第16話『立体駐車場』


 俺はところを見ていない。これはおかしなことなのだ。もしこの災害が全て世界衝突で巻き起こされた現象であるならば、俺はそれを見ていないと変である。しかし、見ていない……。俺はあの時、地震と電車の窓が割れるシーンしか見ていない。その後渋谷駅が崩壊するシーンを見ていない。



 その時、渋谷駅に到着した電車が突然揺れ出した。それは今までに感じた事の無いほどの激しい揺れだった。

 そして一斉に窓が割れ車内に悲鳴が木霊した。割れた窓からワンワンと唸りを上げて風が吹き込む。

 それから、停電。電車もホームも電気が消えて非常灯の明かりだけが残った。

 誰かがドアが開かないと叫び、誰かがスマホの明かりを頼りに非常用レバーを引いてドアの周囲に居た人たちが手で強引に扉を開けた。

 俺はまだ座席に座ったままだった。状況がうまく呑み込めず動けなかった。いや状況を理解する前に動くことを躊躇った。

 次々と開いたドアから人が降りていく。

 この時になって俺も座席から立ち上がり後に着いて行こうと決意した。だが……立てなかった。

 暗い電車の中で人が目の前を通り過ぎていく。最後に赤子を胸に抱いた黒いドレスを着た女性がゆっくりと通り過ぎ……そして意識を失った。



 渋谷駅と東京の崩壊はその破壊痕から恐らく同じ原因と推測できる。そして渋谷駅で見た遺体の状態からその崩壊は俺が意識を失ったすぐ後の事だったと想像できる。

 だが、俺はその時、精霊結界によって守られていた……。

 一体、誰によって結界を張られ、何から守られていたと言うのだろう?



(ゆっきー)

「……」リルカが呼んでいる……。恐らくこいつは何もわかっていない。嘘をついてる様子もない。


(ゆっきー!)

「何だリルカ」

(何か変です)

「何が?」

(周りに魔力のほとんどない何かが居ます)

「何?」俺は周囲を見回した。


 その時、視界の隅で何かが動いた!



 俺は急いでマグカップと鍋をバッグに仕舞った。

 今のは何だ? 少し向こうの天井を這う配管の裏で何かが動いた。サイズ的には俺の靴くらいのサイズだろうか。小さな生き物だ。

 音を立てずにそっと立ち上がり近づいてみる。


 “キュッ” 小さな可愛い声が聞こえる。


「何だ、ネズミじゃないか……」俺は身体に入れた力を抜いた。

(ネズミですか。私の世界ではもっとサイズが大きので判りませんでした)


 ネズミの駆除は時折間違って防災課に回される事もあるが、基本的に保健所生活衛生課の仕事である。だが避難所の食料備蓄を荒らされる事もあるので一応の知識だけは備えてある。


 ネズミは普段はおとなしく夜行性の臆病な生き物で人前に姿を見せる事はあまりない。だがその繁殖力はすさまじく一年に五回ぐらい妊娠し一回に七匹ぐらいの子供を産む。学習能力も高くその内容を群れの仲間で共有したりもする。

 そして、恐らくこいつは街中でよく見かけるドブネズミの類だろう。


 ――あれ? 今、三階のスロープの壁際に三匹のネズミが走り抜けた。自分の体より大きな生き物の前にはあまり姿を見せないはず……。


 “キュ、キュキュ、キュ” 天井に張った配管の裏側からごそごそ動く音と沢山の声が聞こえて来る。


「リルカ! 周囲にどれくらいの数が居るか判るか」

(いえ、わかりません……ですがものすごい数です)


 何事にも例外はある。普段はおとなしい性格のネズミだが、その数が増え過ぎた場合はその限りではない。


 ネズミ共が次々と二階からスロープを駆け上がり柱や壁の陰に隠れていく。


 その数を増やし周辺の食料を食べつくす。こうして飢餓状態になったネズミは狂暴化する。


 “キュ、キュキュ、キュキュキュ、キュキュキュ、キュキュキュ、キュ” 周囲の柱や配管の裏側から一斉に鳴き声が聞こえ始めた。


 そして、その高い学習能力から集団での狩りを覚える。

 集団で鶏舎を襲い鶏を食べつくした事例もある……。


 一匹の一際大きな体のネズミが天井を這う配管の上からこちらを覗いている。目が合った……。


「キュィィィィッィー!」大きく甲高い声が鳴り響いた!


 バッと言う効果音と共に、天井の配管から小さな生き物たちが一斉に飛び出してきた。


「リルカ! 吹き飛ばせ!」

(風よ、風よ、吹き飛ばせ!)


 一斉に飛び掛かってきたネズミ共は、まとめてリルカの風に吹き飛ばされる! 天井や壁にぶつかりバラバラと床へと落ちる。

 俺はバッグを持って駐車場の反対側へと駆け出した。


 四階へは上がれない。もし上がったとしても、上の階は崩落している可能性がある。それに上に逃げ道は無い。

 二階へは降りられない。下から次々とネズミが駆け上がって来ている。下で待ち伏せされている可能性がある。


 俺は次に飛び掛かってきた一団をバッグを振って蹴散らした。


 床に落ちたコンクリート片の後ろに、何の生き物か判別できない真っ白な骨が散乱している。


 ここは彼等の縄張り、そして……〝狩場〟 なのだ!

 だから、上にも下にも逃げ場はない!


「リルカ! 飛び出したらすぐに俺にエアウオークを掛けろ!」

(え? あ、はい!)


 俺は背後の手すりに足を掛けた。そして伸びあがる様に手すりを越えた。

 その向こう側には無いも無い。ただ青い空だけが瞳に映る。その空へ向けて一歩を踏み出す。自由へ向けて……。


 一瞬の浮遊感。そして無情な重力。

 俺の体は次第に加速度を増しながら地面に向かう。


(大気よ、包み込め! 重量軽減エアウオーク!)


 瞬時にして体が軽くなる。しかし、一度ついてしまった加速は落ちない。

 俺は着地と同時に地面へ転がった。

 ――うおー! チョー怖い! ロープ無しのバンジーなんて初めてだ! 何とか無事に受け身をとった。背後を振り向く。


 立体駐車場に居たネズミ共が壁や柱を伝い、こちらへ殺到して来る。

 速度が速い! 走って逃げたとしても間違いなく追いつかれる。ウオーカーなどよりよほどこちらの方が厄介だ。

 俺は手元の砂利を掴みながら立ち上がった。


「リルカ! 吹き飛ばせ!」

(風よ、風よ、吹き飛ばせ!)

 今度は俺がリルカの詠唱に合わせて、砂利をネズミに向けて投げ放った。


 こちらに向けて駆け寄るネズミの大群。その先頭にリルカの風が小石を巻き込んで放たれる。

 パッと花が咲くように血煙が上がった。


 そして、俺は後ろを向いて振り返らずに全力で駆けだした。




(もう大丈夫な様です)リルカが告げる。

 ――しんどい……息が切れた……。俺は道路の真ん中へへたり込んだ。


(でも、どうしてネズミ達は追ってこなかったんでしょう)

「ドブネズミの習性として……集団密度が高くなりすぎて……狂乱化して共食いを始めたんだ……」

(共食い……)

「ああ、奴等はこっちを襲う際にすでに狂乱化が始まってたから、小石を投げつけて適当に餌になる弱った個体を作ってやった。それで奴等はそっちに群がって行ったんだ」

(そんな習性を知っててやったんですね)

「まあ、以前仕事で調べたことがあっただけだよ……」

(すごいです)

「ははは……」


 ――それにしても、なんか、俺、毎日走ってる気がする……。疲れた。


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