第16話 トライアングラー(回想その3)

 すっかり冷えてしまったお茶の残りを一息に飲み干したフブキちゃんは語る。

「私はあの頃……自分もこうなるんじゃないかって、病気になってしまうんじゃないかって思って思ってた。でも桜はこう言うの。『貴女はわたしより血が薄いんだからその確率は低い』ってね。確かに本流であるあの子より確率は低いけど……発症例は多い。だから桜の言ったのは完全に気休め。それでも自分の体の事より私の事を気にする桜がとても好きだった」

「うん」

 僕が拳の力を緩めると、ずっと全身で感じていた緊張感も緩む。

 今のフブキちゃんは文字通り名前負けしている、『凪』の状態だ。

「いえ、今でも大好きよ。あの子が亡くなって、一ノ瀬の本家は途絶えた。でも今度は一番近い支流である私に目を付けたの。元々桜が受けていた半年に一回の検査を強いて、一ノ瀬の家についての勉強をさせて。一族の存亡なんて重い物を背負っていてもそんなの気にしてないかのように笑えて、他人を心配できるあの子は本当に強いと思った。じゃあその強さはどこから来るのかなって何度も考えたけど……結局分からなくて」

「うん」

 今の僕には頷く以外の言葉が見つからない。

「死にたいなんて思ってはいないの。桜の分までしっかり生きなきゃって思うよ。でも今の私は一ノ瀬の当主に何もかもを決められてしまうのよ。自分じゃない誰かに、言われるがまま従うのは…………正直に言うとね、楽なの」

「うん」

 それが楽だというのは僕にもわかる。

 他者に自ら介入せず、自分に向ってくる者は向かってくるままに生きて来た僕は多分フブキちゃんと本質的に同じことをしていたから。

「私が桜の代わりに周囲の期待に応える。桜ならきっとこう答える。桜はこういう行動を取る。桜は、桜は……ってね。そうやってあれから生きて来たけどそれはそれでいいかなって。さっきも言ったけど楽だし、こういう事を続けていればいずれ桜がひょっこりと帰って来るんじゃないかなって……そんな事あり得ないのにね。でも……ついに一ノ瀬は私がどうしても許容しがたい事まで強要してきた……」

「うん」

「何だと思う?」

 そんな風に生きる事を良しとしてきた人が嫌がる事、それは極端に自分の中に食い込んでくる事だとは思うけど、逡巡してもそれが何か思いつく事は出来なかった。

「わからない……」

 素直に白状する僕に弱々しいほほ笑みを返してくるフブキちゃん。

「この男と結婚しろ、よ。いきなり写真と履歴書見せられてね。まだ一度も会った事もない相手と。そんなの無理なのよ。そりゃあ大昔ならそういう事もあったかもしれないけど。でも今はもうとっくにそんな時代じゃない。そんな事言われてはいわかりました、なんて普通言えないのよ……そこで気づいちゃった」

「何に?」

「好きな人……貴方という存在がいた桜がもし私と同じように他の男と結婚を強要されたらどうするのかな、って」

「……」

 あり得る話だと思った。

 桜はそんな事おくびにも出さなかったけど、きっと一ノ瀬本家の血筋として色々と……おじさんも桜のお母さんと結婚するためにそりゃあ死ぬ思いで努力したって言ってたし。

 家柄を大切にする厳しい一族なんだろうね。

 でもその一方で実力のある人を認める寛容さも持っている。

「だからね。そこで……『手紙』の事もあるけど貴方の事が気になった。もしかして桜が最期まで笑っていられたのは好きな人が傍に居続けてくれた事があるんじゃないかなって。あの桜にそこまで想わせる人はどういう人なのかなって」

「……うん」

「だらだら話しちゃったけど。結局今回の検査が陰性で、何も無ければ私は数か月後には好きでもない人と結婚させられるの……まぁ陽性だったけどね。それでも生きていればきっと時期が変わるだけで辿る運命は同じ……だから……」

「だから僕がどんな人か見ようと思った? 自分の命を大幅に削るかもしれないのに」

「そうよ。私はこの先私がずっと一ノ瀬に縛られるのが怖い。だから最後のチャンスだったの」

「……今日はもう帰るんだ。そして……明日また、おいで」

「いいの?」

「いいも悪いも食材、二日分買って来てくれたんでしょ? 僕一人じゃ食べきれないよ」

「そっか……」

 フブキちゃんの独白を聞いて、僕は確かめたい事ができた。

 薬を飲ませて、落ち着いた頃合いにフブキちゃんがいつも通り帰って行ってから、僕はあれからずっと机の引き出しに入れっぱなしにしていた『アレ』を久しぶりに手に取る。

「やっぱり……」

 桜にどこまで先見の目があったのかはわからないけど。

 それはただの偶然で、エンジニアでも無ければパソコンを弄るのが趣味でもない僕でも容易に僕が考えた事が出来そうで。

 でも確信が持てなかったのでそのままパソコンを立ち上げてゲームにログインすると、詳しそうな人に話を聞いてみようと思った。


 リリィ=リィ:セシルさん! 教えて!

