第2話

第二回

朝のなみ

 自分と朝野なみは味噌屋の前で落ち合った。味噌屋矢崎商店の前でである。何故かその味噌屋は夜遅くまでやっていてまわりの商店が明かりを落としても味噌樽に照明が当たって透明なセルロイドの蓋を通して光りが濡れた味噌の上に注いでいる。八丁味噌、白味噌、赤味噌、いろいろな味噌が樽の中で眠っている。しかしその味噌は息をしているようだった。店の中には今の時代では使わなくなった真鍮と鋳物で作った天秤秤が置かれている。それはまるで竜宮城の乗り物のように見える。そしてそこはちょうど十字路に当たっていてその扱っている商品にもかかわらず何か華やかな感じがした。と言うのもその店は何かの文化財ほどでもないがそんなような指定を受けている明治時代そのものの建物だった。少しはその建物を保存するための援助がどこからか出ているらしい。そして建物自体は古いくせに店の中も外も磨き上げられていたので琥珀のような光を放っている。まわりの店に較べてその店だけがまるで映画のセットのように輝いていた。

 その角に自分は立っていたがたぶん光か影かの二色で描かれた漫画のように朝野なみには見えただろう。ふたりはそこで落ち合って坂道を上がって行った。その味噌屋も緩い坂の途中の十字路にあった。そして坂を上がって行くと歓楽街になっている。坂の途中を少し歩いて右に曲がると大きなゲームセンターがあった。建物の外見はそういう造りになっている。そこは昔スーパーマーケットだったらしい。建物の外見はその名残を明確に残している。そして中身はそのままどこかに移転して外側は看板なんかを変えてそのまま一階全てがゲームセンターになっている。もっともそこに遊びに来ているのは近所の中学生や小学生がほとんどでランニング姿の坊主頭の中学生がサンダルを履いて自宅から来ている姿は微笑ましかった。

 自分と朝野なみはその横についている雨ざらしの階段を登って二階の方に上がった。

 そこは広さだけは大きな喫茶店になっていた。スーパーの二階をそのまま喫茶店にしたためにやたらに広いことは広い、店の窓には安物の色ガラスが張られていて鉄パイプの椅子やテーブルが用意されている。店の中にはちらほらと人が座っている。何故か自分はそこに入ると野菜の市場を連想した。

 ふたりが座ってしばらくするとアイスコーヒーが運ばれた。朝野なみはピザまで注文した。

「昼メロ見た」

朝野なみの方から訊いてきた。

「話の内容はよくわからないんだけど母親が何か怖い人だったみたいだよな。でもなんで轡田楠は家の中に入って行かなかっただろう」

朝野なみはストローでアイスコーヒーを飲みながら答えた。

「そんなこともわからないの。轡田楠が外に愛人を作っていたからじゃないの」

自分も途中から見ていたので話しの筋は中途半端にしかわからなかったがそんなことは何となくわかった。

「それとね。あのテレビで見た轡田荘介の家はあじさいが咲き乱れていたでしょう。実際の家もかなりな豪邸らしいわよ。横須賀の方にあるらしいわ」

朝野なみはその方にも興味を持っているらしいので自分はなんとも言えない不安を感じた。自分の住んでいるのはボロ下宿である。それに較べて轡田荘介は自分の子供時代がドラマ化される有名人である。そしてエロスと犯罪のにおいを漂わせている。自分は今まで生きて来た中でそんな人間が近い距離に存在したことはない。男としてなんとなく不安になった。女にとっては轡田荘介のなんとなく秘密めいた生活が魅力的に映らないことはなくもないだろう。朝野なみも女である。

「テレビでは轡田荘介は横須賀に住んでいるということになっているけど実際そうなのかい」

自分は何事もないように朝野なみに尋ねた。自分の方から平静を装ってそんな質問をすることはもしかしたら朝野なみを試しているのかも知れないと思った。朝野なみの口から発せられる言葉にどんなニュアンスが含まれているのか、自分にはわからなかった。しかしあまり有効なリトマス試験紙にはなっていないようだった。

