第4話
第四回
拾壱
お家流の文字を書く隣りの裁縫の師匠がランプの芯を借りに来たと梅が云うのでお玉は茶箪笥を探って、ランプの芯を持って来て裁縫の師匠に渡した。「ありがとう。うちで使っているランプの芯は安物だから、すぐ芯のさきが駄目になってしまうの」「ランプの芯ぐらいで好かったら、なんどでもいらしてください」お玉は最近、隣りを買うと云うことを覚えた。いつだったか、刑務所から出て来たばかりだと云う男にすごまれて、梅が顔を真っ赤にしたことがあった。そこにあの雁が来て追い返したが、いつまたそういうことがあるかも知れないと思ったからだ。いつも裁縫の師匠の家にはお弟子さんたちがたくさんたむろしている。子供と云ってもいいような若い女の子ばかりだったが、人数がたくさん集まっているから心強い。梅の話しによれば野良犬がお玉の台所から浅漬けを盗もうとしたときは娘たちはその野良犬をつかまえて打擲したと云う話しだ。なんともたのもしい限りである。しかし世知だけで隣りの家と交流していると云うわけではない、お玉は囲われ物として、人に嫌われる高利貸しの妾だよと後ろ指をさされる立場となって、一種の擬態を身につけて生きている。それもみな弱い生き物が世間からの強い圧をやり過ごすための戦法にほかならない。暗い精神状態でいるわけではないが、多くの人の目に触れるのは鬱陶しい、いやだと思っている。できれば隣りとのつき合いもしたくないと思っている。世間から白い目で見られるからだ。そして、巡査にもてあそばれ、高利貸しの妾となって、心のどこかに投げやりな、世間を馬鹿にしたような心情を醸成している。世間のお玉を見る、あれが高利貸しの妾だよと云う陰口が、そう云った精神状態を作る手助けをしている。しかし、隣りの裁縫の師匠にはお玉を見る目つきにそう云ったものはない、それがどう云う理由から生じているかと云えば、裁縫の師匠が世間の人と異なる価値観を持っているからにほかならない。維新の前は裁縫の師匠は前田家の奥女中をやっていた。それが維新によってこれまで何とも思わなかった薩摩や長州の田舎侍が天下を取った。そして政府の役人として立身出世していく、しかし、裁縫の師匠にとってはやはり、薩摩や長州の田舎侍なのであり、この女の中では二つの異なった価値基準が同居していると云うことを意味している。世間とつじつまを合わせるための外向きの価値観であり、もう一つは子どもの頃から養われている価値観である。それがうまいように平衡を保ってやじろべえのように釣り合っていて、つねに動いている。つまり、価値基準と云うものは一つだけ存在しているとき、確固としているものであり、維新と云う線引きの前後で二つの価値基準があると云うことは、お玉と同じように世間を馬鹿にしたような心情を醸成しているからである。そこが共通点となってお玉は裁縫の師匠とお互いに馬鹿にすると云うことのない関係にあるのかも知れなかった。
お玉が裁縫の師匠にランプの芯を貸した晩は空が晴れ渡って、星がきらめいて、暁に霜の置いた或る日の事であった。お玉はだいぶ久しく蒲団の中で、近頃覚えた不精をしていて、梅がとっくに雨戸を繰り開けた表の窓から、朝日のさし入るのを見て、やっと起きた。そして細帯一つでねんねこ半纏を羽織って、縁側に出て楊枝を使っていた。すると格子戸をがらりと開ける音がする。「いらっしゃいまし」と愛想好く云う梅の声がする。そのまま上がって来る足音がする。
「やあ。寝坊だなあ」こう云って箱火鉢の前に据わったのは末造である。
「おや、御免なさいましよ。大そうお早いじゃございませんか」銜えていた楊枝を急いで出して、唾をバケツの中に吐いてこう云ったお玉の、少しのぼせたような笑顔が、末造の目にはこれまでになく美しく見えた。一体お玉は無縁坂に越して来てから、一日一日と美しくなるばかりである。最初は娘らしい可愛さが気に入っていたのだが、この頃はそれが一種の人を魅するような態度に変じて来た。末造はこの変化をを見て、お玉に情愛が分かって来たのだ、自分が分からせて遣ったのだと思って、得意になっている。しかしこれは岡田の存在であり、大いなる誤解と云う点では三角と同様の陥穽に陥っている。
お玉はしゃがんで金盥を引き寄せながら云った。「あなた一寸あちらへ向いていてくださいましな」
「なぜ」と云いつつ、末造は金天狗に火を附けた。
「だって顔を洗わなくちゃ」
「好いじゃないか。さっさと洗え」
「だって見ていらっしゃっちゃ、洗えませんわ」
「むずかしいなあ。これで好いか」末造は烟を吹きつつ縁側に背中を向けた。そして心中になんと云うあどけない奴だろうと思った。
お玉は肌も脱がずに、只衿だけをくつろげて、忙しげに顔を洗う。いつもより余程手を抜いてはいるが、化粧の秘密を借りて疵を覆い美を装うと云う弱点も無いので、別に見られていて困ることはない。
「これは浅草の新堀端通りの千日堂で買って来たのだ」末造が懐中香水をお玉に渡すとお玉はそのふたをとろうとした。
「おい急ぐには及ばないよ。何も用があつてこんなに早く出掛けて来たのではないのだ。実はこないだお前に聞かれて、今晩あたり来るように云って置いたが、ちょいと千葉へ往かなくてはならない事になったのだ。話が旨く運べば、あすのうちに帰って来られるのだが、どうかするとあさってになるかも知れない」
懐中香水をいじっていたお玉は「あら」と云って振り返った。顔に不安らしい表情が見えた。
「おとなしく待っているのだよ」と、笑談らしく云って、末造は巻煙草入れをしまった。そしてついと立って戸口へ出た。
「まあお茶も上げないうちに」と云いさして、懐中香水を置いたお玉が、見送りに起って出た時には、末造はもう格子戸を開けていた。お玉はどこから出して来たのか、競漕選手の着る蜜柑色の衣装を出して来て頬ずりをしていた。頬のあたりが紅色に輝いている。
朝飯の膳を台所から運んで来た梅が、膳を下に置いて、「どうも済みません」と云って手を衝いた。梅がお茶を運ぶ前に末造が帰ってしまったので梅はお茶を出しそぶれてしまったと思ったからである。
箱火鉢の傍に据わって、火の上に被さった灰を火箸で掻き落としていたお玉は、「おや、何をあやまるのだい」と云って、にっこりした。
「でもついお茶を上げるのが遅くなりまして」
「ああ。その事かい。あれはわたしが御挨拶に云ったのだよ。檀那はなんとも思ってはお出でなさらないよ」こう云って、お玉は箸を取った。
けさ御膳を食べている主人の顔を梅が見ると、めったに機嫌を悪くせぬ性分ではあるが、特別に嬉しそうに見える。横には外国の競漕選手の衣装が置かれている。さっき「何をあやまるのだい」と云って笑った時から、ほんのりと赤く匂った頬のあたりをまだ微笑みの影が去らずにいる。お玉の好い気持ちが伝染して、自分も好い気持ちになる。女はときとして大胆になる。
「あの、お前お内へ往きたかなくって」
「あの今晩は檀那様がいらっしゃらないだろうと思うから、お前内へ往って泊まって来たけりゃあ泊まって来ても好いよ」
「御飯の跡は片附けなくても好いから、すぐに往っても好いよ。そしてきょうはゆっくり遊んで、晩には泊まってお出で。その代わりあしたは早く帰るのだよ」
梅をせき立てて出して置いて、お玉は甲斐甲斐しく襷を掛け褄を端折って台所に出た。そしてさも面白い事をするように、梅が洗い掛けて置いた茶碗や皿を洗い始めた。こんな為事は昔取った杵柄で、梅なんぞが企て及ばぬ程迅速に、しかも周密に出来る筈のお玉が、きょうは子供がおもちゃを持って遊ぶより手ぬるい洗いようをしている。取り上げた皿一枚が五分間も手を離れない。そしてお玉の顔は活気のある淡紅色にかがやいて、目は空を見ている。
そしてその頭の中には、極めて楽観的な写象が往来している。一体女は何事によらず決心するまでには気の毒な程迷って、とつおいする癖に、既に決心したとなると、男のように左顧右べんしないで、目隠し革をされた馬車馬のように、向こうばかり見て猛進するものである。思慮のある男には危惧を懐かしむる程の障害物が前途に横たわっていても、女はそれを屑ともしない。それでどうかすると男の敢えてせぬ事をして、おもいの外に成功することもある。お玉は岡田に接近しようとするのに、若し第三者がいて観察したら、もどかしさに堪えまいと思われる程、逡巡していたが、けさ末造が千葉へ立つと云って暇乞いに来てから、追っ手に帆を孕ませた舟のように、志す岸に向かって走る気になった。それで梅をせき立てて、親許に返して遣ったのである。邪魔になる末造は千葉へ往って泊まる。これからあすの朝までは、誰にも掣肘せられることの無い身の上だと感ずるのが、お玉のためには先ず愉快でたまらない。そしてこうとんとん拍子に事が運んで行くのが、終局の目的の容易に達せられる前兆でなくてはならぬように思われる。きょうに限って岡田さんが内の前をお通なさらぬことは決して無い。