妖怪文芸

@tunetika

第1話

第一話

偉大なる暗闇

 起きるとすぐ冷蔵庫へ行き、きのう駅のそばのスーパーで買った五百ミリリットル入りのトマトジュースをがぶ飲みした。のどの渇きはそれでおさまった。まだ五分の三も残っている四角い紙パックの容器をテーブルの上にどんと置いた。四角い紙パックの容器には健康的な薄い青色でその商品名が印刷されている。この清潔で健康的な商品が自分の今の精神状態には合わないような気持がする。昨日見た夢は内容がどうなっているのか覚えていないがひどくのどの渇くような夢だったに違いない。このトマトジュースがどこか知らない世界から運ばれてこのぼんやりとした自分の前に運ばれて来ているという感じである。このトマトジュースが自分を覚醒した世界に連れ戻してくれた感じがする。これは擬人化した言い方だが黄泉の橋を渡る前に自分の名前を呼んで呼び戻してくれた恋人のような気がした。別に二日酔いをしているわけでもなく自分が病気だと言うわけでもない。そしてこのトマトジュースがそれ自身空間を移動する能力を持ってここに自らの足でやって来た未知の訪問者だというわけでもない。このトマトジュースをここにあらしめているのはこの自分だ。底辺が七センチ七センチ高さが十センチの直方体の上に三角錐をくっつけた物体をコンビニで買って来て汚い下宿の冷蔵庫に運んだのはこの自分だ。

 コンビニで買ったのはこれだけではない。昨日、小さな下宿に戻って来たのは夜の一時を過ぎていた。電車から降りたとき駅のホームは虹色に輝いていた。疲れていた自分を奮い起こさせるために、脳内で麻薬が生産されていたに違いない。そうでも考えないかぎり駅の天井の蛍光灯があんなにも七色に輝いていたなんて理解のしようがない。

 その駅を出てからコンビニの明かりの中に誘蛾灯に誘われる蛾のように入っていた自分だった。だいたいコンビニの造りというのは入ったすぐのところに雑誌や新聞を売る籠が用意されている。棚の中にいろいろな新聞や雑誌がぎゅうぎゅうに詰め込まれている。そこで一般紙を買った。ふだんは手にすることもない新聞だった。新聞の名前は極東首都圏生活改善新聞東京都版というものだった。その新聞をどうして手にしたのかもよくわからない。それが事実だということは自分の座っている横にその極東首都圏生活改善新聞東京都版が読んだ形跡もなく、捨てられたようにあることからわかる。自分はそ極東首都圏生活改善新聞東京都版を手にしてみた。初めて手にする新聞だからどんな体裁で紙面が作られているかなどということはもちろんわからない。テレビ、ラジオ面がどこにあるのか裏にも表にも載っていなかった。

 文芸欄から目を通すことにする。自分はm大の文学部に通っているからである。将来は国語の教師か図書館の司書などを希望している。文学者に対して憧れめいた気持は持っているが何故か遠いところにそれらの人たちがいるような気がする。学校で会っている教師は文学に関係していたが小説家や編集者という人種を実際に見たことはない。しかし四六時中文学に関する文献に接していると死んだ人が身近に感じられてくるものだから不思議だ。最近は二葉亭四迷が吸っていたたばこの銘柄なんてものに興味を持っている。大学の教師なんてものはそんな些少なことを調べるのが仕事らしくそんな授業ばかり受けている影響かも知れない。

 そこで自分はびっくりしたものを目にした。その極東首都圏生活改善新聞東京都版新聞の文芸欄に意外なことが書いてあるのだ。「偉大なる暗闇」が発見されたのである。その新聞の文芸欄の記事には「偉大なる暗闇」が発見された経緯が記述されていてその横にはその記事を書いた特派員、可西田道行のロンドンブリッジを背景にしたゆで玉子のような全体像の写真が載っている。

