第8話

第八回

    その八

 裏捜査一課の中ではブリジット・リンの噂で持ちきりになっていた。その写真は何枚もコピーされて裏捜査一課の中で回された。正統捜査一課の連中が近寄ってくると彼らはその写真を隠した。美女の容疑者などは小説や映画の世界の中だけの出来事であり、実際の事件に出てくるのは生活に疲れはてていたり、まったくの平凡な容貌をしているものばかりだ。このブリジット・リンが事件に関係しているのかはともかく、こんな妖艶な事件関係者はいないだろう。日本人にこんな妖艶な女性はいない。やはり油っこい中華料理を食べている関係だろうか。

「わたしもひとくち加えてくれません、石川田りかちゃん」

小川田まことが手の甲をこすりながら石川田りかのほうに近寄ってきた。

「まことは自分の仕事があるでしょう」

「石川田りかちゃんの事件のほうがいいわよ」

「きみもブリジット・リンが目当てなのね。変な女、まことみたいな裏捜査一課の連中がもう朝から五人もいたわよ」

そして石川田りかは覆面パトカーを走らせた。

「ブリジット・リン。いったい何者なんでしょう」信号待ちをしているとオートバイがとなりに止まった。サイドミラーにその姿が映っている。そのオートバイは外国製でずいぶん珍しいもので見た目も派手だったが、ぜんぜんそのほうに気がとられなかった。

 刑事石川田りかは大学の校門の前に覆面パトカーを停めて、出てくる学生たちを見ている。 ここは橘大ではない。真面目な学生が多いと世間から評価されている星望大である。

 石川田りかが待っているとおとなしそうな女子学生が校門から出て来た。車の運転席から手をあげて挨拶をすると女子学生は石川田りかのほうに寄って来て運転席のほうに首をつっこんだ。

「刑事さん、またなにかご用ですか」

「車に乗りません」

「刑事さんの車にですか」

「自家用車じゃないわよ。これは覆面パトカーなのよ」

「警視庁につれて行くんですか」

「刑事ドラマの見過ぎよ。あなた。ちょっとドライブしないこと。うちに帰るだけなんでしょう」

「ええ」

彼女は石川田りか警部が石田川ゆり子のことを最初に聞いた女子大生だった。

「どこに行く」

「うちまで送ってくれますか」

「いいよ。車の中で話しをしましょう」

女子大生の家は田端にある。彼女は実家から家族と一緒に暮らしているらしい。

「いつも、家まで直行なの。恋人もいないんだ」

女子大生はつまらないことを訊くなという感じで表情も変えなかった。女子大生をのせた覆面パトカーは商店街を抜けて旧街道のほうにでた。気がつくと大正時代に建てられた水道塔の横を走っている。

「刑事さん、これ、なんですか」

女子大生は車のコンソールボックスの中に入っていた壺療法という東洋医学の本を取りだしてながめ始めたので刑事石川田りかはあわてて自分の本来の仕事を思い出した。

「刑事さん、肩でも凝っているんですか」

「凝っていないわ」

石川田りかは首を左右に動かすと彼女の軽い髪が吹き込んでくる風に揺れた。

「それより、この女を知りませんか」

石川田りかは例の写真を取り出すと横に座っている女に見せた。

「知りません」

「じゃあ、ブリジット・リンと云う名前を聞いたことはありませんか」

「ありません。写真の女の人は中国人みたいですね」

「まだ、確定はしないが、たぶん、そうだと思うわ。あなたはどうやって石田川ゆり子と知り合いになったんですか。あなたと石田川ゆり子とはどうしても接点がないように思えるんだけど」

「わたしの趣味は旅行なんです。京都なんかにひとりで旅行に行くんです」

石川田りか警部は男と一緒にではと茶々を入れようと思ったがやめにした。この女子大生には冗談にならないような気がする。男が寄って来るような印象はない。

「旅行さきで偶然知り合いになったんです。東京に戻ってから交友が始まりました」

「石田川ゆり子のことをずいぶんといろいろ知っていたのね」

「はい。橘大の人と違ってわたしにはなんでも話してくれました」

「草なぎ山剛とつき合っていたと云うのは事実だと言っていたわよね」

「今度変な中国人とつき合っているんだ。と言っていました。それが本当だと思ったのは彼女のマンションに遊びに行ったときのことなんですけど」

「ことなんですけど」

刑事石川田りかは合いの手を入れた。

「駅からあのマンションへ行く道で小山を越えて行くと近道になるんです。小山の頂上のところから下のマンションの裏庭がちょうどよく見えるんです。こちらからはよく見えるんだけど裏庭からは気づかない場所があって、ちょうどそこに石田川ゆり子さんがいたんです。中国人と立ち話をしていました。わたしの知っている人でした。草なぎ山剛でした」

