第3話

第三回

黒い影

ふたりが立ち止まってその表札のことを語っているとそのドアが開いて背の高い黒縁の太いつるのめがねをかけた長髪の男が中から出て来た。その男は西洋人のような鷲鼻をしている三十代後半くらいの男だった。ドアが開いているあいだ部屋の中をのぞき見ることができた。スチール製の低い棚の上に工事業者が使うヘルメットが二三個置いてあった。そして建築模型が置いてある。ヘルメットの横には測量用の機械も置いてある。

「あれが同姓同名の岩川太郎なんだろうか」自分はEに聞いてみた。

「さあ、知らん」

Eの答えははなはだ素っ気なかった。Eに誘われたその講義のもぐりの聴講をやってからふたりでまたエレベーターを使って地下一階まで降りて行き、わけのわからないガスボンベが冷たい鉄の光を放って並んでいる横を通って地下の売店へ行った。そこでEは南京豆を買って自分はおにぎりを買った。駅へ歩く途中にそれを食べながら帰ろうかと思った。地上に出るとさっきの工学部の学生がコンクリートの固まりの前でたがねをふるいながらおしりをぺったりと地面につけたままコンクリートの中に埋め込まれている鉄の棒を掘り出そうとしている。彼のねじり鉢巻きの下の額にはほんのりと汗がにじみ出ている。自分にはそれがまるで昔の時代の彫刻家のようにたくましく見えた。彼がもしミケランジェロのように天才的な技術と精神を持っているなら歴史に残るような彫刻を彫りだしているようにも思えたが自分には本当のところ彼が何をしているのか、さっぱりわからなかった。そこに置いてある重たいものを運ぶための台車にしろコンクリートミキサーにしろ溶接機にしろ使い込んであるらしく飛散したコンクリートが付着して固まっている。その上その学生は汚れたTシャツを着ているだけだった。自分のような文学部の学生にとっては彼らに一種のあこがれめいた気持ちもあった。彼らが就職のときに有利だということが大部分だが彼らは確実に手にしているものがある。あんなねじり鉢巻きをしながら測定器械をいじってみたかった。

 自分とTはまたもと来た道を歩き始めていた。さっきの両側に雑草が生えている坂道をだらだらと歩いた。

 Eは売店で買った南京豆を口に入れ、ぽりぽりと食べた。自分はおにぎりの包装紙を破り一かじりした。いつかあたりはうっすらと暗くなっていた。時間はすでに夕方近くになっていた。学生や職員が勝手に車を停めている駐車場が見えるところに来るとEは南京豆を食べる手を止めてあごで合図をした。自分も思わず足を止めて私設駐車場の方に目をやった。夕闇の中に見覚えのある赤い外車が停めてある。車のトランクは開かれていてそこに女がひとり立っている。たぶん光のかげんからか、木立の下を歩いているからか、こっちからは向こうにだれが立っているかわからなくてもこっちではそれが誰であるか判然とわかった。トランンクのそばに朝野なみが立っている。自分はびっくりして手に持っていたおにぎりを思わず落としてしまった。そしてあわてて落ちたおにぎりを拾い上げた。おにぎりには砂がついたようだったがそんなことも自分にはわからなかった。

 そして違う方向からゴルフのバッグを持った男が歩いて車の方にやってくる。そして女のそばに来ると何かねぎらいの言葉をかけたようだった。ふたりはまるで犯罪の共犯者のようにつまりそれがふたりが殺した被害者の遺体でもあるようにゴルフバッグをトランクの中に入れた。それからトランクのふたを勢いよく閉めると車に乗り込んで走り去った。たぶん自分たちがこの場所にいるということを轡田荘介も朝野なみも知らなかったに違いない。

「あれ、朝野なみだろう」

「ああ」

自分の声はこわばっていたかも知れない。

Eは自分と朝野なみが友達以上恋人未満だということも知らないようだった。

「朝野なみはアルバイトをしているらしいよ」自分にはその言葉が安物のエロ映画よりも卑猥に聞こえた。自分はのどをごくりとさせると手にしたおにぎりを口の中に入れた。おにぎりには砂がついている。口の中に砂が入った不快感からぺっぺっとつばと一緒にそれを吐き出した。しかし口の中にはまだ砂が残っている。

「朝野なみは轡田に頼まれて資料整理のアルバイトをしているらしいよ」

Eはふたたび言った。

「でも、ゴルフバッグを積み込むのをなんで手伝っているんだ」

「知らない」

Eは口をつぐんだ。自分は国道の方に出たところの鉄道の線路の横に大きなゴルフ練習場があるのを思い出した。あそこの駐車場のライトの下で轡田荘介の外車が駐車してその車のメタリック塗装がきらきらと輝いているのが目に浮かんだ。自分とEがぼんやりとその場に立っていると誰かが後ろからやって来た。例の自分たちの語学を教えているなめくじだった。なめくじはわけがわかっているのか、自分たちの姿を見るとにやりとした。

 次の日の語学の時間に朝野なみはいつものようにやはり教室の中にいた。しかし自分にあの場面を見られたことは知らないようだった。それに自分が轡田荘介の資料整理のアルバイトをしていることをだれにも知られていないと思っている節もあった。

教室の前のドアが開いてなめくじが入って来た。なめくじはまたテキストを読み始める前に自分の家庭のこと、つまりかあちゃんの話をひとくさり始めた。自分は彼がどんなかあちゃんを持っているのか、何十分の一かはわかったような気になっていた。自分の想像ではナメクジのかあちゃんは高校の教師か看護婦をしているのではないかと勝手に想像していた。しかし今になるまでもその本当のことはわからない。自分にはナメクジだけではなくすべての教師が宇宙人のように思えていたからだ。

 それから教室の窓の外を見つめて工学部の方を見ると自分で自分の思い出に耽っているようだった。新校舎の方からも工学部の教室の方は背が高くなっているので視界に入る。何を話すのかと聞いていると工学部の屋上に椅子や机をしまうことのできるガラス張りの倉庫のようなものがある。倉庫と言っても小さな音楽会を開ける小ホールのようだった。そこで学生運動の華やかなときには学生が立てこもったという話しをし出した。前にも言ったがなめくじはここの出身なのである。ただむさくるしい男だけが立てこもったという話ならつまらないが男と女が立てこもったというような話になってその後ふたりは結婚したというお目出度い話も付け加えていた。

 その話が終わったあとでなめくじは今度のテストの範囲を言った。テキストの二十三ページから四十八ページまでテストの範囲にするから辞書も見ずに訳せるようにしておけと話して教室を出て言った。早速生協に属している親切な学生がその範囲の日本語訳の書かれたコピーを配り始めると彼のまわりには人波が出来た。自分もそのコピーを手にしてかばんの中にしまった。

 朝野なみも早々と教室を出て行った。自分は朝野なみが轡田荘介のところに行ったのではないかと疑った。

 教室を出て廊下を小走りに歩いて行く朝野なみの後ろ姿を見送っていると後ろから及川みほが自分の肩を叩いた。自分が及川みほの方を振り向くと自分は何もかも知っているというように未開の地の神を信仰している人のようににっと笑った。

「ねえねえ、知っている。今度、轡田荘介は学会から表彰されるそうよ」

自分は及川みほの地獄耳を半分信じて半分信じていなかった。しかしどこからそんな情報を得てくるのだろう。自分には全く想像も出来ない。あの宇宙人の中の誰かに知り合いがいるのだろうかと思った。しかし及川みほから得た情報以外何も得ることが出来なかったから自分は彼女の話を一応珍重していた。

「どこからそんな情報を得て来るんだよ。誰か知り合いでもいるのかよ」

「まあね。ソース源は明かせないわ。でもかなり有力な情報よ。今度空くことになる教授のポストを轡田荘介が獲得するのはかなり確実ね」

自分はそんなことより轡田荘介の秘書みたいなことをやっている朝野なみのことの方が興味がある。しかしその視点は及川みほには欠落しているようだった。

「前前から轡田荘介と岩川太郎の論戦は平行線だったのよね。でも、ある学派が今力を持っているのよ。そこの論によれば轡田荘介の方が正しいといことになって岩川太郎の方は苦戦を強いられているわけ。だから轡田荘介が学会からその業績を検証されてうちの教授のポストも得るというわけよ」

その力を持っているというわけが自分には今いちわからなかった。と言うよりも誰が教授になろうと自分には関係がない。自分はところてんにすぎないのだから。しかし朝野なみのことに関連してくると口の中に砂が残っているような不愉快な感じは否めない。朝野なみと自分が友達以上恋人未満だとしてもである。