「轡田は横須賀の海のそばに住んでいるらしいわよ。それも波の音が聞こえるところで豪邸に住んでいるらしいわよ」

自分はその横須賀という地名を聞いてトンネルを連想した。ずっと以前に横須賀に行ったことはあるがやたらにトンネルのあるところだという印象しかなかった。それも自動車や人が通り抜けるトンネルという意味ではなくてただ横穴が大小含めてたくさん開いているということである。だいたいは人が掘ったトンネルで大昔は手掘りで近代になってからは工作機械によって掘られたのだろう。そしてもっと昔に掘られたトンネルは洞窟と言ったほうがいいのかも知れないが奥の方には墓みたいなものもあるのかも知れない。そこにトンネルがたくさんあったと言うと朝野なみは何だこの人はつまらないことを言うというような表情をしたが自分にはそんな認識しかないのだから仕方がない。それとも自分の言葉が足りないのだろうか。

 そしてそのときいつもより自分の顔は脂ぎっていたかも知れない。そのことが無意識に自分が朝野なみに不快感を与えていたのかもしれない。自分にはある決心があった。朝野なみと友達以上の関係になりたいという欲望があった。

 その喫茶店を出てから僕と朝野なみはその繁華街の坂をだらだらと下りて行った。坂を下りきると川が流れている。川の両岸にはまるでここが中国でもあるかのような建物が並んでいて窓から漏れてくる光はちかちかと輝いていた。窓から漏れてくる光は花火のたまのように川の面に落ちて行くようだった。

「今晩は一緒に寝ないか」

自分は思いきって言った。ほとんど何のセンスもない言い回しである。

朝野なみは少し驚いたような表情をした。考えてもいなかった言葉でもないだろうと自分は思った。しかし朝野なみが本当に何を考えていたのかはよくわからなかった。自分のことが好きなのか、嫌いなのか。

「本当に私のことが好き」

朝野なみは川端を歩きながら横も見ずに言った。自分も前の方を見ながら、しかし、朝野なみの横顔は確かに見えていた。本当に自分は朝野なみのことが好きだろうか。自分で自問してみた。この小柄で色の黒い女が自分の人生の中で過去にもいるような気がする。そうだ。あれはまだ自分が中学生の頃だったかも知れない。その頃中学の帰り道にスイミングスクールがあってよく帰り道で出会う女がいた。もちろんいつも出会うわけではない。向こうはあるコースがあってそれにしたがって行動しているからそうなのだが自分の方はその彼女の行動に合わせるように動いていたのだ。だから週に何回かは出会うことになった。しかし特別に話をしたのではない。同じ中学に通う同じ学年の女だった。スイミングスクールから出てくるときは女の子何人かで出て来た。その女に少し興味を持っていたというのも同じクラスの中でその女のことがひどく好きな奴がいてその女がスイミングスクールに通っているのでそこで愛の告白をするなどと言う話が中学校のクラスの中で盛り上がっていたのを聞いていた自分たちは数人でその様子を見に行ったことがある。その女が出て来たときその主犯がおずおずと進み出ると女のグループの中に囲まれてその女はうれしいような困ったような顔をした。結局その告白は成功しないようだったがその様子を盗み見ていた自分にはその女が特別な存在のように思えたのだ。今でもその女の顔がありありと浮かんでくる。そしてなぜだか知らないが朝野なみを見るとその女の顔が思い浮かぶのだった。本当に自分が朝野なみのことが好きなのか。もしかしたら自分はその女のことが好きなのかも知れない。その思い出を引きずっているのかも知れない。そのときは何もなかったにしてもだ。誰だって自分の本質の一番奥に何があるのかなんていうことは自分ではわからないものだ。しかし一つだけはっきりしていることはやはり朝野なみの顔を見るとその女の顔が浮かんで来て懐かしい気持がするという事実だ。と言うことは単純にやはり自分は朝野なみのことが好きなのだろうか。この現象を科学者はもっと深く研究した方がよいかもしれない。科学者の中でも生物学者こそ適任である。朝野なみがあってその女が浮かんでくるのか、その女がいて朝野なみを好きになったのか、もしかしたら自分は朝野なみとその女を同一視しているのかも知れない。