「なにを話しているのか。聞こえなかった」

「それが、とぎれとぎれだったんですけど、聞こえたんです」

石川田りかはハンドルを握る手の力を急にいれて隣に座っていた女子大生のほうをちらりと見た。

「俺と別れるのあるか。俺と別れるのあるか。わたし、お前を許さない。草なぎ山剛は変な日本語を使って石田川ゆり子さんの肩を両手で持って激しく揺らしていました」

「ほかになにか言っていませんでしたか」

「いいえ。そして草なぎ山剛は立ち去りました。かなり感情が激しているようでした。わたしは悪いと思って石田川ゆり子さんにそのあとそのことも訊きませんでした」

覆面パトカーは女子大生の住んでいる町に入った。

「あなたも石田川ゆり子の夜遊びについては聞いて知っていると思うけど、橘大では石田川ゆり子の評判ははなはだ悪いのよ。それがどうしてだかわかる」

女子大生はちょっと考えているようだった。

「この前も言ったと思うんですけど、ゆり子さんは妹のひかりさんに劣等感を持っていたんだと思います。外見だったらゆり子さんのほうがずっときれいなんだから当然ですよ。心の中では自分もひかりさんのようにアイドルタレントになりたかったんじゃないでしょうか」

車は女子大生の家のそばに停まった。

「刑事さん、ここでいいです」

「あっ、そうだ。聞き忘れたことがあるわ。石田川ゆり子はきみにとってどんな人だと言えるんですか」

女子大生は一瞬とまどったが車のドアを開けながら顔を赤らめた。そしてぽつりと言った。

「お姉さんみたいな人です」

石川田りかはある確信を持った。石田川ゆり子は草なぎ山剛と心中をしたのではない。もしそういう言葉を使うなら無理心中と云うことになる。なぜなら石田川ゆり子は事実、草なぎ山剛と別れたがっていたのだから。内輪げんかをしているのを見られている。もちろん女子大生の言うことが事実だとしてである。石川田りかは行きつけの定食屋の前に覆面パトカーを停めてあじフライ定食を食べた。

 それから是非にでもアイドルタレントの石田川ひかりに会わなければならないと思った。

 石川田りか警部はやどかりテレビに行くと歌番組へ出演前の石田川ひかりのタレント控え室の中に入って行った。

 テレビで見たことのある、グループでやっているアイドルタレントと談笑していた。石川田りかがその中に入って行くと同時にそのグループは出演時間が来たのでスタジオに向かった。石川田りかは一段高くなった畳に腰をかけて妹の石田川ひかりに話しかけた。

「石田川ゆり子の妹さんがあなただったとは知りませんでしたよ」

「姉の事件の真相はまだわからないのですか」

「それより、あなたのような有名人のお姉さんが不審な死を遂げたと云うのに大騒ぎにならないというのが不思議ですね」

「事務所の社長が圧力をかけたからなんです。うちの事務所は芸能界では最大手ですから」

たしかに可愛いが外見だけでは石田川ゆり子のほうがきれいだし、色気もある。そのことが石川田りかには不思議だった。

「こんなことを聞いてもいいのでしょうか。わたしの受けた印象ではお姉さんのゆり子さんのほうが魅力的なような気がするのですが。こんなことを聞いて失礼ですか」

「わたしもそう思います」

「なぜ、そう断定できるのですか。みんな自分のほうがきれいだと思うのがふつうの人が考えることでしょう。お姉さんにもタレントになりたいと云う希望がなかったんですか」

「それどころか。いっしょにタレントのオーディションを受けたんです」

「でも、あなたは合格して、お姉さんは落ちたのね」

「わたしはタレントとして人気があると云うことがどういうことか考えたことがあります」

石川田りかは意外とこのアイドルタレントがいろいろなことを考えているようなので驚いた。

「このことは誰にも言わないと約束してくれますか」

石田川ひかりは真面目な瞳の色をして石川田りかの顔を見た。ひかりの瞳の中には石川田りかの姿が映っている。

「タレントというのは万人受けしなければならないものでしょう。誰にでも受け入れられるような」

「そう思うわ」

刑事石川田りかはそれは裏捜査一課の正反対の位置にあるようなものだと思った。裏捜査一課が万人受けするわけがない。

「姉には特殊な性癖があったんです。刑事さんの捜査で姉の夜遊びぐせの激しいのを知ったでしょう」

「そのようですね」

石川田りかは石田川ゆり子の夜遊び自体には興味はない。そこでどんな遊びをしていたかと云うことには。むしろそこでどんな人間と関係を持っていたかと云うことのほうが重要なのだ。

「姉が好感度の最大公約数的なものを持つことが出来ない最大の理由は姉の特殊な性癖にあったんです。姉は男の人と同じように女の人を愛することも出来たんです」

「レズ」

刑事石川田りかは思わずうなった。

 なんということだろう石田川ゆり子がレズだったとは。それであの女子大生が自分にとって彼女がなんに当たっているかと尋ねられたとき、顔を赤らめながら「お姉さん」と答えたのだと気づいた。

「きっと、それで姉さんはタレントのオーディションで選ばれなかったんだと思います」



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