 いつものように学食で飯を食ってから校門を出て坂道をゆっくりと歩いた。坂道を降りきると十字路になっている。その十字路の向こうを渡って十メートルほど進むと少し大きな本屋があった。その本屋は天井が高くなっていて本や雑誌が三メートル近い高さまで棚の中に収まっていた。自分はそこでラジコンの雑誌を見ようかと思った。そしてちょっと高級な喫茶店のような感じもあるその本屋の入り口に立つと見覚えのある顔の男が棚の前で一冊の本を立ち読みしながらにやにやしているのを見つけた。それはあのなめくじだった。そしてなめくじは本をもとの位置に戻すと買わずに本屋を出て行った。自分はなめくじが何ていう本を見てにやにや脂下がっていたのか知りたくなった。そこでその本棚のところへ行くとなめくじが抜いただろう本は少し出っ張っている。そこで自分はその本の背表紙を見た。それは児童文学でかなり有名な外国のものだった。そのタイトルの下の作者名のさらに下になめくじの名前が翻訳者として載っていた。それで自分は納得した。なめくじはこれを見てにやついていたのだと思った。

本屋を出て駅の方に向かうと居酒屋や一杯飲み屋が軒をつらねている。この辺の高級住宅街という雰囲気に似つわしくない。

 駅の切符売り場の前まで行くと改札口から朝野なみがやって来た。自分は朝野なみを呼び止めた。もう夕方である。授業はないはずである。

「授業はあるのかい」

「今日はないわよ」

「じゃあ、何で出て来ているんだい」

「言わなかったかしら、私、轡田先生のアルバイトをやっているのよ」

朝野なみはあっさりと言ったのでそれがかえって朝野なみと自分との距離の長さを感じさせるような気がした。そして自分という存在の朝野なみの中での大きさがわかるような気もした。結局朝野なみは自分にとってはあの教師たちと同じように宇宙人なのかも知れないと思った。そしてもっと華々しく激しいものを朝野なみにもこの生活の中でも期待していた自分の愚かさに気づくのだった。自分は朝野なみに何を求めているのだろうかとも思った。中学時代の淡い思い出を呼び覚ます存在、いや、それとも朝野なみの肉体そのものだろうか。自分は朝野なみのことを本当にすきになりかけているのかも知れないと思った。

 どうやら轡田荘介の教授への昇格は暗黙の了解として決まっているようだった。自分のようなほとんど関係のないような人間でも知っているのだから内部の人間はもっとその中身について詳しく知っていたに違いない。そんな新しい体制を用意するためか、教養部の自分たちもぽつぽつと専門課程をとる段になって去年とはその体制は少しは違っているのかも知れないと思った。自分とEとはある専門課程をとることにしていたがEの方はもうすでにその申し込みを済ませているというので仕方なく自分はあのかび臭い中央棟の教授のところに申し込み書を出しに行かなければならなかった。部屋のドアを遠慮がちにノックしても中からは返事がなかった。そこで自分はさらに強く扉を叩くと中から、開いていますよ、という返事があったのでドアを開けると例の宇宙人たちが控え室の机を挟んで囲碁をやっていた。彼らはみなそのゲームに熱中しているようだった。対戦しているのはふたりだったが三人の教師がそれを囲んで見ていた。自分がその用紙を提出しようと思っている教授の方に申し込みをしたいのだと言うとぎろりと自分の方を睨んだので用紙の方だけを置くとそそくさとその場を退散した。その教授の部屋を出てから階段を下りて下の階に行くと石の床が冷たく感じた。ほとんど中央棟に来ることはなかったので一階に大きな掲示板なんかがあることにそのとき初めて気づいた。黒板のようなボードに緑色のモールが張られてその上に画鋲でいろいろな掲示物が張ってある。その中に物珍しいものを見つけて自分はそれをじっと見つめた。緑の背景の中でその掲示物がひときわ目立っていたからだ。きっとそれも例の生協の関連で張られているに違いない。近くに大きな公会堂があるのだが、そこに東欧の方からサーカスが来るらしく、その宣伝がされている。生協の会員は二割引きで券が買えると書いてある。自分はある期待に胸を膨らませていた。ついて来るかどうかはわからない。しかし、買ってからでなければ誘う勇気もわかないだろう。自分は生協のレジのところでその券を二枚買った。機会は意外と早くにやって来た。学食のところでだしの全然とっていないラーメンをすすっていると朝野なみが気分だけはファションモデルのように肩からバッグをかけながらやって来た。彼女は入り口のところで食券を買ったらしく配膳口に行くとA定食を受け取ってゴムの木の鉢の横の席に座った。自分はすぐに彼女の横に腰掛けた。

