第19話『多摩川』


「どうだリルカ」

(……)リルカからの返事はない。複製体を作っている時は会話できないと聞いているので仕方ない。


 日の出と共に祖師谷の保育園を出発した俺達は、何度かのウオーカーの遭遇を経て、何とか無事に多摩川の近くの崩れ去ったアパートに辿り着いた。

 アパートの壁の隙間から多摩川の土手が見える。周囲にこれと言った高い建物も無く、土手の向こう側を見ることは出来ないが、この河川敷には水害時以外での広域避難場所に指定されていたはずである。生活に必要な水があり十分なスペースも確保できる場所なので、ここに設置された避難所もそれなりの規模があったと想像できる。そこで安全確保のために、リルカに複製体を出してもらい偵察に行ってもらった。


 土手の向こう側から流れてくる風に、僅かに古い油のにおいが混じっていることから、この向こう側にウオーカーが居るのは間違いない。俺は崩れたアパートの壁に寄りかかり、静かにリルカの帰りを待った。


 日も高く昇っているので時刻はもう十一時くらいだろうか……。よく晴れた空からふり注ぐ日光が心地よい。これが通常の休日であれば散歩がてらに街へ出て、古本屋巡りでもしていたところだろう。少しでも早く日々命がけで逃げ回る生活から解放されたいと切に願う。

 俺はそよ風に身をまかせ目を瞑った。



(今、帰りました)突然リルカが話しかけてきた。

「どうだった」

(数はおよそ百体。五~十体の群れで移動しています)


 想定していたのよりかなり数が少ない。水の流れがあれば魔力の残滓も消えると聞いたので、もっとここに溜まっていてもおかしくないと思っていたが、やはり、川を越えて川崎側に行ってしまったのだろうか……。


「向こう岸はどうだった」

(見える限りでは五体ほどが上流に向かってました)

 こいつも少ない。既に河原を離れ街の方へと去って行ったのだろうか。


 なるべく気付かれない様に移動して、素早く川を渡れば後はどうにでもなる。相手の動きはかなり遅い、走る事さえできれば、例え襲われたとしても十分に逃げ切ることが出来るだろう。


(どうしますか)リルカが質問してきた。

「行こう」


 幸い今日は天気も良い。気温が低いのは気になるが、これなら逃げている内に濡れた服も乾かすことが出来るだろう。それに雨が降って増水してしまう前に渡ってしまいたい。それならば……。


 ――多摩川渡河作戦の開始だ!



 アパートを後にした俺達は注意深く土手を登った。土手の上まで登り河川敷を見渡した。

 広い空き地に、色とりどりのテントが張られているのが見て取れる。その周囲に沢山の車が置いてある。


 多摩川を歩いて渡るなら丁度この場所が良い。川幅は少し広がって流れもあるが水深は浅く流れが何本かに別れている。


 乱雑に建てられたテントの合間を縫う様に、ウオーカーがふらふらと歩いている。確かに数はそんなにいない様だ。

 いや、敷地が広い所為で少なく見えているのか……。


(少し向こうの方へ誘導しますか)リルカが聞いて来る。

「いや、大丈夫だろう」これだけ広いと別の場所に誘導するのも時間が掛かりそうだ。それに、もし、追われたとしても川に入ってしまえば魔力の残滓が消える。逃げきって見せる自信は十分にある。


「良し行くぞ」(はい!)

 俺はそう掛け声をかけ、一気に土手を下った。


 最も手前に置いてあるバスの陰に身を潜める。もっとも、ウオーカーの目は疑似的な魔力視らしいので遮蔽物はそこまで意味をなさない。視界の範囲の十メートル以内ならある程度の厚さの物も半透明に透けて見えるとのことだ。

 バスの一番前に行ってそっと覗き見る。二十メートルほど向こうの物陰に五体ほどのウオーカーがゆらゆらと歩いている。こちらに近づいてくる気配はない。

 俺は周囲を警戒しながらバスを離れ慎重にテントの陰へと進んだ。


 乱雑に建てられたテントの群れ。色もサイズもまちまちで、中には木材とブルーシートで作られた簡素なものも多くある。それらが継ぎ接ぎしたように適当に空いた―スペースに建てられている。視界も悪く真っ直ぐには進めない。――これじゃまるで迷路だな……。


(ゆっきー、まずいです)

「ん?」

(地形が複雑すぎて完全には残滓を消せません)

「なに……」それはまずい。いつもであればリルカが魔力の残滓を風を使ってうまく散らしてくれるのだが、この様に障害物の多い場所では無理らしい。一旦ウオーカーに見つかってしまえば間違いなく追跡を受ける事になる。ここは、引き返すべきだろうか……。


「リルカ、一番近くに居る奴だけ教えてくれ」

(向こうです)

 まだ距離はある。

「よし、一気に抜けて河原へ出るぞ」

 俺はテントの張られた隙間を縫う様にして駆け出した。

 あちこちに家具や衣類が散乱している。ビニールシートや波板を使い建てられた避難所が視界を遮る。そこら辺に出されたごみから腐臭が漂う。その中に僅かに漂う古い油の匂い……。


(左前方居ます!)

 すぐに地面を蹴って進路を右へと変える。崩れたテントや散らばるゴミのお陰で走りにくい。足場を探りながら駆け抜ける。一際大きく建てられたバラックのような建物を回り込んだ。


 ――見えた! 河原だ。

(まずいです! 後方、ウオーカーに気づかれました!)同時にリルカの警告が発せられた。


 後ろを振り返ると七体ほどのウオーカーが、テントを次々倒しながらこちらへ迫ってくるのが見えた。

 俺は前を向きテントの隙間を縫って河原へと飛び出した。

 下流の方からも十体のウオーカーが迫って来ているのが見えた。


 ――しまった! こいつらはリンクしてるんだ! 一体が獲物を見つけると離れた場所に居る個体もそれに気づく。そうやって獲物を追い詰めるように出来ている。

 テントの中から次々とウオーカー共が這い出して来る。周囲から一斉に最初に反応を示した個体へと近づいて来る。


 だが、残念! 如何せん足が遅すぎる。

 集まって来て居る隙に俺は余裕をもって河原を走り、川の流れのあるところまで辿り着いた。


「リルカ、エアウオークを頼む」

(はい! 〝大気よ、包み込め! 重量軽減エアウオーク!〟)

 川幅約七メートル。半分ほどを一歩で飛び越えて二歩目で川の中州に着地した。


「リルカ、魔力の残滓を散らしてくれ」

(いきます、〝風よ、吹け〟)

 強い風が吹き抜けて残滓を散らしていく。ただそれだけで後を追って集まったウオーカー共の歩調が乱れた。俺を見失った河原の向こう側で徘徊を始めた。



 ――何とも呆気ない……。

 仕組みを知っていさえすればこんな物なのだ。これなら地の利さえ良ければ倒すことだって容易いだろう。


 俺は中州を対岸へ向けて歩き、もう一つの流れへと足を踏み込んだ。水深はひざ下20㎝。ここを渡れは川崎の街へと入れる……。


「……あれ?」

 次の瞬間俺は天を仰いだ。

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