 セシル=ハーヴ:なんだよいきなり

 リリィ=リィ:実は……


 翌日。

 その日は朝からしとしとと雨が降っていて、それは夜になってもずっと続いていた。

 僕は仕事帰りに家電量販店で買い物をしてから帰宅をした。

「や、おかえり。遅かったね」

「……ただいま。ちょっと野暮用でね」

 昨日までと同じく、フブキちゃんの笑顔が門で待ち構えていた。

 違うのは、今日はお互いに傘をさしている事。

 フブキちゃんは、大きな赤い傘を。

 僕は、小さな黒い折り畳み傘を。

 一日中降り続いているだけあって足元がびちゃびちゃだ。

 おまけに冷えるし。

「寒いね。入ろうか」

「うん……もうすっかり全身が冷えちゃったよ」

 いつから待ってくれてたんだろう?

 寄り道は15分もかからなかったから電車は1本遅いのに乗った程度だけど。

 急いで鍵を開けて建物の中に入ると、それだけでじわりとした温かさに体が癒されるような気がした。

「あ、靴は脱衣所のヒーターで乾かせるからそっちに」

 うちの脱衣所は冬場でも寒くないようにと電気ヒーターを常設しているんだ。

「便利ねえ。私ここに住みたいかも……あーでもそんな事したら桃ちゃんに殺されるなぁ私」

「何言ってるの。モモちゃんがそんな事するわけないじゃない」

「……ほんっと、『セイちゃん』だねぇ……まぁいいけど」

 ん?

 僕何か変な事言ったかな?