往反に二度お通になさる日もあるのだから、どうかして一度逢われずにしまうにしても、二度共見のがすようなことは無い。きょうはどんな犠牲を払っても物を言い掛けずには置かない。思い切って物を言い掛けるからは、あの方の足が留められぬ筈がない。蛇を退治して下すったお礼を申し上げよう。話のきっかけはそれで良い。あの方が競漕に精出していることを訊こう。そして、外国からの競漕選手の衣装を持っていることを云って、内でその服を着てみないかと云おう。それもわたしがそれをわざわざ買ったのではなくて、たまたま手に入ったと云うことにしよう。でも岡田さんはわたしが岡田さんのことを思ってわさわざ買って来たのだとちゃんとわかってくださるに違いない。わたしは卑しい妾に身を堕している。しかも高利貸しの妾になっている。だけれど生娘でいた時より美しくなっても、醜くはなつていない。その上どうしたのが男に気に入ると云うことは、不為合な目に逢った物怪の幸に、次第に分かって来ているのである。して見れば、まさか岡田さんも一も二もなく厭な女だと思われることはあるまい。いや。そんな事は確かに無い。若し厭な女だと思ってお出でなら、顔を見合わせる度に礼をして下さる筈が無い。いつか蛇を殺して下すったのだってそうだ。あれがどこの内の出来事でも、きっと手を貸して下すったのだと云うわけでもあるまい。若しわたしの内でなかったら、知らぬ顔をして通り過ぎておしまいなすったかも知れない。それにこっちでこれだけ思っているのだから、皆までとは行かぬにしても、この心が幾らか向こうに通っていないことはない筈だ。なに。案じるよりは生むが易いかも知れない。こんな事を思い続けているうちに、小桶の湯がすっかり冷えてしまったのを、お玉はつめたいとも思わずにいた。
膳を膳棚にしまって箱火鉢の所に帰って据わったお玉は、なんだか気がそわそわしてじっとしてはいられぬと云う様子をしていた。そしてけさ梅が綺麗にふるった灰を、火箸で二三度掻き廻したかと思うと、つと立って着物を着換えはじめた。同朋町の髪結いの所へ往くのである。これは不断来る髪結いが人の好い女で、余所行の時に結いに往け云って、紹介して置いてくれたのに、これまでまだ一度も往かなかった内なのである。
拾弐
子供の読む妖怪話しに釜鳴りと云うものがある。使われなくなった古い釜が人が入らない草ぼうぼうの荒れ野に棄てられて、釜の中にたまった淀んだ空気が霊力を帯びて、妖怪になると云う話しである。この場合、三角が買って来た大八車にお釜を載せたような蒸気自動車の模型が霊力を帯びていたと云えようか。
その日は旧本丸で、昼十二時を知らせるドンが鳴ってから目を醒ました。懐中時計を見ると、確かに十二時になっている。紅茶製造のため印度に去年の三月に派遣されていた多田元吉さんが帰朝していたので逢うことになっていて、新橋まで出掛けなくてはならない、玄関に出て行くと人だかりがしている。下宿の住人がみんな、なにかを見るために出ていたのだが、僕はすぐに思い出した。昨日三角が自分の買って来た、蒸気自動車の模型を上条の下宿の前の泥道で走らせるから、住人に見に来ないかと云って、檸檬水まで配っていた。岸田吟香が販売した「檸檬水は清涼甘美にして第一渇を止め熱を解し三夏の炎暑にあっては・・」と云う新聞広告を入れた檸檬水をである。もちろん僕の部屋にもまっさきに来た。しかし、僕は新橋まで出掛けなければならないので、お釜がもうもうと湯気を出しながらぶるぶるとふるえている蒸気自動車を横目に見ながら、三角がきみも乗っていけよと遠くから呼び掛ける声を聞きながら、下宿を出た。その蒸気自動車の模型は日本で作られたらしく、お釜は飯を炊く釜が使われていた。
下宿に戻るとそのお釜が悪さをしていた。晩飯の膳の上にうどんがのぼっていた。この下宿のうどんには以前、手をやいたことがある。生ら煮えで芯の方は粉っぽく、食べたが最後、胃の奥の方がちくちくと痛みだし、下宿のふとんにくるまって、厠にかけこんだと云う悪い想い出がある。いつも膳が出ると直ぐに箸を取る僕が躊躇しているので、女中が僕の顔を見て云った。
「あなた饂飩はお嫌い」
「なんで、飯がでないのだ。これを食って下宿の住人が食中毒事件を起こしたのを覚えていないのか」
「みんな三角さんが悪いんですよ。泥道で蒸気自動車を走らせて、お釜を壊しちゃったの。それで内のお釜も蒸気自動車のお釜と同じで使えるからと云って、蒸気自動車にくっっけちゃったのはいいんだけど、それもこわしちゃったんです。なんなら、おやつのかるべ焼きでも持って来ましょうか」こう云って立ちそうにした。