 その記事はロンドンから配信されていた。「偉大なる暗闇」はもちろん夏目漱石の筆によるものだった。その可西田道行記者の記事によると、その「偉大なる暗闇」は漱石がロンドン留学中に書いたということになっている。題名もそのまま「偉大なる暗闇」となっているそうだ。この「偉大なる暗闇」という論文がもちろん夏目漱石が自分の書いた小説三四郎の中に出てくる、佐々木与次郎が自分の先生を出世させるために、つまり自分の先生の偉さを世間に喧伝するという道具、具体的に言えば選挙前に政治家が出版する自叙伝みたいなものだと思えばいい。そういった小説中の道具立てとして登場するのである。もちろんそれが小説の中の創作物であると世間の人々は認識している。自分は高校生のときにその小説を読んだことがあるがそれが現実にあるとは思わなかった。いつもその「偉大なる暗闇」のことが頭の中にあってそう考えているわけではないが目の前に引き出されて訊かれればそう答えるだろう。しかし現実に論文「偉大なる暗闇」は実在したのである。

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学食で

 自分は大学の学食のデコラ製のテーブルの上でミートローフ煮込み定食を食べ終わってから直接学食の庭に面したテラスの方に出た。うちの大学の学食は地下にあり校舎の方にも校庭の方にもどちらにでも出て行けるようになっている。校舎の方に出て行くと生協に続く廊下に出る。校庭に面した方に出るとテラスに出る。しかし校庭に面した方から出て行けばその食堂は地下一階にあるわけだから地上に出るためには階段を登らなければならない。校庭に出る階段を挟むようにツツジの植えられたやはり階段状の花壇が造られている。春になればそれらのツツジが紫がかった赤色で咲くに違いない。校庭に出るためにはそのトンネルを抜けて地上に出るかたちになる。地下のテラス、そこには円形のテーブルがいくつも置かれていて外でもランチを食べられるようになっている。そこに出たとき頭上から空と同じ位置からうちの学校の演劇部の発声練習をする声が聞こえた。ちょうど今日は快晴でその声も空にこだまするようだった。ちょっと調子ぱずれてはいたが、その声の調子には素人の好ましさもあった。

 階段を上がって行き校庭に出ると恋人の朝野なみがテニス部の連中がやっているテニスのラリーを観戦している。何もやることがないから見ているだけだと彼女は言うかも知れない。

 テニス部の連中の薄汚れたクリームレモン色のジャージが赤茶けたテニスコートの上で前後左右に動いている。

 朝野なみと知り合いになったのは同じクラスだったからということが大きいだろう。朝野なみは高校のときには陸上をやっていたが今はどこのクラブにも所属していない。しかしその名残が残っているのか遺伝なのか色の浅黒い筋肉質の身体をしていて小柄である。そしてちょっとしたことから朝野なみが意外と力持ちだということを最近知ってびっくりとした。

 自分は朝野なみの横にこしかけた。

「こんちわ」

「今、学食でミートローフの煮込みを食ってきたんだ」

「なんだ、わたしも誘ってくれれば良かったのに」

「もう、時間が遅いじゃないか。きみはもう食事が終わっていると思ったんだよ」

「お昼を食べなくてもお茶だけ飲むということはあり得るわ」

目の前ではまだテニスの練習がやられている。コートの上をテニスボールが行き来している。しかし左の選手の方が右の選手よりも上手に見える。朝野なみは昔、運動部に所属していたからこんな下手なテニスにも興味を持っているのかも知れない。

「左の選手の方が少しだけ強いと思わない」

「そう言われれば、打ち損じているのは右の選手の方が多いような気がするよ」

「どうしてかわかる」

「さあ」

「右の選手の方がくせがあるのよ。ほら、ラケットを持っていない左手の上げ方でラケットを振るバランスを取っているじゃない。それでボールの来るコースが予想出来るのよ」

「そんなものかな。なみの言っていることは野球の投手のくせでバッターがどんな球種が来るか予想出来るというものに近いじゃないか。君は陸上部なんだろう。テニスは守備範囲じゃないんだと思うけど。でも、どうしてなみがそんなことに興味を持っているか当ててやろうか。なみは勝負ということにこだわるからだよ。勝ちたいという気持があるんだな。運動部に入っていた連中によく見られる症状だよ。どうすれば勝てるかという。きみはこんな練習を見ていても自分を目の前にある選手のひとりとして見立てているのさ。そうだろう」

「そうかしら。そんなことはないわよ。でも、勝てる方法を見つけるのは素敵なことじゃない。競輪や競馬でそんな方法を見つけたら、一生左うちわで暮らせるわよ。だから、スポーツをやっていない人だって勝つ方法を追求しているに違いないわ。それが本能に根ざしている場合でもなくてもね」