 取りあえず、今日は約束したからこうして受け入れるけど。

 これが僕とフブキちゃんが続けた日課の最後の日になって欲しいと思う。

 そして、きちんと体を治してからまた来て欲しいと。

「今日は何を作るの?」

 だから僕は昨日までとは違って、僕は能動的に今晩の献立について訊ねる。

「ん~、今日は……ナイショ」

「え~」

 わざとらしく不満げな声を上げる僕。

「だって分からない方が出て来た時楽しいでしょ?」

「それはそうかもしれないけど……外食産業全否定だよねそれ」

「あはは。まぁそれはそれよ」

「じゃあ、今日もよろしくお願いします」

「よろしくお願いされました」

 そう言って僕は自室に、フブキちゃんはリビングに。

 着替えながらパソコンを立ち上げて今日買って来たモノをUSB差込口に方向を確認して差し込む。

 引き出しを開けて『アレ』……桜のICレコーダーを取り出すと片方の先端を引き抜く。

 昨日確認した通り、キャップになっていた部分が外れてUSBの端子が露わになった。

「桜……いいよな?」

 当然答えはどこからも返ってこないけど、その代わりにレコーダーをぎゅっと握りしめる。

 それから僕は露呈した端子を空いているUSB差込口へと挿入しフォルダを操作する。

 昨日セシルさんに聞いた通りに。

 やがてモニターに表示された数値が100%を示したのを確認して、パソコンの電源を切る。

 着替えを終えて、今日買って来たモノ……USBメモリーを引き抜いてポケットに入れてから僕は階下のリビングへと降りる。

「もう少しかかるから先にお風呂入ってて。もう沸いてると思うし」

「わかった」

 言われるままに僕は手早く風呂へと入る。

 湯船は雨で冷え切った体に優しく染み渡る。

 はぁ……。

 フブキちゃんこの後どうするんだろ。

 結局昨日はほとんどフブキちゃんの話を聞くだけになっちゃったし。

 アレが、僕と同じように生きて来たフブキちゃんの心にも届けばいいんだけどなぁ。

 いや、きっと届く。

 僕の拙い言葉よりもきっとずっとフブキちゃんの心に響くはず。

 思いだして、また頬を伝いだした涙を隠すべく、僕は湯船にばしゃっと顔を浸した。


「できてるよー」

 たぶん僕達2人で食べる連続した最後の晩ご飯は、ローストビーフとコンソメスープだった。

「作り過ぎちゃったから余った分は明日にでも食べてね」

「うん……いただきます」

 あ、おいしい。

 お肉がすごい柔らかくて味付けも濃すぎず薄すぎず丁度いい塩梅だ。

「昨日から紅茶とおばさん特製の梅干しで漬けこんでたんだぁ。いい感じに仕上がってるね」

 お母さんは毎年梅干しを漬けるんだけど。

 でも僕は酸っぱいのが苦手でろくに食べた事が無いけどこれなら大歓迎だ。

「うん、これ本当に美味しいよ」

 昨日の続きで、重たい話はしなきゃだけど。

 でもせめてご飯を食べている時くらいは忘れたい。

 フブキちゃんも同じ考えなのか、いつも通り僕たちは楽しい食卓を囲んだ。

 でも、それは永遠に続くわけではなくて。

 ご飯に合わせて今日は紅茶を淹れてくれたフブキちゃんは自分から切り出した。

「あのさ……」

「うん」

 昨日の続きを匂わせる始まりの文句に、僕は昨日フブキちゃんがしたように肩をぴくりと震わせる。

「私やっぱり……入院したくないよ……」

「そう……」

 半分くらいは予想できたその言葉には諦めが混じっている。

 でも。

 きっと。

 桜に縛られて、桜と同じ運命を選ぼうとする子は。

 やっぱり桜によってしか救われない。

 そしてそれを補佐するのは桜によって救われた者……つまり僕だけだ。

「ねえ、タブレット今日も持って来てる?」

「え、うん……あるけど」

「出して」

「……わかった」

 昨日セシルさんに聞いた事は二つある。

 一つは、桜が遺したICレコーダーがUSBメモリを兼ねていたため、データのコピーが出来るかという事。

 この問いに『ファイル形式があえば大丈夫』という回答を貰った僕はファイル形式の確認方法と、もし今の方式と違っていた場合の変換方法を聞く事ができた。

 そしてもう一つは、フブキちゃんの持つタブレットがUSBメモリを挿入できるかどうか。

 答えは、『可能』だった。

 少なくとも一つはUSBを接続できる機種らしい、と。

「そっち行ってもいい?」

 対面じゃ二人で画面を見られないと思ったか脇に置いてあるバッグからあのタブレットを取り出して僕の隣に座りなおすフブキちゃん。

「で、どうするの?」

 OSを立ち上げて、横目で僕に指示を仰ぐ。

「……これを」

「えっ……」

 僕はあれから何度も何度も聞いて、その度に……思いだすだけでも泣ける『それ』の内容を今も思いだして。

 それだけ言うのが精いっぱいだったけど。

 流れ始めた涙を隠すためにそっぽを向いて。

「例のICレコーダーの……データをコピーした……聞いて欲しい……」

 でも、その声は震えて湿っぽいものが混じってしまったので、きっと泣いている事はばれたかな……。

「……」

 USBメモリを差し込んで、中にたった一つだけ入っている音声ファイルを再生するフブキちゃんを背中越しに感じる。

『…………セイちゃん。これを聞いているのは10年後の…………………………………………』

 はじまった。

『そんなのは……嬉しいけど、やっぱりイヤ。セイちゃんにはもっとたくさんの人と仲良くなって、そしてその優しさを十分に発揮して生きて欲しいと、桜は願います……』

 フブキちゃんは。

 懐かしいけど、でも自分が知らない面……好きな異性に向ける桜の声を初めて聴いたフブキちゃんは。

 僕がそうなってしまったように声をあげて泣きはしなかった。

 ただ……無言で。

 ちらっと視線を向けると、再生ソフトが音の波を上下に表現するウィンドウをぼうっと見つめていた。

『多分こんな風に思っているかもしれません。


 ――だって僕は……(桜がいなくちゃ何もする気が起きない)


 ――でも君は(桜じゃない)


 ――そうかもしれないけど(でも桜はそんな選択はしない)


 こんな風に思っていたら、遠慮なく横っ面をひっぱたいて、それからこう言ってあげて下さい。


 『でも、貴方は生きている。生きている以上前を向いて、一歩でも先に進まないならそれは死んでいるのと同じだよ』、って』

 そこまで聞いて。

 初めてフブキちゃんはぐすっ、と鼻をすすった。

 いつの間にか泣き出していた。

『……………………………………それじゃあ、バイバイ、セイちゃん。大好きだよ』

 やがて桜のメッセージは終わりを迎えた。

「これで……終わりだよ……」

 ぐしゃぐしゃになってしまった顔をこちらに向けて、と言っても僕も泣いてはいるけどそれでもフブキちゃんより多少は何度も聞いたお陰で耐性が付いた僕はそれほど涙を流してはいなくて……。