「待て」と僕は云った。「実はまだ腹も透いていないから、散歩をして来よう。お上さんにはなんとでも云って置いてくれ。饂飩が気に入らなかったなんて云うなよ。余計な心配をさせなくても好いから」
「それでもなんだかお気の毒様で」
「馬鹿を言え」
僕が立って袴を穿き掛けたので、女中は膳を持って廊下へ出た。最近すっかりと成金としての外見も内面も備えて来た三角に何か言ってやろうかと思って隣りの部屋を覗くと三角は出掛けている。僕はもう一方の隣りの部屋に声を掛けた。
「おい。岡田君いるか」
「いる。何か用かい」岡田ははっきりした声で答えた。
「用ではないがね、散歩に出て、帰りに豊国屋へでも往こうかと思うのだ」
「行こう。丁度君に話したい事もあるのだ」
僕は釘に掛けてあった帽を取って被って、岡田と一緒に上条を出た。午後四時過ぎであったかと思う。どこへ往こうと云う相談もせずに上条の格子戸を出たのだが、二人は門口から右へ曲がった。
無縁坂を降り掛かる時、僕は「おい、いるぜ」と云って、肘で岡田を衝いた。
「何が」と口には云ったが、岡田は僕の詞の意味を解していたので、左側の格子戸のある家を見た。
家の前にはお玉が立っていた。手には蜜柑色の競漕選手の着る衣装を持っている。たまたま知り合いにこれを貰ったので岡田さん、着て御覧なさいと云うつもりなのかも知れない。それはともかく、お玉は窶れていても美しい女であった。しかし若い健康な美人の常として、粧映もした。僕の目には、いつも見た時と、どこがどう変わっているか、わからなかったが、とにかくいつもとまるで違った美しさであった。女の顔が照りかがやいているようなので、僕は一種のまぶしさを感じた。
お玉の目はうっとりとしたように、岡田の顔に注がれていた。岡田は慌てたように帽を取って礼をして、無意識に足の運びを早めた。
僕は第三者に有勝な無遠慮を以て、度々背後を振り向いて見たが、お玉の注視は頗る長く継続せられていた。
岡田は俯き加減になって、早めた足の運びを緩めずに坂を降りる。僕も黙って附いて降りる。僕の胸の内では種種の感情が戦っていた。この感情には自分を岡田の地位に置きたいと云うことが根調をなしている。しかし僕の意識はそれを認識することを嫌っている。僕の心の内で、「なに、己がそんな卑劣な男なものか」と叫んで、それを打ち消そうとしている。そしてこの抑制が功を奏せぬのを、僕は憤っている。自分を岡田の位置に置きたいと云うのは、彼女の誘惑に身を任せたいと思うのではない。只岡田のように、あんな美しい女に慕われたら、さぞ愉快だと思うに過ぎない。そんなら慕われてどうするか、僕はそこに意志の自由を保留して置きたい。僕は岡田のように逃げはしない。僕は逢って話しをする。自分の清潔な身は汚さぬが、逢って話しだけはする。そして彼女を妹の如くに愛する。彼女の力になって遣る。彼女を汚泥の中から救抜する。僕の想像はこんな取り留めのない処に帰着してしまった。
坂下の四つ辻まで岡田と僕とは黙って歩いた。真っ直ぐに巡査派出所前を通り過ぎる時、僕はようよう物を言うことが出来た。「おい、凄い状況になっているじゃないか」
「ええ。何が」
「何がも何も無いじゃないか。君だってさっきからあの女の事を思って歩いていたに違いない。僕は度々振り返って見たが、あの女はいつまでも君の後影を見ていた。おかたまだこっちの方角を見て立っているだろう。あの左伝の、目迎えて而してこれを送ると云う文句だねえ。あれをあべこべに女の方で遣っているのだ」
「その話はもうよしてくれ給え。君にだけは顛末を打ち明けて話してあるのだから、この上僕をいじめなくても好いじゃないか」
こう云っているうちに、池の縁に出たので、二人共ちょいと足を停めた。
「最近の三角くんの変化について気付いているか。そのことで河原猫造さんに食事に招待された。三角君は竹筒蕎麦と云うものを開発して小金持ちになったみたいだよ。だから成金みたいなことをやっていて、茅場町の海陽亭でスパゲッティと云うものを食って来たそうだよ。蕎麦屋通いをしていた頃と大違いじゃないか」このときはまだ三角が恋いこがれている女が無縁坂の女だとは僕は知らなかった。自分の心配事があるのか、この話に岡田はあまり興味がないようだった。
「あっちを廻ろうか」と、岡田が池の北の方を指ざした。
