第9話
第九回
その九
石川田りかはマンションで押収した写真に関してある疑問を持っている。疑問と言うよりも謎と言ったほうがいいかも知れない。疑問であればある解答の選択肢があってそれから選ぶことが出来るわけだが、その選択肢も見つからない状態だったからだ。それを引き起こしたのは写真に書かれていた変な文様である。見方によっては竜がからんでいるようにも蛇がからまっているようにも見える。なにかの符号には違いないだろう。しかしそれがなにを意味しているか石川田りか警部にはわからなかった。
警視庁に戻るとなにかものものしい雰囲気が警視庁の内部を包んでいた。正面玄関から広い廊下を通って捜査一課の特別室の前を通るとけやきで出来た昔見た映画のような大きな扉の前には「ブリジット・リン事件捜査本部」と大きな模造紙に墨で書かれてそれがべったりと扉の正面に張られている。その紙が真っ白いところを見ると昨日か今日、とにかく最近それが張られたらしい。捜査一課が一丸になって大々的に取り組むと云う腹づもりや意思のようなものがその張り紙から見てとれる。
ブリジット・リンというのは石川田りかがあのマンションで押収した写真に書かれていた名前だ。石川田りかはその捜査本部の重くて大きな扉を開けた。ギィーという重たい音がして中にいた刑事たちがいっせいにこちらを向いた。よけい者を見るような目でこちらを見ている。
「ブリジット・リン事件ですが」
刑事石川田はその部屋の中におそるおそる首を突っ込んだ。
「石川田くん、困るじゃないか。これは特別捜査本部だよ。きみはこのチームに参加していないじゃないか」
石川田りかの上司が無理矢理、彼女を外に押し出した。
「これは秘密捜査本部だからね。他言は無用だよ。きみ」
中にいた構成員は正統捜査一課の主だった刑事たちだった。捜査一課総出でブリジット・リン事件というものに取り組む気らしい。しかし自分が捜査上得た情報にブリジット・リンという名前が出てきた。だからその捜査本部の部屋の中を覗いてみようと思ったのだった。そのうえに中国人らしい妖艶な女性の写真も出てきたのである。このことも知らずに正統派捜査一課はその事件に取り組んでいるらしい。それがどんな事件であるかは刑事石川田りかは知らないのだが。
警視庁の社食に行くと裏捜査一課の構成員の一人である小川田まこと警部補が竹輪の竜田揚げをおかずにしながらうどんをすすっていた。石川田りかは彼女の横にカレーライスを持って腰をおろした。
「正統捜査一課の連中がやっきになって捜査している事件というのはなんなの」
「あの大きな張り紙を張ってあるやつですか」
「そうよ」
「わかりません」
「ブリジット・リン事件とは捜査一課が総出になって取り組むような事件なんですか」
「そうかもしれません」
それを聞くと石川田りか警部補はカレーライスのルウをスプーンですくいながら口元がほころんだ。
「それに対して重要な手がかりを私は持っているのよ。私が石田川ゆり子のマンションで押収した写真があるでしょう。裏捜査一課でブロマイドのように出回っているものよ。実はあの写真の裏にはブリジット・リンと云う名前が書かれているのよ。しかも変な文様も添えられているわ」
「そのことを正統派捜査一課の連中に伝えたんですか」
「うんにゃ。私が捜査本部の中に入ろうとしたら追い出されたわ。そこにいた刑事たちの顔を見たら、全部、正統派捜査一課の連中だもん。よほど重大な事件に違いないわ。そしてその手柄を自分たちだけで一人占めにするつもりなのよ。気色悪いわ。だからそれは教えないであいつらを出し抜いてやろうかと思っているの」
「それはいい考えじゃないですか。石川田先輩」
ふたりは目を合わせてくつくつと笑った。ふたりは出し抜いて「ブリジット・リン事件」を解決したときの正統派捜査一課の連中のあわてふためいたた顔を思い浮かべた。
「それはそうと、白滓有伸に会ったんですか」
「ああ、会ったわ」
「あれは大変な人物だそうですよ」
「経済学者だと言っていたわ」
「中国マフィアを調べていると言わなかったですか」
「言ったわ」
「中国の黒社会の専門家だそうですよ。警察もときどき意見を聞きに行くそうです。その文様のことを知っているかも知れないですよ」
石川田りか警部は小川田まこと警部補の意見にしたがうことにした。日華大の白滓有伸の研究室に行くと押収したあの写真のコピーを取りだした。