「お久しぶり」

自分の方から声をかけるとあの浅黒い顔の中の歯がにんまりと笑った。

「Eくんはいないの」

自分は朝野なみを轡田荘介に取られてから、そういう言い方は正しくないかも知れない。朝野なみは宇宙人であり最初から自分の所有物でもなんでもないのだから。Eといることが多かった。その様子を見て朝野なみはなんと思っていたのだろうか。少しもの悲しい感情が自分の中に走った。

「Eはギターの練習で忙しいんだよ。今度発表会があるからね」

Eはクラッシクギター部に所属している。

「今週の中で暇なときある」

意外にも朝野なみは目を輝かしている。どういう心境の変化だろう。さもなければよほど機嫌がいいのだろうか。自分はあわててポケットの中からサーカスの券をとりだした。

「サーカスの券を持っているんだ。君と一緒に行きたいんだけど」

自分が差し出したオレンジ色のチケットを朝野なみはしげしげと観察して顔を上げると自分の方を見てにんまりとした。

「行くわ」

朝野なみは微笑んだ。さっき感じた機嫌がいいのだという観察は間違っていなかった。

 サーカスの会場に行くと公会堂の横の広い空き地に二色の縞の模様の布で造られた巨大なドームが建てられていた。金や銀のラメが乱反射をしていくつものその光線が錯綜していた。空中には空中ブランコが若い男と若い女のしなやかな肉体をおもりとして揺れた。見たこともない背の低い馬や犬が結婚式の同伴者のように華やかな衣装をまとってその役割を演じていた。そこに出て来た猿の道化は本当に前世は人間で魔法にかけられて猿に変身したものだという感じがした。すると猿の横に立っている太った人間のピエロが魔法を使うことの出来る本当の悪魔じみて見えてきた。

(小見出し)なめくじ

 朝野なみは童心を取り戻したかのように喜んでいた。その姿を見て自分も幸福だった。ふたりとも満足して夜の道を歩いていると自分は彼女が自分の恋人のような気分になった。なんとなくうしろめたい気持ちもなく轡田荘介のことを聞けるような気分がした。それまで自分は朝野なみと轡田荘介のあいだに流れる犯罪めいた秘密の時間のことに考えがいっていて気持ちが晴れやかでなかった。

「なんでアルバイトなんて始めたんだ」

「アルバイトってなんのこと」

朝野なみは自分の言っていることの意味をわかっているようだったが黙秘権を使っているようにも思えた。

「結構、よくないと言っている奴もいるよ。クラスの連中の中では」

実際にはそんなことが話題になったことはなかった。

「轡田先生のところでの資料整理のアルバイトのこと」

「そうだよ」

「あれはね。もうすぐ轡田先生の授業をとることになるじゃない。その準備なのよ。点数を上げてもらうためのね。あなたの点数も上げてもらうように頼むつもりよ」

なんとなく自分はその話しは信じられなかった。作り話としてもあまり信憑性もない。ただ轡田荘介という存在の比重を薄めるためだけに話しているような魂胆にも見えた。それよりも自分が轡田荘介について興味を持っているのは、昼メロでやっている彼のドラマに出てくる横須賀の豪邸である。朝野なみはそこを訪ねたことがあるのだろうか。

「轡田荘介って横須賀の方に豪邸を持っているそうじゃないか。きみはそこへ行ったことがあるのかい」

朝野なみの顔には微妙な微笑がひろがった。そのことを肯定しても否定してもいいというような微笑である。

「豪邸、横須賀」

朝野なみは白い歯を見せて笑った。

「どこからそういう言葉が出てくるのよ。轡田先生は横須賀に住んでいるというの」

最後は疑問形になっている。

「昼メロでやっていた」

そこで朝野なみはまた白い歯を見せて笑った。

「そんなことより」

朝野なみは色の黒い顔の中の瞳をきらきらさせて自分の顔を見つめた。自分には朝野なみの顔がハワイかどこかの原住民のように見えた。

「渋谷に行かない」

自分には朝野なみの言っていることがわかつた。三十分後には自分と朝野なみは道玄坂の裏の方のホテル街を歩いていた。

 その翌日、語学の時間になっていつもより喜んだ顔をして語学を担当しているなめくじが教室に入って来た。手には雑誌が握られている。授業が始まる前に身辺雑記を十分ぐらい語るつもりのようだった。こういうのを落語の世界では枕という。