「うん」と云って、僕は左へ池に沿うて曲がった。そして十歩ばかりも歩いた時、僕は左手に並んでいる二階建ての家を見て、「ここが桜痴先生と末造君の邸宅だ」と独語のように云った。
「妙な対照のようだが、桜痴居士も余り廉潔じゃないと云うじゃないか」と、岡田が云った。「そりゃあ政治家になると、どんなにしていたって、難癖を附けられるさ」恐らくは福地さんと末造との距離を、なるたけ大きく考えたかったのであろう。
福地の邸の板塀のはずれから、北へ二三軒目の小家に、ついこの頃「川魚」と云う看板を掛けたのがある。僕はそれを見て云った。「この看板を見ると、なんだか不忍の池の肴を食わせそうに見えるなあ」
「僕もそう思った。しかしまさか梁山泊の豪傑が店を出したと云うわけでもあるまい」
こんな話しをして、池の北の方へ往く小橋を渡った。すると、岸の上に立って何かを見ている学生らしい青年がいた。それが二人の近づくのを見て、「やあ」と声を掛けた。柔術に凝っていて、学科の外の本は一切読まぬと云う性だから、岡田も僕も親しくはせぬが、そうかと云って嫌ってもいぬ石原と云う男である。
(小見出し)池の中
「こんな所に立って何を見ていたのだ」と、僕が問うた。
石原は黙って池の方を指ざした。岡田も僕も灰色に濁った夕の空気を透かして、指ざす方角を見た。その頃は根津に通じる小溝から、今三人の立っている汀まで、一面に葦が茂っていた。その葦の枯葉が池の中心に向かって次第に疎らになって、只枯れ蓮の襤褸のような葉、海綿のような房が碁布せられ、葉ゆや房の茎は、種種の高さに折れて、それが鋭角に聳えて、景物に荒涼な趣を添えている。この濃褐色の茎の間を縫って、黒ずんだ上に鈍い反射を見せている水の面を、十羽ばかりの雁が緩やかに往来している。中には停止しているものもいる。皇帝直属三部、イワノビッチ・ペドローフが雁に姿を変えて、この不忍の池に飛来していると云うことは、その頃は想像もしていなかった。
「あれまで石が届くか」と、石原が岡田の顔を見て云った。
「届くことは届くが、中るか中らぬかが問題だ」と岡田は答えた。
「遣って見給え」
岡田は躊躇した。「あれはもう寝るのだろう。石を投げ附けるのは可哀想だ」
石原は笑った。「そう物の哀れを知り過ぎては困るなあ。君が投げんと云うなら、僕が投げる」
岡田は不精らしく石を拾った。「そんなら僕が逃がして遣る」つぶてはひゅうと云う微かな響きをさせて飛んだ。僕がその行方をじっと見ていると、変な金属音がして一羽の雁が擡げていた頸をぐたりと垂れた。それと同時に二三羽の雁が鳴きつつ羽ばたきをして、水面を滑って散った。しかし飛び起ちはしなかった。頸を垂れた雁は動かずに故の所にいる。
「中った」と、石原が云った。そして暫く池の面を見ていて、詞を継いだ。「あの雁は僕が取って来るから、その時は君達も少し手伝ってくれ給え」
「どうして取る」と、岡田が問うた。僕も耳をそばだてた。
「先ず今は時が悪い。もう三十分立つと暗くなる。暗くさえなれば、僕がわけなく取って見せる。君達は手を出してくれなくても好いが、その時居合わせて、僕の頼むことを聴いてくれ給え。雁はご馳走するから」と、石原が云った。
「面白いな」と、岡田が云った。「しかし三十分立つまでどうしているのかい」
「僕はこの辺をぶらついている。君達はどこへでも往って来給え。三人ここにいると目立つから」
僕は岡田に言った。「そんなら二人で池を一週して来ようか」
「好かろう」と云って岡田はすぐに歩き出した。
僕は岡田と一緒に花園町の端を横切って、東照宮の石段の方へ往った。二人の間には暫く詞が絶えている。「不しあわせな雁もあるものだ」と、岡田が独語のように云う。僕の写象には、何の論理的連携もなく、無縁坂の女が浮かぶ。その雁が無縁坂の女のしあわせの鍵を握っていたような気がした。「僕は只雁のいる所を狙って投げたのだがなあ」と、今度は僕に対して岡田が云う。「うん」と云いつつも、僕はやはり女の事を思っている。「でも石原のあれを取りに往くのが見たいよ」と、僕が暫く立ってから云う。こん度は岡田が「うん」と云って、何やら考えつつ歩いている。多分雁が気になっているのだろう。
石段の下を南へ、弁天の方へ向いて歩く二人の心には、とにかく雁の死が暗い影を印していて、話しがきれぎれになり勝ちであった。弁天の鳥居の前を通る時、岡田は強いて思想を他の方角に転ぜようとするらしく、「僕は君に話す事があるのだった」と言い出した。そして僕は全く思いも掛けぬ事を聞かせられた。