「この女性は中国人ですね」
白滓有伸は断定した。
「この文様ですが」
差し出したその文様の書かれている資料を白滓有伸はまじまじと見つめた。そしてロッカーのところに行き、資料を取り出すと石川田りかの座っているテーブルのほうに持って来た。
「珍しいですな」
「そんなに珍しいものですか」
「これは北方騎馬団のものですよ」
「北方騎馬団」
「中国の黒社会の発生は北方の清が漢民族を支配して反清組織として発生したものです。だから南方のほうにその根城を置いている組織が多いのですが、清とロシアのあいだにあって秘密結社を組織している犯罪集団があります。これはまだ日本の一部の人間にしか知られていません。伝統的に機動力にすぐれているマフィア組織です」
「そんな組織があるのですか」
「日本にはまだ上陸していないと思っていました」
「今度の心中事件には北方騎馬団に関係している人物が関わっているのでしょうか」
「わたしにはわかりません。しかし、草なぎ山くんがそういった人物に関わっていて殺された可能性もありますね」
「草なぎ山くんは真面目な中国人留学生ではないのですかい」
「マフィアはいろいろな場所に根を伸ばしていますからな。黒社会の人間はひとめ見ればわかりますよ。しかしそれにつらなっている人間はふつうの中国人といっしょに生活をしているのです。どこでどういう接点があるかわからない。それに中国人は本当に重要なことは用心して言わない。仲間の組織のあいだだけで持ち得ている秘密も多い。草なぎ山くんのことを僕は一部しか知らないようだ」
「そうですか。ブリジット・リンという名前でなにか知らないものはありませんか」
刑事石川田は目の前の人物の顔を見つめた。
「ブリジット・リン」
白滓有伸は首を傾げた。
「その北方騎馬団の首領の名前だという話もありますよ。ただし、女の名前だが名前が女なだけで、首領は男だという噂もあります」
「ブリジット・リンの姿を見たことのある人間はいないのです。この写真の女がブリジット・リンだという可能性はないんですか」
「北方騎馬団は知られていない部分が多いのです。しかし、北方騎馬団の連中ならブリジット・リンの姿を知っているでしょう。それにこの中国女の正体も知っているはずです」
警視庁に戻った石川田りかは小川田まことが刑事ロボットを作っている地下室に行った。刑事ロボットはすでに完成していた。
「なにか、おもしろいことはわかった、りかちゃん」
「わかった部分もわからない部分もあるわ。北方騎馬団というものを習ってきたわ。しかし、この写真の美女がなにものかということになるといっこうにわからない。これが本当はなんにも関係がなくて映画女優かなにかで近くに紙がなくてメモ用紙がわりにそれを使ったなんてことになったら目もあてられないわよ」
「じゃあ、その写真の女がなにものかということを特定するのが第一歩ですね。石川田先輩」
「そうだわよ」
「あれを使ってみる」
「あれって」
「犯罪履歴のある外国人の顔写真を調べる機械があったじゃないですか」
「勝手に使っちゃうか」
「使っちゃえ」
ふたりは休憩に出て操作員のいない警視庁の資料室に行って機械を操作した。しかしその資料は得られなかった。
石川田りか刑事は自宅に戻り、まず歌番組のテレビのスイッチを入れた。そして冷蔵庫の中に冷凍ピラフの袋を切ったものが半分ほど残っているのを思い出した。田んぼで蛙の鳴いているのを聞きながら電子レンジで冷凍ピラフを暖めて食っていると電話がやかましく鳴った。窓の外には洗濯物が風を受けてひらひらとひらめいている。石川田りかは半分ほどピラフを口にほうりこんだまま電話に出ると例の女子大生から電話がかかってきた。
「刑事さん、わかったことがあるんです」
「なんですか」
石川田りかはおもおもしく言った。口の中に暖めたばかりのピラフがまだ入っていて飲み下していなかったという理由もあるかも知れない。
「あの写真の女の人が誰だかわかったんです。たぶんその人じゃないかと思うんですけど」
「どういう人」
「刑事さん、会えますか」
「今、行くわよ。待っててくれる」
石川田りかは田んぼの横に停めてある軽自動車を走らせた。女子大生の家のそばにある二十四時間営業のファミリーレストランで待ち合わせることにする。しかしお姉さんと呼んでいた女性が死んだといえ、自分とあまり関係のないことで随分とこの女子大生は労力を払っていると石川田りかは思った。ファミリーレストランに入ると客がいないがらんとした店内でその女子大生の後ろ姿が見える。女子大生の目の前にはコーヒーカップがただひとつ置かれている。
「待ちましたか」
石川田りか警部が声をかけた。他人が見たらきっと精神カウンセラーが患者にあっていると思うかも知れない。
「刑事さん、あの写真の主が誰だかわかったんですよ」
女子大生の片手には薄汚い雑誌が握られている。
「有名な人ですよ。その写真の人は女優なんです。中国の映画によく出ている人だそうですよ。ほら、ここにそのことが載っている中国の雑誌があります」
石川田りか警部は失望した。いくら重要な人物でも中国にいるならなんの役にも立たない。しかしそんな有名な女優だったのか。しかし刑事石川田は彼女のことを知らなかった。
「実は同じ名前の人が日本にいるんです。橘大の石田川ゆり子さんの遊び友達から聞いたんですけど、いかがわしいバーで働いているそうです。もちろんその女優そのものではないですよ。源氏名って言うんですか。同じ名前を名乗っている中国人の女性がいるそうです、顔もそっくりだそうです」
「いかがわしい」
刑事石川田りかは低く息を吐いた。
「女の人が客になっているバーだそうです。レズビアンバーだそうです」
そんなものがあるのか。石川田りかは耳を疑った。遊び友達というのがそのレズビアンバーに行ってその名前を覚えていてたまたま雑誌を見たら同じ名前の女がいて、女子大生がブリジット・リンという名前のことを話していたので、そのことを女子大生に教えたそうだ。その女子大生はそこへは石田川ゆり子と遊びに行ったことがあるそうだ。その店があるのは代々木だそうである。まずその女性がまだいるか特定しなければならない。近所にあるキャバレーへ客を装って店長と世間話をすると水商売のライバルだと思っているのか、うしろめたいことをやっているという警戒心からか、うさんくさい目で刑事石川田を見た。たしかに中国人でブリジット・リンという芸名の女がいると言った。顔も本家にかなり似ているという。そのビルの三階に寝泊まりしていて店にも出ているという話だ。しかし、正統捜査一課の連中がこんな明白なねたに食いついてこないことが刑事石川田には不思議だった。
しかし裏捜査一課は色めきたった。ブロマイドとして配られている女のそっくりさんにお目にかかれるかも知れないからだ。刑事石川田りかは捜査の人員を要求した。そのレズビアン・バーに踏み込むつもりだ。もちろん石川田はブリジット・リンというその名前は出さなかった。すると上司は言下にそれを却下した。この忙しい状況でそんなものに人員をさけるか。そう言われればたしかに警視庁の内部の正統派捜査一課は多忙を極めている。それになぜだか知らないがときたま政治家が正統派捜査一課にやって来たりする。しかし急がなければならない。キャバレーに聞き込みに行ったことがブリジット・リンなる人物に気づかれないともかぎらない。またはそのキャバレーの中で働いている女を逃がす可能性もある。
トイレに入って警視庁の建物の階段を下りようとすると階段の下のほうから小川田警部補が背広を着たプロレスラーのような男をつれて上がってくる。
「石川田りかちゃん、この男をつれて行こうよ、この殴り込み、わたしも参加するつもりよ」
そのレズビアンバーが中国の黒社会の連中が仕切っていることはあきらかだった。あの連中のやることである。パチンコ玉をつめた鉄パイプ爆弾くらいは爆発させるおそれはある。トカレフあたりも持っているだろう。不死身の鋼鉄刑事を仲間にすることはおおいに意義がある。まず最初の突撃はこのロボット刑事にさせなければならない。石川田りかと小川田まことは店の他の出入り口をおさえておかなければならない。そしてどんな攻撃にもひるむことなく、活動を停止することもないこのロボット刑事が店の中に突入するのだ。そしてその女を捕まえてなにかの理由をつけて警察にしょっぴかなければならない。
「どういう理由でその女を署まで連行して来たらいいかな」
石川田りか警部はコーヒーショップのカウンター席に座りながら隣の小川田まこと警部補に話しかけた。その向こう側には背広を着たロボット刑事が座っている。すると小川田まこと警部補はズホンのポケットからビニールに入った白い粉をとりだした。