「これを見てくれよ」

そう言ってなめくじが取り出した雑誌は外国のものだった。それを開いて色の出の悪い写真が写っているのを見せる。サンフランシスコかどこかの写真だった。

「ここに住んでいたんだぜ」

なめくじはその写真に写っている小さなビルを指し示した。本当にその写真の隅の方に写っているビルだった。その写真の中心には地中海風の建物が写っていてハリウッドのスターも訪ねて来るような有名なレストランだそうである。そのレストランから三軒くらい置いてなめくじがむかし留学していたとき住んでいたビルが写っていたそうだ。それでうれしくなったのか、話の種が出来たと思って喜んだのかわからないがその雑誌を持って来たらしい。なめくじはその話をした。なめくじがどんな経緯を経てここで語学を教えることになったのかほとんどその話を聞いていてもわからなかったが彼がある時期アメリカに留学していたのは事実らしい。

 そして授業の方に入った。テキストはなめくじが選んだ本である。それをどうしてなめくじが選んだのか、自分にはさっぱりわからなかった。クラスの連中も知らないだろう。 話の、つまりテキストの内容の方はひどく内気な男がいてエジプトのナイル川の観光に参加するという話である。日本語の方でさえ、判然と場面が浮かぶことが少ないのだから英語でされたらなおさらわかりにくい。ナイル川が幅が三メートルほどのどぶ川に思えてくる。話の中に出てくる黄金虫のお守りがごきぶりのように思える。自分は当たらないようにと願いながら、生あくびをかみ殺しながら意識は朦朧としていた。そして事務的にナメクジは朝野なみを指名した。自分の斜め後ろの方で姿の見えない朝野なみの少し鼻にかかった声が聞こえた。その朝野なみの訳は自分の頭の中で本当にナイル川観光をしているような気分になった。何よりもその訳には色気があるような気がした。自分でさえそう感じるのだからなめくじはそのことをもっと感じているのに違いない。

「うん、なかなか、いいねぇ。気分が出ているよ。感性が豊かになったんじゃない。恋いでもしているのかな」

なめくじは朝野なみを誉めた。なめくじは女子学生に接するときだけ使うおねえ言葉を使った。

 授業が終わってから自分は朝野なみを呼び止めた。朝野なみは例の変なバッグを肩から下げて振り返った。そして、にっと笑った。「誉められたじゃないか」

朝野なみと自分は学食の横の喫茶店に入った。ふたりがデコラ板の丸テーブルに座るとダイヤモンドカットされたくすんだやたらに厚いコップに入ったアイスコーヒーと小さなステンレス製の容器に入った ミルクが運ばれた。朝野なみは化粧気のない顔をこちらに向けながらミルクをアイスコーヒーの中に注いだ。

「感性が豊かになったと言われたじゃない。何かあったの」

朝野なみは相変わらず白い歯をにっとさせたまま何も言わなかったが

「ある衝撃的な事実があるのよ」

と言って横に置いてある趣味の悪い変なバッグの中から日記帳を取り出した。そしてにたにたしながら自分の方に渡した。

「読んでもいいよ」

自分はその切手の収集帳のようなものを広げて見た。そして唖然とした。それは日記で自分となみの交友記録のようなものだった。もっとあからさまに言えば朝野なみと自分とのデートのときの記録である。セックスをしたときのことも精細に書かれている。自分は思わず朝野なみの顔をまじまじと見つめた。

「変なことやめろよ。誰かに見せていないよね」

自分の声は小声になった。

「いいじゃない。感性が豊かになったと言われたでしょう」

書かれているということより、書かれた内容である。あわてて見たので自分がどういうふうに朝野なみにとられているのかよく見ていなかった。

「もう一回、見せてよ」

「だめ」

朝野なみはそのノートを自分の変なかばんの中にしまってしまった。

「とにかく変なことはやめろよ」

と言いながら朝野なみの中で自分がしめる割合が多いのではないかと思い内心は少しうれしかった。しかしまたある後悔が浮かんで来た。自分のことを書いているなら朝野なみは轡田荘介とのことも書いているのではないかということだ。同じようなノートがあるかも知れない。朝野なみはいまだに轡田荘介のところでアルバイトをしている。さらに別な方向から考えて朝野なみがこのノートを他人に最悪の場合は轡田荘介に見せているのではないかという疑いが生じた。