その話しはこうである。岡田は今夜己の部屋に来て話そうと思っていたが、丁度己にさそわれたので、一しょに外に出た。出てからは、食事をする時話そうと思っていたが、それもどうやら駄目になりそうである。そこで歩きながら掻い摘んで話すことにする。いぜん蕎麦屋で三角もいるとき、その話しの一部をしたが、岡田は卒業の期を待たずに洋行することに極まって、もう外務省から旅券を受け取り、大学に退学届けを出してしまった。一部のことは聞いていて知っていたが、あまりの突然のことに僕は驚いた。ドイツのWさんの助手をつとめると云う話しだ。岡田はあす上条を出て、築地のWさんの所へ越して往って、Wさんが清と日本で買い集めた書物の荷造りをする。それからWさんに附いて九州を視察して、九州からすぐにMessagerie Maritime会社の舟に乗るのである。
僕は折々立ち留まって、「驚いたね」とか、「君は果断だよ」とか云って、随分ゆるゆる歩きつつこの話を聞いた積であった。しかし聞いてしまって時計を見れば、石原に分かれてからまだ十分しか立たない。それにもう池の周囲の殆ど三分の二を通り過ぎて、仲町裏の池の端をはずれ掛かっている。
「このまま往っては早過ぎるね」と、僕は往った。
「蓮玉へ寄って蕎麦を一杯食って行こうか」と岡田が提議した。
僕はすぐに同意して、一しょに蓮玉庵へ引き返した。その頃下谷から本郷へ掛けて一番名高かった蕎麦屋である。
蕎麦を食いつつ岡田は言った。「折角今まで遣って来て、卒業しないのは残念だが、所詮官費留学生になれない僕がこの機会を失すると、ヨオロッパが見られないからね」
「そうだとも。機逸するべからずだ。卒業がなんだ。向こうでドクトルになれば同じ事だし、又そのドクトルをしなくたって、それも憂うるに足りないじゃないか」
「僕もそう思う。只資格を拵えると云うだけだ。俗に随って、いささかまたしかりだ」
「支度はどうだい。随分慌ただしい旅立ちになりそうだが」
「なに。僕はこのままで往く。Wさんの云うには、日本で洋服を拵えて行ったって、向こうでは着られないそうだ」
「そうかなあ。いつか花月新誌で読んだが、成島柳北も横浜でふいと思い立って、即座に決心して舟に乗ったと云うことだった」
「うん。僕も読んだ。柳北は内へ手紙を出さずに立ったそうだが、僕は内の方へ詳しく言って遣った」
「そうか。羨ましいな。Wさんに附いて行くのだから、途中でまごつくことはあるまいが、旅行はどんな塩梅だろう。僕には想像も出来ない」
「僕もどんな物だか分からないが、きのう柴田承桂さんに逢って、これまで世話になった人だから、今度の一件を話したら、先生の書いた洋行案内をくれたよ」
「はあ。そんな本があるかねえ」
「うん。非売品だ。椋鳥連中に配るのだそうだ」
こんな話をしているうちに、時計を見れば、もう三十分までに五分しかなかった。僕は急いで蓮玉庵を出て、石原の待っている所へ往った。もう池は闇に鎖されて、弁天の朱塗りの祠が模糊として靄の中に見える頃であった。
待ち受けていた石原は、岡田と僕を引っ張って、池の縁に出て云った。「時刻は丁度好い。達者な雁は皆塒を変えてしまった。僕はすぐに為事に掛かる。それには君達がここにいて、号令を掛けてくれなくてはならないのだ。見給え。そこの三間ばかり前の所に蓮の茎の右へ折れたのがある。その延線に少し茎の左へ折れたのがある。僕はあの延線を前へ前へと行かなくてはならないのだ。そこで僕がはずれそうになったら、君達がここから右とか左とか云って修正してくれるのだ」
「なる程。Parallaxeのような理屈だな。しかし深くはないだろうか」と岡田が云った。
「なに。背の立たない気遣は無い」こう云って、石原は素早く裸になった。
石原の踏み込んだ処を見ると、泥は膝の上までしか無い。鷺のように足をあげては踏み込んで、ごぼりごぼりと遣って行く。少し深くなるかと思うと、又浅くなる。見る見る蓮の茎より前に出た。暫くすると、岡田が「右」と云った。石原は右へ寄って歩く。岡田が又「左」と云った。石原が余り右へ寄り過ぎたのである。忽ち石原は足を停めて身を屈めた。そしてすぐに跡へ引き返して来た。遠い方の蓮の茎の辺を過ぎた頃には、もう右の手に提げている獲物が見えた。しかし石原は不審そうな顔をしていた。