 そのとき朝野なみの持っている携帯が鳴り始めた。

「もしもし、あら、お母さん、今帰るところなのよ」

その一言で自分の欲望は一気に沸点から低下した。

「明日、また会いましょうよ。轡田荘介の帰朝講演を聴くんでしょう」

朝野なみは女にしては黒い顔の中の白い歯をにっとさせて笑った。

自分は朝野なみと別れてからも自分は本当に朝野なみのことが好きなのか考えてみた。なぜだか知らないが朝野なみに会うとあの中学時代の女の顔が思い出される。別に何の関係もないのにである。つまりその女とは何のドラマもなかったのにである。遠くで眺めていた景色のようなものだった。少しばかりその景色が自分の精神作用に及ぼしてくることはあってもこちらが向こうに何の影響を与えたわけでもない。

 次の日、自分は自分の大学の中央棟の中庭に立っていた。庭の中には四角に区切られた中に池があって蓮の葉が濁った水の上に浮いている。池の表面近くにはぼうふらのような虫が泳いでいる。誰も世話をしていないので池の淵の石には雑草が生えている。足が滑らないで都合がよいのだが敷石は表面がざらざらしている。工事費を安くあげるために大谷石をただ赤土の中に埋め込んだだけだったからだ。そこはなんとなくイタリヤの下町の広場を連想させるがそれはイメージだけだった。そしてそこはいつも死んだ街のようだった。今日は床屋が営業中で錆びた看板が中庭から入る入り口のところに置いてある。この床屋は棟の中の方からも入ることが出来るようになっていた。自分はまだ一度もその床屋のドアが開けられているのを見たことはない。一階の棟の方から朝野なみが声をかけた。あの白い歯をにっと自分のほうに向けた。自分はその方に振り向いた。

「こっち、こっち」

自分はあのかび臭い、ひんやりとした中棟の石の廊下の上に立った。教室の扉は全部閉められている。一つ残らずである。

「一階じゃないわよ。二階の部屋でやるみたいよ」

自分は朝野なみと一緒に棟の一番端にある化石のような階段を登って行った。

その講演をやるという教室の扉は閉まっていて誰もいなかった。大きなトランプのカードのような扉が垂直に立ってこちらを出迎えているようだった。雨も降らないのに傘立てが入り口の横に置いてある。自分と朝野なみはその後ろの入り口から入ったが誰も見知った顔はいなかった。しかし及川みほの顔を見つけたときだけは安心した。ちょうど及川みほの横の席が空いていたので自分と朝野なみはそこに腰掛けた。前の方に語学の演習のときに授業を受けたことのある助手が座っている。なめくじみたいな感じの男である。その助手は一般教養の英語の演習のときに自分のクラスに来た。はっきりと思い出せないのだが自分の嫁さんの話になって和菓子を嫁さんが買って来たときにどうしたこうしたという話だったと思う。ひどく所帯じみた話をした。そのときに自分はその男のことをなめくじみたいな印象を持ったという話だ。しかしその時期がちょうど梅雨どきに当たっていたからそう感じたのかも知れない。教室の中には四十人くらい入ることが出来る。自分たちの座っている前の方の席が埋まりだして教室の中が少しざわざわし始めたときに前の方の入り口が開いて轡田荘介が入ってきた。それが自分が轡田荘介を初めて見た記憶だった。教室の中は一瞬だけ静かになった。隣の朝野なみが自分に小声ではなしかけてきた。

「見たことあるような顔じゃない」

そう言われればどこかで見たことのあるような顔である。自分の頭の中に住む小人がいろいろな記憶の断片を尋ね歩く。

「民話を収集して話している役者がいたじゃない。それを若くしたみたいだ」

轡田荘介がだれかに似ていると思いながら思い出せなかったが自分はやっとその顔を思いついた。その顔を思いついたと同時に夢の中で轡田荘介が自分の方を振り向いたような気がした。そのことを話すと朝野なみも同意した。年齢は「地平」に反論を載せている岩川太郎と同じくらいの年か、三十の後半ぐらいだろう。朝野なみはじっとその男を見つめていた。興味津々というところだ。自分はぼんやりと轡田荘介の顔を見つめた。いかめしい顔にはかかわらす優しい声音がする。