なみは少し浅黒い顔の中の口元をゆるめて自分の方にほほえんだ。

 うちの大学の運動部ははなはだ低調である。ほとんど校庭で練習らしいことをしているのは見たことがない。自分は朝野なみが高校の頃陸上部に入っていてかもしかのような足を丸出しにしてフィールドを走っていた姿を見たことがない。大学になってから知り合ったのだから当然である。

 朝早く来て見ると校庭には誰もいない、誰も練習をしていない、そんな校庭に来たことがあった。肯定をひとり独占した自分はパチンコのゴムを使って小さなグライダーを飛ばしたことがある。サッカーのゴールの上の方にゴムひもの片一方を引っかけてそこから五六メートルの位置になるくらいグライダーの後部を引っ張った。そのグライダーを飛ばせるためのエネルギーはその弓矢の弦のような張りつめたゴムひもが与えているわけだがこれが案外な力を飛行機に与えていると思う根拠は伸びている五メートルの全部がゴムひもだということである。模型飛行機のゴムだとしてもそれだけ伸びているとすれば随分な力をグライダーに与えているのに違いない。自分が手を離すとグライダーはゴムの縮まる力に引っ張られて、ゴールポストの上の方をすべるように通過した。そしてゴールポストを越えて飛んで行った。そのまま高速で上昇を続け、グライダーは上昇気流に乗って空の上を滑空していたが見えなくなった。きっとどこかの家の庭先に落ちたのに違いない。そんなこともあった。

 ふたりで待ち合わせをしていたのはほかでもない。一般教養の授業で同じものを取ろうと話し合っていたからだ。これからその授業がある教室に行こうとしていた。アイドルの歌謡曲の歌詞のような言い方だがふたりは友達以上恋人未満である。とにかく授業なんてものは単位が取りやすいものに越したことはない。授業にはほとんど出なくても出席をとらず学期末に二十枚ほどのレポートを提出すれば単位をくれるというものが存在すると同じクラスの人間から情報として取り出していたので朝野なみと一緒にその授業を取ることにしたのである。今は単位を取るのもむずかしくなっているかも知れないのでそんな都合の良い授業はないかも知れない。昔は確かにあったのである。

 正門を入ってすぐの椅子と机が階段のようになっている大教室に後ろから入ると後ろの方に席を取った。直接校舎の中の廊下を通らなくても校庭からその大教室に入ることは出来た。ここに座っていると最後に小さなチェック用紙のようなものがまわってくるからそこに名前を書いて退出するときに机の上に置いてくればいいだけである。それが授業に出た証拠になる。はなはだ曖昧な方法である。いくらでも偽装工作の余地のある方法である。

 授業の内容は産業革命時の新技術と地方との関連というものだった。教師は真鍮で出来た蒸気機関のおもちゃのようなものを持って来て大きな大きな教壇の上で実際にアルコールランプを点火して動かした。これが動かないんで業者に代金を払ってやらないぞって言って脅かしたんですよ。それで修理して動くようになったんだ。机の上でその蒸気機関のおもちゃがプップク、プップク、動く。教師はそんなことを言っている。自分となみは頬杖をつきながらその様子を見ていた。

「夏目漱石の書いた「偉大なる暗闇」が見つかったとい新聞記事を読みましたか。見つけたのはここの文学部の先生なんですよ」

話の途中でそんな意外な話題が出て来たので朝野なみはノートをとる手を休めてとなりに座っている自分の方を振り返った。

そして小声で

「初耳」と言った。

「何だ、知らなかったの」

「知らなかったわよ」

「昨日の夕刊の文芸欄に載っていたよ」

と自分は答えた。しかし、彼女はうちの文学部の先生がその発見をしたということは知らなかった。

「誰だろう」

「うちの文学部の教師ですって」

自分はあのわけのわからない文学部の教師たちの顔の何人かが思い浮かんだ。その中のみんなは冴えない顔をしている。そして自分にとっては宇宙人のような印象しかない。何をやっているのかよくわからずくたびれた背広を着て何にこだわっているのか知らないがいつも精神病者のようにぶつぶつとつぶやいている。世間に向かって自分の業績を声高く吠えまくっているような人間の顔はひとりも浮かばない。