石原は太股を半分泥に汚しただけで、岸に着いた。獲物は思い掛けぬ大きさの雁であった。石原はざっと足を洗って、着物を着た。この辺はまだ人の往き来が少なくて、石原が池に入ってからまた上がって来るまで、一人も通り掛かったものが無かった。
「この雁はおかしい」と、石原が云った。羽の付け根のところが取れていて、中から幾重にも重なった歯車とそれを支持する金属製のわくが見える。羽の裏側にはロシア語が書かれている。「この歯車の曲線はリューサージュ曲線で作られている。日本で作られているものではないよ」「この歯車を動かす動力はどこにあるんだ。そもそも動力のない機械などがあるだろうか」「それは熱力学の第二法則で証明されている」石原が雁の中の方をさらに身ながら云った。「食えないけど持っていこうよ」「どうして持って行こう」と僕が云うと、石原が袴を穿きつつ云った。
「岡田君の外套が一番大きいから、あの下に入れて持って貰うのだ。中身は僕の所に戻ってから調べよう」
石原は素人家の一間を借りていた。主人の婆さんは余り人が好くないのが取り柄で、石原が変わったものを拾って来ると安い金で買い取ってどこかの骨董屋に売りさばいていた。珍しいものを持って行けば金もくれるに違いなかった。その家は湯島切り通しから、岩崎邸の裏手へ出る横町で、曲がりくねった奥にある。石原はそこへ雁を持ち込む道筋を手短に説明した。先ずここから石原の所へ往くには、由るべき道が二条ある。即ち南から切り通しを経る道と、北から無縁坂を経る道とで、この二条は岩崎邸の内に中心を有した圏を画いている。遠近の差は少ない。又この場合に問う所でも無い。障害物は巡査派出所だが、これはどちらにも一個所ずつある。そこで利害を比較すれば、只賑やかな切り通しを避けて、寂しい無縁坂を取ると云うことに帰着する。雁は岡田に、外套の下に入れて持たせ、跡の二人が左右に並んで、岡田の顔を隠蔽して行くが最良の策だと云うのである。
岡田は苦笑いしつつも、皇帝三部の雁を持った。もちろん岡田はその雁の名前がイワノビッチ・ペドローフであることは知らない。機械仕掛けの雁であるから、普通の雁よりも少し重かった。どんなにして持って見ても、外套の裾から下へ、羽が二三寸出る。その上外套の裾が不格好に拡がって、岡田の姿は円錐形に見える。石原と僕とは、それを目立たぬようにしなくてはならぬのである。
「さあ、こう云う風にして歩くのだ」と云って、石原と僕の二人で、岡田を中に挟んで歩き出した。三人で初めから気に掛けているのは、無縁坂の四つ辻にある交番である。そこを通り抜ける解きの心得だと云って、石原が盛んな講釈をし出した。なんでも、僕の聴き取った所では、心が動いてはならぬ、動けば隙を生じる。隙を生ずれば乗ぜられると云うような事であった。石原は虎が酔人を喰わぬと云う譬えを引いた。多分この講釈は柔術の先生に聞いた事をそのまま繰り返したものかと思われた。
「して見ると、巡査が虎で、我々三人が酔人だね」と、岡田が冷やかした。
「Silentium!」と石原が叫んだ。もう無縁坂の方角へ曲がる角に近くなったからである。
角を曲がれば、茅町の町家と池に沿うた屋敷とが背中合わせになった横町で、その頃は両側に荷車や何かが置いてあった。四つ辻に立っている巡査の姿は、もう角から見えていた。
突然岡田の左に引き添って歩いていた石原が、岡田に言った。「君円錐の立法積を出す公式を知っているか。なに。知らない。あれは造作はないさ。基底面に高さを乗じたものの三分の一だから、若し基底面が圏になっていれば、三分の一かけるRの二乗かけるπかけるHが立法積だ。円周率が3.1415だと云うことを記憶していれば、わけなく出来るのだ。僕は円周率を小数点下八位まで記憶している。3.14159265になるのだ。実際それ以上の数は不必要だよ」
こう云っているうちに、三人は四つ辻を通り過ぎた。巡査は我々の通る横町の左側、交番の前に立って、茅町を根津の方へ走る人力車を見ていたが、我々には只無意味な一瞥を投じたに過ぎなかった。
「なんだって円錐の立方積なんぞを計算し出したのだ」と、僕は石原に言ったが、それと同時に僕の目は坂の中程に立って、こっちを見ている女の姿を認めて、僕の心は一種異様な激動を感じた。僕は池の北の端から引き返す途すがら、交番の巡査の事を思うよりは、この女の事を思っていた。なぜだが知らぬが、僕にはこの女が岡田ほ待ち受けていそうに思われたのである。果たして僕の想像は僕を欺かなかった。女は自分の家よりは二三軒先へ出迎えていた。