 そして轡田荘介はロンドンで自分が発見した夏目漱石自筆の「偉大なる暗闇」について語りだした。しかしそれは自分の予想していた話と大部違っていて自分の文学論を無理矢理展開していくものだった。その強引さもあってか、移相がどうの、メタファーがどうのという自分にはちんぷんかんぷんな話しだったが朝野なみは目をきらきらさせて轡田荘介の話を聞いている。自分は移動遊園地に連れて行かれて頭の上の方を宇宙遊覧船が回転しているような気がした。そしてその講演の終わりには轡田荘介は今日の講演の感想を聞きたいと言って簡単な用紙を渡した。そこで朝野なみも自分もその用紙に感想を書き込んで教室を出て行くときにその用紙を渡した。塗料のはげたような机の上にその紙を置いてその教室を出てきたのだが議事場で不信任案を提出しているような態度だったかも知れない。自分はさきにその用紙を渡してはやばやとその教室を出て来たのだが朝野なみはもたもたとしている。教室の外で朝野なみが出て来るのを待っていると朝野なみがその用紙を轡田荘介に渡すところだった。自分がその様子を見ていると轡田荘介は少し身をかがめて朝野なみに二言三言話しかけているようだった。

出て来た朝野なみに自分が轡田荘介に何を言われたのか聞くと朝野なみは何も言われなかったとだけ答えた。そのあと及川みほが出て来て意味もなく自分の顔を見て笑ったので自分は不愉快になった。朝野なみは意外と年上の大人に取り入るのがうまい。

 その日は空も低く今にも雨が降りそうな天気だった。校舎は坂を上がったところにあり、そのことがなおさら雨が降る気配を感じさせていたのかも知れない。自分がなめくじという印象を受けた助手がかばんを小脇に抱えたまま自分の横をすり抜けて校舎の中に入って行くのが見える。朝の天気予報など見たこともなかったから傘など持って来るはずもなかった。自分は門を入ってからすぐの屋根のついた掲示板の前に立って待っていると校舎の中から朝野なみがやって来る。朝野なみが自分のいる掲示板のところにやって来たとき灰色の雲の固まりの中から無数の雨粒がかそけく落ちてきた。雨が降り始めた。自分たちは掲示板の上についている小さな屋根の陰に入った。朝野なみも傘を持っていなかった。

「どうする。このまま帰って行くと濡れちゃうし」

駅までの距離はかなりある。ふたりとも傘を持っていないのでかなり濡れてしまうだろう。そこへ校舎の中庭の方から赤いスポーツカーがやって来てふたりの前で停まった。そして例の轡田荘介が顔を出した。

「朝野くんじゃないか」

「先生」

朝野なみはいやに親しげだった。

「傘がなくて濡れるのが心配でここで立ち往生しているって、ふたりともいいよ。乗ってくれ、国道に出るから途中で駅前でおろしてあげよう」

あきらかに自分は付け足しのようだった。そして轡田荘介もそのことをかくしていないようだった。教養部の学生を教師が自分の車に乗せることはきわめて珍しいことだった。それほど朝野なみと轡田荘介は親しい間柄なのだろうか。つい四五日前にふたりでこの男の講演を聴きに行ったばかりではないか。

 朝野なみと自分が後部座席に座ると轡田荘介は車のアクセルを踏んだ。自分がバックミラーを見ると今校舎の中に入って用事を済ませて来たのだろうか。あのなめくじのような印象を持った助手が校舎の中から出て来るのが見えた。

 その男のやっていた授業を自分は思い出した。英文学を専攻している男だった。英訳のテキストとして自分が聞いたこともないアメリカの作家の小説を買わされた。そのテキストが決まった時点でその翻訳本を誰かが買って来てコピーが回されたのも高校のときと変わらない。