 そして自分も朝野なみも文学部のスタッフ全員を知っているわけではない。三年や四年になれば専門に文学部の教室に出入りすることになるだろうが今は受けている授業の半分は一般教養である。知らないスタッフの方が多い。助手クラスになるとほとんどわからなかった。ただし彼らの書いた本は教科書だからという名目で買わされたことがある。前の方に座っている社会学部の学生が誰なんですか、と質問したらしい。

「轡田荘介さんだよ」

と産業革命が答えた。

大学から駅へ向かう通学路になっている坂の途中のところにボンゴレという喫茶店と食堂の中間のような店があってモルタルの上に白いペンキを塗った壁に大きな窓がついていて窓の外は花壇になっていてひからびた土の上に半ば枯れかかった葡萄の木のようなのが植わっていた。たまにその店の中に入ることがあった。今日はそのたまにに当たっている。自分と朝野なみは枯れかかった蘇鉄の木を横に見ながらその店の中に入った。その店の中の籐椅子に腰をおろすとすぐに普段着を着たバイトの女がお冷やを持って来た。水の入ったガラスのコップが透明なガラスのテーブルの上に置かれる。自分は細いサインペンで古びてしみのついている羅紗紙に書かれたメニューを取り上げて何を頼むか吟味していた。まず料理の名前、その中にはドリンクも含まれているが料理の名前の横には破線が引かれていて値段が書かれている。それらも全部手書きで紙が汚れないようにビニールが張られていた。手でそのメニューを持つとビニールと紙自身が密着していないということと紙自身がくちゃくちゃになっているのでそのふにゃふにゃした感触がこの喫茶店か定食屋かわからない中途半端な感じを暗示しているようだった。自分は財布の中身とその値段を計算していたが朝野なみはすぐにスパゲッティミートソースに決めて店員に注文した。自分は豚肉の生姜焼きパイナッブルのせというのを頼んだ。

「今度の新入生歓迎コンパに出る」

朝野なみが自分に聞いた。

「出るよ」

自分たちは二年生だったので去年入学したときはその歓迎コンパを受けた方である。霧にむせんだ自然公園でその催しがなされたことを覚えている。この前もクラスの中でその歓迎コンパのことで少し話し合いがあった。でも去年とだいたい同じことになるだろう。その話し合いの去年の様子を見たことはないのだが今年はクラスの中でも政治活動好きみたいな連中が前に出て来て主導した。政治活動好きと言ってもラジカルなそう言った動きは自分のときにはもうなくなっていた。生協にからんでいる人間がそう言った新入生歓迎コンパなんていう活動に積極的だったように思う。高校生のときに生徒会活動なんて言うとやたらテンションの上がる連中だ。その催しというものもだいたいが近郊のハイキングコースに出て焼きそばパーティーをするのが通例となっていたらしいが確か高校のときもそんな歓迎を受けたことがあるような気がする。そうするとやっていることはほとんど成長もしておらず、はなはだ幼稚な気も一瞬したのだが、そのときの話し合いではもし雨が降ったときの準備として屋内でも焼きそばが焼ける施設のある場所を選ぶということも議題に上がっていたから少しは進歩しているのかも知れない。

 自分と朝野なみのふたりは窓際の席に座っていた。今時の男女の若いカップルによくあるように水族館の水槽の中で飼育されている観賞魚のように音声の外部との伝達器官はそこにはなかった。この店の中が水族館の水槽の中でふたりはそこに飼われている魚というわけである。そうしてふたりだけの無駄な時間を過ごしているのだった。しかし小さな水槽を移動自由の空間にしているふたりもたまには外部をちらりと見ることもある。坂道のところで歯をむき出しにして両腕をくの字に曲げてこちらを睨んでいる女がいた。睨んでいるわけではなくガラス窓があって声が聞こえなかったのでそういう人目を引くそぶりをしてこっちに気づかせたかったに違いない。目の玉をくりくりさせながらこちらを見て手を動かして何か合図を送っている。

それはなみと仲の良い文学部のクラスの及川みほだった。自分たちに自分の存在を気づかせた及川みほは数秒のパントマイムをしたあとでボンゴレの中に入って来て自分たちの横に座った。籐でできた椅子に腰をおろした。彼女はあさりのスパゲッティークリームソースというのを頼んだ。及川みほがあさりの身をフォークでほじっているのを横目で見ながら、朝野なみは今度の新歓パーティーに出るかどうかということを及川みほに聞いていたが及川みほはそんなことよりも今度の「偉大なる暗闇」のことについて話し出した。