「くっ……うっ……」

 頭を預けるように倒れ込んできたフブキちゃんは僕の部屋着を涙で湿らせる。

「こんな……こんな……ッ」

「ずるいよねえ、桜は。言いたい事一方的に言っていなくなっちゃうんだもん」

 頭が一度、がくっと下に動いて僕の発言を肯定する。

「僕達はさぁ、今のままじゃ桜に顔向けできないじゃない。だからさ。僕はこれ聞いて前を向こうって決めたんだ。努力はしてるけどうまくいってるかはわかんないけどね。だから……フブキちゃんにも前を向いて欲しい、かな」

 桜を大切に思っていた者同士として。

 桜の死を悲しんだ者同士として。

 桜に束縛されて生きて来た者同士として。

 僕がちょっとでも変わろうと思ったのと同じように、でも僕よりもずっとずっと重い一歩を、フブキちゃんには踏み出して欲しくて。

「お茶、淹れなおしてくるね」

 とんとん、と肩を軽くたたいて離れる事を促すと素直に上体を起こしてくれたフブキちゃんはそのまま自分のタブレットへと向いた。

 僕は発言通りキッチンへ行って電気ポットの再沸騰ボタンを押す。

 沸くまで少しかかるんだよなぁ。

 あ、そっかその間にカップを一度洗って……。

 飲みかけの紅茶が入ったティーカップを持って来ようとリビングへ戻った僕は。

「うわっ、フブキちゃん?」

 キッチンへ向かおうとしていたフブキちゃんとあわや衝突しそうになった。

 既に泣き止んでいたフブキちゃんはしっかりと自前のハンカチで涙の痕も拭きとったらしい。

「ありがと。優しいね、『セイちゃん』は」

「そんな事、ない……」

「あるよ」

 ふわり。

 一瞬、何が起きたのか分からなかった。

 柑橘系のほのかな香りが鼻腔をくすぐる。

 しっかりと背中に回された、細い腕。

 眼下には……フブキちゃんの見上げる顔。

「私、桜の代わりにはなれない、かな?」

「えっ?」

「桜とは半分違うだけで、私は桜と半分は同じだよ。私なら……うまくやっていけると、思うけど。貴方に『生きろ』って言われたらそのためならどんな事だってする……今はそんな気持ち……」

 桜の声を聴いて気が変な方向に昂ったのか、フブキちゃんは懇願するような視線で僕をしっかりと見つめる。

「え、いや……」

 こんな所モモちゃんに見られたら……何の言い訳もできないじゃないか。

「な~んてね。う・そ」

「えっ?」

 僕が困惑したのを理解したのか、フブキちゃんの口調が元に戻る。

「今ちょっとくらっと来たでしょ?」

「……」

 否定できなかった。

 桜と同じ顔をして、同じ声のフブキちゃんに迫られて嫌な気はしなかった。

「まったく。でもちゃんと気づいたでしょ?」

「何を?」

「何をって……自分が誰を想っているかを、よ」

 誰を、って……。

 ずっと桜の事が……。

 でもなんでさっき、桜じゃなくてとっさにモモちゃんが出て来たんだろう?

 僕はこの時、全くもって初めてのシチュエーションで心臓が跳ね上がっていて、そのせいかフブキちゃんの声以外の物音が全く聞こえていなくて。

 さっき自分で押した再沸騰ボタンの効果が完了した甲高いお知らせ音すら気づかないくらいで。

「でも、ずるいからこれくらいはさせてね、思い出に」

「っ!?」

 背中に回していた両手を一つは僕の肩に、もう一つを腰に回したフブキちゃんは僕が逃げる隙を与えずに……。

 キスされてしまった。

 ガタン。

『えっ!?』

 物音は全く意図しない方向から響いた。

「モモ……ちゃん……」

 修学旅行に行っていたはずのモモちゃんが、リビングのドアを開け放って立ち尽くしていた。

「桃! 待って違うのこれは……ッ」

 するりと僕の戒めをほどいてモモちゃんの方に向き直って事情を説明しようとするフブキちゃん。

 や、どう言いつくろおうとしてるのかはわからないけど……。

「……ッ」

 降りしきる雨の中、モモちゃんはドアを開けっぱなしで飛び出して行ってしまった……傘もささずに。

 僕はそれを暫く呆けてみている事しか、出来なかった。

 僕にはいったい今何が起こって、どうなっているのかを整理する時間が少し、必要だった……。

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