(小見出し)文学学会

 相変わらず轡田荘介はスターである。最近は文学学会から表彰された。そして教授に昇格するのは確実と言われている。

 そんなとき朝野なみからひどいことを聞いた。今度、轡田が一ヶ月くらいヨーロッパのほうに研究旅行に行くからついて来てくれないかと言われたそうである。自分は大丈夫かと朝野なみに聞いた。そのときの気持ちは朝野なみのことを気遣うと同時に轡田荘介への嫉妬もあった。とにかく自分は朝野なみにその旅行をやめるように反対したが彼女は行く気になっている。自分はどうしたらいいかわからなかった。そんなとき何かのときにあのなめくじが轡田荘介の悪口をちらりと言ったことがあるのを出した。なめくじは轡田のことが嫌いなのに違いない。ほかの教師たちは宇宙人であるし同僚の不利になるようなことはしないだろう。その点なめくじなら微妙な立場にいる。語学の授業が終わったあとでなめくじのあとをつけた。そしておずおずと用件を切り出した。なめくじは自分が知っているという駅の反対側の喫茶店に自分を誘った。

「先生、うちのクラスで朝野なみって知っていますか」

彼女が轡田荘介のアルバイトをしてることを言うとなめくじは驚いた。そのことを知らないようだった。そしてなめくじは轡田荘介のライバルの岩川太郎のことをよく知っている、岩川太郎の弟子みたいなものだと言った。岩川太郎から聞いた話では過去にもそんな話があったそうだとなめくじは言った。それも犯罪に結びついているという話だ。そんなアルバイトの女は不慮の死や失踪という結末が待っていると脅した。そして岩川太郎の連絡先の電話番号を教えてくれた。

 さっそく自分は岩川太郎に電話をかけた。まだ若いという感じの声が電話口で聞こえた。

「まず、きみの知り合いの女の子をもっと詳しく観察しなければなりません。轡田荘介は変態です。今度その女の子の太股の付け根のところを調べてください」

そう言われたので自分は朝野なみとセックスをしているとき朝野なみの太股の付け根のあたりを見ると噛まれたような歯形がついていた。そのことを報告すると岩川太郎の声音は変わった。ことは急を要します。とにかく会いましょう。地平にも岩川太郎の顔写真も詳しいこともわからなかったが雨がそぼ降る日に駅の前の和菓子屋の前で傘をさして待っているとげじげじ眉の沖縄人みたいな三十半ばくらいの男が小型の乗用車を停めて向こうからやって来た。それが岩川太郎を見た始めだった。

「初めまして、わたしが岩川太郎です」

自分は岩川太郎に良い印象を持った。それは轡田荘介とは反対の印象である。決してこの男が昼メロなどには出て来ないだろうと思った。

「わたしに早く連絡をくれて良かったです。わたしは轡田荘介の餌食になって不慮の死を遂げた女性たちをたくさん知っています」

自分は地平にも執筆しているこんな人を自分のうざったい下宿につれて行くのは気が引けたが彼の車の助手席に座ると自分の下宿へ行く道を示した。ふたりが下宿の部屋に戻ると電話のベルがなった。朝野なみの近所に及川みほが住んでいて朝野なみが轡田荘介に誘われて轡田荘介の車を待っために待ち合わせをしているという情報を送ってくれた。自分と岩川太郎は早速彼の車に乗って指定された場所に行くと朝野なみがひとり立っていた。朝野なみは自分たちに気づいていないようだった。岩川太郎の話によると轡田が横須賀のどこかの豪邸に住んでいることは事実だという。しかしそれがどこなのか偽名を使っているらしく判然としたことはわからないというのだ。それで轡田の車を尾行するしかない。自分には轡田が来るのを待っている朝野なみの姿が水辺で何も知らずに肉食獣に襲撃される運命にある哀れな草食獣に思えた。

