第4話

第四回

「光太郎さん、はやく起きて。すっかりお日様は昇っていますよ」

飯田かおりは木で出来た雨戸をがたぴしといわせながら開けると日の光が障子に差し込んで電灯よりも明るい白い色で輝いている。朝起きる頃には外もすっかりと暖かくなっている。目の前にはいつものように弘法池が見える。はるか向こうには筑波山の姿が見える。飯田かおりはその山の姿を見ると自分の父親のような気がした。そしてすがすがしい気持ちがした。飯田かおりには父親がいないからなおさらのことだ。なにもその山は言わないが飯田かおりや飯田かおりの家のことをじっと見ている。庭に植えている南天の赤い実が太陽にきらきらと輝いている。飯田かおりはその南天の実を見て赤い色をぎゅっと凝縮したようだと思った。ただ色を凝縮しただけなら色は明るさを失って黒くなってしまうが赤い色の要素だけを凝縮したと言う意味で物理的な意味ではない。美学的な意味だ。いつも思うことだが毎日毎日、日が沈んでまた太陽が上がってくると云うことは大変なことだと思う。人は眠りについて疲れを癒し、昨日と云う過去を振り払う。飯田かおりは雨戸を開け放した廊下で空気を吸い込むとやはり田舎の匂いがした。

 のっそりとよっぱらいが起きて来た。もうすっかりと酔いはさめているらしい。でも髪はもじゃもじゃで髭も少しのびている。太陽の光は公平に彼にもその光を浴びせた。

「もう、朝か」

「お風呂にでも入ったほうがいいんじゃないの」

「風呂は沸いているの」

「沸いていない。光太郎さん、入るならこれから沸かしますよ」

「近所に温泉でも沸いていればいいんだけどな」

「このへんに温泉はあるのかしら」

「温泉ぐらいあるだろう。田舎なんだから。この弘法池の水源から水がわき出しているらしいよ」

「光太郎さんは温泉の定義を知っているの。温泉名人の話を聞いていたんじゃないの」

「忘れちゃったよ」

光太郎は頭をかいた。

「じゃあ、わたしが教えてあげる。地下からわき出してくる地下水で温度が二十五度以上あって、カリウム、硫黄、ラジウム、なんかの化学物質のどれかがある一定以上含まれているということなのよ」

「やっぱり僕よりふたつ年下だから記憶力がいいね」

「当たり前よ。光太郎さん、おはぎの用意は出来ているからね。わたしも今日は出掛けようと思っているの。光太郎さんより早く帰ってくるつもりだけど」

「さっそく自転車に乗ってみるつもりなんだね」

「そうよ」

「光太郎さんばかり、ここを散歩しているなんてずるいわ。私も光太郎さんの買ってくれた自転車でここを散歩してみるつもりよ」

 光太郎に胡麻のおはぎを持たせて背振無田夫のお墓参りに出してから飯田かおりは光太郎に買ってもらった自転車でこの田舎町を散歩してみようと思った。光太郎の家からこの町のメインストリートまで歩いて行くのは少し大変だ。買い物をしようと思っても近所にはない。メインストリートまで行かなければならない。それで光太郎に自転車を買ってもらったのだ。光太郎が出発してから家の用事をある程度すませて家の用心をすると飯田かおりは家の前の砂利道に自転車を出してサドルに腰をかけてみた。飯田かおりの丸いおしりが自転車のサドルにうまい具合に乗っかった。その姿は男の目を振り向かせるほどの効果はあるが、そんな男はこの近所には住んでいない。光太郎の家の離れたところにやはり下平の建てた建て売りが二軒あるが一軒は空き家でもう一軒の方はむかし国会で書記をやっていたと云う男が定年で退職して夫婦で悠々自適の生活を送っている。土地のことを云えば光太郎の家は借地だったがそのもと書記は土地も下平から購入したらしい。たまたまその家の前を通ったら家の中から尺八の鳴る音が聞こえた。 飯田かおりは家の前の砂利道に自転車を出してからメインストリートに行く左とは逆の右の方にハンドルを向けた。その砂利道は少し上り坂になっていて砂利道の上がりきったところから少し下っていけるようになっていると云う話しだが飯田かおりはまだ行ったことがないからことの真偽はわからない。飯田かおりがたまたまその方に行こうと思ったのはこのまちの駅に行ったときこの町の名所図絵と云うのが切符売り場の向かいの壁に貼ってあってその地図には弘法池が中心の位置に書かれていたのだがもぐら神の伝説のあるちょうど逆のほうに弘法池の二十分の一くらいの大きさでおおさんしょう池と云うのがあった。そこにもやはり嘘か真かわからない伝説があり、その内容がごちゃごちゃと書かれていた。それが男女の愛憎に関したものでおおさんしょううおが女に化けてどうしたこうしたと云うものだったが飯田かおりはその沼に興味を持った。飯田かおりにとって光太郎ははじめての男である。飯田かおりはどろどろとした男女の愛憎などと云うことはまったく知らなかったし、経験もなかった。そんな云われの沼を見てみようと思ったのはむしろこわいもの見たさに近い好奇心からだった。もしかしたら飯田かおりのこころのおくの方にはそんなものに対する興味があるのかも知れない。

 砂利道を自転車で走って行くと砂利の上の少し安定の悪い道を走っているので少し振動するし、早く走ることは出来ない。道の片側には申し訳のような茶畑がある。誰が栽培しているのか、飯田かおりにはわからなかった。茶畑の隣りには農作業で使うための道具や材料が収納されている掘っ建て小屋がある。そのまわりは木の杭が打ち込まれていてその杭を一回りするように針金が巡らされているのだがその針金もすっかりと錆び付いている。その掘っ建て小屋の軒の下には長い竹が荒縄で結ばれてぶら下がっている。その掘っ建て小屋の前には飯田かおりの家と同じように南天の木が植わっていて赤い実をつけている。その茶畑を越えるとぜんぜん手入れをされていない畑が続いた。畑のうしろのほうは孟宗が生えたいように生えている。地面が孟宗の落とした薄黄色い葉で覆われている。道はゆっくりと坂になっていて飯田かおりが二十分もペダルを漕いでいると坂を上がりきった場所に出た。その坂も来る途中に上がったり下がったりしていてここが坂の頂上になっているんだ、とわかったのはそこからさきが明らかに下り坂になっていてそのまままっすぐ行くと小さな山の中腹にぶっかってしまう。そこを左に曲がると竹藪の中に人の通れる小道があってもちろんそこも自転車で行けるようになっているので飯田かおりはその道を行くことにした。五百メートルくらいそのやぶの中の道を走り、やぶが途切れると急に坂になっていてゆるやかなすり鉢のようになっている場所にどろの色をした水が溜まっていて大きな葉っぱを持った水草が途中からするどい角度を持って茎が折れているのがたくさん水中から首を出している。男女不問と変な文句の書かれた看板が立っている。これがおおさんしょう沼だと云うことが飯田かおりにもわかった。まわりを孟宗と林に囲まれているので昼間から薄暗い。沼の真ん中には岡倉天心がどこかの海岸に建てたようなお堂のような住まいのようなものが建っていて沼の右手のほうからところどころ朽ちて穴のあいた小橋がついていて行けるようになっている。ますます飯田かおりのこわいもの見たさの欲望が刺激されて飯田かおりはその小橋を渡ってその六角堂の中に入ってみることにした。飯田かおりはその小橋の入り口のところに自転車をとめた。六角堂もその橋も古い木造の建物特有のオリーブグリーンに大量に白い絵の具を混ぜたような色をしている。その小橋を渡って行くと橋の途中の板が朽ちていてその下に名前のわからないうちわよりももっと大きい葉っぱがうかんでいる。こんなところに来る人はほとんどいないように思われる。沼の中央まで来ると六角堂の入り口の戸は開いていた。入り口の中から六角堂の中央が見えたのだがそこにはまた奇妙なものが置かれていた。六角形の上がり框のようなものがしつらえられていてその上に木製の像が置かれている。その像がまた奇妙なものだった。大きなおおさんしょううおがとぐろを巻いてひれ伏している上に吉祥天女がそれを踏みつけているように立っているのだ。これがどのような仏教的な教義にもとづいて立てられたものではないことはあきらかだった。その奇妙な立像に目を釘付けにされていると飯田かおりは心臓が飛び出すほどびっくりした。

「久しぶり」

入り口のかげからにゅっと首を出した者がいた。

「上田先生」

背振無田夫の指導教官であった上田がここにいたのだ。いつもはと云うよりも光太郎の母校で会ったときはフランスのどこかの宮殿の屋根で魔よけになっている魔物のようにぶっちょうづらをしていたのにここでは笑みを浮かべている。

「驚かせないでください。びっくりしましたわ」

「ふふふふ。びっくりさせて申し訳ない」

上田は口をもぐもぐさせてあやまったがやはりにやにやしていた。上田はレンズの上がエボナイト、下が金属になっている眼鏡のつるをいじくってまた空気のもれたような笑い声をあげた。そのとき目尻のしわが変な具合にできた。

「ふひょ、ふひょ」

「なんで、ここにいるのですか」

飯田かおりは上田の研究室で「しあわせか」などと云う変な質問をされたときからこの変人の学者には反感を持っていたが、なぜここに上田がいるのかは疑問に思っていたのでむげにも出来なかった。

「ここは研究の宝庫だよ。弘法池を筆頭にしてね。もちろんここもだ。三輪田さんはここがおおさんしょう池と呼ばれていることを知っていましたか」

「ええ、駅の観光図会で見て知っています。それで興味を持って来たんです」

「愚劣じゃ、愚劣じゃ、ここの学問的価値はそんな観光図会にのせるほど低級なものではない」

「愚劣」

飯田かおりは驚いて上田の顔をじっと見た。学問的なことなど飯田かおりが知るわけがない。だいたいいっぱんの人間がお祈りのときに祈祷師が祭壇の燃える火の前にあげるのがさんまのしっぽなのか鮭の頭なのかと云うことなどなんの興味もないだろう。煎じ詰めて云えば上田にしろ死んだ背振無田夫にしろさんまか鮭かに興味と云うよりも第一の主眼にしている人種と言えるだろう。飯田かおりはたぶんこの上田と云う学者が日常生活における精神活動は単純な人間なのではないかと思う。しかし、その研究生活においてはどんな思考回路を有しているのかわからない。ただふだん会いたいと云う人間ではないことは明らかである。そしてただたんに日常生活における単純な反応の仕方がある部分くずれているのではないかと思った。げすな言葉で言えば変態だと云うことではないか、古代の半ば化石となった人骨にあるやじりのあとを見て性的興奮を覚えるのではないかと思った。しかし、そういった方面にはまったくのなんの知識も素養もない飯田かおりではあったが光太郎とふたりで背振無田夫の遺品の研究を彼の研究室に届けた結果ではないかと云うことはわかった。それでこの変人の学者がこの土地に興味を持ち、飯田かおりにもこころを奪われているのではないか、しかし、上田の少し残っている男の部分を飯田かおりが刺激していることを彼女自身は知らなかった。

「背振無田夫さんの遺品からここに目を付けたんですか」

すると上田はなにも言わずににやりとした。飯田かおりの予想は当たっているらしかった。六角堂の内部のはじのほうに上田の研究道具が入っているらしいリュックが無造作に投げ出されている。飯田かおりはこの年になってもひとりも弟子もいず、リュックを背負ってこんなところにとぼとぼとやって来た上田を少し哀れになった。しかし飯田かおりはそれを上田が望んでいると云うことを知らない。ひょこひょことリュックひとつで研究対象の場所へ行き、弟子は死んだ背振無田夫だけで満足していたのだ。

「背振無田夫はやはり天才だった。自分の弟子であることを誇りに思うよ。自分がもしここに住めなかったら飯田かおりさんのご主人にここに住まわせるように遺言を残したそうですね」

「ええ、そうです」

「じつはわたしもこの町に引っ越して来たのですよ」

いつのまにか上田の顔は学者のそれに変わっていた。

「いつですか」

「五日前」

「お勤めは」

「通勤時間は二倍になったけど通えない場所ではない」

「本当ですか」

飯田かおりは不快感を押し隠した。こんな変人に近所に住まわれるのはいやだ。

「ここはわたしの研究の宝庫ですよ。そしてあなたも」

あやしい光が上田の目に光った。

そう言った上田の口調にはたしかに男が女にみせる不純なものがあった。変人と云っても特別に上田が性の倫理観が欠如しているというわけではないかもしれない。そこにはふたりだけしかいなかったからだ。それもふだんは誰も来ないような場所だった。そこで飯田かおりと顔をあわせているのである。

「なんでわたしが宝庫なんですか」

飯田かおりはぷりぷりして口をとがらした。

「あなたはどこの出身ですかな」

上田は学者らしくもなくにやにやして飯田かおりに聞いた。

「どこでもいいでしょう。わたし帰ります」

飯田かおりは向こうを向いたがやはり上田はにやにやしている。そのことを飯田かおりは知らなかった。飯田かおりは六角堂の橋を渡りきると自転車のところに行き、スタンドを跳ね上げてまたサドルにおしりを乗せた。

「なんでわたしが宝庫なのよ。失礼だわ。わたしの生まれ故郷がどこでもいいじゃない」

飯田かおりはかっかしながら自転車のペダルをふんだ。頭の中には上田のいやらしい顔が残っている。その映像を振り払うようにペダルを踏む足に力をいれた。そしてまたもと来た道を帰ることにした。飯田かおりの怒っている精神状態は自転車の運転を不安定にした。ハンドルが必要以上にふれて、来る道の途中にあった茶畑が見えるところまで来たときに道のはたに寄りすぎて落ちている小枝をはねあげた。はね上げた小枝はどういう具合かチェーンと前の歯車のあいだにはさまった。飯田かおりは空ペダルをふんだ。ペダルを踏む足に力が入らなかった。

「きゃあ」

飯田かおりは自転車から降りて横から自転車を見るとチェーンがはずれている。飯田かおりは困った。ここから自転車を押して帰るのは大変だ。この時代には携帯電話などと云うものはなかった。もちろんここはど田舎で近所に電話があるとは思えない。ここに一時的に自転車を置いて帰ろうか、飯田かおりは思案に困って自転車を見ていた。すると誰かの視線を感じた。

「チェーンがはずれただべか」

「ふん」

飯田かおりが鼻を可愛く鳴らして振り返ると中学一年生ぐらいの坊主頭の男の子がものおじをしながら飯田かおりの方を見ている。全体の印象から中学の一年生だと飯田かおりは判断したのだが平均に比べると少し背が低いかもしれない。どことなく天文クラブにでも入っていて理科室の二階から夜空をにらんでいるかもしれない。そしてクラブの発表会には大きな模造紙にガラス瓶に入ったマジックインキで天体図を描いている姿が飯田かおりの頭に浮かんだ。ごくごくふつうの中学生に見える。

「近所の子」

「うん」

たぶんむかしから代々ここに住んでいる家の子供なんだろう。

「おねえさん、道具があるから直せるよ。あの茶畑の向こうに掘っ建て小屋が建っているだべ。あの中に大工道具が入っているからな。ドライバーもレンチもあるだべ」

「かってにそこのを使っていいの」

「いいだべ。あれはうちの家の持ち物だべ」

坊主頭は上目使いで飯田かおりのことを見ている。そしてさびた鉄条網で囲まれたどこの田舎にでもあるような納屋のほうを見た。納屋の軒先には女郎蜘蛛が巣を張っていて黄色と黒のしましまの体で獲物をねらって巣の中央のあたりで逆さになりながらじっとしている。飯田かおりは既婚者ではあるがおねえさんと呼ばれてうれしかった。

「ええ、いいわ。行きましょう」

朽ちた木の入り口が道に面した逆のほうにあってそこから入れると飯田かおりは気付かなかった。光が漏れている。その光はこの掘っ建て小屋の板と板の継ぎ目から入り、さるかに合戦に出て来るような農家の古道具に当たって、光と影の境界を明確に形作っている。こんな大きな臼は久しぶりに見たような気がした。そして光の当たっている中で飯田かおりの目をひいたのは壁に立てかけてある折り畳み式のイーゼルだった。そのイーゼルには書きかけの絵がかかっている。それがルノアールの裸婦像の模写だと云うことはすぐにわかった。

「家族の中に絵を描く人がいるのね」

「うん」

中学生は恥ずかしそうにうなずいた。その返事の口調も少しなまっている。この大画家が陶器工場の絵つけ職人から出発したと云うことを飯田かおりも知っていた。その腕を見込まれて画家としての道を歩み始めて印象派と歩みをともにしながらそこを離れて女性の裸体画に生命を表現しようと試みた。もちろんその挑戦は成功したわけだが晩年は手が不自由になって手に絵筆を縛り付けて絵を描いたと云うことや、視力が衰えたこと、豊かな色彩がその絵の具の薄塗りの技法から生じていることは知らなかった。その模写が色鮮やかなことは漏れた光がそのキャンパスにあたっているからだろう。中学生はそのキャンパスのところに行くとあわてて絵を裏返した。そのイーゼルの足のそばには薄い茶色をした絵の具箱があった。そこから少し離れたところに脱穀機やくわやすきがあった。そして農作業の道具の横に置いてある工具箱を取り上げると道においてある自転車のほうに行ったので飯田かおりもそのあとをついて行った。

「簡単に治ると思うよ」

中学生の口調はやはりぶっきらぼうだった。中学生がかがんで自転車のペダルを持っているのを飯田かおりは上から見下ろしていた。中学生は工具箱からドライバーを一本取り出すとチェーンとペダルのほうについているギャーの下のほうに入れてペダルを逆回転させるとすんなりとチェーンはギャーにおさまった。

「ありがとう」

「またはずれるかも知れないだべ」

中学生はまた道具箱からスパナを取り出すと今度は自転車の後輪のほうについているチェーンの張り具合を調節するナットをいじってまたペダルを持って後輪を回転させた。

「これでいいだべ」

「ここのお茶畑も君の家でやっているの」

「そうだべ。でもこんなぐらいの茶畑では小遣いぐらいにしかならないだべ」

農家の経営と云うのは思ったよりも大変なのかもしれない。それがこの中学生の頭の上からおおいかぶさっていて頭の上から木槌でたたかれているように自分自身を縮ませているのかも知れないと飯田かおりは思った。

「ありがとう。君の名前はなんて云うの」

「いいだべ」

中学生はやはり飯田かおりを上目遣いで見るだけで何も言わない。

「わたしは弘法池に新しく建て売り住宅が出来たじゃない、あそこに住んでいるの」

「知っているだべ」

そう言った中学生の声は小さくて飯田かおりにはよく聞こえなかった。飯田かおりはまた自転車にまたがるとペダルにかけた足に力をこめた。中学生のくちびるがかすかに動いてなにかを言おうとしたが声は出てこなかった。それだけだったらその中学生のことを飯田かおりは忘れていたかも知れない。

 駅のそばにある煎餅屋の横に細い道があってそのさきがゆるい坂になっていてのぼって行けるようになっている。その坂のさきのほうが赤や桃色の色で満たされている。買い物にこの町のメインストリートのほうに来るたびに飯田かおりはその色が気になっていた。思い切って煎餅屋の横に自転車を止めてその小道を登って行こうと思った。その赤や桃色はつつじの花の群生だった。しかしそれは人工的に植えられたものだろう。そこはゆるやかな坂になっていてつつじの花の花畑になっている。しかし道がついていてさらに上のほうにあがれるようになっていたので飯田かおりはその道を上がって行った。すると高さが二メートルもありそうな大きな御影石の柱が二本立っていてその柱の並びには塀があるはずなのに塀もなく、きっとその敷地のまわりを塀で囲む計画があったのになにかの理由で立派すぎる門柱だけを作っただけで塀を作る余裕がなく、計画は途中でとん挫してしまったのだろう。その敷地の中には人もいない染め物工場らしい建物がひっそりと建っている。飯田かおりは赤ん坊の泣き声を聞いた。しかしそれは赤ん坊の泣き声ではなかった。その稼働していない工場の軒先にダンボールが置かれていてその中で子犬が泣いている。飯田かおりは興味を持ってそのそばに行った。そこに行ってダンボールの中の子犬を見下ろすと哀れっぽい表情で子犬は飯田かおりのほうを見て泣いている。飯田かおりは買い物に行ったばかりなのでその買い物かごの中にビスケットのあることを思い出した。飯田かおりがくだいたビスケットを与えると捨て犬はむさぼるようにそのビスケットを食べ始めた。その食べている姿を見ると飯田かおりはおおいに満足を感じた。飯田かおりはその子犬をしばらく見ていた。するとどこから来たのか玉子を順当に立てたような頭のはげた六十才くらいの男性がそこに立っている。

「困るんだよね。かってに捨て犬に餌をあげるようなことをすると、野良犬もここに寄って来るし、犬を捨てる人間も出てくるからね。わしはここの家主なんだけど。もしかしたらここに今犬を捨てて別れを惜しんでいるところじゃないの」

「いいえ、違います」

「本当」

もしかしたらこの家主はこの捨て犬を飯田かおりに押し付けたいのかも知れなかった。

「その犬は僕の家の犬だべ」

飯田かおりはうしろを振り返った。そこには茶畑で自転車のチェーンがはずれたときなおしてくれた中学生が立っている。

「おじさん、すいませんでした。この犬はおらが飼っていただべ。この女の人はなんの関係もないだべ。この犬を持って行くだべ」

その中学生はそう言うと捨て犬の入っているダンボール箱を両手で持ち上げた。

「そうか、犬を持って行ってくれるのか」

満面の笑みが残った。家主は面倒事が解決されればそれでいいと云う感じだった。中学生は犬を抱くとその門のところからまた歩き始めた。飯田かおりは彼のあとをついてつつじ畑をおりて行った。

 すぐに煎餅屋の横に出た。

「いいの」

飯田かおりは自転車を押しながら横にいる中学生に声をかけた。

飯田かおりは心配だった。この中学生が捨て犬を連れ出したことに、またどこかにこの犬を捨ててくるのかも知れない。かと言ってこの捨て犬を自分の家に連れて帰ることは出来ない。

「いいの」

自転車を押しながら飯田かおりは横を歩いている坊主頭の中学生にふたたび聞いた。

「いいんだべ」

飯田かおりにはなにがいいんだかわからなかった。不機嫌なのか満足しているのかわからない中学生の表情。この年頃の中学生の特徴だろうか。ふたりが蕎麦屋と居酒屋を兼ねた店の前を曲がるところに電柱が立っていてその電柱には張り紙がされている。その張り紙には「犬をさがしてくれた人には謝礼を出します」と書かれている。そしてその張り紙にはこまごまと犬の特徴やら犬がいなくなった経緯などが書かれているが要するにその犬の似顔絵が描いてあって中学生が抱いている犬の特徴をそのまま表している。駅のホームからさきに行き、線路をくぐるトンネルのところに行き、線路をくぐると盆栽を巨大にしたような民家が見えた。それは庭をいっしょにした風景のことを言っているのだが。富士山の麓に忍野八景と云う観光名所があるがその民家を小さなスペースに凝縮したような家だった。その民芸調の門の中は大きな丸い石を積み上げて階段のようになっている。その家の民芸品のような門柱のところで待っていると中学生はその犬をつれてその庭に入って行った。それから藁葺きのその家の中に入り、戻って来たときは犬を抱いていなかった。

 飯田かおりが家に戻ると弘法池に面した縁側に丸いテーブルを出して座布団を敷いて光太郎が飯田かおりの知らない若い男と面して座っている。若い男は光太郎よりも五才くらい若いようだった。かつての知り合いとの交流をあれほどいやがっていた光太郎がどうしたことだろうと飯田かおりは思った。かっての威勢の良い生活からほど遠い光太郎の現在の生活からすれば仕方がないと飯田かおりは思う。その光太郎の原則から離れていると云うのはどういうことだろうか。つまりその若い男が光太郎の得意な頃の生活を知らないためではないだろうかと飯田かおりは思った。その考えは半分は当たっていたが半分ははずれていた。丸テーブルの上には変な色をした茶碗が置かれている。そして若い男の座っている座布団の横には青銅で作られた長四角のまな板のような板が置かれていてその板の中にはサイケデリックと云う言葉がよく使われていた頃のいくつもの涙のような文様が刻まれていた。

 その男は背振栗太の同級生で飯田光太郎の後輩に当たっていた。背広をきちんと着こなしている。

「七万円」

光太郎がその壺を傾け、眺めすかししながら言った。

「五万円でどうですか」

「まあ、五万円なら夫婦で温泉が二泊だな」飯田かおりは今買って来た茶饅頭を台所に行き、皿の上に載せてふたりの座っている縁側まで運んだ。光太郎は爪楊枝みたいなもので大きく茶饅頭をふたつ割にした。

「飯田かおりさん、お邪魔しています」

突然名前を呼ばれたが飯田かおりはいやな感じがしなかった。その若い男の外見が清潔な感じがしたからだ。飯田かおりはこの男がなぜ光太郎に会いに来たのか思い出した。光太郎の幸福曲線の角度が失墜し始めてから骨董屋からも相手にされなくなっていたがたまたま光太郎はまだ手放していない骨董を持っていることを思い出した。これを売って飯田かおりとふたりで温泉旅行にでも行こうかと云う計画をたてた。いつも生活に追われそれに疲れさせられることからたまには解放されたかった。しかし今の光太郎は骨董屋の信用をすっかり喪失している。そこで後輩で歴史研究室に勤めている貝山と云う後輩にその骨董を売りつける計画をたてた。それは骨董と云うよりも学術的な価値のほうが高いものだった。「好意からただで寄贈してくれる人もたくさんいるんですよ」

「そういうわけにはいかないよ」

もちろん貝山は上田とは系統が違う。外見もきちんとしているし、変人の上田とは違う。遅かれ早かれ地位的には貝山が上田を追い越すのは明らかだった。結局、光太郎の所有している骨董は六万円で貝山が買い上げた。

「でも、三輪田さんはずいぶんと変わったところに住んでいますよね」

貝山は縁側から見える弘法池を見ながら言った。その調子はまるで銭湯につかって看板に描かれている富士山を見ているようだった。光太郎は茶饅頭をさらに半分に切ってその四分の一を自分の口の中にほうりこんだ。「最初、ここに住もうと思っていたのは背振無田夫だったんだ。きみは背振無田夫のことを知っているかい。しかし彼は死んでしまって彼の遺言で僕がここに住むことになったんだ。きみの同級生で背振栗太って知っている。背振無田夫の弟なんだけどね。彼が僕らがここに住むことに当たってすべて周旋してくれたんだよ」

「なにか、ここに住むことでいいことがあるのかな。ここから見える池は弘法池と云うんですか。と云うことは空海と関連していると云うことですか」

「そのことは僕のほうが聞きたいよ。本当に空海がここに来たのだろうか。名前は弘法池と云うことになっているけど」

「空海は僧侶と云う範疇には入らないと思います。だからなにが起こってもおかしくありませんが、空海がなにをしてきたか謎の部分が多いですから、だいたいその密教の修行を始めたと云うのも自分の記憶力を高めるためにやったという話しですからね。僧侶としての一面から高野山で東寺をたてたと云う一面のほかに僧侶でないものに縁の行者の後継者を作ろうとしていたふしもありますから。でもここにやって来たということは信じられないな」

「きみは知っているかな。うちの母校の上田先生もここに移り住んでいるんだよ。ここが学問的に非常に興味があると言って」

その情報は妻の飯田かおりから聞いたものだったが飯田かおりも彼女自身が上田に学術的に興味があると言われたことは言わなかった。上田と云う名前が出て来たので正統な学問の継承者である、貝山はとたんに口をつぐんだ。上田のような変人であり、異端の人物と関わりになることは出来るだけ避けたいと云う意識が働いていた。自分自身も異端として少数者の側にまわされてしまう。それにより経済的、社会的に不利な立場に追いやられてしまうからだ。そして上田の話題をふられた貝山の立場はなんの関係もない、しかしその話しが伝わってしまうかも知れない客に上司の悪口を聞かされている部下のようなものだった。はなはだ自分の立場をどこに持っていけばよいかむずかしい位置に置かれている。もっとも世捨て人のような光太郎の口から貝山の発言が部外者に伝わるとは信じられないが。貝山は話題を変えた。

「いま、これに夢中になっているんですよ」

自分の座布団の横に置かれた青銅でできた板を丸いテーブルの上に上げた。光太郎は少しだけむかしの学生時代を思い出した。

「これがなんなのか、今、学会で最大の謎なんですよ。これがなんに使われていたのか解決できたら学会の最大の話題になりますよ」

貝山の野心は隠されることもなかった。その青銅の板に掘られている図が問題なのだろうか、それともこの板も含めて重要なんだろうか。青銅の板に残されている不思議、それが光太郎の現実をいっときでも忘れさせる。たとえこの情熱が、貝山の情熱なのだがそれが学会での政略的なものがあったとしても、光太郎のほうにバトンタッチされたときには十分に純化されていて、さらに光太郎の学生時代のあまずっぱい感傷の味が加えられている。

「涙が何個か、掘られているみたいだね。韓国のほうの水遊びの道具でこんなものがなにかあったじゃないか。ほら上の方から水を流して花びらがどう流れていくか占うという」

光太郎はその石盤を手にとりながら門外漢の気楽さで思いついたことを言った。

光太郎は背振無田夫が生きていたらこんな問題は簡単に解けるのではないかと思った。貝山はその骨董を持って光太郎の家に六万円を置いて帰って行った。

 飯田かおりは買い物にこの町のメインストリートに来るたびに通りにくい場所がある。建物がある。いつだったか名前のわからない中学生が迷い犬を届けた盆栽のような民家のある線路の向こう側にある場所なのだが安い瀬戸物を売っている店があってそこに瀬戸物を買いに行こうとするとその前を通らなければならない。どちらもあの布袋を収集している旅籠屋とは違って駅からは少し離れた場所にある。

「濡れた夜、一夜妻」「色情狂スチュワーデス、フライト中」とか現代の錦絵が女の裸の写真とともに目に飛び込んでくる。色合いも本物とは遠く、肌色はオレンジがかっているし、ステインで塗られた木の枠の中に収まっているポスターの中の赤いくちびるは何かを言いたいようにこちらを向いている。しかし安い瀬戸物屋へ行こうとするとその看板の前を通らなければならない、そのたびに落ち着かない、そわそわとした不思議な感情におそわれる。どうやって自分の体裁を整えたらいいかと云う感情に似ている。その建物はトタン板を張り合わせて造られていて建物のはじのほうに大きなクーラーが置いてある。建物の側面には毒毒しい看板が扇情的な題をつけて掲げられている。看板の横のほうに入り口があってドアの半分が開かれ、ドアの半分が閉まっている。その横にガラスのたなの中に上映のスケジュールが張られ、その横で券を売っているのだが買う方も売る方もお互いに顔が見えないようになっていて下の方が半円が開かれていてそこで料金と券をやりとりしている。隣りにパチンコ屋があったのだかパチンコ屋はつぶれてそこだけが残った。そのチケット売り場のくすんだカーテンの裏には生気のないくすんだばあさんが座っているのだが買いに来た客はチケットを買ってその中に入らないかぎりそのばあさんの姿を見ることは出来ない。今は息子がそこを経営しているのだが電気代のかかるわりにもうけが少ないのでばあさんはこの商売にうんざりしている。もちろんここはピンク映画館である。飯田かおりはその横を通り過ぎるたびにその看板の色彩のけばけばしさと書いてある題名のあざとさに辟易していた。もちろん飯田かおりはそのなかに入ったことがなかったからその中がどうなっているのかわからない。もぎりを買って入るとすぐわかるのだが中は白々とした蛍光灯が天井から吊されている。外側は厚いトタン屋根が張られているだけなのでその中の太い木材が作る骨組みが構造的に重要なのだがどっかの廃材をもとに作ったらしいのでその材木は黒く汚れている。映画館特有の作りとしてその両側の通路は緩やかな坂になっていてどこからでも座席のある空間に入ることが出来るようになっている。しかしここは小さい映画館だったから真ん中と出口に近いところしか出入り口はない。しかし意外なことはその便所が思ったよりきれいだと云うことだ。その設備がきれいだと云うことではない。きれいに清掃されていると云うことだ。水色のタイルが便所の下一面にはられ、上の壁土はクリーム色をしている。小をたすほうの便器は今はあまり見ない石をけずったものでいっせいにならんで出来るもの、隣りの人間との境はない、大のほうは鎖がついていて鎖を引っ張ると上にたまっているタンクから便器に水が一斉に流れていく。座ると目の前に便所をきれいに使うために半歩前に出ようと云う張り紙が張られている。こういったことは少しパチンコ屋に似ているがこのピンク映画の館主のモットーではなく、便所のきれいなところは多いようだ。飯田かおりはもちろんそこに入ったことがないからそこの便所がどうなっているかと云うことはわからない。またそこの客席と云うのもだいたいが都電の座席のようにエンジ色をしたモールで出来ていてその金具は鋳物で出来ている。客が必要以上に身体をそらせるからばねが壊れている。来ている客も暇な学生、暇な老人、暇な商店主、暇なセールスマン、もちろんポッブコーンや南京豆もあるがもぎりのばあさんやおじさんに直接買うのだ。これは銭湯で番台に座っているおばさんから貝印のひげそりや五ミリリットル入りのビニール袋入りのシャンプーを買うのに似ている。そして上映が始まると近所の喫茶店の広告が入ってそのあと無くなった有楽町の日劇が出てくる時事ニュースが始まったりする。その有楽町と云う地名も織田信長の弟の織田有楽斎がここに住んだことがあるからだと云うことは飯田かおりも知らなかった。本編のほうはどういうものかと云うと、光太郎はここに来てから一度だけ見に行ったことがあるのだがスペインで作られた映画だった。なぜか人類がほとんど死滅していて海岸にはだかの男ふたりと女がひとりいる。海岸にはなにかの測候所のようなものが残っている。このままでは人類が完全に死滅してしまい人類存亡の危機だと思った三人はその測候所でセックスをすることにする。その測候所は下は車の車庫のようになっていてはしごで上のほうに登っていけるようになっていたので、もしかしたらそこは消防署だったのかも知れない。三人の男女はそこに登って行き、人類存続のために観測機械の中でセックスをしようとする。子孫を生産しなければならないと云う崇高な使命に燃えながら。しかし哺乳類最後の生き残りは彼らだけではなかった。突然、雌犬に飢えた雄犬がそこにやって来て人間たちのセックスを妨害してその女を狙うのだ。その犬と云うのも大きくて人間がかなわないような犬だった。その犬と人間との追いかけごっこ、つまり人間たちがセックスをしようとすると犬が妨害に入る。光太郎はそれを見ながら自分が他の惑星に降り立ったような気がしたのだが、飯田かおりはもちろんそんなことを知らない。

 飯田かおりはそのピンク映画館の入り口を見たいような不愉快なような複雑な感情を持って通り過ぎようとした。すると入り口のところでもぎりのばあさんに絞られている中学生がいる。よく見ると飯田かおりを助けてくれた中学生だった。

 親につれられておめかしをして写真館につれられて来たあやつり人形のような雰囲気に変わりはない。それが醤油で煮染めたようなばあさんの前でしぼられて小さくなっている。中学生も小さいほうだがばあさんも小さいので釣り合いはとれていた。ばあさんの声から発せられるガミガミと云う声が見えるようだった。ふだんは解けかかったアイスクリームのようにもぎりの受付のところであくびをかみ殺して座っているばあさんだったがこの日は元気が良かった。万引きをつかまえたときの駄菓子屋のばあさんに似ている。近所の子供が三輪車を運転しながらふたりのそばを通ってその顔を見あげた。中学生はやはり顔をうつむいている。

「まったく、中学一年生のくせになんだろうね。このガキは。中学生のくせに見られるわけがないだろう。高校生ならまだ話がわかるけど。親を呼び出すよ」

「・・・・・・・・・」

「だいたい、ただでここに入ろうと云うのがあつかましいんだよ。担任の先生の名前はなんと云うんだい。これは先生にうんと叱ってもらわなければならないよ。まったく、もう、なんか、お言いよ。この快楽亭ブラックのあやつり人形めが。親が見に映画館のなかにいるから入らせてくれって、あつかましいんだよ」

「・・・・・・・・」

「もう、なんか、言うんだよ。どこの子なんだい。言わないと警察に言うよ。このできそこないのマルコメ坊主が」

ばあさんの罵倒はとどまるところを知らなかった。その言葉に中学生が反論することもない。どうやら知り合いが中にいるからこのピンク映画館の中に入れてくれと中学生はばあさんを騙そうとしたらしい。

 映画館の入り口の向こうには碧める柳の並木が続き、その向こうには廃材となった木製の枕木を並べて作った線路の柵が続き、柵の裏側には小豆色をした列車が停まっている。入り口は夜になるとつける赤、青、黄色と三色の電球がレースの縁飾りのように飾り付けられているがまだ昼間なので点灯はしていなかった。この春の日ののどかな風物の中にばあさんと中学生が中心にいる。

 いざ鎌倉。こんな文句を飯田かおりはどこかで覚えていたが、ここで使わなくてはどこで使えるか。

 「この子は知り合いなんですが。この子の知り合いがこの映画館の中にいるんです。本当なんです。それで用があって中に入りたいんです。この子とわたしのふたり分の料金を払いますから中に入れてくれませんか」

「鑑賞券さえ買ってもらえればなんの異存もないさ」

ばあさんのガードは意外に簡単だった。金を払って飯田かおりと中学生はそのピンク映画館の中に入ることにした。入り口のドアの裏側に、壊れかけた傘立てが置いてあって客が忘れていったのか安物の傘が五、六本立てかけてあった。入ってすぐのところの通路の壁に花畑で女の子が花をつんでいる、そのうしろに顔を縫い合わせた人造人間が立っている映画のポスターが張られている。ピンク映画館でなぜこんなポスターが貼られているのか飯田かおりにはわからなかったが一般の映画も上映されることがあるらしい。そのポスターの下のほうには人造人間フランケンシュタインと書かれている。飯田かおりはそのポスターをちらりと見ただけだった。自分でもなんでこんな行動をとったのか、飯田かおりはよくわからなかった。飯田かおりが中に入って行くと中学生はうれしいのか悲しいのかわからないがとにかく中について来た。映画のほうは上映中で中は暗い。暗い中でぼんやりと見えるがぽつぽつと観客はいる。だいたいが座席の背もたれの上のところに頭がある。みんなが足をさきのほうにのばして寝ている姿勢をとっていることの証拠だった。飯田かおりと中学生は並んであいている座席に腰をおろした。ようよう暗闇に目が慣れてくると座席のほうもなんとか見えてくる。近所の年寄りが座っている。授業をさぼった学生らしいのが座っている。前のほうではまだ十代らしい若者で恋人らしいのが座っていることに飯田かおりは驚いた。

 スクリーンのもとを霧のかたまりのような光のつぶの三角の頂点のほうに戻ると映写室があって映写機から光りのつぶが客席のほうに放射されている。映写室のなかでは人影がちらちらとしていてそれが映写機を操作している技師だろう。光のつぶの量が増えたり減ったりして画面が明るくなったり、暗くなったりして客席も明るくなったり、暗くなったりする。飯田かおりはスクリーンの横にぼんやりと見える旅館の看板に興味があった。雪見灯籠と旅館の建物が描かれている。それは千亀亭かも知れない。自分の家の台所から見えるその姿をなんとなく彷彿とさせる。映画館の両脇におかれたスピーカーからは俳優の声が少し割れて聞こえる。スクリーンの中には突如として海に面している見たことのないような建物が出てきた。海が見えたのはスクリーンの両脇にその建物が建っていて真ん中が抜けていて海に面していたからである。その建物はアールヌーボー調というのだろうか。それが実際の建物ではないことは平面的な感じとなんとなく線がぼやけていることから飯田かおりにもわかった。実はそれは特殊効果のための絵でもなんでもなくて実際の絵で画面が変わって高校生がその絵を描いている場面だった。横にいる中学生を見ると食い入るようにしてスクリーンに見入っている。

 飯田かおりはなんでこの中学生がこんなものを見たがるのか理解できない。スクリーンの中ではなまこがからみあっている。たしかにその年の頃、飯田かおりにも性欲があった。しかし少し違っていたような気もする。そこで飯田かおりはある考えが浮かんだ。きっとこの中学生は初恋をしているのだ。そのやり場のない思いがこの中学生を動かしてこんな行動を起こしているのではないかと思った。きっとこの中学生は同じクラスの女の子、そうでなかったら違うクラスかも知れないが好きな女の子がいるんだ。だからその思いがこんな行動をとらせているんだ。そう思うと女の裸にこれほど執着しているこの中学生のすがたが微笑ましくもあった。二本立てのその映画を見終わって飯田かおりはその映画館を出た。外はまだ太陽が頭上にきらきらと輝いていて、飯田かおりにめまいを起こさせるような光線をあびせた。飯田かおりは自分の中の平衡感覚が麻痺させられたような気がした。

 映画館のあるほうの道は線路に平行に小川が流れている。小川の土手には柳並木が続き、川から吹く風が心地よい。飯田かおりはこの中学生と並びながら春の土手を歩いた。穏やかになった日の光が飯田かおりの豊かな顔や体を照らし出す。飯田かおりの肉体を語るとき豊かと云う表現がぴったりだった。太っていると云うのとも違う、古代の女神はきっとこんな外観をして地上に現れたに違いない。

その肉体を横に見ながら中学生は生まれたての赤ん坊の視力について学校で習ったことを思い出した。生まれたばかりの赤ん坊は視力と云ってももののかたちを判別する力はなく、明るいか暗いかの光量をはかる力しかない。中学生も自分がそんな赤ん坊のようだと思った。飯田かおりと云う光のかたまりしかないような気がするのだ。いま模写しているルノアールの裸婦像も似ていると思った。学校の美術の時間に習ったことだが、晩年にはルノアールは視力が衰えていて女の身体を光りのかたまりととらえていたのかもしれない。もしかしたら自分は中学生ではあるが飯田かおりを前にして同じ感覚を味わっているとするならルノアールの孫の孫の孫弟子ぐらいかもしれないと思った。その光のかたまりはなにも言わずに前を歩いていく。中学生は半歩遅れて飯田かおりについて来る。

「クラスに好きな女の子がいるの」

中学生はなにも言わなかった。

「じゃあ、違うクラスに好きな女の子がいるんだ」

中学生は無言でやはり飯田かおりのあとを半歩歩いてついて来る。

「いいのよ。白状しなくて、恥ずかしいんでしょう。わたしにも君みたいなころがあったのよ。きみから見たらわたしのようなおばさんが不思議でしょう」

「ううん、おばさんじゃない。おねえさんだべ」

飯田かおりは喜んだ。きわめて単純な飯田かおりだった。

「ありがとう。そう言ってもらえるとうれしいわ」

飯田かおりは首を曲げて中学生の顔を見た。

「おらの本心だべ」

中学生は山のほこらの中に住む小動物のように暗い表情でそう言った。

「君の名前を教えてもらえる」

「田所兵の進」

と中学生は侍のような名前を言う。

「田所くんは絵を描いているの。いつだったか、自転車のチェーンが壊れたときがあったじゃない。君が直してくれたときにわたしあなたの描いた絵を見たのよ。あれはルノアールの模写ね」

「練習だべ」

「絵描きさんになりたいの」

「そう云うわけでもないだべが」

それから田所少年は絵のことを語った。その知識は飯田かおりはよく知らないことばかりだったが、絵画クラブに入っている中学生ぐらいならみんな知っている知識だった。例の忍野八景のような民家のそばにあるトンネルを出たところでふたりの家は別々の方向にあったからそこで別れた。

 いつも降りる一つ手前の駅で光太郎は降りた。そこに地震計を作っている小さな会社があってそこに行くつもりだった。しかし地震計が目的でそこに行くわけではない。貝山の訪問を受けてから骨董品の買い付けをしていた時代のことがまた刺激された。むかし文庫本で読んだ作家の全集を買い揃える心理状態に似ている。刺激された光太郎の心理はまた骨董品に向かった。しかしそれを売り買いする経済状態にはいまはない。そこでもっぱらそれを見ることに方向を変えたのだが、前に見に行った旅籠屋の布袋のことを思い出していた。その前を通ったら旅籠屋の主人のほうから見せてくれたような骨董だったが、不思議とあれを見たとき精神的に落ち着いたことを思い出した。光太郎はまたそれを見たいと思った。そこでその旅籠屋の前を通ったときに主人にそれを見せてほしいとたのむと不思議なことにその布袋を紛失したと言う。盗難にあったのではないかと言うと決してそんなことはないと主人は言って彼自身も不思議がっている。しかし、主人の話によると宗源禅師は十数体の布袋を作って在所のはっきりしているのが十二体、そのうちの七体を旅籠屋が所有していて、もちろん、今は紛失してしまっているのだが、残りの五体は地震計を作っている工場主が持っていると言う。その工場主がどんな履歴でその布袋を手に入れたのかは聞かなかったが隣の田舎町に住んでいると云う話だった。その住所も教えてもらった。そこで勤めの帰りに光太郎は途中下車をしてその工場に行くことにした。そこは光太郎の住む町よりもさらに田舎だった。駅を降りると神社があってその横の道をまっすぐに行くとその工場があるそうだ。田圃の真ん中を走る田舎道を歩いて行くと案の定それらしい建物が建っている。それはどういう手づるで集めて来たのかわからないが鉄道に使われている枕木を集めて作られている建物だった。外観は小さなさいころの上に大きなさいころが乗せられている。力学的に平衡がとれているのかどうだか、光太郎にはわからなかった。その建物の前には蒸気機関車の前の部分を切り取ったのが小さなさいころにくつっいていてそこが出入り口になっているらしかった。奇妙な外観とは別に中にいたのは思慮分別を絵にしたような男だった。中は木の棚が左右に並んでいて部品がたくさんおかれている。そのそばには作業台が置かれているのだがひとりで全部この男が組み立てから調整までおこなっているらしい。これを気象台に納めているそうだ。その調整も地下で行っていると言う。その調整をするのはこの建物の真ん中に下に降りていける階段があってそこに宗源禅師の作った布袋もあると言うので光太郎もその地下室に降りて行った。地下室のランプを持って地下室に降りて行き男は照明のスイッチを入れた。部屋の中はほんのりと明るくなった。部屋の真ん中には大きな大理石のミルク色のテーブルがある。男の話によるとそこで地震計の調節を行うそうだ。その調整には微妙なものがあると言う。まるで地下に潜む腐葉土を食料にしている昆虫のような気が光太郎はした。その横の壁のほうを見ると棚の中に布袋が五体収まっている。薄暗い照明の中で光太郎はそれを鑑賞した。旅籠屋の布袋が紛失したことを知っているかと聞くと男はそのことを知っていると言った。自分は盗まれないように注意していると言う。そしてきっと旅籠屋のほうは盗まれたのに主人がそのことに気づかないのだろうと言った。布袋から少し離れた棚の上に光太郎は見たことがあるものがあるのを発見して驚いた。貝山が光太郎の家に置いていった青銅の板である。光太郎がなぜこれがここにあるのかと聞くと男は自身、骨董や考古学に興味を持っていてこれが今の考古学で一番の関心事だということを知っている、それは貝山の言っていることとまったく同じだった。もちろんこれはレプリカであって本物ではない。そして光太郎の興味のあることをいった。上田がここに訪ねて来たそうである。男は東京から来た偉い考古学者だと思ったのでこの布袋を調査してもらったそうである。上田がどんな学問的目的でここに来たかと云うことは詳しいことはわからないと言った。

 飯田かおりがいやがるのでそのことを言わなかったのだが、あるラジオの放送で樫の木にその村の子供が産まれると渦巻きの彫刻を彫ると云う話が出て来て、その中で上田の弟子にあたる人間の名前が出て来た。光太郎はご飯の上にみそ漬けを上げてお茶をかけ、さらさらと食べていたところでついなにげなしに上田の名前を口に出した。地震計を作っている工場で聞いた話が思い出された。光太郎は飯田かおりに上田がこの町だけでなく隣の町まで行っていろいろな調査をしていると云うことを伝えると飯田かおりは眉をしかめた。光太郎はなにげなく言ったのだが、光太郎はまたあぐらをかいたまま、新聞を広げてその中に顔をうずめた。しかし飯田かおりにとってはそれほど深刻な問題ではないようだった。飯田かおりは急須のふたをあけると腕のすそに注意しながらお湯を注いだ。

「いやだわ。あんな人が近所にいるなんて」

その一言に飯田かおりの気持ちはすべて表れていた。しかしそんな深刻な響きはなかった。飯田かおりは今いれたお茶を光太郎が空けた茶碗の中に注いだ。

「そんなことより」

飯田かおりは笑っている。うれしそうである。

「見たのよ。見たのよ。地主の下平さんを」

そう言った飯田かおりはまだ笑い転げている。よっぽど楽しいことがあったのだろう。飯田かおりの話によると下平は日本人にしては大柄なほうで、大きな卵の上に中くらいの卵を乗せたみたいである。田舎の中学校の校長か神主さんのように見える。飯田かおりが買い物に行く途中で牛を飼っている家がある。飯田かおりがそのそばを通るといつも昼寝をしているような牛が干し草のあいだから冷笑するように飯田かおりのほうを見る。そこを通るときはいつもの田舎のにおいがしているなと云う印象だけではなかった。そこにはいつも牛が小屋の中でのんびりと草を食べているだけなのに今日に限ってそこは人だかりがしていた。買い物かごを持った飯田かおりは人をかきわけて前のほうに進むと見たことのある下平のふたりの娘の姿があった。ふたりの娘は牛小屋の前で太鼓を持って立っている。そのふたりにはさまれるようにしてその神主みたいな男が立っている。男は安物の縦笛を構えていた。ふたりの娘が「父ちゃん、いくよ」と言うとその男は縦笛を吹き始めた。ふたりの娘は太鼓を叩きながら父親の縦笛に合わせて俗謡を歌った。牛の方はその合奏、歌付きを聞いているのかどうだかわからない。

「これをしてもらうと牛の乳の出がよくなるそうですよ」飯田かおりの隣にいた男が飯田かおりが聞かぬ前からそのわけを話した。男は汚れたむぎわら帽をぬいで自分の腹の前あたりに持っている。ふたりの娘はあいかわらずうまいのか下手なのかわからない都々逸か、さのさかわからないような歌を歌っている。

「富士の高嶺に降る雪も、京都ぽんと町に降る雪も・・」

飯田かおりはこれが調子がはずれているが歌謡曲だと云うことがわかった。それでその男が地主の下平だと云うことがわかったのである。その俗謡を歌い終わると牛小屋の主人が出て来て下平に頭を下げると、「これで牛の乳の出がよくなります。うちの牛乳もよく売れます。余ったお金でかたちの良い牛乳瓶を買うつもりです。みんな下平さんのおかげです」とかなんとかわけのわからないことを言って金一封をうやうやしく差し出したそうである。もちろん下平はそれを受け取るとふたりの娘を従えて千亀亭のほうに帰って行った。

 その下平の外観は前に言ったように大小二個のゆで卵を順当に立てて重ねたようなものだった。もちろん小さなほうの卵が頭に当たっていた。神主にも見えるし、田舎の中学の校長にも見える。神主の格好をして結婚式で祝詞をあげていても絵になるだろうし、その神聖な場面ではなく、結婚式のあとで幼い夫婦を自分の家に招いてお茶を飲んでいる姿も似つかわしい。中学の校長だったら桜の花の下で新入生に訓辞を与えているのも、さらにはその任地での勤務の最後の日に、生徒を前にして実は自分は今日がこの学校での最後の日ですとさらりとうち明けて、自分の若い頃の初恋の一端でもひとくさりするとほほえんで教室を後にする。そんな想像をさせる人だった。だから顔には笑いが浮かんでいても表面的なものではなく、心の基底から押し上げて表面に現れたもののようだった。背は日本人の標準よりも大きいだろう。見た目は若い人は知らないかも知れないが俳優や司会をやっていた人物で三国一郎と云う人がいた。いたと言うのはもう死んでしまっていると云うことだが、その人に似ている。

 「じゃあ、神主でもない下平がそんないんちき祈祷師のまねごとをして、酪農農家の乏しいさいふの中から金一封をだまし取ったと言うのかい。大金持ちのくせにずいぶんと因業な奴だな。下平と云う奴は」

光太郎の批評に飯田かおりは居間の片隅のほうに目をやった。そこには真新しい箒とちりとりがオズの魔法使いに出てくる不思議な生き物のようにたたずんでいる。

「そうでもないのよ。下平さんと云う人は。いつだったか、下平さんに自分の屋敷を騙し取られたと言っていた人がいたじゃない。きっとあれは嘘よ。下平さんって思ったよりも気前のいい人よ。その牛小屋に集まった人たちみんなにと言って置いて行ったんですって。わたしもちょうどよかったから貰って来たのよ」

下平はそこに集まったやじうまにあげるために箒やちり取りをたくさん置いて行ったと云う話だ。それもなにか理由があってその理由もこの町に住んでいる人間ならみんな知っているようだったが、飯田かおりはそれを知らなかったし、聞きそびれてしまった。もし下平がそう云った祈祷師のつもりだったら、なんで箒やちり取りと云う些末なものを置いて行ったのだろうか。光太郎にはその信条が理解できなかった。しかし真新しい箒に飯田かおりのそうじ熱は刺激されているらしい。しかし、飯田かおりが箒やちりとりを貰って来たと云うことは掃除の必要を感じていた光太郎には都合が良かった。

「とにかく良かった」

「光太郎さん、なにが良かったの」

「きみがお使いに出ていたあいだに変な動物が来て家の中を汚していったんだよ。ちょうど庭にいて楓の木についた害虫を根気よく捕っていた最中だったんだよ。すぐ気がついて追っ払ったんだけど、足跡がついていたから雑巾でふいたんだけど、取りきれなかったかもしれない」

「変な動物」

「大きなにわとり」

「大きなにわとり」

光太郎は繰り返した。

「大きいってどのくらい大きなにわとりなの」

「ふつうのにわとりの五倍くらいの大きさはある」

「うそ」

「本当」

「うそ」

「本当」

「でも廊下が汚れていると云うのは事実なのよね」

「そう」

「ちょうど良かったわ。午後から掃除をしない。それに居間のある場所を隣の部屋にしたほうがいいわよ。前から光太郎さんはそう言っていたじゃない」

飯田かおりが下平から貰った箒やちりとりを家に持って来たと云うことはふたりにとって好都合だった。

 光太郎の家は池に面して平行に建っている。池に面しては台所や寝室、風呂のある部屋などがある。その反対側は居間と物置のような部屋、それに玄関がある。ふたりは前から話していたのだが、今の居間のある部屋をとなりの物置代わりに使っている部屋に移したらいいのではないかと云うことだ。居間から外を見ると殺風景で道路に接している垣根が見えるだけなのだが、今、物置代わりに使っている部屋を居間にすると外の景色は風情を添えられることになる。梅の木といちいの木が外の景色にうまい具合にそえられて、ちょっとおもしろいかたちの庭石も目の保養になった。それは安物の日本画を見るくらいの効果はあった。ふたりは住むまではそのことに気づかず家財道具の割り振りをしていたのだが、住んでからそのことに気づいた。それでいつかそのうち部屋と云うか家の模様替えをしようと思って来たのに日曜になったら日曜になったでその日はゆっくりと休んでいたかったりしてなかなかその機会がなかった。飯田かおりひとりでその引っ越しをするにしてもなかには重いものもあるのでそういうわけにもいかなかった。今日はふたりが揃っているし、それをしようと思ったのだった。

「じゃあ、午後から一服したら居間の引っ越しも兼ねて、掃除をしようか」

「うん」

「そのとき、廊下をふけばいいよ。そうしたら僕が嘘を言ったのではないと云うことがわかるから」

「そうだ、光太郎さんが貰って来た伊勢屋大福堂の黄金餡餅があったわね。今、戸棚のところから出して来ます」飯田かおりは台所に行くとその菓子を盛って来て、そのあいだに光太郎はお茶を入れた。ふたりでお茶を飲んでいるあいだに台所にも春の風が吹き込んでくる。それは弘法池の面を吹いて来た風だった。今度は食事の支度をすっかりと片づけて丸いちゃぶ台の上には光太郎と飯田かおりの夫婦茶碗がのっている。その上には名前だけはものものしい饅頭ものっていた。

 弘法池のほうから小鳥らしい声が聞こえてくる。小鳥も春ののどかなな陽光を浴びてその喜びを歌っているのかもしれない。この小鳥の声を聞いて土中の虫もはいだしてくるのに違いない。庭木にも小鳥のえさになる木の実も実をふくらませつつある。

 玄関の方から光太郎の家の名字を呼ぶ声が聞こえた。

光太郎が玄関に出ていくとこの建て売りの一軒、おいて隣に住んでいる住人が訪ねて来た。光太郎が玄関に行き、引き戸をあけるとかつて議会の書記係をしていて今は悠々自適の身だと云う老人が光太郎の目の前に立っていた。駅で光太郎はこの老人と話したことがある。それもあたりさわりのない世間話だったが。途中で光太郎の家の前を通ったので立ち寄ったと老人は言った。奥の方から飯田かおりが座布団を出すと老人は上がりかまちに腰をおろした。

「ちょっと三輪田さんにお伺いしたいことがあるんですが」

「なんですか」

「うちの家主さんのお使いが来て、はたきや箒、ちりとりなんかを置いて置いていったんです。これはどういうことなんでしょうかね」

「そうですか。実はうちの家内もそんなそうじ道具の一式をもらってきたんです。それがどういう意味があるのかわからないんですけど」

「三輪田さんの家もそうですか」

「地主の下平さんが牛小屋の前で歌を歌ったときにみんなに配ったそうです」

「どういうおまじないなんでしょうね」

「本当に」

その老人もその意味合いがどんなものなのか知らないようだった。老人も光太郎と同様にこの街に外部から来た人間だったから、この意味を理解していないようだった。老人はすぐにいなくなると思っていたのだがそうではなかった。老人は思いがけないような話題を口に出した。

「わたし、こう見えても劇団をやっているんですが、三輪田さんご夫妻も参加しませんか。いや、素人劇団なんですがね」

そういえば駅で列車を待っているあいだ老人がそんなことを話しているのを聞いたことがあったような気がする。老人の話の内容は以下のごとくだった。老人は書記として毎日、日常の生活に追われていたが、仕事の都合上ある外国人と知り合いになったそうである。その外国人が芝居好きで自分もその影響を受け、いつか芝居と云うものに関わってみたい気持ちがあったのだが、仕事も忙しく、また堅い仕事をしていたので。世間になんと言われるかもしれないと思い、その方の欲望は抑えていたのだったが、そのあいだに芝居のアイデアや構想も浮かぶこともあった。そのあいだ趣味としてそこそこに観劇などをしてお茶をにごしていたのだが、いよいよ書記をやめて自分の自由な時間が増えると、有志をつのって趣味として劇団を始めたのである。

「劇団と云っても五人しかいないのですが」

老人は言った。

「最近、おもしろい芝居の筋を考えたんですよ」

老人は座付き作者でもあるらしい。その老人の考えている話と云うのは宇宙から異星人の女がつるに姿を変えてやって来て仕掛けたわなにかかってけがをして猟師にすくわれるのだが、そしてその恩返しに高価な織物を織って猟師をおおいに富ませると云う展開になっている。しかし見てはいけないと云う機織りの場面を猟師が見たために女は宇宙人に姿を変え、宇宙船にのってふるさとの星に戻ると云う筋書きだそうだ。話は鶴の恩返しに似ているが鶴を異星人にしたことがみそで、鶴よりも異星人の方がいろいろなマジックを使えるのでおもしろいと言った。

「それでその異星人にぴったりな女性がいるんですよ。三輪田さんの奥さんがイメージにぴったりなんですよ。奥さん、やってみませんか」

そばでその話を聞いていた飯田かおりは苦笑いをした。そばで聞いていた光太郎はたしかに飯田かおりにはそんなイメージが、どこかの惑星から降りたって来た異星人のイメージがあると思った。ある意味では平凡ではあるが平凡な中に非凡なものを隠している。だいたい、もしも宇宙人が地球侵略のためにこの国に降りたって来たのだったら、やかんをひっくり返した頭にトカゲの肌を持っていてトンボみたいな目玉をして手足はカエルやイモリのよう、そして真夜中の銀行の前でぺたぺたと歩いている影が異常に長いなんて云うことがあるだろうか。もし異星人が地球に降り立ったなら四角い鞄を手に持って日差しの強い日にはサングラスでもしているだろう。まったく何から何まで人間と同じなら宇宙人の存在理由がないからね。少しは変わったテイストを持たしてやらなければならないと云うことで、しかし、見方によれば地球人だって宇宙人であることもあるんだけど。しかし、いつだったか、駅で飯田かおりをじっと見ていた学生がいたと云う話を聞いていたからそんな話は承知できるはずがない。もしかしたら、飯田かおりのそばにいたいからこの老人がそんな話しをしているのではないかと邪推した。一種の追従に違いないから飯田かおりに気に入られようと思っているのかもしれない。

「いや、イメージにぴったりなんですよ」

そう言った老人の言葉にどこまで純粋なもの

があるのか光太郎にはわからなかった。

 「いやだわ。どこで誰に見られているのかわからないなんて」

飯田かおりはお茶をすすった。

「ただたんに飯田かおりのそばにいたいから、そんな役の話をしているのかもしれないよ」

「うそ」

「本当だよ」

「うそよ」

ふたりがじゃれ合っていると南天の茂みの陰からにゅうと首を伸ばして首を曲げると光太郎の方をにらんだ眼があった。光太郎はむかしこんなものを見たことがあると思った。怪獣映画である。ビルの高層の一部屋に閉じこめられている主人公が正気を取り戻してむっくりと起きあがると窓の外から巨大な瞳がこっちを見て通り過ぎて行く、主人公は肝を冷やすのだった。それが原子の灰を浴びて凶暴化した巨大怪獣ではなくて、ふつうの五倍はあろうかと思えるにわとりだった。

「あれだよ。あれだよ。あいつが廊下にあがって来て汚したんだよ」

光太郎は風呂場でごきぶりに出会ったようにうろたえた。巨大なにわとりは茂みの陰から急にスタートを切ると光太郎たちが憩いでいる居間のほうに向かって突進してきた。

「わわむ」

光太郎はわけのわからない奇声を発し、飯田かおりは目を丸くして言葉を失った。そのときするどい言葉が発せられた。

「おやめ。筑紫の国の宮津湖岩井の蘭子」

南天の茂みの逆の方に大きな庭石があってその陰からふたりの女の子が顔を出した。ふたりは顔を見合わせてくつくつと笑った。

「ついに見つけたべ」

「ついに見つけたべ」

巨大なにわとりは首をきゅるきゅると回し首の筋肉をほぐしているようだった。

そしてふたりは居間の方で凝視しているふたりの方にぺこりと頭を下げた。

「迷惑をかけたべ」

「迷惑をかけたべ」

にわとりはじっとして動かない。

「どういうこと」

「ここにお饅頭があるからお食べなさい。こっちに来て」

飯田かおりは手招きをするとふたりの女の子は居間のほうにやって来た。にわとりもやって来ようとしたが、ふたりの女の子がまた厳しく叱責したので、静止した。このふたりはもちろん下平のふたりの娘である。彼女たちは縁側から居間にあがると饅頭に手を伸ばしてむしゃむしゃと食べ始めた。

「あのにわとり、筑紫の国の宮津湖岩井の蘭子と云うの。じゃあ、女の子ね」

「男の子だべ。昔は男でもなになに子と呼んだんだべ」

「そうだべ。生まれたときそういう名前をつけられたんだべ。もう筑紫の国の宮津湖岩井の蘭子は千二百年も生きているだべ」

 けふ。光太郎は意味もなくげっぷをした。光太郎はまた始まったと思った。いたち柱の伝説といい、もぐら神の花畑にしろ、作り話が多すぎると思った。この街は。にわとりが千二百年も生きるわけがないではないか。しかし、こんな大きなにわとりを放し飼いにするのは、風紀上よくない。第一、にわとりはどこででもふんをする。

「考えていることがわかるだべ。にわとりはどこででもふんをする。だから汚いと思っているだべ」

光太郎は目を丸くした。

「図星だべ」

するともうひとりの娘のほうが空を仰いで、流れゆく雲を指さした。

「天に雲、流れゆく風、そしてどんな不吉な暗雲が立ちこめていても、流れる風は不吉な雲を吹き払うだべ」

そしてもうひとりの娘のほうが地を指さした。

「地に人、人に畑、と野良仕事。人は畑を耕して、かぼちゃやキャベツを作るだべ」

「キャベツにロールキャベツ、人はロールキャベツを食べて、お仕事に出かけるべ」

「お仕事に出かけた人は自動販売機で缶ジュースを飲むだべ。そして空き缶を捨てるだべ。空き缶はゴミになるだべ」

「そして人に庭、庭ににわとりだべ」

「どういうこと」

飯田かおりも光太郎のように目を丸くした。下平の娘の言っていることの要領が得ない。

「そもそも、この鳥は宮中に参上していただべ。宮中の庭にいたからにわとりと云うだべ。筑紫の国の宮津湖岩井の蘭子は宮中でおそうじ係をしていただべ」

ふたりの娘がそう言うと巨大なにわとりはそうだ、そうだ、と云うように首を縦に振った。国によっては首を縦にふることが非同意の意志表示であり、横に振ることが同意の意志表示だったりするから、このとりは日本の文化圏の中で生息していると云うことを意味している。

「だから蘭子はおそうじ好きだべ。うちのお掃除も全部蘭子が担当しているだべ。箒やちりとりをみんなに配った意味がわからなかったかもしれないだべ。いつもこの街のお掃除を蘭子に頼んでいるから、今日は蘭子のお休みの日だべ。蘭子の日頃の感謝の意味でみんなにちり取りや箒を配っているだべ」

そこでまたにわとりは首を縦に振った。

「嘘だ」

光太郎が突然、叫ぶと、にわとりは激しい威嚇の視線を向けたので光太郎はたじろいだ。そして小声でまた嘘だとつぶやいた。するといやにゆとりのある態度でふたりの娘は光太郎を諭すような視線を投げかけた。

「嘘ではないだべ」

「そのにわとりが廊下を汚したんだよう」

光太郎はほとんど子供のようだった。するとふたりの娘は今度はポケットの中からくちゃくちゃに丸まったえんじ色の布きれを取り出すと、それ広げた。それは針山のようでもあり、ミシンの足カバーのようでもある。また色のついたてるてる坊主のようでもある。

「蘭子」

光太郎と飯田かおりは縁側に出ていたのだが、その縁側ににわとりは腰掛けると庭のほうに足を投げ出した。

飯田かおりはこんな光景をどこかで見たことがある。そうだ、よく小さな子供が列車に乗ると窓際の席に座って靴を脱いで窓から移りゆく外の景色を眺めたりする。それでもって降りる駅に近づくと今度は母親が脱ぎ捨てた靴を拾い上げて子供にはかせたりするのだ。

その様子はちょうどそんな様子に見える。

「蘭子は人間のように指がないからふき掃除のときはおらたちがこうやって蘭子を助けてあげるだべ」

にわとりの足にミシンの足袋をはかせた。それからもう一つの布きれを餌をあげるように差し出すと蘭子はそれを加えた。

「蘭子、掃除開始だべ」

「蘭子、掃除開始だべ」

中にモーターが入っているようににわとりは首を前後に動かしながら廊下のふき掃除を始める。にわとりはおしりをこちらに向けていた。くちばしにくわえている布で廊下を掃除しているのではない。足にはいている布ぶくろで床も磨いているのだ。にわとりは疲れを知らない運動を続けている。

 光太郎はこのにわとりの年齢が千二百歳かどうかはともかくこの街の掃除をしていることは認めなければならなかった。

このにわとりの謝意を表すために地主の下平がこの街の住人に掃除の道具の一式を送っていることも。

「よかったわね。光太郎さん、これで廊下もきれいになるわ」

「蘭子はこのくらいの掃除はへの河童だべ。掃除の途中だったなら、おら達と蘭子で掃除を手伝うだべ」

「ちょうどいいじゃないの。光太郎さん、この三人に掃除を手伝ってもらいましょうよ」

「三人ではないだろう」

光太郎はぶつぶつと言った。

「それに掃除じゃないよ。引っ越しだろう」

「引っ越しも手伝うだべ。ものを運ぶのはおら達がやるべ。箪笥なんかを運んだあとにほこりであとが出来ていたりするだべ。そこのふき掃除は蘭子にやらせるだべ。本当は蘭子はゴミをひろうのが上手だべ」

「そうだべ」

「そう、じゃあ、始めましょうか」

飯田かおりはいつの間にか姉様かぶりをして手にははたきを持っている。飯田かおりの姿はいまにも踊り出しそうだった。

「まず、今度から居間にするほうの部屋を掃除するから、わたしははたきをかけるから、ふたりは箒で部屋の中をはいてちょうだい。それから、筑紫の国の、ええと筑紫の国の」

「筑紫の国の宮津湖岩井の蘭子だべ。蘭子はおら達以外の人間には正確に名前を呼ばなければ言うことを聞かないだべ」

「筑紫の国の宮津湖岩井の蘭子さんね。あなたは私たちがその部屋を掃いたら畳を水拭きしてちょうだい」

するとこの巨大なにわとりは首をこくりこくりと傾けた。

「ええと、それから、光太郎さんは、もとの居間の部屋の移動する荷物を整理していてちょうだい。私たちが新しい部屋の掃除が終わったら一緒に運びましょうよ」

飯田かおりは野城を造る現場監督のようだった。むかしの豊臣秀吉もこんなふうにして一夜で山の中に陣地を作ったのかもしれない。春の日が縁側を照らしている。飯田かおりの声は春の日のように若やいでいる。光太郎は冬眠中の穴熊のようにもとの居間に戻った。新しくなる居間のほうには飯田かおりを先頭にしてふたりの娘とにわとりがブレーメンの音楽家のように入って行った。光太郎はもとの居間のほうに戻るとそこには整理されていない他人から見たらがらくたとしか言いようのないものが組み立て式の本箱なんかに積み重なっている。そしてそのうしろの木箱の中には乱雑にやはりわけのわからないものが積み重なって置いてあった。新しい居間になる部屋のほうでは飯田かおりたちが忙しく働いている。しかし、仕事とはいえない。なぜだって、仕事と云うのは休みの日以外にやるものだからさ。そしてやった褒美にお金がもらえるものだからさ。これはやってもお金ももらえないし、出世するわけでもない。でももっとなにかをもらえるかもしれない。

それは春の日のぬくもりか。

飯田かおりには春の日のぬくもりがぴったりとしている。

光太郎はお目付役がいないので木箱の中をあさってみた。するとまたわけのわからないものが中から出て来た。

 それは木で出来た自動車である。黄色の車体に緑に塗られたおりがくっついている。そのおりの中にはさいが入っている。それが手のひらにのるぐらいの大きさでさいにはたこ糸がついていてさいを引っ張ると中の動力になっているゴムを巻くようになつている。アフリカの狩猟用のトラックをおもちゃにしたようだった。光太郎がそれを畳の上に置いてみるとサファリ用のトラックはするすると動き出しておりの中にさいが入っていった。光太郎はなぜこんなものを持っていたのかよくわからなかった。しかしすぐに思い出した。いつだったか、動物園に行ったとき、大きなキャラメルを買ったことがある。キャラメルが大きいのではなくて箱が大きいと云うことなのだが、その中に入っていた自動車のおもちゃだ。それから木の箱をさらに探っていくとレコードが入っている。レコードのジャケットは色あせていたがレコードに写っているアイドル歌手の顔は輝いていた。その下にもう一枚レコードが入っている。タイトルは君の瞳は百万ボルトと書かれている。光太郎は高校時代の頃を思い出した。そう言えばそんな歌がよくかかっていた。百万ボルトの電気ショックを与えるような瞳はどんな瞳なんだろうと思った。光太郎はそのレコードをかけてみたいと思ったが電蓄がなかったのであきらめた。

 それから組み立て式の本箱のほうを見るとなぜこんなものを持っていたのだろうかと云う本があった。本と云うよりも正確に言えば図鑑である。白黒ではあるが写真がたくさんのっている。

 世界の産業と題が書かれている。子供用の辞典だった。印刷の半分は写真になっている。あるページをあけると水路があってその上を船が走っている写真が載っている。

 また違うページをあけると大きな風車が風を受けて回っている写真が載っている。

 今度は新しいページをあけると見開きでページいっぱいにトウモロコシ畑が写っている。トウモロコシは秋の日の中に実をつけてたわわに風に揺れているようだった。

 光太郎はふとうしろから誰かの視線を感じた。あつい息を首筋あたりにふきかけられた。そして喜びに満ちたうなり声が聞こえた。光太郎が振り返るとそれと目があった。にやにやしている。くちばしからは激しく息をふいている。トウモロコシ畑の写真を見ながら興奮している蘭子の姿があった。

「まあ」

「まあ」

「まあ」

三人の声が聞こえた。

「光太郎さん、なにしているの」

「蘭子、なにしているだべ」

「蘭子、なにしているだべ」

ひとりは光太郎にふたりは筑紫の国の宮津湖岩井の蘭子に叱責の声をあげた。

「ぼくがこの写真を見ていたら、にわとりがうしろからのぞき込んでくるんだよ」

にわとりはまだそのトウモロコシ畑をじっと見つめている。このにわとりがなにを想像しているかはあきらかだった。しかし、いろいろな作物の残っているこの街で放し飼いにされているこの巨大なにわとりに畑を荒らされたと云う被害届けがやって来ないと云うことはにわとりと云え、しつけがきちんと出来ているのだろう、このふたりの娘はあっぱれである。さもなければにわとりのくせに農家の作った作物を勝手に食べてはいけないと云う道徳律がその自己の中に存在しているとすればこのにわとりこそがまことにあっぱれなことである。なるほど宮中に参上していたと云うことが事実だと認めなければならない。

「まあ」

「まあだべ」

「まあだべ」

いつか飯田かおりは光太郎の横に座っている。

「ここは」

光太郎はページをさらにめくってみた。運河の中から赤、青、黄色、白の飴棒をねじって作ったようなともづなを結ぶ棒の水面から突き出ている運河の写真が出ている。オペラの大道具にでも出てきそうな船が浮かんでいる。

「ここは」

飯田かおりは甘えたような声を出し、その写真を指で指した。

「ベニス」

その写真の下の隅のほうには小さくスパゲッティの写真が載っている。ふたりと一羽はその部分をじっと見ていた。

「運河で建物を結んでいるんだ。アドリア海の女王、ベニスを見ないうちは死ぬなってね」

光太郎はうろ覚えの知識を頭のどこかから引っ張り出してきた。

「行ってみたいわ」

「そのうち行けるよ」

「食べてみたいだべ」

「食べてみたいだべ」

「コケコッコー」

飯田かおりのうなじのあたりは光太郎の眼下にある。飯田かおりの耳のうしろあたりにある後れ毛もはっきりと見える。飯田かおりはその写真に心を奪われているようだったし、光太郎に身も心もゆだねているようだった。そこには女と云う肉のかたまりがあった。においのかたまりがあった。同じページにのっているふたつの対象物に心を奪われている存在がある。ひとつはベニスのゴンドラに、そしてもうひとつはスパゲッティ、ペスカトーラに、そしてもうひとつは女に。

 女は首をねじって光太郎のほうを見た。高校生ぐらいの乙女のように見える。

「行きましょうよ」

「行く」

「食べるだべ」

「食べるだべ」

「コケコッコー」

光太郎の印象にはほほえみだけが花びらのように残る。

光太郎はいつもの自己の幸福理論をすっかりと忘れていた。幸福曲線もすっかりと忘れていた。飯田かおりがさげまん女ではないかと云う懐疑もなくなっていた。幸福とはなんだろうと光太郎は思った。自分が不幸だというのは間違った解釈ではなかろうか。幸福と云うと運命、運命と云うと時間の流れがある。運命は外からやってくる。幸福は自己の中心がその発生場所だ。しかし、ここには時間の流れはない。外と内の区別もない。だいたいが自己と云うものがないのだ。ここには眩惑がある。眩惑と云う現象だけが。そして飯田かおりと云う時間の流れに対する点が、女と云う肉体がある。そして強い興奮が。

 それから引っ越しはひととおりにすんだ。「今日は手伝ってくれてありがとう」

丸いちゃぶ台を囲んでふたりの娘とにわとりは塩水につけられたあさりのように飯田かおりのほうを見つめた。出水管と入水管を出し入れしている。飯田かおりは珍しい果物の皮をむいた。台所のほうではお釜が湯気を噴いている。玄関のほうでまたよびかける声が聞こえた。光太郎が出ていくと劇団をやっていると云うもと書記が都心のほうに行って戻って来たらしい。なにか買って来ておすそわけだと言っている。そして玄関の閉まる音がして光太郎は戻って来た。飯田かおりは釜にかけていたご飯が炊き終わったので台所に行った。飯田かおりと光太郎はふたりの娘とにわとりに晩ご飯をごちそうするつもりだった。もちろん引っ越しを手伝ってくれたお礼にである。ふたりと一羽が丸いちゃぶ台の前に座っていると湯気のあがっているご飯のもられている三つの茶碗を持って飯田かおりがやってきた。その茶碗は外側には海のような青色の上薬を塗られて焼き上げられていてその中は乳白色でつるつるしている。茶碗の中はつやのあるご飯が湯気をたてていた。飯田かおりはちゃぶ台の上に茶碗を三つおいた。

 するとふたりの娘と一羽のにわとりははしを取ってご飯の上に置かれて置かれている柔らかい芥子明太子をはしで圧力をかけてみた。はしで押されている芥子明太子の部分は復元力を見せずにげんなりとへこんだので彼らは驚愕と危惧と見たことのないものに対する畏怖でその表情は一瞬凍り付いた。そしてあらためてその茶碗にのったものをおそるおそる見つめた。

「お猿の指がのっているだべ」

「お猿の指がのっているだべ」

「コケコッコー」

ふたりと一羽はうろたえていた。

その口調にはあきらかに当惑のいろが含まれている。

飯田かおりはおかしさに声をたてて笑った。

「これはね、辛子明太子と云うものなの」

ふたりと一羽ははしでそのお猿の指をつついていたがぱくりと口に運んだ。それからご飯を口の中に運んだ。これを気にいったのか、彼らはそれぞれ五杯もおかわりをした。その辛子明太子はもと書記が都心に行って買って来たものだった。彼らは芥子明太子をそれぞれ五本も平らげた。

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