外へ流れ出ていくところがぼんやりと目に入る。記憶はそこで途切れ、姫君は真っ黒な夢の中に落ちていったのだった。
***
「起きろ」
がしゃんと金属が鳴る。姫君は、はっと目を開いた。一瞬、自分がどこにいるかわからず、きょろきょろする。
「立て」
自分に命令しているのが衛兵だと理解した途端、ここが牢屋であることを思い出した。同時に喋るなと命じられていたことも思い出し、黙って立ち上がる。衛兵が大きなカギで鉄格子を開けた。
「出ろ」
言われたとおりに通路へ出る。通路にはもう一人、衛兵が待ち構えていた。二人は姫君の前後についた。後ろに立った衛兵に背中を小突かれて姫君は歩き出す。隣の牢の老人は板の上に座りフードの下から姫君を見つめている。姫君は不安を押し隠して小さく手を振ってみせて通り過ぎた。
衛兵は姫が知らない通路を行く。いつもなら姫君が近づくことを禁じられている王の執務用のエリアに向かっているようだ。
王族が暮らす奥の宮の、花に囲まれたような明るさはかけらもない。壁も床も天井も灰色の石造りだ。廊下を進むと木製の分厚そうな扉が何枚も並んでいる。それらの扉には鋲が打たれて重々しい。
無言の衛兵たちに連れてこられたのは『裁きの間』と呼ばれる広間だ。扉に書いてあるその名を読んでも、姫君にはなんのことかわからない。衛兵が扉を叩くと、黒鉄製の扉が軋みながら開いた。
「お父様!」
裁きの間の最奥、一段のぼったところに背もたれの高い椅子があり、王が座っていた。思わず叫んだ姫君の腕を、連行してきた衛兵が捻りあげる。
「痛い!」
「国王陛下に向かって声を上げるなど、なんとも不敬である。口を慎め。許可されるまで口を開いてはならぬ」
広間にいる黒い衣装の男性が厳しい口調で姫君を一喝した。たしか裁判官の長官だ。なにかのパーティーで顔をあわせたことがある。
室内には法務大臣、騎士団長、教会の主教など、よく顔を見知った者たちがずらりと並んでいたが、だれも彼もが姫君をきつい目で見据えていた。
「被告、前へ」
長官が言うと、衛兵が姫君の背中を小突き、広間の真ん中に立たせた。
「これより姫君誘拐の容疑で被告を裁きにかける。この裁きは国王陛下じきじきにご照覧賜る」
国王は冷徹な目で姫君を見つめている。見たことがないほどに厳しく、その視線だけで気圧されてしまう。だが姫君はその瞳の中に、どこか迷いがあるように思った。
「審議を始める」
これから始まる裁判というものに姫君は強い不安を抱いたが、顔をしっかり上げ前を見つめた。
父王がなぜ自分を裁こうとしているのかわからない。
わからないことを姫君は決して恐れない。いつだって新しいことを知るのは姫君の喜びだった。
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