 やがて朝野なみのそばに例の赤い外車がするすると近づいて来た。運転している轡田の姿は見えない。その車が朝野なみを乗せて走り出したので岩川太郎はその車を追って自分の車を発車させた。道路にはあまり多くの車も走っていなかった。追尾するのは簡単だった。轡田の車は国道からやがて高速に乗り換えた。そして車は神奈川方面に向かった。自分は轡田が横須賀に住んでいるのは本当だったのだと思った。横須賀方面で轡田の車はインターを降りたので岩川の車もインターを降りてその車を追った。轡田の車は海の方へ海の方へと向かって走っているらしい。切り通しの小高い山のあいだを抜けて行くと潮のにおいがし始めた。やがて切り通しのあいだから在日米軍の将校が住むような豪邸が現れ、その中に轡田の車は入って行き、ふたりは車から出ると家の中に入って行った。その豪邸は家の周りを金網が覆い、金網には枯れた雑草が茂っている。建物自体も崩壊して行く過程のように古びていた。しかし庭にはたくさんのあじさいの木が植わっていて薄紫の花を全体につけている。自分はすぐにその家の中に入ろうと思ったが岩川太郎はしばらく待つように言った。少し経てばふたりは眠りに入ると言うのだ。自分はいらいらしながらその朽ちた豪邸の気味の悪い入り口のドアを見つめた。岩川太郎は静かに時間が経つのを待っている。「さあ、いいでしょう」岩川太郎に促されて自分は車から降りた。その家のドアを開けると中には何もない部屋があってそこにまたドアがあった。そしてそのドアを開けるとまた別の部屋があったが自分は思わず目を背けた。部屋の中央に六角形をしている大きな木の台があり、朝野なみはそこで死んだように仰向けに寝ている。その横に長方形をした木のおけのようなものがあって緑色のわけのわからない液体が少し張られていてその中に轡田がやはりその液体に浸りながら死んだように寝ている。自分がふたりは死んでいるのかと言うと岩川はただ寝ているだけだと言う。そしてふたりは少しも動こうとしなかった。それからその部屋のうしろにもうひとつドアがあるのを岩川太郎は発見した。六角形の木の台の横を通ってそのドアを開けると変な棚がたくさん並んでいた。ガラス製の大きな容器がたくさん置かれてその中にホルマリン漬けの灰色に変色した脳髄なんかが置いてある。そして長い年月のために変色した紙なんかが置いてあってその中の一枚をたまたま見ると朝野なみが幼稚園のころに書いた絵日記だった。岩川太郎はここが腐敗の館だったのかと言った。自分にはそれがどういう意味なのかわからなかった。とにかくこの生活を続けて行けば朝野なみは生命をすり減らして死んでいくだろうと言う。岩川太郎はいい方法があると言った。最近朝野なみが日記を書いていなかったと聞いたので自分は例の日記のことを言った。その日記がその棚にあるはずだから探すように言った。岩川太郎の言ったとおりあの切手帳のような日記があった。岩川太郎はその日記を読んでいたがその日記の結末のところに轡田荘介が朝野なみとの恋愛の末にふられて悲しみのあまり発狂して死ぬと書き換えておいた。そして木の台のある部屋に戻ると自分と岩川は朝野なみを起こして服を着せた。朝野なみは意識がはっきりしていなかった。轡田が起きてくるのを心配したが轡田は寝たままだった。

 自分と岩田は朝野なみをつれて自宅に戻った。

 すると翌日、轡田の家が全焼して轡田荘介が死んだというニュースがテレビで流れた。自分はもっと詳しいことを知りたいと思った。岩川太郎の話を聞きたいと思った。地平に連絡すると岩川太郎は原稿を送ってくるだけなので岩川太郎には連絡がとれないと言う。自分は仕方なくなめくじに岩川太郎に会ってもっと詳しい話を聞きたいと言ったらあれは岩川太郎ではないと言った。あの男がなめくじのところにやって来て学生を騙すおもしろいことがあると言って金を渡されてあのお芝居をしたのだと言った。

 自分は騙されたことの憤りよりも岩川太郎が本当は何者なのか、それよりも本当にそういう人間がいたのかということが疑問に残った。

しかし、半年もすると自分もなみもこの奇妙なできごとのことは忘れていた。朝野なみがふたりだけで北海道旅行に行こうと言ったので自分と朝野なみは北海道旅行に旅立った。摩周湖の方で遊覧船に乗り換えるとき向こうからサングラスをかけた男が降りて来て行き過ぎた。自分と朝野なみはすぐに遊覧船に乗船してやがて船は岸を離れたので確かめられなかったのだが、朝野なみはあの男は轡田ではないかと言った。岸の方でその男がこちらを見ていた。そしていつのまにかいなくなった。自分はそれが轡田荘介ではないということは断定が出来なかった。そして文学学会の方でも「偉大なる暗闇」の信憑性に関しては結論を下せなかった。

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