第十三話 蜜月

 呉子明軍は、公孫業軍が取り除かれた報を聞いて歓喜に湧き立った。自分たちの快進撃を阻害し、夷門関から東に追い落とした憎き公孫業が破られたのである。これで、目下の敵は王敖軍のみとなった。

 だが、残る王敖軍は公孫業軍以上に手強い。現に、呉子明軍は許雍率いる魯王の援軍が到着した後も敗戦を重ねている。

 この頃、魯王を称する宋商は、援軍を送るでも、自ら兵を率いて出撃するでもなく、魯と梁の国境線に沿って大規模な防塁を築いていたのである。それを知った張舜は、

「魯王は腑抜ふぬけたか」

と侮蔑した。これでは、武陽へ進軍する意志をなくして守りに入ったと思われても仕方がない。

 張石軍は公孫業軍を破ったことで、王敖軍の背後を突くことが可能になった。だが、そのことは王敖も把握しているだろう。張石軍が動員できる兵数では、王敖軍の三十五万と互角に渡り合うことはできない。いや、よしんば同じ数の兵を動員できたとて、兵の質で負けていてはどの道不利である。加えて、梁の領内は平地が多く、その地形は騎兵戦を得意とする彼らに有利に働く。

「では、やはり城壁にって戦いますか」

 田管は張舜に問うた。騎兵戦が得意な相手であれば、一番効果的なのは城壁を活かした籠城戦であろう。騎兵の機動力は野戦でこそ効果を発揮するもので、攻城戦においてはその強みは活用しようがない。敵は大軍である故に兵糧の消費も激しい。故に防御に徹して直接戦闘を避け、持久戦に持ち込むのは十分に効果的であろう。

「勿論、そのつもりだよ。でもそれだけじゃ決め手がない。少し仕込みが必要だね……」

 またしても意味深な物言いである。こういう時、往々にしてこの美少年は悪巧みをしているものである。だが、彼の悪巧みは、ただの子どもの悪戯ではない。天下の趨勢すうせいに影響を与えるものなのだ。やはり、恐ろしい少年である……というのは、田管の偽らざる感想である。

「今日もすまないね。長々と話してしまって」

「いえいえ。見識が深まります。私でよければいつでもお相手つかまつりましょう」

「ふふ、そう言ってくれると嬉しいな」

 張舜は上機嫌そうであった。企みのなさそうな、屈託のない笑みを浮かべている張舜を見ると、改めて彼の美少年ぶりが際立つように感じられる。

「しかし、何故私なのでしょうか。古参の幕僚の方々もいらっしゃるのに……」

「それ僕に言わせる? 田管さまのことが好きだからに決まってるじゃないか」

 それがどういった意味の「好き」であるか、田管は測りかねた。だが、総大将の息子に好かれている状況自体は悪くない。それに田管自身、この聡明な少年には、何処か心惹かれるものがある。

 屋敷を出ると、外は暗くなりかけていた。西の空では沈みゆく太陽が燃え上がり、田管の銀の髪を、その赤い光が照らして輝かせている。風はなく、鳥の声があちらこちらから聞こえてくる。その中を、田管は歩いて自らの屋敷へ戻っていった。


 相も変わらず、田管は騎兵隊の訓練に精を出していた。この頃、呉子明軍の兵士を恐怖のどん底に陥れている、仮面を着けた銀髪碧眼の騎兵の噂が、張石軍にも流れ始めた。自然に伝わったのか、それとも王敖軍の情報戦の一環であるのかは把握しかねる。田管自身の耳にも、その情報は入っていた。

 銀髪碧眼。田管の身体的な特徴と、奇妙な一致が見られる。田管の母親は遠く西方に存在する国の人であり、銀髪と碧眼はその土地に住む人々の特徴である。王敖軍は長い間夷狄の領域に近い場所に駐屯していたため、そのような異民族を傘下に加えることもあるだろう。

 田管が鍛えている騎兵たちは、そのような恐ろしい敵兵の噂を聞いても、臆病風に吹かれることはなかった。寧ろ「なら俺たちがそいつを倒して武名を挙げてやる」と意気込む者すらあった。全く頼もしい限りである、と、田管は甚だ感心した。

 取り敢えず、田管が教えられることは一通り教えてある。後は実戦でそれをどう活かすか、だ。戦場というのは流動的なもので、臨機応変に動くことが求められる。その場での判断の遅れは、自分や味方の命の問題に即直結してしまうのだ。であるから、田管の指導は抜かりのないように徹底したものであった。

 この頃の田管は、練兵場と張石の屋敷を往来するような日々であった。次第に自分の使っている屋敷にも帰らなくなり、総大将の張石も、息子張舜のお気に入りである田管を自分の屋敷の一室で寝起きさせるようになっていた。


 ある、雨の降る夜のことであった。外から聞こえる陰気な雨音に交じって、時折雷鳴が轟いている。田管はその日も張石の屋敷の寝室で寝転んでいた。いつもは泥のように眠ってしまう田管であったが、この日は何となく寝付けずにいた。

 ふと、田管の頭に、張舜が浮かんできた。あの愛らしい少年が、謀略を巡らせて十万を越える兵を押し流したことを思うと、不思議な感じがするし、やはり恐ろしくもある。

 その時、田管の耳が、足音を拾った。大人の鳴らす重い足音ではない。そして、子どもの軽い足音を出すのは、思いつく限り一人しかいない。

「ねぇ、一緒に寝させてよ」

 声の主は、張舜その人である。その小さな体が、寝台に潜り込んできた。

「張舜さま……?」

「ここに置いてくれるだけでいいから、お願い」

 何処か、媚びを売るような声色である。その甘い声は、聞く者の頭をとろかすような、独特な声色を帯びている。

「どうぞ、お構いなく」

「それじゃあ失礼させてもらうね」

 布団の中で、張舜は猫のように背を丸めた。一際大きな雷鳴が轟いたその時、張舜の体がびくりと震えた。田管は、何故この少年がこちらの寝台に潜り込んできたのか、その理由が分かったような気がした。

 やがて、張舜は寝息を立て始めた。まだ眠れずにいた田管は、無意識の内に、同じ布団で眠っている張舜の髪に触れた。その触り心地は滑らかで、つい癖になって指で挟んでいてしまう。寝息を立てている張舜は、このような行いに気づいてはいないだろう。

 そうして、暫くして後に、田管も眠りに落ちていった。

 その後、たまに、張舜は田管の寝台に潜り込んできては甘えてくるようになった。普段は冷酷な策謀を練るこの少年も、寝床の中で見せる姿は、年相応の少年のものに見える。田管には弟というような存在がいなかったため、この張舜は、まるで自分の弟であるかのように思えた。

 こうして、田管と張舜、この美貌の男子同士の距離は、徐々に縮まっていったのである。張石も、その微笑ましい様子を暖かく見守っていた。

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