「「偉大なる暗闇」のニュースを聞いた。ロンドンで夏目漱石が書いた「偉大なる暗闇」の論文が見つかったんだっていう」

及川みほはあさりの身をフォークの先でつつきながら丸めがねの奥の瞳を飛び出させるようにして自分や朝野なみの方に話し掛ける。自分ももちろん、そして朝野なみも最近そのニュースを知ったばかりである。

「知ってるよ、もちろん。それも不思議なのはそれをうちの文学部のあのくたびれた教師のひとりが見つけたというじゃないか」

自分は及川なみに彼女がもっとそのことの詳しい情報を持っているのではないかと思い、話し掛けてみた。案の定、及川みほは自分や朝野なみなんかよりもずっとそのことについて詳しく知っていた。

「轡田荘介でしょう。うちの文学部の助教授よ。それを発見したのは」

「そんな先生がうちの大学にいたの」

朝野なみも自分と同じくらいの理解しかない。

「半年前くらいに交換研究生みたいな感じでロンドンに行っていたのよ。語学を教えに来ているアンドルーとか言う駝鳥みたいな外人がいるじゃない。あの人の代わりにロンドンに行ったらしいわよ。わたし、轡田荘介を見たことがあるのよ。うちの教師ってタイプじゃないわ。そうね、エロスと犯罪のにおいがするの」

及川みほははしゃいでいる。エロスと犯罪ではあまりにも低俗だろう。そして同じ大学にいるのだから見たことがあるのは不思議ではない。しかし、ただ名前を知らなければ実際に自分や朝野なみがその男を見たことがあっても会ったとこの場で断言することは出来ない。

「どこで見たのよ」

「うちの大学の中庭よ」

「中庭というと文学研究室のある棟の方かよ」

「そうよ」

「あんなところによく行くな」

文学部の専攻過程に進んだ三年、四年にならなければ普通、文学部に入っていても研究室にある棟には行かない。だいたい行く部屋がない。落ち着いて訪ねる相手がいない。自分は間違ってあの棟に入ったときの薄暗くて高い廊下や古ぼけた部屋のドアのことを思い出して自分の内面までもがかび臭くなったような気分になったことを思い出した。その部屋に出入りしているのは院生や助手やその手の玉子みたいなのがいる部屋ばかりだった。しかし中世のイタリヤの下町にある住居のように四角い中抜きの建物になっていて中は庭になっていて庭の中には池があった。池の中には奇形な蓮が浮かんでいて水が濁っている。池に面したところには敷石が敷かれ、その岩のあいだからは雑草が茂っている。そして中庭に面して床屋が毎日ではないが営業していた。こんなところに床屋があっても経営的には成り立たないので週に何日かやっているだけなのだろうと自分は思った。

「床屋から出てくるところを見たのよ」

「どんな奴だった」

朝野なみも興味を持っているようだった。

「曰く言い難しね。でもなんできみらは轡田荘介のことを知らないのかなあ。轡田荘介と言ったら文学を研究している人のあいだではちょっとは有名じゃないの」

「どんなふうに有名なんだよ」

「定説を覆すって」

「定説」

「いろいろなものがあるわ。ちょっと思い出せないけど。定説というからには実証的な面でよ。理論からではないわ。それでちょっとは有名なの」

自分はそんなことも知らなかった。轡田荘介ってそんなに有名だったのか。うしろの方ではこのあたりの住民の話す声が聞こえた。

「あの学校の生徒の仕業だと思いますよ」

「お宅でもそんなことがよく、あるんですか」

「ありますわよ。あの大学の通学路に当たっていますでしょう。自動販売機でジュースを買った学生が塀の上に空き缶を置いていくんですよ。本当に迷惑していますわ」

「そりゃあ、当局の方に苦情を申し上げなければなりませんわよ」

なぜか、自分には近所の主婦が話しているそんな声も聞こえた。しかし朝野なみにも及川みほにもそんな声は聞こえていないように轡田荘介について話している。

「轡田楠って聞いて思い出さない」

「知らないよ」

自分は知らなかったが朝野なみは知っていた。

「轡田楠って昼の連続ドラマでやっていたじゃない」

「俳優の名前かよ」

「轡田楠ってかなり有名な絵描きじゃないの。轡田荘介ってその息子よ。昼の連続ドラマに轡田荘介の子供の頃も出ているわよ。轡田楠の奥さんが若いつばめを作って家を出て行く場面があったわ。まだ物心のつかない轡田荘介がきょとんとした顔をして立っている場面で終わったわよね」