「ふへふへ、これですよ」
「これって、お前、証拠をねつ造するの」
「こんなことは****あたりではよくやられていることですよ。ようするに署まで引っ張ってくればいいんでしょう。きっかけはなんでもいいんですよ。ちょっと手品みたいなことをやってその女の洋服のポケットの中からその白い粉のふくろを取り出せばいいんですよ」
「ふがー」
向こう側に座っているロボット刑事が排気を出した。
「きみたち、またおもちゃを作っているのね」
ふたりは気づかなかったがカウンターの向こうのほうの席でモモンガのように小さく固まって冷やし中華をすすっていた女がふたりのほうに寄って来た。
「おもちゃじゃないわよ」
小川田まことがその女をちらりと見ながら聞こえないぐらいの小さな声で言った。するとその女も聞こえないぐらいの小さな声で「いつか、やめさせてやるからな」と言った。ふたりの声は聞こえないような小さな声だったがやはりふたりには聞こえていた。それほど仲が悪いというわけでもない石川田りか警部補がその女に声をかけた。
「ここで昼飯ですか」
「ああ、噂によるときみたちが変なことに首を突っ込んでいるらしいわね、でもおもちゃ作りで満足しているのよ」
「後藤田さんも変なおもちゃを抱え込んでいるらしいじゃないの。ブリジット・リン事件とかいう」
「あなたたちが首を突っ込めるような事件ではないわ。高級事件だわよ」
「じゃあ、わたしたちが取り組んでいるのが低級事件みたいじゃないですか」
「ぶっ殺してやる」
小川田まこと警部補が聞こえるか聞こえないかわからないような低い声でつぶやいた。
「ふん、この税金どろぼうたちが、せいぜい年金がもらえるようになるまでむだに年を食っていくんだわな」
コーヒーバーの入り口のところで黒いシルエットが手を上げると後藤田と呼ばれる女は振り返った。戸口のところに立っている男は逆光で顔形がよくわからないがなんとなく日本人という感じではない。警視庁正統捜査一課後藤田まき警視正はその男を見ると急に愛想がよくなり、出て行った。
「あいつ、出て行ったわよ」
「やはり、ブリジット・リン事件というのは重要機密なんだわ。あいつらの鼻をあかしたときのことを考えるとわくわくするわ」
「あいつ、わたしの可愛いロボット刑事のことをおもちゃとか呼びやがって。こうなったら警視庁に居座るだけ居座ってやるわよ」
「そうよ、わたしはここでの経験をもとにしてベストセラーを書いてやるわよ。あなたは」
「わたしも本を書く、それも警視庁の暴露ものよ。今、上にいる連中が顔を青くするようなものよ」
それからふたりは勤務中だというのにビールを注文した。よく冷えたビールのジョッキをふたりで飲み干した。
「それはそうと、週刊誌に苦情を申し込んでやると息巻いていた石田川ゆり子の両親はどうしたのかしら。石川田先輩にうな重までごちそうして事件の再調査まで依頼してきたじゃないですか」
「それがね。どうしたと言うのだろう。急にトーンダウンだわよ。自分の娘を過信していたのかも知れないと言ってね。東京での娘の生活をぜんぜん知らなかった。あんなに毎日夜遊びにふけっていたことは上京して娘の噂話を友達から聞いてはじめて知った。小さな頃は姉のほうがいい子だったんだけど、妹があんなに有名になってちやほやされているからひねくれてしまったのかも知れない。お金も東京での生活に困らないようにと湯水のように与えたのもよくなかったのかも知れない。もっとも中国の留学生と心中をしたとはいまだに信じられないけれども娘の生活も浮ついていたことは認めなければならない。事故で死んだのなら仕方ないが、もし他殺ならやはり犯人を見つけて欲しいと力なく言っていたわよ」
「なにか、本当の親じゃないみたいだな。なんでそんなに冷静になってしまったんでしょう」
「知らないわ。もちろん自分の娘がレズビアンだったのを知っているかと聞く気にはならなかったから聞かなかったけど」
「とにかく、明日、このロボット刑事と踏み込んでその女をしょっぴけばすべては明らかになるわけよね。ここじゃ、場所が悪い。警視庁の連中が絶対にやって来ない穴場を知っているんだわよ。そこに行きません」
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