 その男の目安にしている分量が終わって時間が余っていると感じたのか、その男は自分の奥さんがスーパーに豆腐を買いに行ったときのできごとをくだくだと話し始めた。

 それから自分たちに対して君たちはところてんみたいなものだと言った。要するに四年間ここにいて卒業証書だけ貰って出て行く存在だという意味らしかった。そのところてんたちから授業料を取って好きなことをしているあなたたちは何なのだと言いたかった。そんな言葉を聞くまでもなく自分はここにいる存在理由も確固としたものは得られず場違いな感じがした。自分はここに何をしに来たのかという軽い悩みもあった。言葉を返せば生活が根を張っていないもどかしさや甘さもあったということだ。しかし卒業証書は一応欲しいと思っていたからいるに過ぎないのだが。

 そして大学のある場所も高級住宅街の中でここにもぴったりとしない感覚がつきまとっている。ちょうど地に足がついていずに自分の身体は気球に吊されて風の吹くままにどこかに飛ばされるような気がする。校舎の中にはやたらほこりが入って来た。

 轡田荘介は無言で車を運転している。坂を下るだけだからものの二三分もあれば駅に到着する。駅についた自分と朝野なみは電車に乗り込んだ。

 その夜は言うに言われない疎外感を自分は感じていた。自分以外のものはみんな幸福に見える。そしてあの朝野なみの轡田荘介に対するなれなれしさはどうなのだろうか。自分はそばにあった雑誌を力まかせに丸めるとごみ箱の中に投げ込もうとした。そしてテーブルの前で大の字になると天井を向いて大きく息を吐き出した。

「いかがわしい奴」

自分は轡田荘介にそんな言葉を投げつけてみた。なにからなにまでもいかがわしかった。自分の父親の人生がドラマになる文学部の助教授なんて世の中にいるだろうか。「偉大なる暗闇」が実在するなんて信じられない。いまいましい気持を抱いているままに新聞を手にしてみるとあのいかがわしい新聞社の名前だ。何から何までもいかがわしい。いつだったか「偉大なる暗闇」が発見されたと文化欄に書いていた新聞だ。極東首都圏生活改善新聞東京都版。それが何故自分のそばにあるのかわからない。むしゃくしゃした気持をはらすためにもその新聞も丸めてごみ箱に投げ込もうかと思った。しかし意外なことにまたもや轡田荘介の名前がちらりと目に入った。見たいような見たくないような不思議な気持がする。しかしその名前が載っているのは文化欄ではなくてテレビ欄だった。轡田荘介のことを取り上げたテレビ番組があるらしい。時間を見るともうすでに半分以上終わっているらしかった。テレビのスイッチをつけるとブラウン管の中には日本文学学会の役員という人が出て来て討論をしている。その話している内容を聞くと轡田荘介の強力な対抗馬として近代文学の中で岩川太郎が存在しているらしい。ことごとく岩川太郎は轡田荘介の論に反駁しているらしい。この手の敵対者が実際は協力者であるということもよくあるだろう。敵対者がいることによりある主張が盛り上がったりする。それが偶然の成り行きだったり意図的に仕組まれていることもある。しかし轡田荘介の反対者は本質的に反対者なのだった。轡田荘介の論そのものに立場やいろいろなものを含めて反対しているのだった。その議論が伯仲しているとき老人がはなはだ言いにくそうな話題を口に出した。それが話の口火を切ってどういう反応がその場に広がるのか、おずおずと試すように議論に加わった。この人が岩川太郎の先生筋に当たる人らしい。轡田荘介の発見により遺族が猛反対しているという。文学史上に出てくる人物に対する美談のにおいのするものを打ち壊すようなことを轡田荘介はしているというのだ。たとえばこれは美談というよりもスキャンダルと言ったほうがいいかも知れないが佐藤春夫に関してのことなどもある。佐藤春夫と谷崎潤一郎と松子の三角関係の中で佐藤春夫がさんまの歌を書いたなどと言われているが実際は佐藤春夫はそのときに松子夫人に興味を失っていて近所に住んでいた小学校の女教員が佐藤春夫のところに遊びに来ていたのだがそれがさんまの歌を書いた原因だと轡田荘介は発表している。しかしそれは少しも本質的な問題ではなく、ただ文学界の注目を浴びたいがために轡田荘介はそんな学説を発表したなどと最初はおっとり刀で始めたがしまいには人格攻撃にまで発展していた。話がどんな方向に行くかわからないと思った司会者はほかの方面に話を持っていった。そしてその番組の中に出演していた轡田荘介の支援者はそのことを証明する恋文のコピーを提出した。しかしそれが佐藤春夫の書いたものであるということは明らかになったがそれが誰に出したものかということは判然としなかった。そして岩川太郎派と呼ばれる人々はこの仮説をそのうちにはっきりさせると断言した。どうやら彼らは決定的な方法を持っていたらしい。そして轡田荘介に関して言えば今回の「偉大なる暗闇」の発見に対して文学界はある重要な賞を与えようかという話が出ている。反対派はそのことがおもしろくなかったのかも知れない。自分はテレビのスイッチを消した。