僕は石原の目を掠めるように、女の顔と岡田の顔とを見較べた。いつも薄紅に匂っている岡田の顔は、確かにひとしお赤く染まった。そして彼は帽を動かすらしく粧って、帽の庇に手を掛けた。女の顔は石のように凝っていた。そして美しく瞠った目の底には、無限の残惜しさが含まれているようだった。
この時石原の僕に答えた詞は、その響きが耳に入っただけで、その意は心に通ぜなかった。多分岡田の外套が下ぶくれになっていて、円錐形に見える処から思い附いて、円錐の立法積と云うことを言い出したのだと、弁明したのだろう。
石原も女を見ることは見たが、只美しい女だと思っただけで意に介せずにしまったらしかった。石原はまだ喋り続けている。「僕は君達に不動の秘訣を説いて聞かせたが、君達は修養が無いから、急場に臨んでそれを実行することが出来そうでなかった。そこで僕は君達の心を外へ転ぜさせる工夫をしたのだ。問題は何を出しても好かったのだが、今云ったようなわけで円錐の公式が出たのさ。とにかく僕の工夫は好かったね。君達は円錐の公式のお陰で、平静な態度を保って巡査の前を通過することが出来たのだ」
三人は岩崎邸に附いて東へ曲がる処に来た。一人乗りの人力車が行き違うことの出来ぬ横町に入るのだから、危険はもう全く無いと云っても好い。石原は岡田の側を離れて、案内者のように前に立った。僕は今一度振り返って見たが、もう女の姿は見えなかった。
僕と岡田とは、その晩石原の所に夜の更けるまでいた。雁を婆さんに差し出すと、銀貨を一枚くれた。それで酒と肴を買った。酒を飲む石原の相伴をしたと云っても好い。岡田が洋行の事をおくびにも出さぬので、僕は色々と話したい事のあるのをこらえて、石原と岡田との間に交換せられる競漕の経歴談などに耳を傾けていた。
上条へ帰った時は、僕は草臥れと酒の酔いのために、岡田と鼻かことも出来ずに、別れて寝た。
翌日大学から帰って見ればもう岡田はいなかった。
*******
「太郎、起きなさい。玉子さんが来ているわよ」
部屋の外で母親が僕の名前を呼ぶ声が聞こえたので目を覚ました。机に突っ伏して寝ていたらしい。僕の寝ている顔と机のあいだには明日の始業式に備えて、新しく貰った国語と世界史の教科書がページを開いたまま置いてある。机の上の目覚まし時計の横にはカップラーメンが箸をつっこんだまま食べかけのが置いてある。国語の教科書には森鴎外の雁が載っている。世界史の教科書にはロシア革命の少し前のところが載っている。その教科書はまだ新品なのに頭の重さをかけられていたのでそのページにはくせがついていた。新しく貰った教科書の少し興味のあるところ、つまり森鴎外の雁と世界史のニコライ二世のところをつまみ読みしているあいだに寝てしまったらしい。そのために夢うつつの中で読んだそれらの教科書の内容が変なふうに合体せられて、変な物語が展開してしまった。
「明日の始業式には一緒に出るんでしょう」ノックもせずに僕の部屋に入って来た幼なじみの玉子が、僕の部屋にあるベッドに腰掛けながら云った。うぐいす色のカーディガンを着ている。どういうわけか、おない年の玉子も僕も同じ高校に入ることになった。ベッドの片隅に腰掛けている玉子を女として今まで意識することはなかったが、確かに女の匂いがした。冷静になってよく見ると玉子は美人だ。その事を今発見した僕の意識を玉子は理解しているのだろうか。
およそ百年前の岡田とお玉はそれぞれの事情や歴史的な背景によって結ばれることはなかった。お玉が岡田を最後に見たときの残惜しい気持が明治、大正、昭和と生き抜いて、平成のこの現代にかたちとなって僕らふたりを幼なじみとしてよみがえらせたのかも知れなかった。まだ女性の地位や権利も認められなかった明治と云う時代においてちっぽけな庶民として、女として生を受けたお玉は百年を経て恋の勝利者となったのかも知れない。もしお玉が現代において、僕の幼なじみの玉子として生まれかわり、いたずらっぽい目で未来の伴侶として僕を見ていてくれるなら、活字の上でお玉に永遠の命を与えてくれた、森鴎外先生ありがとう。
お玉の命よ永遠に。
明治 @tunetika
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。明治の最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます