第5話

第五回

「好きで、好きで、大好きで、死ぬほど好きなお方でも・・・」

光太郎は鼻歌を歌いながら厠から戻って手ぬぐいで手をふきつつ縁側とも廊下とも変わらない自分の家の中を歩いて新しく出来た居間に戻ろうとすると自家発電式の電話のベルがけたたましく鳴った。ちょうどその前を通った光太郎は木の箱の横についているエボナイトの送受話機を取り上げて耳にあてた。

「飯田光太郎さまですか。今回はどうもありがとうございます。お陰様で矢作焼きの名称を思い切って名乗ることが出来ます」

「矢作って」

「愛知県の矢作でございますよ」

「饅頭のことですか」

光太郎にはまったく見当のつかない電話だったが、矢作焼きと聞いて、饅頭がとっさに頭に浮かんだ。

「饅頭ではございません。焼き物の名称でございます」

「焼き物と云うと土をこねて、窯で焼くあれですか」

「そうです。そのうち機会を見つけてあらためてお礼をしたいと思いますが、今日はとりあえずこれで」

そう言うと電話の相手は光太郎に忖度するゆとりも与えずにがちゃりと電話を切った。

「ふん、馬鹿にしている」

光太郎は手に持った日本手拭いを下から上にまわして肩にかけると居間の前を左に曲がって台所に入った。台所には妻の飯田かおりはいなかった。

「光太郎さん、庭のほうに出てお風呂に薪をくべてくださらない」

姿は見えず飯田かおりの声だけはする。光太郎が庭のほうに出て、風呂の窯に薪をくべると窯の上のほうの窓ががらりと開いて飯田かおりの白い生首が顔を出した。肩胛骨の下のあたり、乳の少し上のほうまでが窓の外に現れている。風呂場に面しているのは弘法池だからこんな大胆な格好ができるが、ここが都会だったらこんな格好は出来ないだろう。ぞろぞろと見物人が集まってくる。光太郎は竹の筒を抜いたので窯の中に息を吹いた。窓から出ている飯田かおりの上半身は手拭いで首のあたりをふいている。飯田かおりは汗の流れるくらいの熱い湯に入らなければ風呂に入った気がしないらしい。

「変な電話がかかってきたよ。急に電話がかかって来て、僕にお礼を言うんだ」

「どんなお礼」

「矢作焼きの名称を名乗ることが出来ましたと言うんだよ。どういうことか僕にはわからないんだけどね」

「そう、変な電話ね」

光太郎は釜の中に息をふきながら、しゃがんだ姿勢で空いている窓を通して飯田かおりに声をかけた。

そのあとにお湯が流れる音がした。窓から飯田かおりは首を引っ込めていた。飯田かおりは洗い場に出て身体にお湯を浴びているらしい。

 風呂から上がった飯田かおりは鏡台の前に座って化粧を始めた。その横で光太郎はうつぶせになりながら日本地図を広げて愛知県のあたりを見ると確かに矢作川と云うのがあり、矢作台と云う地名がある。

「たしかに愛知県に矢作と云う場所があるな」光太郎はくの字に曲げた足のさきをぶらぶらとさせながら愛知県のその場所に指先をたてた。

「光太郎さん、そんなことより早く支度をしてくださらない」

そう言って振り返った飯田かおりの顔はいつもより少し化粧が濃い。それに少し興奮しているようでもある。

「きみ、少し興奮していないかい」

「そう、そうでもないわ。だって、でもすごいじゃない。英雄に会うのよ」

銀座の若旦那、背振無田夫の弟の背振栗太の友達で新新吉郎と言う男がいる。新と書いてあたらしと読ませるのだ。飯田かおりはこの名前を新聞で読んで知っていた。かいつぶり号一周記と言う読み物でその名前を覚えた。新聞を開いて第二面の五分の一ぐらいのところにその読み物がのっていた。読み物と云っても作り話ではなく、実話である。記録文である。

 新新太朗は背振栗太の友達でありながら半年前に手作りヨットで世界一周を果たしたヨット冒険家であり、そのあいだ無線を使ってその航海日誌を地方新聞社に寄稿していた。その目的はもちろん冒険費用をその地方新聞社に援助してもらうためである。その無線を受信した新聞社はその記事を新聞の小さなスペースにのせていた。その読み物は地方新聞の購読者のあまりないものであったから、世間の関心をそれほどかうこともなかった。

 その読み物のそれほど多くない読者のひとりが飯田かおりだったのである。

 その実録ものの読み物は新太朗が航海に旅立つ前から始まっていた。

 新太朗はヨット仲間の少し年上の仲間から頼まれた。今度、喜望峰を回って世界一周しようと思っている。そのヨットを作るのを手伝ってくれと。

 新太朗は世界一周の冒険にはどちらかと言えば否定的だった。

 生命をかけてやるまでの理由があるのだろうか。

 功名心に先輩はとらわれていると。

その先輩がヨットでの航海の練習中に突然に死んだ。作りかけのヨットを残して。

 彼が死んだあとで新太朗は彼の青春の日のやむにやまれぬ情熱を知ることになった。

 人のいない静かな海の静寂や、突然荒れ狂う海の様子、ビルくらいの大きさのある波が彼や彼の愛艇を飲み込んでしまおうとすることや、灼熱の砂漠のような太陽に身を焼かれる、そして油のような海の上で絶望感にとらわれること、かと思うと突然大きな魚が釣れて刺身にして食べること、そしてその魚がすこぶる美味であることを、話す人もなく孤独にヨットのふなべりを眺めているとくらげの赤ちゃんの妖精が近寄って来て話し相手となって彼の孤独をいやしてくれることを。

 作りかけのヨットを完成すると新太朗はそのヨットにかいつぶり号と云う名前をつけて冒険に旅立った。

 かいつぶり号と云う名前は水中に潜って餌をとる野鳥の名前でヨットが大波をかぶっても沈まないようにと云う願いをかけて名付けたものだった。

 その手作りヨットによる世界一周旅行に成功して新新太朗は日本に戻って来た。

 飯田かおりはその読み物の熱心な読者だった。

その新太朗が背振栗太の友達だったことを突然に知った。

 そしてこの航海の成功を祝って有志でパーティを開くという。背振栗太もそのパーティに招待されていた。飯田かおりはそのあこがれの人のパーティに栗太を通して参加させてもらうことにしたのである。

 そして飯田かおりは光太郎とともに東京に向かう列車に乗り込んで、田舎の景色の中を、それがだんだん畑や海や田圃が少なくなっていく様子を窓から見ていた。

 そのまま東京駅まで行かずに途中でふたりは列車から降りた。光太郎の職場での知り合いが携帯トランジスタラジオを職場に置忘れたので東京に遊びに出るついでにそのラジオを届けようと云う腹づもりがあったからだ。

その同僚はもう光太郎の職場を退職していた。光太郎と挨拶をすることもなく、会社での事務的手続きを終わらせると何も言わずに次ぎの働き場所に移っていった。

 こんな散歩のような東京行きもいいもんだと光太郎は思った。

 光太郎がラジオのスイッチを入れると銀色の小さな穴を数え切れないほどたくさんあけた金属の板の裏にあるスピーカーから放送が流れてきた。横に座っていた飯田かおりはそのそのラジオを眺めた。

「そのラジオを返しに行くの」

「別に借りたわけではないよ。隣の席に座っていたんだ。僕が横でよく聞こえるねえと言ったら、少し使ってみればと言って、休み時間に貸してくれたんだが、その次の日にその男は勤めを休んで、次の日も勤めを休んだんだ。その次の日に出てくるかと思ったら、それから一週間も勤めも休んだんだ。それからその男が会社やめたと云うことを他の同僚から聞いたんだ。もっと待遇のよい会社に移ったそうだ。きっと僕に試しにこのラジオを使ってみればと言ったことも忘れていたんだろうな。いいよ、ちょうど東京に出てきたんだから。勤め帰りだったら、わざわざこんなことをする気にはならないよ」

光太郎は音の流れているラジオのスイッチを切ると袋の中に、また、しまった。

「たしかによく聞こえるね」

東京の列車の乗り換えは飯田かおりよりも光太郎のほうがよく知っていた。大きな野原に平屋建ての家がたくさん建っているところを過ぎると谷の中を列車が走っているところに景色が変わった。その谷の両側には木がたくさん茂っていて、木のあいだには谷の斜面を登っていけるように石段が所々に作られている。その木や石段の間に墓石がたくさん建っている。石仏もたくさん建っている。きっともっと日がかんかん照りに照っていて暑かったらあそこに行って涼んでいれば涼しいだろうと光太郎は思った。そこには下の地面が乾かないようにと云う配慮なのか植木がたくさん植わっている。

 光太郎は走る列車の中から遠く隔てて見ていてどんな木がはえているのか、よくわんからなかったのだが、百日紅と椿の木だけはわかった。みんな幹の細い木ばかりである。地面はいつも湿っているみたいでチョコレートの表面のようにも見える。

 斜面に見える墓石や石仏はその一部でそこをあがって行くとその地域全部がお墓になっていてお寺や、墓地やそこで働く人の家があったり、することを光太郎は知っていた。

 九州のグラバー邸のような洋風建築の駅を出ると出口の横は達磨屋と云う土産物屋のようなものが建っていて軒先には大きな達磨の姿をした煎餅がたくさんつるされている。店の前には広いスペースが空いているのでそこに乗り合いバスなんかが停まるのかもしれない。達磨屋の平台の上には赤、青、白といろいろな色の達磨の起きあがりこぼしが置いてある。飯田かおりは立ち止まって、面白いと言ってその煎餅を指さした。その達磨屋の横には赤電話の置かれている電話ボックスがあって、その横には木の看板が立っていて路面電車の乗り口はこちらです。と書かれている。

「飯田かおり、こっちだよ」

光太郎はその木の看板のほうを指さした。

「最近、完成したんだよ。路面電車が」

「それに乗っていくの」

その看板の指し示すほうを歩いて行くと道が石畳になっていてその細道の両側は格子窓の張ってある平屋建ての家にはさまれている。格子戸の裏側にあるガラス窓には当たり屋と書いてあって矢の図が描かれている。この家の表のほうをまわったら居酒屋になっているのかもしれない。細道の途中で大きなコンクリート製の水桶のようなものが置いてあってそこには水がはられている。火事のときにはそこの水をくみ出して消火にあたるのだろう。その水桶の横には柳の木が立っている。安物の映画セットのような気もする。

 その細道を抜けると急に見晴らしがよくなった。その道は日本橋のほうに抜けることの出来る大通りで道のちょうど真ん中に路面電車の線路が走っている。そこの石段が中学校の運動場のトラックコースのようなかたちをしていて道路よりも少し高くなっていて路面電車の駅になっている。ホームの端のところには床屋よりも少し立派な中に電球が入っていて夜になるとその掲示板を中から明るくする仕組みになっている。そのホームの向こうはなんとか云う陸軍大将の屋敷で塀の外から庭の木の渋い緑色がこぼれ出ている。

 光太郎と飯田かおりのふたりがそのホームに立って待っていると芋虫みたいなかたちをした路面電車がむこうからふたりの目の前に滑り込んで来た。ふたりはこの電車が生き物で、かつ、ふたりの召使いのような気がした。電車の中は窓に接して一列ずつに長い座席がついている。電車の中にはちらほらしか客はいなかった。中年のビジネスマンと老夫婦が一組、学生帽をかぶった小学生がランドセルを背負ったまま、三人ぐらいで座席に座っている。それに赤ちゃんを背負った若い母親は大きなふくろに入った荷物を自分の前に置いている。その中にはきっと赤ちゃんのおしめとか哺乳瓶とかがたくさん入っているのだろう。

 飯田かおりは座ってハンドバッグを膝の上にのせた。飯田かおりの生まれ故郷ではけっして見られない風景だった。やがて窓の景色が動き出した。電車の窓の外を流れていく風景はかばん屋だとか、味噌屋だとか、メリヤス屋だとか銀行だとか、いろいろなものがある。店の前の歩道には柳の木が植えられていて春の日に青い芽をふいていた。イギリスはロンドンの街を真似したと云う街路灯がその重厚なデザインから飯田かおりの印象に残った。

 電車の走っていく振動が快く、光太郎と飯田かおりのふたりは眠気を催した。

 目で見てもわからないのだが日本橋のほうにつながっているこの道は測量してみれば微妙に傾斜していて坂の上にあたっているのは日本橋のほう、坂の下りに当たっているのは王子のほうだった。ふたりの乗った電車は王子のほうに向かっていた。途中で電車は停車して一部の客を降ろして、また客が乗ってくる。乗り降りして来るのは近所に住んでいる客なのだろう。なんとか云う社会学者が電車を都市の血管だと云うのはなるほどだと思った。

「光太郎さん、どこの駅で降りるんですか」

「飛鳥山」

「飛鳥山に光太郎さんは行ったことがあるんですか」

「花見に行ったことがあります」

光太郎は最近、花見で会社の催しで花見に行ったことがあった。そこで最近出来た路面電車が飛鳥山のそばを走っていると云うことを知った。それから光太郎の机の上に携帯ラジオを置き忘れた同僚がやはり飛鳥山の裏手に住んでいると云うことを花見のときの話題で知った。

 路面電車は目で見てもわからない微妙な傾斜を直線的に下って行ったが大きな曲がり角にさしかかろうとしていた。曲がり角の外側の円弧のところに鉄の鍋を作って卸しているらしい店があって屋根のところから大きな鉄の鍋がかかっていてたぬきも煮えると書かれている。その曲がり角の手前で電車は停まった。そこに飛鳥山のほうに行くときの路面電車の停留所があった。そこがちょうどゆるやかな崖の頂点に当たっていてすこぶる見晴らしがよい。途中でこの線路が曲がらずにまっすぐ走って行けば山と云うか尾根伝いに電車は走って行くことになるだろう。しかし電車を降りてから光太郎は気がついた。自分の錯覚であることを。これが自然の摂理で出来たものではなくて光太郎も気がつかなかったのだが継ぎ目がわからないくらいになっていて途中から人工の橋につながっていたのだ。だから電車の停まっているところは人工の橋の上になっている。山の尾根だと思っていたところは人工の尾根になっている。急に見晴らしがよくなったのももっともなことだった。

 光太郎の立っている場所は実際は谷底でそこから見晴台を立ててその上に上っているのも同然だったからだ。

 そういえばここから見るとここが切り立った崖になっていることがよくわかる。右の方は人工的に作られた坂で目の前に見えるお茶漬け屋だとか、団子屋だとかが遮っていてよくわからないが、その家の裏のほうは崖になっているのだろう。左のほうは人工的な細工がされていないから橋の欄干の向こうに谷底が見える。光太郎は飯田かおりと一緒に左手の橋の欄干のあたりに行ってみた。橋の下には小川が見える。その水のちょろちょろと流れるのも見える。川をたどって行くと農家や畑が見える。ここは都内と云ってもだいぶ田舎だった。そしてまた橋の下のほうに目をやると崖の途中のところに料理屋がある。

 養老屋敷と云う看板が立っている。光太郎と飯田かおりが橋の上からその料理屋を眺めていると大根を両手にぶら下げた農家のものが向こうからやって来た。

「なにを見ているだべか。養老屋敷を見ているだべか」

「ええ」

飯田かおりが答えると田舎の親父は飯田かおりに相手にされて喜んだ。

「あんた、なになにに似ているな」

親父は頭をサボテンみたいなかたちにしている流行歌手の名前をあげた。

飯田かおりはその歌手のことを知らなかった。そのことも気にせずに親父はしゃべった。

「ここでも酒がわきだしたと云う伝説があるんだべ。くくくく」

なにが面白いのか親父は笑った。

「暇だったら、川の下までおりて見るがええだ。大きなひょうたんみたいな木の彫り物が下に置いてあるから。そして変な白髪のじいさんがその大きなひょうたんを胸にかかえてひょうたんの口から酒がわき出している絵も置いてあるだ」

それから少し間をおいて

「あんたら、お似合いの夫婦だべな」

そう言うと両手に土のついたままの大根をぶら下げたまま親父は向こうに行ってしまった。

 もちろん光太郎も飯田かおりも携帯ラジオを返しに行かなければならないし、新新太朗のパーティに出席しなければならないからそんな暇はない。

「飛鳥山の裏にあるの」

「そうだよ。飛鳥山の中を通り抜けていくんだ」

右手のほうに曲がって行くと役所が作った飛鳥山の入り口の門柱が立っていて、その門柱は石造りだった。ふたりはその門柱をくぐった。門柱には大きな装飾をほどこした鉄の門がついていてその門は開いていた。そのうしろには大きな木が空中に枝を広げていて空を覆ってトンネルのようだった。光太郎は自分が花見のときに来た入り口はこっちのほうではないと思った。だいたい花見の客はこの入り口から入らずに桜の木がたくさん植わっている高台にすぐ行ける道のほうをえらぶのだ。

 その門から入るとその高台のほうには行かずに大きな木のたくさんはえているトンネルの下のほうを歩いて行き、幅の広い木の階段を下りたり上がったりしながら飛鳥山の裏のほうを抜けて行き、なんとかの滝とか云う注連縄の飾られている穴のぽつぽつと無数にあいている火山岩がたくさん置いてある場所の横の細道を抜けて行くと人の住むほうに出る。ラジオを置いていった男の家はそこにある。表札を見ればわかると同僚が教えた。

「光太郎さん、こんなところに花見に来たの」

「花見に来たのはこっちの入り口からではないよ。こんな寂しいところではないよ。こっちの入り口から入るとこうなっているんだ」

光太郎はあらためて下がったり、上がったりしている、まるで波が交叉しているような公園の中の坂道をつくづく見ながら言った。頭上からは木漏れ日が地上を舞う無数のほたるのように揺れている。

 同僚が教えたようにそこを抜けるとなんとかの滝があって水が絶えず出ている火山岩の置物みたいな前は注連縄で飾られている。その場所から飛鳥山の裏のほうに出て行けるようになっていて、出口から出ると小店があってその上の看板にはなんとか占術と云う看板がかかっていた。その細道を抜けて行くと草原の中に車の通れるくらいの幅の道があった。草原の中には三角に赤さびたレールが野ざらしに無用心に置かれている。その並びに何軒か家が建っていて光太郎は表札を確かめてその同僚の家の玄関を叩いた。玄関の引き戸ががらがらとあいて、携帯ラジオを置き忘れていった本人が顔を出した。

「これは、これは」

光太郎のうしろに飯田かおりの顔を認めて男は言った。

「きみはラジオを忘れていったじゃないか」

「そうか。まあ、あがれよ」

おくから手をふきんでふきながら彼の妻が出て来た。光太郎と飯田かおりは六畳の和室に通された。床の間にはどこから持って来たのかわからないが、大きな黒い石が飾られていて、そのうしろにはうぐいすの絵がかけられている。和室から見える庭には孟宗が乱れて生えている。会社にいるときはわからなかったがこの男は金持ちのようである。

「光太郎さんの会社の人はみんなこんな立派な家に住んでいるの」

「僕も意外だったよ」

もしかしたら寿司の出前が来るかもしれないと思ったが彼の妻が持って来たのは茶饅頭だった。茶饅頭と一緒に同僚もやって来た。

「まず、これを返すよ」

光太郎は袋の中から携帯ラジオを取り出すと紫檀のテーブルの上に置いた。

「きみが僕の机の上に置いたまま忘れていったものだよ」

「忘れていた。忘れていた。わざわざ持って来てくれたのかい」

男はその携帯ラジオを受け取った。

「急に会社をやめることにしたからね」

「いい就職口があったのかい」

「まあね」

男はまんざらでもないようだった。

「とにかく、わざわざ持って来てくれてありがとう。すぐ僕の家がわかったのかい」

「飛鳥山の裏の細道を歩いて行けばいいと同僚が教えてくれたからね。それにここは会社の花見でやって来たことがあったからね。すぐにわかったよ」

「今度はどんなところに勤めたんだい」

「ちょっと待っていてくれるかい」

男は立ち上がって外に出て行くと古ぼけたノートを何冊も持って戻って来た。そのノートをテーブルの上に置いた。

「奥さん、これがなんのノートかわかりますか」

「いいえ」

飯田かおりにはその少し汚れたノートがなにを意味しているかもちろん少しもわからない。とにかくそこに熱心に男がなにかをつけていたことはわかる。

「前の会社にいたときからこのノートをつけていたんですよ。これは企業秘密なんですけどね。小豆市場の値の動きを前もって予測出来る数式をみつけたんですよ」

その男はノートの束の表紙をぽんぽんと叩きながら満足げな表情をした。

「うそ」

飯田かおりは思わず言葉をもらしたが自分でしまったと思ったのか、下を向いて口を押さえた。「うそじゃないんですよ。おくさん」

男はにやにやと笑ったが光太郎にももちろん信じられなかった。

「じゃあ、その数式でこの家を買ったとか」

「それは違うよ」

男はそんなことはどうでもいいと言うような表情をして否定した。それから男はその数式のことをいろいろ話したが光太郎にも飯田かおりにもなんのことを言っているのかよくわからなかった。それから男は自分の話を終えると満足したのか茶饅頭を一口で半分食べた。それから日光の華厳の滝で起きた心中事件について語り始め、湯飲みの茶を半分ほど一気に飲んだ。男女の痴情話が政治上の口調で語られ、その話の最後のほうは都市と農村部における家制度の隔絶について論が及んだ。

 この男の職場での印象を知っている光太郎は意外だった。職場ではほとんどしゃべらないのに、この場の能弁についてである。

「今度、小説を書こうかと思っているんだ」

「どんな小説ですか」

飯田かおりは茶饅頭の五分の一ほどを囓りながら言った。

「空想科学技術小説をですね」

「空想科学技術小説って」

飯田かおりはこわいものでも見ているような表情で尋ねた。

「海底も地中も自由に進んでいける軍艦の話をですね。書こうかと思っているんです。水中を走ったり、地中を潜っていく軍事兵器の話はですね。これが意外と歴史が古い。レオナルド・ダ・ヴィンチも扱っているわけです」

「レオナルド・ダ・ヴィンチが潜水艦を作ったんですか」

「おくさん、そうではありません。レオナルド・ダ・ヴィンチはチェザーレー・ボルジアの歓心を買うためにそんな設計図を作っただけですよ。レオナルド・ダヴィンチはそうやっていろいろな諸侯に売り込みを計っていたわけですよ。そしてレオナルド・ダ・ヴィンチはアトランティスの存在に興味を持っていました。それがなぜだか、わかりますか。おくさん。イタリアのフィレンッェは教皇権をその支配のよりどころにしていました。つまりキリスト教をですね。そしてキリスト教は紀元前以前の文明を否定している。すべてはキリストを中心にしているからです。従って教会の中ではそういった書物の存在を否定している。しかし、キリスト教の教義の記述にはローマ時代に確立された哲学を利用しなければならない。それももとをただせばギリシャにある。したがってギリシャやローマの学問の成果が手書きの本として残っている。そこにはアトランティスの記録も残っている。だからレオナルド・ダ・ヴィンチもそのことを知っていた。彼が作りたかったのはアトランティスで使われていた地中軍艦だったのではないか、と云うのが僕がその小説を書きたい理由なんです」

いつのまにか、レオナルド・ダ・ヴィンチとアトランティスが結びついている。

 飯田かおりはこの男がなにを言っているのかよくわからなかった。光太郎は床の間に飾ってあるわけのわからない石の値踏みをしていた。飯田かおりもアトランティスと云う言葉は知っている。プラトンの対話に出てくる伝説の島で一種の楽園と云うことになっている。もちろん伝説であり、作り話であることは明らかだ。

「じゃあ、アトランティスの存在を信じていらっしゃるの」

「あなたがアトランテイスの人間の血を引いていないと誰が言えます。もちろん僕も」

「わたしがですか」

飯田かおりは頓狂な声を出して笑い出した。小説家らしい飛躍である。これが須弥山の天女の生まれ代わりだと言われればまだ納得がいく。お互いに生まれたときにはお尻に青いあざを残して、お米を主食にしている連中で朝昼版にスパゲッティを食べる人間とは違うわけだから、これも飯田かおりを喜ばすためにこの男が話しをおもしろく言っているのだろうか。寿司は出なかったが茶饅頭のあとにはフルーツの盛り合わせが出て来て、ふたりはそのあとその家を暇した。光太郎と飯田かおりはまた電車を乗り継いで銀座に出た。そこはまた路面電車の集結地でもあった。いろいろなところに出ていく電車の線路は扇の要のようにそこに集まって見たこともない惑星の異星人の住居のような倉庫に入っていく。その倉庫に電車が着いたときはあたりはすっかりと暗くなっている。扇の要と云うのは単なる比喩ではなくて見た感じもそうなっている。光太郎は夜の中に窓から漏れてくる路面電車の明かりを見て模型の電車のようだと思った。それらの電車がおもちゃのメリーゴーランドの部品のようにきらきらと輝いている。この光景を知り合いの写真家に教えてあげればいいと光太郎は思った。

 その男は中学生の頃の同級生で、中学の頃はカメラばかり扱っていた。おもに同級生の女を撮るのを目的にしていたが光太郎自身は同級生の妹で好きな女の子がいてその男に頼んで彼女の写真を撮ってもらったことがあった。それが光太郎の中学三年のときのことだった。

 その男はメリーゴーランドを撮影することを仕事にしていて、欧州のほうには移動式の遊園地というのがあるらしい。それを撮影するためによく欧州に行っていた。しかし、その男ももうメリーゴーランドでもないと言って撮る対象を別のものに変えたことを光太郎は知らなかった。 

 新新太朗のパーティーは銀座でも有名な中華料理屋で開かれると背振栗太は言っていた。

 なるほどその中華料理屋の前に行くと窓から明かりが漏れている。窓ガラスには大きな丸の中にぎりぎりに収まるように変わった字体で店の名前が書かれている。入り口の横の窓のところには**ビールと大きく描かれていてその下にはビールの酒樽がいくつも重ねられている。そばには川が流れているわけでもないのに川風が流れているような気がする。光太郎はこの名店に自社のビールを入れたくていくつものビール会社が日参したと云う話を聞いたことがある。窓から漏れる光が微妙に揺れていて中の喧噪を物語っているようだった。中から中国人が被っている丸い帽子を被っているのが出て来ればいいと、光太郎は思った。

 光太郎にも飯田かおりにとってもそこはある意味では別世界のようだった。それは飯田かおりにとっては特にそうだった。特にそうだと云うのは理由がある。

 ふたりはおそるおそるそのドアをあけてみた。一階は大広間になっていてそこが借り切られている。人がまばらになってごちゃごちゃと動いているのが見える。ありが乱雑に動いているようだった。

 ふたりがそこのドアをあけたとたんにある人物が目に入った。

 目に入ったと云うのではない。突然、その顔が目の前に現れたのだ。ふたりの視界のすべてをおおいつくすようにその顔が目の前にあった。現実とグラビアの世界が交錯する。

 今までにまったくいなかったタイプの俳優だと映画や雑誌で大人気の俳優である。少し不良ぽい感じを残しながら、その本質はいいところのお坊ちゃんだという、演技や技術と云うのではなく、その天然の持ち味が最大の魅力だと批評家に絶賛されている俳優だった。

 そのドアが開かれたときその俳優の顔が至近距離に入って来たので飯田かおりはびっくりした。銀幕の向こうにいるスターが目の前にいるのである。

 スターは飯田かおりの顔を見るとほほえんでやあと言った。そして向こうの通路のほうに行った。映画での仕草とまったく同じである。便所に小用をたしに行ったようだった。

「ねえ、今の」

「あいつだろ」

「そうよ。ほんものよ」

「なんであいつがいるんだ」

光太郎は飯田かおりほどは驚いていないようだった。

「遅いじゃないですか」

人混みとざわめきの中でふたりを見つけた背振栗太の若夫婦がやってくる。

「途中で用事があってね。飛鳥山のほうに寄って来たんだよ」

「知っている人ですか」

「会社の人です」

「でも、良かった間に合って」

「栗太さん、ありがとう。新新太朗さんだけではなくて****さんも見ることが出来たわ」

飯田かおりは少し興奮気味で話した。顎が少し前につきだしているのが彼女の興奮を示している。

「見るだけじゃないですよ。飯田かおりさん。****さんもこのパーティに参加してくれるんですよ。あの人の席もここにあるんですから」

「ええ、本当、うれしい」

飯田かおりはここでまた喜んだ。

「でも、なんで****がいるんだ」

「光太郎さんは知らなかったんですか。****はうちの学校の卒業生じゃないですか。新新太朗と同じですよ」

「なんだ。知らなかったよ」

「新新太朗の冒険に感動して今日のパーティに参加してくれたんですよ。会費もだいぶ払ってくれたし、こんなことは珍しいんですよ」

「うれしい」

ミーハーの飯田かおりはまた喜んだ。

「みなさん、着席してください」

この会の主催者らしいのが叫んだ。

一階の大広間には長いテーブルが五脚ほど並んでいてテーブルにはチェックのテーブルクロスが広げられている。

「みなさん、早く、着席してください。そうしないと会が始まりませんよ。みなさんのテーブルの上には名前が書かれているでしょう。そこに座ってください」

光太郎と飯田かおりは自分の席を探した。背振栗太夫婦のそばの席になればいいと思ったが彼らは遠いところに座っている。

 ふたりは自分たちの席をさがした。

そしてようやく自分たちの名前の書かれている席を見つけてそこに腰掛けた。席の前にはもう料理が並んでいる。牛肉を蒸し焼きにしたものや、サラダのようなものである。そしてまだなにもつがれていない水晶のようなコップやグラスが置かれている。サラダの緑色がテーブルの木の色に妙に対照をなしている。ビールの瓶ももちろん並んでいる。ふたりは長いテーブルの中間のような位置に腰掛けた。

 飯田かおりは背振栗太夫婦をふたたびさがした。彼らは遠くの新新太朗のそばのほうに座っている。飯田かおりの斜め前の席はふたつまだすいていた。飯田かおりはそこに誰が座るのだろうかと思った。

 光太郎のとなりには新新太朗の甥っ子だと云う坊主頭の少年が座っていた。新新太朗の親戚でいて本当に良かったとしきりに繰り返し、この中華料理屋は僕の憧れだったと言い、テーブルの上の牛肉の蒸したのをすでに口の中にほおばっている。この料理はいくらでもおかわりが自由だと云う話だ。それを見て光太郎は学食の焼きそばパンを何個でもおごってやると教師に言われて何個も口にほおばり、焼きそばのもじゃもじゃが口からはみ出しながら学食に向かう階段の中間のところに立っていた同級生の姿を思い出した。

 その少年がもぐもぐと動かしていた口をとめて宙の一点を凝視したので飯田かおりも光太郎もおもしろいと思って見ていたその少年のほうから目を離してその少年と同じほうを見るとまわりの人間たちも同じほうを向いていた。それと同時に多少のざわめきも起こっていた。

 背の高い男が向こうからやって来る。飯田かおりはにんまりとした。向こうから****が歩いて来るのである。多少飯田かおりの気にさわったのはそのうしろからひょこひょこと貧相な男がついて来ることである。

「ここかな。僕の席は」

*****は椅子を大振りな身振りで引くととそこに座った。少しもぎこちなさがなく、さまになっている。やっぱりスターだ。飯田かおりの斜め前にその男は座り、飯田かおりを見るとほほえんだ。そのあとから小柄で貧相な男が空いているスターの隣の席に座った。

「はじめまして」

スターは飯田かおりの顔を見るとほほえんだ。スターの隣の席に座った男はしきりに椅子を動かしてその椅子の位置を微調整している。その丸めがねも滑稽な感じを醸し出している。

「いろいろ料理が出ていますな」

丸めがねがつぶやいた。

 飯田かおりはスターが目の前にいるのでおすましをした。

「****さん、今度の映画で本物の遠洋漁業の外洋船を買ったって本当ですか」

突然、牛の蒸し肉をほおばりながら中学生がスターに聞いた。

「本当だよ。それをスタジオに入れて撮影をしたんだ。二ヶ月もかかったよ」

「本当ですか」

中学生はスターに話しかけて、答えが与えられたことを明日の学校でみんなに話そうと思っていた。そのときの得意な様子も自分で想像して悦に入っていた。会話の中心に自分がいるのだ。きっとみんなはいろいろなことを訊いてくるだろう。

 飯田かおりはそのスターの生の声が聞いていられるので満足だった。後ろのほうから給仕が来てみんなのコップにビールをついでいるのも気がつかないくらいだったから、飯田かおりはそれほど舞い上がっていたのかもしれない。

 そのとき前のほうの席でざわめきが起こって動きが激しくなった。そのざわめきの中でひとりが立ち上がってみんなに拍手を強要した。すでに新新太朗はゲスト席に座っていた。スターも拍手した。もちろん飯田かおりも光太郎も拍手をした。蒸した牛肉を口にほおばりながら中学生も拍手をした。中学生の目の前に置かれている白い皿の中にはレタスの緑の葉っぱだけが残っている。

 新新太朗のそばの席ではフオークソングの指導者のようなひげ面の男が立ち上がってまわりを見渡して右手をあげて、まあまあと云うようにみんなの拍手を制した。顔には満面の笑みを浮かべて得意気である。新新太朗の会なのか、自分の会なのかはっきりとしない。ここでみんなの拍手が終わったのを確認して立ち上がった男は演説を始めた。

 ここに一つの快挙がなしとげられた。希望峰をまわって世界一周をすると云う。それもかいつぶり号と云う手作りのヨットを使ってのことである。快挙である。これはひとつヨット界のことだけではない。

 人間の可能性への挑戦でもあった。それも快挙を成し遂げようとしてなされたものではない。そこが偉い。

 ここでまた拍手が起こった。飯田かおりは目の前のスターが拍手をしていたので負けずに拍手をした。話は突然にかなり飛躍して人類の挑戦と云うことになっていた。新新太朗のやったことは偉いが人類のと、云うことになれば話は飛躍しすぎだろう。

 しかし聴衆は納得しているのか、しんとした。そこで男は一呼吸おいて言った。

 それを成し遂げたのがこの男である。一体この男のどこにそんな可能性が潜んでいたというのか。身近にいたものとして僕は自分の不明を恥じる。

 ここでその男は軽く新新太朗のほうを向いて頭を下げた。

 新新太朗は照れくさそうに頭をかいた。

 頭を下げる理由と云うのも君が僕の店からビーフジャーキー三十人分ただで提供してくれと言われたとき、無碍にことわったからである。そのときは君の決心がそれほど固いものだとは知らなかったからである。すまん。

ここで芝居がかって男はまた頭を下げた。

 そしてその決心と云うものが君の畏友のこころざしをつごうと云うことだったから、そこも偉い。

 光太郎はまるで自分がヨットの英雄、新新太朗の祝賀会に来ているのか、結婚披露宴に来ているのか、自分でもわからなくなった。あいかわらず中学生は牛の蒸し肉を口にほおばっている。この中学生は前世でよほど牛に縁があったのかもしれない。それならここらへんでバウムクーヘンか、ショートケーキが出て来なければおかしい。そして帰りのおみやげには伊勢えびの中身をくりぬいてグラタンみたいなのを詰め込んだのが出されなければならない。

 しかし偉いのは新新太朗だけではない。マリア様がいなければキリストは生まれなかった。子供のために引っ越しを繰り返す母親がいなければ孟子は生まれなかった。太陽がなければ月も地球も誕生しなかっただろう。新新太朗が最後の難関の希望峰を越える瀬戸際のとき、やめようかと弱音をはいたとき、最後まで一周しないうちには家には帰って来るなと言ったご両親も偉い。

 虎は死んで皮を残す。人は死んで名を残す。その言葉の本当の意味はなんだろう。ここにいる新新太朗が新新太朗なのではない。新新太朗の行為こそが新新太朗なのです。

 ここでまた割れるような拍手が起こった。飯田かおりの前の丸めがねが陽明学ですな。王陽明とつぶやいた。それから新新太朗が頭をかきながら立ち上がって挨拶をした。

 祝賀会はずいぶんと盛り上がって、その雰囲気に酔ったのか、飯田かおりはビールを飲み干した。頬が赤くなっている。

「どちらから来たんですか」

スターが飯田かおりに聞いた。

「弘法池ってご存じですか」

「弘法池」

スターは首を傾けた。

「弘法大師が開いたと云う池なんです」

光太郎が代わりに答えた。弘法池なんて言われてもスターがそんな地名を知るはずがない。

「弘法大師、空海のことですね。その池が空海に関係しているのかな」

スターのとなりのちんけな親父が口を開いて、スターになれなれしい態度をとっているので飯田かおりも光太郎も驚いた。

「なんで、銀幕のスターにこの男がなれなれしく、話しかけるのか、驚いているのですかな。わしはこの男のおじなんです。意外ですかな。わたしはこのねたを使って飲み屋そしてのお姉さんにずいぶんともてるのですよ。これでも若い頃はこの男に似ていたんですよ。この男が赤ちゃんのはらまきをしている時分から知っているんですよ。すいかの大好きな赤ん坊だった。赤ん坊のくせに母親のおっぱいよりもすいかが好きなんだからな。本当にちょっと変わった赤ん坊だった」

スターはさかんに頭をかいた。このちんけな親父にスターは頭が上がらないらしい。

「この男が自分からにょしょうに声をかけることはめったにないのですだ。きっとこの男はあんたに好い印象を持っていると云う証拠ですな」

飯田かおりは顔を赤らめた。

「しかしじゃ、この男には婚約者がいる。もうすぐ結婚することになる。このことは企業秘密ですがな。あはははは。このことは誰にも言わないようにな。そうだろう」

「ひでぇなあ。おじさんは」

スターはまた頭をかいた。

「たぶん、そういうことになると思うんで、びっくりしないでくださいよ。でも弘法池なんて池があるんですか。おじさん、僕は聞いたことがないよ」

「そういうことに詳しい人間が来る。ほら」

そう言ってスターのとなりに座っていた男は飯田かおりのうしろのほうを目配せした。

「****さんも来ていたんですか」

飯田かおりのうしろのほうから声がして、光太郎もうしろを振り向くと、そこには正当派の歴史学会のホープの貝山が立っている。

「三輪田さんもおくさんもいたんですか」

貝山はなぜここに光太郎と飯田かおりがいるのか不思議だったが、むしろ飯田かおりにはこの貝山がいるほうが不思議だった。聞くと貝山も新新太朗も背振栗太も光太郎と同じ学校だったと云うことがわかった。

 光太郎はここで知り合いに会うかもしれないと思うと気分がふさいだ。しかしそんなことは貝山には関係がないようだった。

「光太郎さん、大手柄ですよ。大手柄」

光太郎も飯田かおりもそんなことを言われてもなにが大手柄なのかわからなかった。

「貝山くん、今夜は久しぶりに気分がいいよ。楽しい会だ」

ポテトチップの切れ端をかじりながら人品いやしからざる銀髪の老紳士が貝山を追って来た。

「あっ、先生。ポテトチップの切れ端なんかかじりながら、こっちに来ないでくださいよ」

老紳士はスターの隣に座っている親父に目で挨拶をした。どうやら知り合いらしい。これが歴史学会の正当派の元締めである吾妻だと云うことを光太郎はやがて気づいた。そういえば在学中に吾妻がいたということは知っていたが、そっちの方面の学校の派閥関係にはきわめて疎い光太郎だったのですっかりと忘れていた。

「先生、ここにいるのが三輪田さんですよ。資料を売ってくれた」

貝山は骨董のことを資料と云う言葉を使った。

「大手柄とはどういうことですか」

「僕も聞きたいな」

スターも口を添えた。

スターの隣の親父はなにをつまらないことを聞くと云うような表情をしている。貝山はこの表情をも無視した。

「三輪田さんの家に矢作のほうからお礼の電話が来ませんでしたか」

貝山の話を煎じ詰めて云うとこうである。

 矢作のほうで作っている焼き物の名称をなんと云うかで争っている最中に光太郎の売った骨董からある学問的な結論が出て矢作がその特許のようなものを主張出来たと云う話だそうだ。飯田かおりにはそれの詳しい部分まではわからなかったが。しかし、それよって単に矢作の町の住人から感謝されると云うことだけではなく、多少の金銭が動いたことは確かであろう。それがどのくらいの額になっているのかはわからないが。

 しかし、それ以上に光太郎の興味を引く部分がある。今度のその手柄と云うものが学会の正当派の得点につながっていると云うことである。しかしである。それをもとを正せばその骨董も光太郎が見つけて来たと云うものではなく、背振無田夫と云う天才が見つけて来たものだ。背振無田夫の先生は変人であり、異端学派の上田である。つまり敵の兵器を使って成果をあげたと云うことである。もしこの成果がそれなりに権威のある学術雑誌にでものせられてその資料の出所が異端の上田からだと云うことが白日のもとに出たら、どういうことになるだろうかと、光太郎は門外漢の無責任も手伝っておもしろく感じた。この点では芸能人のスキャンダルを無責任にはやし立てる、野次馬みたいなものだと自分を感じた。貝山はその理由をくどくどとまだ話している。貝山が話し終わると、今度は吾妻が光太郎のそばに寄って来て礼を言った。そのあいだ、光太郎はそんなことを考えていた。 スターとそのおじはその様子をおもしろそうに眺めている。どちらもそんな世界から遠いところで生きているのかも知れない。

「先生、先生」

貝山が吾妻のそでを引っ張った。向こうから変な親父が手にコップを持ちながら歩いて来る。その姿を見て飯田かおりは不愉快になった。向こうから上田が来る。みんな新新太朗のつまり光太郎の学校関係者であるからここに招待されても不自然ではない。

 しかし新新太朗となにかの関係があったとは思えない。儀礼的な関係で呼ばれたのだろう。

「じゃあ、これで」

吾妻と貝山はその場を離れた。上田がやってきた結果に違いなかった。行き過ぎるときに上田と会って二言、三言言葉を交わしたようだったが、その内容は光太郎にはわからなかったが、やあ、とか、はあ、とか表面的なものだろう。

 最初、飯田かおりは上田がこの会場に自分を認めてやって来たのかと思ったがそうではなかった。上田が見つけたのはスターの隣に座っている親父だった。

「やあ」

上田は親父に声をかけた。

親父のほうも返事をした。

飯田かおりは上田がここに来ることはいやだったが光太郎はそのことをしらなかった。理由ももちろんわからない。その現象も光太郎は理解していなかった。そしてどういう関係なのかわからないのだが星の下の竜宮城と云う映画に出てスターと競演した若手の女優が来ていて、中学生は糸の切れたたこのようにふらふらとそのほうにひかれて行って席を離れてそのほうに行ってしまった。となりの席に座っていた中学生は腹をふくらました未確認生物のようだった。

 その席が空いていたので上田はそこに座った。

「おくさんも来ていたんですか」

上田は身を乗り出していやらしい目をして飯田かおりに挨拶をしたが、飯田かおりはそれを無視した。光太郎はなぜだかその理由がわからない。

「君も来ていたのか」

上田は向かいに座っているスターのおじに

話しかけた。

そうとうな知り合いらしい。むかしから面識があったのか。

「君が彼らと同席している姿を見たかったですな」

「くだらない」            田上田ははきすてるように言った。

飯田かおりは上田がいるのでぶっすとして座っている。

「おじさん、この人と知り合いなの」

スターが聞くと親父は答えた。

「そうさ。異端の歴史学者であり、僕のむかしの学友ですね」

「別に学友でもないさ」

上田はむっつりとして言った。この関係は自分と背振無田夫の関係に似ていると光太郎は思った。変人と普通人との組み合わせと云う感じで。

「僕は君のほうが吾妻より偉くなると思っていたよ」

「くだらない」

上田はまた吐き捨てるように言った。

光太郎は思考を停止したときこの偏屈な学者がくだらないと云う言葉を使うのではないかと思った。

「いま、吾妻たちが来て、こちらの三輪田さんの資料を使って手柄を立てたと言っていたよ」

「くだらない」

上田はまた同じ言葉を言った。そして身を乗り出して飯田かおりのほうを見るとまたいやらしくにやりとした。

「歴史上、突然としてある豪族の消息がとだえたり、不連続に宝物が出現したりする。もっとも高貴な人として知られる人間の血筋をたどって行くと遠い異国にたどり着いたりする。だいたいどこからどこまでを日本だと言うのか」

上田は謎めいた言葉を言った。スターはめったに見られない珍しいものを見ているというような表情をしている。たしかにロケの現場や映画スタジオのなかではこんな人物は発見できない。

 「手柄と言ったってどんなことを見つけたと言うんだい」

上田はコップにつがれたビールを飲んだ。

「ここではこんなうまいビールを出しているのか」

「なんか、焼き物のことで元祖を名乗れるとか、どうか、言っていましたよ」

「つまらん」

今度はくだらないと云う言葉を使わなかった。

「灯台がいつから日本にあるのか、知っているかな」

上田はスターの顔を見て話しているのではなかったが、スターは上田に話しをふられているのではないかと思っているようだった。

「江戸時代からではないんですか。四国のほうでロケに行ったとき、古い灯台を見ましたよ。江戸時代に作られたと地元の人は言っていました。灯台が立っているのを見るとほのぼのしますね。いろいろな建物がそれぞれの表情を持っていると思いませんか。社長のような建物があったり、殿様のような建物があったり、吟遊詩人のような建物もある。そのなかでも灯台って崇高な感じがしますよね」

「なんのために、その灯台を建てたのかな」

「海に出て行った漁船が自分の浜に戻るため、さもなければ外回りで大阪や、九州のほうに荷を積んだ千石船が目印にするため」

「君の話によると江戸時代にならなければ日本人は海に出ていかなかったと云うわけかな」

「もちろん、もっと前から日本人は海に出ていたでしょうが。灯台と云うと上のほうの行灯みたいなのに火を入れて燃やして明かりにならなければならないでしょう。電気やガスが発明されていたわけではないんだから、そんな高いところで火を燃やすと云うのは大変なことだっただろうから、そんな昔の人はやらなかったでしょう。手間も費用もかかるでしょうから」

「手間がかかると云うが船が沈没したりして多くの人間が死んだり、たくさんの商品が沈んだりして大きな損失になると思えば無理をしても灯台を造るでしょうな。とくに本州と九州をつなぐ海峡のあたりでは地形も複雑に入り組んでいるし、船が座礁する可能性も高いですな。だいたい灯台が海に出た船がそれを目指して帰ってくると云うよりも、そこには陸地があるのでそこをさけると云う意味あいのほうが強いのではないでしょうかな」

隣の親父も口をはさんだ。

「なぜ、こんなところに灯台があるのかと思うようなところに灯台があるわ」

飯田かおりも口をはさんだ。

光太郎はお台場のほうに石を組んで作った灯台があることを思い出した。木場のほうには木造の灯台を見たこともある。木の表面が渋く煮染めたようになっていて作られたのは江戸時代だろうから、こんな時代から灯台が造られていたんだと感心した。

「みんなせいぜい灯台と云うと江戸時代に作られたものだと思っているようだが、意外とその歴史は古い。そしてそれ以上の発見をわしはしたのじゃ」

上田はちらりと飯田かおりのほうを盗み見た。

「どういう発見ですか」

光太郎はそれほどの興味もなかったが話を合わせるために訊いてみた。

「平安時代から灯台は造られているのじゃ。そのあとをわしは確認している。そのうえ、海辺に造られているのではない。山の中に造られているのだ」

「灯台と云うとあののっぽな塔が山の中に立っているんですか」

スターは信じられないと云うように上田にたずねた。

「そうだったら観光名所かなにかにならなければならないでしょう」

「そんなものが森の中からにょっきりと姿を現したら誰でもがおかしいと思うはずじゃ。もちろん、その台の部分しか残っていないのじゃがな」

「なんだ、それでは灯台かどうかわからないじゃないですか」

上田は素人がなにを訊くと云うようにせせら笑った。

「その台座の部分は残っているのじゃ。その台座の構造を調べると上の部分にどんなものがあったのかわかる。そのうえ、そこの古い資料に確かに灯台が立っていたと云うことがわかるのだ」

「うそ」

飯田かおりは下を向いて上田にはわからないように舌打ちをしたがその声は上田には聞こえていないようだった。親父は若い頃の上田のことを知っているらしかったがそのほうの関係から上田がどんなことをやっていたのか、もっと詳しく知っているらしい。それに関連したことを訊くことが出来るようだった。

「上田くん、きみが平安時代に建てられた灯台の跡を見つけたと云う話だが、それはきみの持論とどういう関係があると云うのですかな。そこのところを僕にも教えて欲しいものだな。きみは学生の頃から独特の論を持っていたじゃないですか」

「おじさん、独特の論と云うのはどんなものなんだい」

スターも少し興味を持っているようだった。

スターは両手でテーブルのはじをつかんで親戚のほうに顔を向けた。

「この男はな、現代の村でも、そこに住む村民でも、決して断続したものではなく、遠い過去の歴史から続く連続したものだと云うのがこの男の論なのですな。もちろん都会ではそれは成り立たないがな、人が出たり入ったりするだろう。そしてその村で霊媒師と呼ばれるような人間をたどっていくとやはり昔その村に住んでいた人間にいきあたる。霊媒師なんかは一番特徴があって調べやすい。だからその系統図を作ることが出来る。なんというか、そういった霊媒師のような人間は村の祭祀のようなことに関わっているためにそれをたどっていくことは容易だから、調べる価値があるのであり、一般の村民でもそれが可能なら同じ現象が見られるだろうと云うことだそうですな。そうだろう。上田くん。きみはいまでも似たことをやっているのか。そしてきみの持論によれば生物の進化図が枝分かれのかたちをしていてもとを尋ねていけば細くなっていくように日本にある村落も数えられるぐらいの数にしぼられる。といつも言っていたのですよ」

とスターのほうを見ていた親父は今度は光太郎のほうを向いて、光太郎に説明するように言った。

「それからきみの研究は進歩したのかい」

「ふふふ」

上田はビールを飲んで饒舌になっているのか、気楽に自分の考えを述べた。

「わしは日本にある村を奈良時代までさかのぼって調べた、本当に日本にある村は数えるくらいの数の村がもとになっている。それらの村はある共通な基盤にのっている。つまりこれらが日本のルーツであるのじゃ。しかし、みんな同じようなものだと思うと大違いで、分類に収まり切れない村がある。その村に灯台があるのじゃ。しかも森の中にな。くくくく」

上田は声をかみ殺して笑った。

スターは不気味なものでも見るように首を縮めた。薄気味悪いじじいだ。

「その灯台のある村ってどこにあるんですか。見てみたいな」

スターは甘えるような声を出した。

「秘密じゃ」

「なんだ、つまんねぇ」

スターはぷりっと怒った。光太郎はこんな学説をたてているから上田は異端の歴史学者と呼ばれるのだろうと思った。

そしてはなはだその説は信じがたいと思った。

「じゃあ、なんでそんな山の中に灯台なんか建てたのかな。上田くん。まさか、そんな山の中の灯台をどんな船が見ると言うのですかな。また必要とするのですかな」

「灯台の光というのは意外と遠いところから見られるものだよ。今の時代のように凌雲閣のような建物はなかったからだが、山の中の灯台でも船から見ることが出来る」

「それは山のてっぺんに灯台が立っているからですか」

スターは間延びした声で訊いた。

 この中華料理屋は生の木肌を生かした材木で建てられていてこの大広間の四隅にはゴムの木のような観賞用の植物が置かれている。部屋のはじの壁には家庭では使わないような大きな中華鍋がきれいに整理されて並べられ、飾られている。入り口よりも奥に入っていくにつれて天井が高くなっている。というのも入り口から入ったところは天井の上に客席があって一階からその客席の二階に上がれるようになっている。奥のほうは二階がない。 さっきから店の人間が忙しげに広間の中を行き来している。広間のテーブルのあいたところに店の人間が少し小さな頑丈そうな木のテーブルをしつらえた。そして丸い帽子を被ったウェーターが重そうに、これが機械だと断言できるような映写機を引きずるように運んできて、そのテーブルの上に置いた。

 鋳物で作った本体に小さな歯車や、わっかがたくさんついている。その中に透明なレンズがついていて機械の本体は焼き上げ塗装と云う縮れた布のような灰色の塗装がなされている。映写機のレンズは巨大な昆虫の目のようにきらきらと輝いていた。

 光太郎は上田がビールを飲んだいきおいからか、しきりにしゃべるのでそのほうに気をとられて店の人間がそんなことをしていることに全く気づかなかった。

 だいたい今日の祝賀会がどんなふうに進んでいくのか、事前の知識はまったくない。店の人間が窓のほうへ行ってカーテンをいじくっている。でも光太郎はなにが始まるのかわからなかったが、飯田かおりは予想がついていた。

 綿ぼこりのようにいろいろなテーブルをわたり歩いていた中学生が自分の席に戻って来て、そこに顔を赤くした上田がビールを片手に酔っぱらっているのを見ると自分の食べ残した七面鳥のももをテーブルの上に残していたのをみつけて手を伸ばしてとり、飲みかけのジュースも確保した。その行為を上田の肩越しにおこなうと、上田は少年よ大志を抱けとか、歴史学会は若き有為の若者を待っているとか、わけのわからないことを言ったが中学生はまったく無視した。中学生の目には変なよっぱらいとしか映っていないようだ。

 「僕は二階席のほうへ行きますから」

中学生は両手にジュース、七面鳥のもも肉を口にくわえて光太郎に言って、そそくさと二階に上がるほうの階段に向かった。

 座はすっかりと乱れていたがさきほどの司会者が穴蔵にまかれた種が高速撮影で芽を出すすがたが写されているもやしのように、つまり右に左に肩を揺らしながら上に伸びていくように立ち上がるとゴムボールの栓みたいな口をして静粛にと言った。そのくせその司会者の顔はすっかりと赤くなっている。

「これから、新新太朗くんが一番気に入っている映画を上映しますので広間は暗くなります。みんな席についてください」

司会者は声を張り上げた。

「どんな映画をやるんだ」

うしろのほうで声を張り上げたものがいる。「おまえ、新新太朗のファンではないな。新新太朗が一番好きな映画と言ったら決まっているだろう」

うしろのほうで大きな笑い声が起こった。

「その映画の主演はここにいる****くんです」

まわりの人間はスターのほうをいっせいに見てスターは頭をかいた。

「ふん、映画。くだらない」

上田はまたぶつぶつと言った。

むべなるかな。飯田かおりは女だからこんな表現はとらないが飯田かおりは上田がそうつぶやいたことを当然としてうけとった。上田と映画、どうしても結びつかない。スターはみんなと同じように無邪気に手をたたいている。客たちの目は前方のスクリーンのほうに向いている。新新太朗の目もそのほうに向いている。

「なんという映画が上映されるのかわかるんですか」

飯田かおりがスターに訊くと「知らない」とスターはあっさりと言った。店の人間が外に面した窓にカーテンを引き始める。広間は暗くなり始めた。

「暗くなるのか。暗くなるのか」

上田は狼狽を示した。上田は暗くなることに本能的な恐怖を抱いているようだった。「もっと光を」と言えば偉人になることが出来たが上田はそんな気のきいたことは言わなかった。いつのまにか広間の一番奥のほうにはスクリーンが広げられている。飯田かおりは月を恐れる狼男のことが思い浮かんだ。狼男が恐れるのは狼男のするどい犬歯や爪ではない。自分が狼男となる狂気である。それによって引き起こされる惨事である。もしくは自分のなかの人間以外の部分が白日のもとにさらされる恐怖である。人間は起きている時間と寝ている間の時間のふたつの時間を持っている。夢の中は夢の中でなければならない。しかし夢の中が現実としたら、上田がもし狼男だとしたら、上田が始終自分のほうに向けるいやらしい目つきのことを飯田かおりは思った。月を見てではなく、暗くなると上田はその狼男の本性を表すのではないか、酒を飲んでいることでもあるし、飯田かおりはおぞましかった。

 そんなことは光太郎はさっぱりと知らないらしい。

 映写機から漏れる光が店員の顔を妖しく赤っぽく照らした。

 スクリーンに海底のような景色が浮かんで空中に変な穴ぼこのたくさん空いているゴルフボールみたいなものがいくつも浮かんでいるそのうえそのゴルフボールにはてぐすが見えていて光りのあたる角度によってそのてぐすがきらきらと輝いてその存在をばらしてしまっている。海底だと思ったのは実は宇宙で、ゴルフボールは惑星だった。宙を飛んで見知った顔が画面の前方のほうに出てくる。そこで一斉に拍手がおこった。

 それがスターだった。

それから大きくタイトルが出る。

「宇宙金星王子」

会場はしんとしていた。

「子供向きの映画ね」

飯田かおりはあほくさくなった。飯田かおりの思ったとおり、宇宙から来た超人が地球征服をたくらむ悪の天才科学者から地球の平和を守るという内容だった。しかし平和を守るという活動もはなはだ珍なるものである。それはある小学校のできごとだった。原因のわからない難病で学校を休み、病院に入院せざるを得ない女の子がいる。クラスでその女の子をはげまそうと月の砂漠という劇をやると発言する生徒がいる。担任の先生はそれに反対する。恋人と旅行に出る計画があり、むだな仕事をやりたくないからだ。そして担任ではない図工の先生がそれをやることにする。しかしクラスの生徒はそれに参加しようとしない。その女の子がその地区では***という差別を受ける集団に属していて親の意識を子供たちは受け継いでいたからだ。そこで女の子の友達は山の中に住む山芋仙人のところへ行く。そこで山芋仙人は言う。月夜の晩に水晶風穴という場所に行き、そこにはえている千人きのこと云うものをとって来ればそれが人間のかわりになるからそれに役をつけて月の砂漠をやればいいと。

しかし、悪の科学者はそれを恐れた。千人きのこは悪の科学者の計画している皆殺しロボット軍団の大きな敵となるだろう。

 悪の科学者は子供が千人きのこを採ってくる邪魔をする。そして千人きのこは純心な子供が採取して来なければその効力はない。

そこで宇宙金星王子の出番となる。悪の科学者の魔の手から子供を守るのだった。そして宇宙金星王子は何度もいのちを落としそうになる。この子供の姿を見て無視していたクラスの友達も月の砂漠の劇に参加をする。女の子はクラスの子供、千人きのこの参加した月の砂漠と云う劇を見る。

 子供はいのちを危うくしてまでなぜ助けてくれたのかと宇宙金星王子に尋ねる。

すると宇宙金星王子は答える。

 わたしは宇宙超人ではあるが半分は人間の血が流れている。母親は地球人である。しかし母親はどんな人なのかは知らない。自分が超人と云っても死ねば墓穴に放り込まれ肉体は腐っていく。超人としての事跡も忘れられるだろう。しかしこの地球はわたしを生んでくれた母の生まれた場所である。その母親を生んでくれた母親がいて、そのまた母親を生んでくれた母親がいる。それがどこまでも続いていく、だから宇宙のあらゆる場所を自由に飛んでいける自分であるが気がつくといつもこの地球にやってくるのだ。

 そのせりふを聞いて飯田かおりは少し心を動かされた。それがなぜなのかは飯田かおりなりに理由がある。

 そして暗い中で映写機の光の中で肌の表面がてらてらと輝いている人物がいた。飯田かおりはいぶかった。

 それは変人歴史学者の上田であった。目からは涙を流してそれが頬に伝わっている。飯田かおりはおぞましくなった。気持ち悪いと思った。その意識が上田に伝わっているのか、上田は飯田かおりのほうを見た。その目は涙でぬれている。飯田かおりは思わず、目をそらした。そして哀願するような上田の目が記憶の中に焼き込まれた。

 「今晩は久しぶりに楽しくイブニングを過ごすことができたなあ」

ベンチに腰掛けながら銀座の街の星のように光が点滅するのを見ながら光太郎は飯田かおりの横顔を見た。光太郎は飯田かおりがいつもよりきれいに見える。光太郎の意識が高揚しているからだろうか。坂道を登り切ったところに小さな公園があり、片方の端が銀座の街を一望できる石垣になっている。空には星が輝き、月も出ている。いやがうえにもロマンティクな雰囲気を盛り上げている。

「今日はきみに謝ろうかと思って」

「なにを」

「なんでもないけど」

「わたしに謝らなければならないようなことをしたの」

「もちろん、そういうわけではないけど」

「知りたいわ」

光太郎が飯田かおりに謝りたいという気持ちになったのは、飯田かおりにはそうとは言わなかったが、飯田かおりが自分の幸福曲線を低下させているのではないかと云う疑いである。幸福曲線と云う呼び方は正しくはないかも知れない。むしろ幸運曲線と呼んだほうがよいだろう。そう思うのも会社での世間一般での噂話のような考え方がもとになっている。つまり美人薄命と云った類の考え方である。あんまり可愛い奥さんを貰うとその主人は出世しないと云う巷でよく云われることである。自分はそれにとらわれすぎているのではないか、そう思うから悪いほうに引かれてしまうのではないか。つまり原因は自分自身にあるのではないかと云うことである。

 そうだとするとこういう楽しい一夜を与えてくれた飯田かおりにむしろ感謝しなければならない。経済的、社会的に今のように下り坂にいることは決して飯田かおりのせいではない。そして自分の側にその原因を求める必要もないのである。もちろんどこかに原因があるには違いない。飯田かおりのせいでないとすれば光太郎自身にふられるかも知れないし、そうでないかも知れない。もっと大きな光太郎をとりまく社会かも知れない。でもそうなればもうお手上げだ。今がこれほど幸福ならばいいではないか。飯田かおりは無邪気に銀座の街を眺めている。飯田かおりはいつもよりきれいだ。

 「感動したのだ」

ふたりが並んで腰掛けているベンチの背後からにゅうと首を伸ばしてこのロマンティクなシチュエーションに参加しようとした不心得ものがいる。光太郎と飯田かおりは後ろを振り向いた。

「感動したのだ」

どこかの総理大臣のような文句を言った。そしてそのうさんくさい首ねっこを背後から光太郎と飯田かおりのあいだに割り込ませてきた。前から見たら光太郎と飯田かおりのあいだに上田の首だけが宙に浮かんでいるように見える。その目はやはり眼下に見える銀座の街に注がれている。そこには映画鑑賞で涙を流していた上田が立っていた。上田が感動したと言っているのはもちろん中華料理屋で見た映画のことだ。

「きみたちのあとをつけてここに来たのではない。誤解しないで欲しい。感動の余韻を味わうために歩いていたらこの公園に来たのだ。自分自身銀座の街を一望できる場所に来たかったのかも知れない。その気持ちがこの場所を選ばせたのかも知れない。きみたちもわしと同じ精神状態だったのではないかな。精神状態が同じなら同じ行動結果を生じせしめる」

光太郎はよほどよしてくれよと言いたかったが死んだ親友の背振無田夫の先生だと思うとその言葉ものどのあたりで止まって胃のあたりにすとんと落ちて行った。

「きみたちも感動したかも知れないが、わしにはその意味合いが違う。つい自分自身に宇宙金星王子を重ねあわせてしまうからだ。宇宙金星王子はわしをモデルにして制作されたとしか思えない。自分の家系のことをとやかく言うのをわしは好まんが、わしの中には高貴な血が流れている」

そう言って上田は夜空に輝く星を眺めた。

光太郎と飯田かおりがうしろを振り向くと上田は足を三角にひろげて夜空の星をじっと見ている。

「この地球を救うためにわしはこの地につかわされた」

上田はぽつりと言った。光太郎と飯田かおりは自分自身の耳を疑った。

「いま、なんて言ったんですか」

やはり上田は天上の星を見つめてその問いには答えずに遠い世界に自分をワープさせて、そこにすとんと落とした。

「崇峻天皇に氷水を初めて献上したのはわしの祖先である。もちろんその頃はそれを氷水とは呼ばなかったが、それも蘇我馬子にあやめられた三ヶ月前のことだった。ちょうどそのとき、わしの祖先は東北の方へ地形調査に行っていたので陛下をお助けすることができなかった」

光太郎も飯田かおりも崇峻天皇と言われてもなんのイメージもわくことは出来ない。上田の言うことが本当なのか、嘘なのか審判の入り口に立たせることも出来ない。

「氷水と云うからには甘いのでしょうか」

光太郎が聞いた。

「甘い」

「甘いと云うと砂糖を使っているのでしょうか。それとも蜂蜜を」

光太郎は何の関係もないことを聞いた。蜂蜜があるとすると蜂を飼うと云う仕事がそんな昔にあったことになる。

「黒砂糖だ」

「黒砂糖」

飯田かおりは小さな疑問が生じた。そんなむかしに黒砂糖が使われていたのだろうか。どこか南のほうの国でなければとれないような気がする。

「そもそも今ではわしはこんなよぼよぼの年寄りではあるが、武門の出である」

「武門の出というと」

「わしの祖先は八岐大蛇を退治してあまのむらくもの剣を手に入れて天照大神に献上した。まったくの武門の出である」

上田の話は神話の世界にまで達していた。すでに記録された世界を越えている。上田の祖先を目で見るには青木繁の絵画でしか方法はない、福田たねとの燃えるような恋愛の末に二十九才の若さで命を絶った明治時代の天才画家である。古代への憧憬からすさのおの尊を油絵に描いている。しかしそれは青木繁の想像の世界でしかない、そのうえにその顔は自分の恋人の福田たねをモデルにしているのかも知れない。したがった今目の前にいる上田とはなんの関係もないかも知れない。だいたいすさのおの尊と云うのが本当にいたのかどうかわからない想像上の神話の世界の人なんだから。

「たんに天皇や大和国を守ったと云うだけではない。この日本を救ったのである。わしにはその血が脈脈と流れている」

そう云ってまた天上を見つめた。そして今度は変な自信を内に秘めて肩をいからせている。宇宙金星王子は上田に大変な影響力を与えていた。光太郎はきちがいに刃物と云う言葉がふいに浮かんだ。

「その活動を続けているのですか」

「活動」

「つまり日本を邪悪なものから守るという」「活動。ふん。天職と呼んでもらいたいな」

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ぶんぶく狸 @tunetika

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