「昼の連続ドラマなんてよく見ているな」

自分は及川みほの暇さ加減を笑ったが、大学生なんて人生の中で一番暇な時代を過ごす人種だということはよくわかっていた。

「その轡田荘介が何を間違えたのか、うちの大学の助教授になって文学史をひっくり返して時間を過ごしているというわけだなぁ」

及川みほがそう言うと朝野なみは少しそのことに興味を持っているようだった。もしかしたら女子大生らしくエロスと犯罪のにおいというのにひかれているのかも知れない。

「一般教養を勉強しているあいだでも轡田荘介の授業を取ることは出来るの」

自分は少し複雑な気持ちになった。

「ロンドンに行っていたじゃない。もうそろそろ、帰ってくるんじゃない。おみやげも出来たことだし」

「おみやげって何だよ」

「「偉大なる暗闇」じゃない。決まっているでしょう」

及川みほは自分の無知をせせら笑った。考えてみるまでもなく大きなおみやげだ。

「でも、それが本当に夏目漱石の書いた「偉大なる暗闇」だとどうしてわかるのよ」

朝野なみがもっともらしい疑問を投げかける。それはもっともだ。「偉大なる暗闇」は夏目漱石が三四郎の中で与次郎が書いた論文ということになっている。与次郎はある意味で夏目漱石の分身だから何の疑問もなく、「偉大なる暗闇」が夏目漱石の書いた論文だと結論づけることは出来る。

しかしだ。ここで問題になるのは「偉大なる暗闇」という論文がロンドンで発見されたことである。つまり、実際に夏目漱石が書いたその論文が実在したということである。小説中の道具立てとしてではなく。その実在している「偉大なる暗闇」を本当に夏目漱石が書いたかというとまた問題になる。

「どうして、それが夏目漱石が書いたものだと結論づけられるの」

及川みほはうんざりという表情をして答えた。

「わたしのような学部生の二年じゃ、そんな詳しいことはわからないわ。それより、轡田荘介の言っていることはうそっぱちだと主張している人間もいるのよね。今月の地平を読まなかった」

及川みほは随分と高級な雑誌を読んでいるのだと自分は思った。自分もたまに見栄を張って地平を買ったことはあるが、書いてある三分の二は何が書いてあるのか、さっぱりとわからなかった。

「国立国語研究所の岩川太郎が寄稿しているわ。轡田荘介の書いている文学史には間違いがある。って」

国立国語研究所、昔は自分もそこに入ってみたいという気持もあった。しかし、国家公務員のむずかしい試験を通らなければそこに入ることは出来ない。研究員としてどっかの大学から横滑りするという手もあるが、少なくとも助教授クラスでなければ入ることは出来ないだろう。自分はそのコースは早めにあきらめている。その中で岩川太郎という名前を読んだことがある。いろいろなところに論文を寄稿している。文学論の教科書も二三冊出していたはずだ。確かS大を出てそこで教授もやっていると書いてあったような気がする。その雑誌はお堅いもので顔写真なんか出て来ないからどんな人間なのかはわからない。

「それより、おもしろいことがあるのよ。今度、轡田荘介が戻って来るじゃない。それで大学の中で一騒動あるらしいのよ。大学と言っても文学部の中だけの話だけどね」

「どんなこと」

自分同様に大学の中の事情に無知な朝野なみが及川みほに尋ねた。

「文学部の並河教授が退任するのを知っている。それで後任の教授に誰が上がるかという問題よ。今度の発見で轡田荘介が教授になるのではないかという話よ。それでおもしろくない人たちもいっぱいいるんじゃない」

及川みほは文学部の中のどろどろした問題も二年生のくせによく知っていると自分は感心した。しかしそれが本当だろうかとも思った。単なる憶測で物を言っているのかも知れないとも思った。だって学部の二年の及川みほがそんなことを知りうる経路が考えられない。助手や助教授クラスの人間に通じていれば可能だろうが、自分はそんなことにはほとんど関心がなかった。どうせあと二年もすれば出て行く学校である。その中にずっといる人間ではない。また自分の後ろの席に座っている地元の主婦らしいのがうちの大学の学生を揶揄しているのが聞こえる。