 自分は授業もないくせに早い時間の教室に来ていた。あと三時間経たなければ授業はない。自分は用もないのに一般教養をやる新校舎の方に来たことになる。最近朝野なみはなんやかやと忙しいらしく顔を合わせる機会もあまりない。新校舎の中に入って行っても誰もいなかった。新校舎そのものも校舎の中もまるで三多摩にある新興住宅地の高校のようだった。校舎の造りも置いてある机や椅子も安物だった。中央棟のいかめしい造りとはひどく違っている。自分はその安物の椅子に腰を下ろしてかばんを机の上に投げ出した。薄い木目がプリントされた机の上を指でなぞってみるとほこりが指につく、風で運ばれたほこりが教室の中にまで入ってくるに違いない。リノリウムを張った床の方もほこりがつもっているようだった。ここがちょうど坂道をあがった高台になっているから風が四方からこの校舎の方に吹いてくるのかも知れない。まわりは高級住宅街に囲まれているのにこの大学が高台にあるということが不思議だった。それにしてもこの大量なほこりがどこから飛んでくるのだろうか。地面がむきだしになった校庭からだろうか。そういえば校庭に面して立っている新校舎のアルミサッシの窓はいつも開け放たれている。このまわりに木造の住宅というものもあまりないことに気づいた。コンクリートで作られた豪邸と言ってもいいような家が多い。そのためによく裏の方の道をコンクリートミキサー車が行き来していることがある。ここはほこりに満ちていた地区なのだと妙に自分で納得した。日の強いときは太陽の熱が地面の中にとらえられるような印象があった。

 机と椅子が一体となった教室で薄いベニヤで作られた椅子の上に横になっていると教室の入り口のところで不機嫌なしわぶきが聞こえ、机の金具を長い柄のさきがTの字になった箒でこつこつと叩く音が聞こえた。自分はびっくりして体を起こして入り口の方を見ると妖怪じみた年寄りがこっちを見て不機嫌そうな顔をしている。掃除のために雇われた年寄りだった。やっぱり顔を起こしてその年寄りを見ると自分のことが邪魔らしく見えた。

 そうだ。自分は思い出していた。語学の授業に来ていたあのなめくじがこの教室の掃除をしている老人を知っているのだが自分がまだここの学生のときにもその老人がいたと話していたことがある。この年寄りがその男かも知れない。もちろんナメクジがここの学生だったときにはもっと若かっただろう。ということはこの年寄りはもう十年以上はここで掃除をしていることになる。ここについてかなりのことを知っているに違いない。

 自分は最近疑問になっていたことを聞いてみた。

「中庭に床屋があるんですが、最近はいつも休みですね。あそこからうちの先生の轡田さんが出てくるのを見たことがあるという友達がいるんですが最近は営業していないんですか」

自分がそう話しかけると年寄りははいていた箒を動かす手を止めた。

「あそこは商売でやっている床屋じゃないんですよ」

年寄りは話しかけられて満足なようだった。「商売じゃないとするとなんなんですか」

「今は流行っていないんですが、二三十年前までは流行っていたんですよ。あれは床屋クラブという同好会なんですよ。昔は床屋へ行く金も節約しようという学生さんが結構多かったから学生さんたちがそんなクラブを作っていたんですよ。床屋さんが女の子のときなんか結構流行ったクラブでしたよ。もう髪を刈り終わって用がなくても女の学生さんと話したいと言って通ってくる学生さんが結構いたんですよ」

