第十二話 赤陽の戦い

「我が軍は赤陽で総力を結集し、この地で敵を迎え撃つ」

 張石は、全軍に通達した。この場所を、決戦の地として選んだのである。張石軍は布陣を済ませ、万全の状態で敵を待ち構える姿勢を作った。

「奴ら、来るか」

 張石軍が迎撃の構えを見せたことは、公孫業もすぐに把握した。公孫業軍は全軍を以てこれを撃滅せんと、軍をぶつける準備を整えた。

 両軍の戦端は、この赤陽の地で開かれた。

 襲い来る公孫業軍は総勢十三万。これに対する張石軍は十万。大軍同士ではあるが、数の上では公孫業軍が有利である。

 やがて両軍の衝突が開始した。この地は斯水しすいという川が流れているが、その流れは浅く、この時は殆ど川底を晒していた。張石軍はこの川を難なく渡って公孫業軍に迫ったが、数において勝り、さらに勝ちに乗じて勢いのある公孫業軍は忽ちにこれを跳ね除け押し始めた。張石軍の兵士は、これに抗しきれなくなり、次第に後退し始めた。波に乗るように勢いづいて攻撃を仕掛ける公孫業軍であったが、その将帥たる公孫業ただ一人だけは、その様子を訝しんでいた。

「どうも様子がおかしい……」

 あれだけ粘り強さのあった張石軍にしては、戦いがあっさりしすぎている。それに、今回は例の銀髪碧眼の率いる騎馬部隊も前線に繰り出していないようだ。何か、あるのではないか。言いようもない感覚が、この男の胸中を騒がせる。だが、今更勢いづいた自軍を止めるのも惜しい。惜しいというより、止めようがない。この軍を戦える集団にしたのはよかったが、今度は張り切りがすぎて止めようにも止められないものになってしまっている。

 やがて、敵陣の後方から、細長い煙が上がった。灰色の煙のたなびく様を見て、公孫業の顔はさっと青ざめた。まるで何かに気づいた、とでも言う風に。

「至急全軍退却せよ!」

 公孫業は、腹の奥底から声を振り絞って叫んだ。側近の者がその余りの声量に、思わず耳を塞いでしまう程であった。

 その、公孫業の耳が、何か、異様な音を捉えた。それは次第に大きくなり、凄まじい轟音へと変わっていく。

「おい、何か聞こえるぞ?」

「あ、あれを見ろ!」

「何だあれは!」

 前線の兵士たちも、異変に気付いた。川の上流へと視線を向けると、自分たちに迫る危機の正体がそこにはあった。

 上流から、物凄い量の水が、こちらに向かって流れ出していたのである。

 公孫業の撤退命令は、遅きに失していた。上流から流れ来る水が、彼の軍の殆どを押し流し、下流へと連れ去っていった。まさに一瞬の出来事であった。

「あ……」

 公孫業の口からは、腑抜けた声しか出ない。総大将と幕僚たちは、ただただ唖然あぜんとした表情でその様を眺めていた。十万を越える自軍の兵が一気に失われれば、そのような顔にもなろう。

 全ては、張石軍の知恵袋、張舜が仕掛けた巧妙な策であった。張石軍が押されて後退する所から、すでに彼の謀略は始まっていたのである。そうして公孫業軍を勢いづかせて驕慢にさせ、赤陽の地へとおびき出した。そして、この地を東西に横断する斯水の上流に兵を向かわせておき、土嚢を積み上げて川の流れをせき止めた。続いて自軍に川を渡らせた後で退き、敵が川を渡って追撃する段になった頃合いを見計らって合図を送り、土嚢を取り除かせて溜め込んだ水を一気に流したのである。

 公孫業と、残った数少ない部下は馬首を返して逃げようとしたが、その足はすぐに止まった。よしんば戦場を抜け出すことには成功したとしても、中央から増援の兵を引き出すことはもうできないだろう。それどころか、敗戦の責を問われて処刑されるのは目に見えて明らかである。

「張石軍に投降する」

 公孫業は一言、宣言した。幕僚たちは皆、神妙な面持ちで聞いていた。

 こうして、暫くの後、生き残った公孫業軍は張石軍によって発見され、本営へ連れられて行ったのである。

 この戦いは「赤陽の戦い」と呼ばれ、後年、史書にも記されることとなった。


「田管さま、久しぶりだね。この間は後方に回しちゃって退屈だったかな」

 田管は、占領したとうという都市で張石が使っている屋敷に呼ばれて、張舜の話に付き合っていた。

「いえ、私は与えられた役目をこなすのみですので、そのような不満などは……」

「なるほど、理想的な武官だ」

 赤陽の戦いで、田管の部隊は後方の予備隊に編入されており、敵と直接干戈かんかを交えなかった。そのような機会がないまま、敵軍は川に流されて戦場から姿を消したのであるから当然のことである。

 田管は、この少年の偉業に舌を巻くと同時に恐れも抱き始めていた。詳しい年齢を聞いたことはないが、恐らく張舜は十一か十二ぐらいであろう、と踏んでいた。その年頃の少年が、敵を欺き、たばかり、そして十万を越える兵の命を奪ったのである。田管自分も彼と同じ頃には弓を取っていた身ではあるが、自分とは器が違いすぎる、と密かに感じていた。

「さて、これから僕らはどうすれば良いか……公孫業は捕らえたけど、まだ戦いは終わりじゃない。王敖の軍はそれより強力だ。正面からぶつかって勝てる相手じゃない」

 田管は唾を飲んだ。確かに兵を鍛えてはいるが、やはり長年北の大地で実戦経験を積んだ相手に勝てるかどうかと問われれば、それは難しいと言わざるを得ない。指導に当たっている田管の率直な感想である。

「だけどね、公孫業を捕らえたのは幸運だった。自刃されるよりはずっと良かったよ。これなら王敖を破る算段がつきそうだ」

 言いながら、張舜はにやりと笑みを浮かべた。その企み顔を見ると、田管は背中が冷えるのを感じた。

 捕らえた公孫業の処遇に関して、張石軍の重鎮たちの意見は二分された。相手は圧政者の走狗である。そういった点では田管と同じであったが、張石軍と直接戦ったことのない田管と違い、公孫業はついこの間まで普兵を操り、こちらの兵を殺戮していた男である。普に弓引く反乱者の心情としても受け入れがたいものがあったし、何より呉子明軍をあれだけ苦しめた公孫業を処刑してしまえば、自軍の士気も上がる。そう主張して彼を成梁の市場で斬首すべきとの意見が上がった。一方、普の中央の事情に詳しく、利用価値の高い彼を殺すのは惜しいという意見もあった。そして、張舜自身は後者と考えを同じくしていた。その息子の口添えで、張石は公孫業を留め置いて情報を引き出すことを決めたのである。

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