「体育館の裏でブラスバンドの練習をしているのはやめて欲しいわね。ちょうどわたしの家、体育館の裏に当たっているでしょう。夕方頃になると始めるのよね。うるさいたらありゃしない。それもうまい演奏ならいいわよ。そうじゃないんだもん」

自分の耳には彼女たちの苦情がよく聞こえたがふたりには聞こえているのだろうか。ここいらは都内でも高級住宅地として知られている。近所の住民とうちの学生は身なりからして違っていた。しかしふたりにはその声が聞こえていないようだった。自分にしか聞こえないのだろうか。苦情を言っている方もショートケーキを食べながら自分たち三人が苦情を言っている大学の学生だと気づいていないようだった。

 しかし轡田荘介の逸話が出てくるたびに朝野なみの瞳が輝いてくるような印象を自分は持った。と言うより朝野なみはその手の文学をやっている人間に憧れめいた気持を持っているようだった。それで文学部に入ったらしい。しかし入ってからがっかりしたのではないかと自分は思う。くたびれた教師ばっかりだったからだ。

「でも、どうしてみほはそんな白い巨塔みたいなことを知っているのよ。誰かうちの助手クラスの人とつき合っているんじゃないの」

自分には朝野なみのその言葉が及川みほに対するやっかみのように聞こえた。すると及川みほは自分の横に置いてあるカーキ色をした布製のかばんの中から「地平」という文学部に籍を置いてある学生ならみんな知っている雑誌を取りだした。そして自分たちの目の前にその雑誌を広げるとページをめくっていた。

「あった。あった。これが岩川太郎」

自分も朝野なみも岩川太郎の顔写真でも載っていることを期待したがそうではなかった。

S大文学部近代文学研究科 岩川太郎 主要著書 近代文学精読他 三十六才 東京都調布市つつじヶ丘三の二十五と住所まで載っている。しかしお堅い雑誌だったからやはり顔写真は載っていなかった。自分も朝野なみもその国語研究所の轡田荘介の論敵がどんな顔をしているのかはわからなかった。かと言って轡田荘介がどんな顔をしいるのかはなおさらわからない。轡田荘介のことを少しも知らないということを知ると及川みほは自分たちふたりのことを馬鹿にしたように笑った。

「うちの大学に通っていて轡田荘介のことを知らないなんて珍しいわよ。それに文学部に通っているのに。うちでは数少ないスター教師じゃないの。明後日ロンドンから日本に戻ってくるそうよ。うちの中央棟の教室で帰朝講演をするというから聴きに行ったらいいのよ」

自分も朝野なみも明後日にその講演を聴きに行くことにした。自分の下宿に戻ってから自分はその轡田荘介の父親が主人公になっているという連続テレビドラマを再放送で見てみた。朝の十時頃と夕方の四時頃の二回、同じ内容で再放送をされているらしい。前の方の回を見ていないので話のつながりがよくわからない。自分はこの番組の始まる前に自分の下宿の台所でお湯を沸かしてカップラーメンを作っておいた。そのカップラーメンを啜りながら本箱のあいだに挟み込んである小型のテレビでその番組を見ることにする。ひどく情緒的な主題歌の次にいきなり轡田荘介らしき人物が出て来た。これが轡田荘介だということはなんとなくわかった。ただし子供時代である。荘介の父が横須賀のあじさいの咲き乱れている自宅の塀のところから家の中を覗いている。なかなかの豪邸だった。なにしろ家の庭にはあじさいが咲き乱れているからだ。そのあじさいの中に子供時代の轡田荘介が立っている。そして画家である父親が家の中に母親がいるか聞いている。子供は母親がいないと聞くと父親はにんまりとする。しかし父親は誰かがやって来ることに気づく。するとあわてて父親はその場を離れる。そのあとにやって来たのは母親らしかった。母親は氷のような顔をしていた。母親は轡田荘介の肩を揺さぶりながら父親が来たのではないかと訊く。しかし轡田荘介は自分の父親を庇っているのか、ここには誰も来ていない、誰とも会っていないと言う。母親は般若のような顔をして今塀越しに話していたのは誰だいと轡田荘介の肩を持ってゆさぶった。自分は何という女優が演じているのかはわからなかったがその母親の般若のような顔が忘れられなかった。その番組を見たあとで自分は朝野なみに会いたくなって電話をかけた。


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