「轡田先生がそこから出てくるのを見たんですが」

「轡田先生は床屋クラブの顧問なんですよ」

自分はおもしろい情報を手に入れた。これは是非朝野なみに教えなければならない。きっと朝野なみは喜ぶだろう。しかしその朝野なみとは最近はなかなか会えなかった。生協の学食に行きスパゲッティの鉄板焼きというのを食べていると同じクラスのEという学生が来てこれから工学部へ行くというから君も来ないかと誘って来た。Eの話によるとコンピューター関係の講座をとるんだと言った。なんでかと聞くと文学部じゃ就職口がないだろう。文学部でもその講座をとって置けば就職のときに有利だと力説した。自分も彼について工学部へ行くことにした。中央棟の裏の方へ抜けると雑草が生えたいだけ生えている空き地があってその一角は草が刈られていて安い乗用車が何台か止めてある。生徒や職員が勝手に作っている駐車場の裏に今度は雑草をちゃんと刈ってある空き地になっていてそこは立ち入り禁止の看板が立っていて棒が垂直に何本も刺さっていてその棒をつなぐようにひもが結ばれている。そこに別に美しくもなくどこかで見たことのあるような植物が何種類か生えていた。その勝手に作った駐車場の前をさらに歩いて行くとゆるやかな坂になっていて左手の方にふたつの建物が前後して建っている。手前の建物より後ろの建物の方が大きい。そのふたつの建物の前後は草がぼうぼうとはえていた。向こうからだれか見たことのある人間が歩いて来ると思ったらそれはあの語学を教えているなめくじだった。彼は自分たちが文学部の学生だとも知らずに行き過ぎて行った。ふたつ平行に並んでいる後ろの建物の方でその講座がおこなわれているらしい。Eは来年その講座をとる予定なので少し様子を見に来たという話だった。大きな建物と小さな方の建物は別別だと思っていたら渡り廊下で何カ所かつながっているらしい。その建物の間はコンクリートで舗装され、涼しく日が直接ささないようになっている。そこにコンクリートの袋がいくつも積み重ねられ生コンのミキサーや建築機器が置かれている。筒状に固められたコンクリートに番号が作られて並んでいる。生コンの機械をねじり鉢巻きをしたふたりの学生が動かしていた。

 後ろの大きな建物の方は十階建てになっている。大きな基礎が何本も地面でその建物を支えて建物自体は宙に浮いている。建物の前後は透明なガラスがはめられていて廊下になっているらしかった。建物の真ん中に宙に浮いているような階段がついていてそこから歩いて上がれるようにもなっていたがその階段の後ろに回るとエレベーターがついていた。自分とEはうしろのエレベーターで八階まで上がった。八階で降りて廊下の方に出ると空が少し低く感じられるくらいに高い眺望の良い場所に着いた。

 外に面した廊下の側は上半分が透明なガラスになっているのでまるで空中に浮いているような気分になる。Eの話よるとこの廊下の並びにその講座がとれる教室があるという。自分はここに来たことはなかったので何も知らない物見遊山のようにEの後ろをついて行った。廊下の左側には講義を行う教室だけではなく研究室にもなっている。その研究室には所有者の名前が書かれている。そこで自分は驚いた。どこかで見たことのある名前を見つけたのだ。その入り口の上の方の名札のところには岩川太郎と書かれていたのだ。一瞬自分はその名前をどこかで見たことがあるという気はしたが誰の名前か思い出せなかった。しかしそれが轡田荘介の反対者だということをやがて思い出した。Eも文学部に属していたのでその名前を知っていた。

「岩川太郎って、あの岩川太郎」

自分がそう言うとEも自分の言っていることがわかるようだった。

「あの岩川太郎じゃないよ。同姓同名。轡田の論敵の方じゃないよ」

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