第十七話 乳房
ぱちぱちと音が響く。
しかしそれは静かで、私が負ぶっている桜月の子守歌のようにも聞こえる。そのせいか、ぐずることもなく、すやすやと眠っている。
薪が炎に包まれ、火の粉が舞う。
私はそこに薪を入れる。もちろん、空気のことも考えて。
ぱちっ。
私は、ご飯を炊いたり、風呂を沸かしたりしていた。
出産から時間がたち、私の体調が整ったこともあり、体を無理させないよう、まずは家事を中心にしていた。
もちろん、桜月を負ぶりながら。
基本家にいるので、桜月がぐずりだしたら乳を飲ませたり、あやしたり。
時には、菊が私の手伝いをしてくれることもあった。
そうして、朝日の帰りを待つ。
夜は、家族みんなでご飯を食べて、一緒に寝る。
そんな、愛しい日々。
思えば、この頃が、一番幸せだったのだ。
「……ばぶぅ」
背後からぐずりの声。
ちょうどご飯ができそうな頃合いだったので、お腹がすいたのかもしれない。
「どうしたの? よーし、よーし」
とりあえずあやしてみるが、ぐずったまま。
やはり、お腹を空かせているのか。
そう思い、畳の方に移り、私の服をはだける。
「ほーら、桜月。ご飯ですよ」
母上の遺伝なのか、私のも大きかった。
……戦闘の時には邪魔で仕方なかったが、今はそんなことを気にする必要がない。
普通の女なのだから。
女としての幸せを、ひたすらに謳歌できるのだから。
桜月が私の乳房にしゃぶりつく。
くすぐったい。
ちゅぱちゅぱと、音を立てながら、乳を吸う。
私は静かにそれを見つめる。
柔らかい私の胸は、もしかしたら、静かに休める、寝床のようなものかもしれない。
私にとっての母上の胸も、そうだったかもしれない。
なぜか、落ち着けたから。全てを包み込んでくれそうだったから。
だから、私はこの子を守らなければならない。
自分の力で、羽ばたけるようになるまでは。
「……イオツミスマル」
母の形見を呼び出す。
すると、私の懐からひとりでに出てきて、青い光のようなものを放って応える。
……バノルスは。
ガリルトは。
いつまでも、オラクルに甘えていたのではないだろうか。
王家は、リベカ様の遺した神器に、甘えていたのではないだろうか。
……いつまでも巣立ちできない雛のように思えて、情けなかった。
そのせいで、足元の問題に、あまり目を向けられていなかったのかもしれない。
少なくとも、ノア派や民衆には、そうみられていたのかもしれない。
だからこそ、ノア派に掌握されたのだと、リベルはそのことを伝えたかったのだと、私は思った。
※
「いただきます」
その日の夜。
朝日との二人の食卓。桜月はお腹いっぱいなのか、すやすや寝息を立てている。そのため、あまり大きな声は出さないように気をつけながら、色々な話をしていた。
その話の中で、領主の話になった。
「そういえば、領主の名前はなんていうの?」
朝日は昼間、領主に税を納めに行っていた。朝日は名主で、土地をもって農民を管理はしていたが、納税義務があるため、定期的に納めていて、今日がその日だった。
「『
「帝」。この国を治めるものだ。
その関係者が、没落して、この地で領主となっている。
「……なんか、私と似た境遇かもしれないですね」
不思議な巡り合わせだと思う。
私の場合は、王家そのもの。
反乱で国にいられなくなり、この地に逃れてきた。
私の場合は、為政者そのものではあるが、それでも橘家と同じように思えた。
……。
「何か、ありました?」
私の様子に異変を感じたのか、朝日がまっすぐ見つめてくる。
朝日に相談するのは、甘えなのだろうか。
一瞬、そう思う。
それでも、朝日の言葉を思い出す。
「自分は受け止めますよ」
「あなたを助けたいんです」
初めて逢った日、彼が紡いでくれた言葉。
それがなければ、今どうなっていたのか。
少なくとも、今のような幸せがなかったに違いない。
そして、朝日の言葉は、何かがあったら頼っていいということだ。
だから、話すことにした。
「ちょっと、バノルスのことを思い出して……。
領主の橘家は、私と似ているなって思ったんです。わたしも失脚したようなものですから……。
それで、実は今日、桜月に乳を飲ませているとき、色々なことに甘えていたのかな、と思ったんです。バノルスの王家であった私ですけど、オラクルとか、神器とかにみんな甘えていたから、民のことをよく見られていなかったんじゃないかって……。
なんか、いつまでも巣立ちできない雛のようで、情けなくなっちゃいました」
ガリルト、ノア派、マスグレイヴへの問題を解決すれば、全て終わると。
そうではなかった。
もっと、民のことを考えた政治をすべきだった。
民の暮らしを考えなければならなかった。
それは、リベカ様の血を引いた私たちが君主であり続ける限り、永遠に問題になるであろうもの。
つまり、自分たちの立場に甘えて、本質が見えていなかった。
オラクルという、もうすでにいない絶対的な力に、神器という、全てを屈服させる力にも甘えてしまっていたから、なおさらだ。
王でいては、いけなかったのだ。
かつての私が哀れに見えた。
「結局私の家って、疫病神だったんですね……」
ついそう漏らす。
バノルスには、不幸しかもたらせなかった……。
「……そんなことありませんよ」
朝日が、大事なものを抱え込むように抱きしめてくれる。
彼の温もりが伝わってきて、冷えてきた心が温められる。
「私には、幸せを持ってきてくれたじゃないですか。傍にいてくれているじゃないですか。桜月を産んでくれたじゃないですか。
あなたは、疫病神ではないですよ」
笑顔で言ってくれる。
「朝日……」
私も朝日にしがみつく。
「それに、桜空は甘えって言ってましたけど、そんなことないと思いますよ。
人は、誰もが何かを頼りにしないと生きられないと思いますから。……私にとってのそれは、桜空、桜月なんです。
だから、疫病神だなんて、言わないでください」
朝日の手に力がこもる。
「大丈夫です。桜空は私が支えますから。……あなたが、桜月が、一番大事なんですから」
胸の中のしこりが、一気になくなって。
代わりに、日の光のような温かさが広がる。
「……ありがと、朝日」
私の奥底に眠っていたものは、その時、ようやく消えた。
それでも、新たな子供ができることは、二度となかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます