第3話
第三回
古代と云う時間を押し固めたビルのかどを横に曲がった道を入って行くとその店はあった。その銀座のビルがなにかの博物館でその中に古代の海竜や巨大な貝の展示物があると云うわけではない。そのビルのかどにあたっている部分がコンクリートや大理石ではなく、何万年もむかしの海底にうごめいていた大きな海虫や海の中を漂っている動物性の小動物が化石となって石の中に埋め込まれている薄い緑色の花崗せんりょく岩がその建物のかどにデザイン上の理由から使われていたからである。
その道には柳並木が植えられていて春のぬくもりに揺り動かされて新しい芽がふいていた。
その道を数メートル行くと大きなガラス張りの四角い出窓の中に金色のぴかぴかした機械が置かれていて自動でそれは動いている。小さな陸上競技のようなトラックのようなところに沿って自転車のチェーンのようなものが貼られていてそのチェーンには等間隔に金色の柄杓がついている。それが百足の足のように動いて、ある場所では上からつるされている絞り口からクリームが絞り出される。それが歩いて行くと上下を灼熱地獄のトンネルの中を通って、あぶられて、一周の旅が終わると滑り台に乗せられて箱の中を滑り降りて行く。そこで旅は終わりと云うわけだ。
光太郎はその様子をじっと見ている。その横には飯田かおりがハンドバックを手にぶら下げて彼女のほうは光太郎を見ていた。
「ずいぶんうまい仕組みね」
「見ているだけでもおもしろいよ」
その機械はまるで生き物のようだった。その機械の奥のほうに熱帯魚の水槽の中のような客席が見える。飯田かおりは両手で前にハンドバッグを持ってその店ののれんを見た。
「ずいぶんとはやっているようですね」
「そうみたいだね」
のれんには背振屋と紺の地の木綿に白い文字で染め抜かれている。店の中では白い割烹着を着た従業員が男がひとり、女が三人ほど働いている。その中の女のひとりが男の妻らしいことがわかる。男も女もまだ二十代の前半のようだった。遠くから見ていてもその組み合わせがうまくいっているようなのがわかったので飯田かおりは「わたしたちもこんなお商売をやってもいいわね」と言うと光太郎は「あんなに如才よく立ち回れないよ」と言った。光太郎と飯田かおりが手でのれんをはねあげて中に入ると店の中の若い男は白い歯をみせてにっこりとした。
「三輪田さん」
そばにいた彼の妻らしい女の方を振り向いた。
「ちょっと出掛けてくるから」
午後の二時を過ぎていたので客の数は減り始めていた。
「いつものところにいるから」
その若い男はふたりつれてなじみのレストランにつれて行った。女はぺこりと光太郎と飯田かおりに向かって頭を下げた。
「いつもの奴を三人前」
「栗ちゃん、おはよう」
顔なじみらしい喫茶店のウェートレスが若い男に声をかけた。
「今度、くろがね温泉とうちの町会が提携するんでしょう。かずちゃんが言っていたけど来月には視察旅行に行くんですって、わたしも行きたいわ。栗ちゃんからも頼んでよ」
「俺にそんな力があるわけないだろう」
そう言って若い男はまた白い歯を見せて笑った。
「じゃあね」
ウェートレスは右手を動物の影絵をやるように変なかたちを作ってその口のところをぱくぱくと動かしてそこを離れた。女の顔の愛嬌だけがそこに残った。
「なかなか、商売も繁盛しているようじゃないですか」
「そうでもないですよ」
「でもいい奥さんを貰ったね。愛想がよくて、白い割烹着がすっかりと板についているよ」
「まあ、どっちかと言うと向いていると思います。彼女の実家も食べ物屋をやっていますからね。和菓子屋なんですけど。そちらが飯田かおりさんですか。どうぞよろしく」
若い男はテーブルをはさんで頭を下げた。そこで若い男はまた白い歯を見せて笑った。誰に対しても白い歯を見せてこの若い男は笑うようだった。それが作ったものではなく生まれついた性質だということは飯田かおりにもわかった。
「そのせつはお世話になりました」
光太郎はあらためて若い男に頭を下げた。
「いや、兄貴の意志を実現させただけですよ。でも、住み心地はどうですか」
「とってもいい場所ですわ」
飯田かおりが顔を上げながら微笑んだ。
「でも君が僕たちの住む場所を周旋してくれるとは思わなかったよ」
「兄が何年も前からあの場所を探していたんですね。今思うと。もしかしたら十年ぐらい前からあの場所を探していたのかも知れない。それぐらいの価値はありましたか」
「あったよ。なにしろあそこにはれんげ平と云う場所があってね。もぐら神と云う神様が住んでいると云う話なんだ」
「もぐら神ですか」
「それからいたち柱という柱があるんだ」
ここで若い男は笑いだした。光太郎の知っている人付き合いのあまりない、人をさけるところのあった背振無田夫にこんなさわやかな弟があると云うことは不思議だった。遺伝の不思議だと云うべきだろうか。背振無田夫と栗太のふたりの兄弟は血のつながった兄弟だった。弟の背振栗太は銀座にあるこの実家で小判焼きを名物にしている和風喫茶でこのあたりの若檀那として自分の役割を守っている。背振無田夫はその役割を放棄していた。そして最近商売上手なふたつ下の女房を貰って商売も繁盛していた。
光太郎はいつだったか、千亀亭のもとの主人と云う男の話をきっかけにして妻の飯田かおりを泣かした。それが決して妻の飯田かおりを傷つけるためにふとんの中で調べものをしていたのではないと云うことを言いたいがために飯田かおりをつれて背振無田夫の弟に会いに来たのかも知れなかった。弘法池のほとりの彼らの家の購入にあたっては金を出したのはもちろん光太郎だったがその差配をしたのはすべてこの弟である。そしてこの弟がふともらした話しのきれはしによると十年も前からあの場所を光太郎たちの住処だと背振無田夫は決めていたらしい。もちろん最初から光太郎がそこに住むこと希望していたのではないだろうが。
「十年も前からあそこをわたしたちの住む場所だとお兄さんは決めていたんですか」
飯田かおりは驚いた顔を背振栗太に向けた。
「兄貴に会ったことは」
背振栗太が飯田かおりのほうに声をかけると、
「一度だけ」と飯田かおりは恥ずかしそうに答えた。
「光太郎さんたちがそこに住むことになるだろうと仮定して弘法池を見付けたのではないでしょう。いつか住むならそこに住もうと兄貴は思っていたんだと思います。死んだ兄貴の遺品を整理していたら、そんな遺言が出て来たんです」
その遺言のことは光太郎は知っていたが、飯田かおりはそのことを知らなかった。栗太が実際家を購入するときそういう遺言があることを光太郎に教えたのだ。その内容をかいつまんで話すとこういうことになる。
「住むによい場所を俺は見付けた。千葉に弘法池と云う池がある。その池のたもとには千亀亭と云う料理屋がある。俺はいつかそこに住まいを構えて住みたいと思っている。しかし、俺がどんなことがおこって死んでしまうと云う可能性もないではない。もし、そうしたら弟よ、俺には無二の親友の飯田光太郎と云う男がいることを知っているだろう。飯田光太郎をそこに住まわしてくれ、と書かれた手紙が絹地の封筒の中に入っているのを見付けたのですよ」
光太郎は少し得意そうな顔をした。飯田かおりは少し複雑な顔をした。飯田かおりは一度だけ背振無田夫に会ったことがある。その野球の三角ベースのような顔にかけられたロイド眼鏡の奥の目は飯田かおりに敵愾心のようなものを持っているような気がしたのである。
「こんなに心の通じ合っている友達を持てたなんて兄貴に嫉妬しますよ。僕なんか友達はたくさんいるんですが底の浅い連中ばかりで。あの人付き合いの悪い兄貴がよく光太郎さんのような友達を見付けられたなとびっくりしているんですよ」
「本当になぜだろう。きみの兄さんはいつもなにかを考えているようだった。小さいころからその考えにとりつかれているようだった。それが兄さんの心の中の中心になっていてそれ以外のことは何も存在していないも同様だった。兄さんの人生の目的もそこにあったのかも知れない。しかし、それがどんなものなのか僕にも言わなかったのだよ。でも本当に子どものころからそれを見付けていたのかも知れない。だから、一直線にそれだけを追求していったのかも知れない、そのことがいつも頭の中にあったから、あんな気むずかしい顔をしてひとりで道を歩いていたのかも知れない」
光太郎はその背振無田夫の捜しているなにものかが自分にとっての飯田かおりに当たっているのだろうかと思った。そしてそのときなぜだかわからないが光太郎の頭の中には緑色の林に囲まれた中に花の咲き誇るお花畑の映像が浮かび上がった。それからどこかの海が出てきてその海の中から一匹の魚が飛び跳ねて空中に上がるとその魚が急に大きくなってその丸い黒い水晶玉が自分のこころの中の映像の中で巨大になって三分の二ぐらいの大きさをしめるぐらいになった。
「そのことに関連したことだけどね。少し気になることがあったんだ。駅前に大きな食堂があるんだけどそこで飯田かおりといっしょに小豆アイスを食べていたときに変なおじいさんが近寄って来て言ったんだ。千亀亭のもとの主人だと名乗ってあの男に千亀亭も弘法池も騙し取られたと言うんだ。不当に安い値段で不動産をだまし取られたと主張していた。それもいたち柱なんて云うもっともらしい言い伝えを持ち出してきてね」
「いたち柱ってなんですか」
栗太が首を伸ばしてそのことを聞くと飯田かおりは複雑な表情をした。
「戌年の女とかかわると千亀亭の人間は不幸になると云う伝説らしいよ。どこまで本当かわからないけど、きみは下平と云う地主があそこらへんをいくらで買いとったのかわかるかい」
「そこまではわかりません」
背振栗太の答えは明快だった。光太郎はその地主に会わなかったことが悔やまれた。
「下平と云う地主はどんな人」
「小太りで恰幅のいい人ですよ。万葉風の和歌を詠むと云うことを聞いたことがあります。たしか奥さんと可愛いふたりの女の子がいたんじゃないですか」
光太郎も飯田かおりもそのふたりの娘を見たことがあるが可愛いと云う表現には微妙なずれがあるような気がする。
光太郎と飯田かおりはそこで栗太と別れようと思ったが栗太はぜひ光太郎に持って行って欲しいものがあるので実家に立ち寄ってくれと言う。そこでふたりは無田夫の実家に戻った。そこでは栗太の妻が忙しく働いていた。店の裏口から入ってそこで待っていると栗太は風呂敷包みを持って来た。
「これを上田先生のところに持って行って欲しいんです。兄貴の遺品を整理していたら出て来たんです。光太郎さんの言った兄貴が子どものときから見付けたものの記録らしいんです。僕が持って行くより、面識のある光太郎さんが持って行くほうがいいでしょう」
光太郎ははなはだ不満はあったが仕方なく引き受けた。すっかりと落ちぶれてしまった自分の姿をかつての知り合いの目にふれさせるのは苦痛だった。むかしの自分の盛りのころの想い出を話題にされるのはなによりもいやだった。今の自分の生活状態を聞かれることをおそれた。ときたま道を歩いていてかつての知り合いにばったりと出逢ったこともあるが落ちぶれた彼の姿を見たかつての知り合いは満足気な表情をその瞳の奥に浮かべた。知り合いはその心の平安を得ているらしかった。少なくとも光太郎にはそう感じられたのだ。他人に心の平安を与えて自分も満足するほど光太郎の心に余裕はなかった。光太郎の心の中には人間一般に対する侮蔑で満たされた。個人に騙された記憶が人間一般に対する侮蔑に敷衍されたのだった。それほどむかしの知り合いに会うことが厭な光太郎だったが、その目的が背振無田夫の残したものを運ぶだけだと云うことと知り合いと云っても自分にはあまり関係のなかった背振無田夫の指導教官だったと云うことがそれを引き受ける理由になった。それだけでもなかったかも知れない。彼のなにものかに対する失望が自虐的な喜びを引き起こして人間の活動の流れの中から離れた位置に置かれることによって傍観者的な平安と過去に対するなつかしさを喚起したのかも知れなかった。好い想い出でもなかったがある時代に関した古びた校舎、安物の椅子や机、そんなものをふたたび見たいと思うこともあった。飯田かおりとふたりでかつての母校を訪れると敷地の隅にある北向きの日当たりの悪い場所にだいぶ壊れかかった校舎が幽霊のように立っていた。まるでこの学校の余計者のようだった。ヒマラヤ杉の横にある入り口から多少傾いている階段、年月のために真ん中が摩耗してへこんでいるからそう感じたのかも知れない。
「ここに通っていたんですか」
「ここはおもに背振無田夫が通っていたんだよ。僕はこんなしけた教室には入って来なかったよ。もっぱら学生生活をエンジョイしていたからね。向こうの新しい校舎が何棟か立っているだろう。あっちのほうに通っていたんだよ」
「楽しい想い出とか、いっぱいあるんでしょうね」
飯田かおりは灰色の空を背景にして立っているそれらの校舎を見ながら云った。
「楽しい想い出がいっぱいあるんでしょうね」
「ない」
光太郎は不自然に強調して言葉を発した。
寂しい想い出ばかりだと云うのは詩人のようだ。苦しいと云うのは英雄じみている。もちろん楽しいと云うのは存外だった。そこで光太郎はひとつの言葉がうかんだ。「恥ずかしいことばかりだったよ」
「恥ずかしい、いったい何が恥ずかしかったんですか」
もちろん恥ずかしいことばかりと云うのは光太郎の誇張だった。しかし、もっともぴったりする言葉は恥ずかしいと云う言葉だった。今の零落した生活を当時の知り合いはどうして予想しただろう。あり余る金を持っていた学生時代、その将来は約束されていると光太郎は思っていた。それがいまは飯田かおりとの生活にすべての慰みを求めている。学生時代には将来は父親の事業で悠々と生活を営み、一年の半分は海外旅行に費やすなどとまわりの人間の敵意や憎悪もかえりみず堂々と公言してはばからなかったような気がする。その予想を裏切られて現在の状態になっていることが恥ずかしいのだろうか、それともそれらの世間一般の敵意や憎悪の存在にも無頓着な自分の無知が恥ずかしかったのか、さらにもっと高尚なものにその原因を求めればいいのだろうか。考えれば考えるほど自分が何に対して恥ずかしいのかその原因がつかめない。背振無田夫と一緒に学食で食べたミートローフの煮込み、別に恋人同士でもないのにひとつの机をはさんで向かい合って食べたこと、そして日本各地を飛び回って古い農家の土蔵を漁って骨董品を見付けたこと。別に恥ずかしいという要素はないはずなのに。
若い頃を懐かしむ人々がいる。若い頃に流行った歌や映画を見たり、その当時の風俗に浸って、その時代を美化する。感覚の表面のほうでその心地よさを時間による糖化作用によって甘い菓子に変質された過去を味わったりする。しかし人間の記憶が正確無比でその美化された過去を正確に呼び戻すことが出来るならそういった行為をおこなうだろうか。ふたたび人生の試練を受けようか、はなはだ疑問であると光太郎は思った。
ゆがんだ階段を三階まで上がると灰色の木製のドアが光太郎の目に飛び込んできた。ドアの上のほうの名札のところには上田と書かれている。これが亡くなった背振無田夫が師事していた指導教官の部屋だった。上田はここでは傍流として処遇されていることはあきらかだった。そのドアを左に曲がると突き当たりになっていて使わなくなった椅子や机が置かれてほこりとともに蜘蛛の巣が張っている。
「ずいぶんと陰気な場所なんですね」
「上田と云うのは学問的にも傍流で派閥からもはずれているし、人間そのものも変人で通っているんだよ」
学生時代に光太郎は上田の授業を受けたこともなかったし、その存在もほとんど眼中にはなかった。光太郎の明るい光に満ちた学生生活には上田と云うのはなんの関わりもなかったのだ。しかしもちろん彼の友達の背振無田夫は彼に師事していた。老舗の和菓子屋の長男として生まれた背振無田夫がどうして世の暗黒面を標榜している上田を支持したのか、光太郎にはわからなかった。それ以上にあんな好青年を弟に持っていること、そして光太郎の親友だったことだ。
「そう」
なにも知らない飯田かおりはお化け屋敷に入るようなわくわくした気持ちがおこってくるのを禁じ得なかった。風呂敷包みを持っている光太郎はその飯田かおりの横顔も見ていなかった。光太郎は使い古された廃船のようなそのドアをノックした。
「上田先生は在籍ですか」
「誰です」
少ししわがれた声がドアの向こうから聞こえた。
「ここの卒業生です。飯田光太郎と云います。背振無田夫くんの友達です」
「背振無田夫は死んだよ」
「知っています。背振無田夫くんの弟の栗太くんから先生に渡してくれと云われて預かっているものがあるんです」
「入りなさい。鍵はかかっていないから」
光太郎はドアのノブをまわしてドアをあけた。入り口から入ったところは鉄製の棚が置かれ、その背面が見えている。その背面に「あなたの運命は前世から決まっている」と大きく書かれたポスターが貼られていて光太郎はどきりとした。その大きな人目をひく文字しが目に入ったのだがほかにももっと小さな文字で何か書かれているようだった。開いた毛筆を逆さにしているような上田の姿を見て、亡くなった背振無田夫のあぶらっけを抜いてその精力を薄めたらこんな人物が生まれるのではないかと光太郎は思った。机の上で上田は竹をつないで作った鍋敷きのようなものをいじっている。
「これかい、これは古代アステカで使われていた人の運命を占う算木なんだよ。そこに座って」
入り口から棚の横から中に入ると入り口の狭さから想像するよりも中は広くなっている。光太郎と飯田かおりは椅子をまわしてふたりのほうを見ている上田の目を見ながらソファーに腰をおろした。
「こっちにいるのはわたしの妻です」
上田の目は飯田かおりのほうに向けられていた。「背振くんの弟さんからこれが預かっていたものなんです」
光太郎はその風呂敷包みを上田に渡した。それを受け取ると上田は机の上でその包みをといて中に何冊ものノートが重なっているのを発見した。その中の一冊を手にとると上田はそのノートをぱらぱらとめくった。
「おしい学生をなくした」
上田はぽつりと言ったがここではなくほかの校舎にいる教師だったらこんなことは言わないだろうと光太郎は思った。外部にいた光太郎でも上田と背振無田夫が同じ傾向の問題を追求していたと云うことはわかった。
「背振無田夫くんが子どものころから追求していた問題の集成だと弟さんは言っていました。背振くんの遺品を整理していたら出て来たそうです。彼が死んでからだいぶ経っていますが当時はそれに手をつける気にもならなかったそうです。最近になってやっとふんぎりがついて整理したそうですが、そのときにこれが出て来たそうです」
「背振無田夫くんはなによりも資料に対する天才的直感があった。もっと経験を積めば彼はもっと新しいことを発見したに違いないよ」
上田は顔をしかめてふたりの方を向いたが変人と云う世間の世評よりも学者としての篤実さが感じられた。
「その風呂敷包みの中に彼が発見した新しいことがあると云うことはないんですか」
「それはこれから調べることだ」
光太郎は背振無田夫と一緒にいろいろな地方に行って古農の土蔵から意外な値のつく骨董品を見つけだした旅をしたことを思い出した。その骨董品の材質や技法、その当時の風俗から推し量ってその骨董の真贋を決定する。光太郎には背振無田夫の心眼によってそれが判断されていたと云う気がするのだが実は子どもの頃から積み重ねてきた知識の蓄積でそれが真贋を決定していたのかも知れない。背振無田夫が決定を下した骨董は市場に持ち出すと高値で取引をされた。光太郎はただ同然のものが意外な市場価値を持つことに驚き、こころを動かされてその仕事を学生の傍らにしていたのだが背振無田夫には別の目的や喜びがあったのかも知れない。ただその骨董を見る目には地道な判断の積み重ねによるものか直感によるものかはわからなかったがたしかに天才的なものがあった。思想的には上田も背振無田夫も傍流に位置している。具体的に云えば上田のやっていることと云うのはむかし、その地方や村によく云えば予言者、世間一般では霊媒師と呼ばれる人間がいればその子孫がどうなっているのかと系統を調べることである。きっとそういう人間は結婚もしなければ家庭も持たないからその研究はむずかしいと思うだろう。あにはからずやそう云ったひとたちが生涯独身を保っていて子孫を残さないかと云えばそういうことではなく、意外と結婚したり、そのほうに目覚めてから結婚していたりする。その流れを辿っていくことにあった。また逆に現代においてもそういうひとたちはいるから前の時代にさかのぼっていってその親やその親とどんどんと調べていくのだ。上田の仕事は学会ではまったく無視されていたがその上田に師事していたと云うことは背振無田夫はなにを考えていたのか。多くの旅の時間をともに過ごした光太郎と背振無田夫だったがその話しをしたことはなかった。その集成がその風呂敷包みにつまっているのかも知れない。しかし背振無田夫が残した遺言にその秘密を解く鍵があるのかも知れない。弘法池のほとりの家にどうしてももし自分が住むことが出来なくなったら光太郎を住まわせたいと願ったその遺言にである。
「今、しあわせかな」
唐突に上田はふたりの方を見て言った。光太郎も飯田かおりも突然のことに自分たちのことを言われたのだとは思えなかったがそこにいるのはふたり以外しかいなかったから、もちろん上田をのぞいて考えるとである。その質問が自分にされたのだと理解した。上田はそう言ったあとで肝油ドロップの缶のふたをあけると中からあめ玉をひとつ取りだして口の中に入れた。今までは上田に学者としての篤実さを感じていた光太郎だったが初対面の人間に向かって冗談らしくもなく、そういう質問をする上田はやはり変人だと云う世評である偏見が頭をもたげて来た。
「しあわせです」
そのとき飯田かおりは少し怒りながらきっぱりと言った。飯田かおりの口の端に緊張が見えるので飯田かおりが少し怒っていると云うことが光太郎にもわかった。そしてそのこころにはある覚悟が含まれていると感じた。その感情のとんがりを上田も気付いたと見えて、
「奥さん、僕は運命論者なんです。人が幸福になるのも不幸になるのも前世から決まっているのです。これもその人の運命を計る古代人の発明した道具なんです」
と言って机の上に置かれている竹で出来た鍋敷きのようなものをいじくった。
「背振くんも同じ考えを持っていたんですな。もしかしたらこの風呂敷包みと云うのも運命を完全に把握することが出来る方程式を見付けた証拠かも知れませんよ」
弘法池のほとりの自分たちの家に戻って来てからもその不愉快な感じはふたりのこころの中に残った。
「光太郎さん、すり鉢を持ってくださる」
台所で胡麻を煎っていた飯田かおりが光太郎に声をかけた。すり鉢の中にもう胡麻が入れられているようだった。片手にはすりこぎ棒が握られている。
「胡麻なんてすって、どうするんですか。そんなことをしても出世しないよ」
光太郎は台所に接している居間のほうでだらりとした姿勢をとりながらくだらない冗談を言った。
「光太郎さん、くだらない冗談を言っていないでこっちに来てよ。胡麻のおはぎを作るんだから」
「胡麻のおはぎ」
光太郎にはまだがてんがいかなかった。
「明日、背振無田夫さんのお墓まいりに行くんでしょう」
光太郎は飯田かおりに背振無田夫のお墓参りにまた行くことをうっかりと漏らしていた。飯田かおりはその言葉を覚えていたのだ。光太郎はこのまえ背振無田夫の墓に行ってそのあまり人が来ていないことを知り、すまない感じがして再び墓参りに行くことを決めておいた。そのときはおはぎのひとつでも供えようと思ったが行く途中で出来合いのものを買って行くつもりだった。しかし飯田かおりはそのおはぎを自分で作る気になっている。光太郎が目を離しているすきに胡麻までいっていてすり鉢の中に入れていたのだ。
「はやく、はやく、光太郎さん、来てちょうだい」
光太郎は重い腰を上げると台所の方に行った。と言っても三歩で台所に行くことが出来る。光太郎は台所と居間のあいだの敷居をまたいだ。
「この鉢を押さえていてちょうだい」
飯田かおりが顔をあげて光太郎の顔を見上げる。この仕事を光太郎はそれほど嫌いではない。もしここに幸福の芽を見つめるつもりなら、
この女がもしさげまんだとしてもすべてが許せる気がする。この小さな憩いの中にすべての幸福を見付けようと光太郎は無意識に思う。この胡麻のおはぎが墓の前に供えられるだけではなくて自分の口に入ると云うことも知っている。
「光太郎さん、ここ、ここ、ここを押さえて」
飯田かおりは指で指示した。光太郎のこころの中には春の日差しをうららかに受けた縁側でひなたぼっこをしているすべてに満ち足りた老夫婦の映像が浮かんでいた。その老夫婦と云うのはもちろん年取った自分と飯田かおりの将来の姿である。なにごとも受け入れ平穏無事な満ち足りた人生、このすり鉢を押さえていると光太郎のこころの中にはそんな約束された将来が約束されている気がする。飯田かおりは細い腕で力いっぱい、すりこぎをまわした。光太郎はほのかな夢の中に身を浸していたので力いっぱいすりこぎをまわす飯田かおりの力に負けてすり鉢がぐらぐらした。
「そんなに力いっぱいすりこぎをまわさなくてもいいよ」
光太郎は飯田かおりに抗議した。
「そう」
飯田かおりはその棒を握る力を緩めた。実は上田に「しあわせ」かと聞かれた飯田かおりのこころは光太郎以上に傷ついていたのだ。その反動でその棒を力いっぱいまわしたかも知れない。飯田かおりは上田の言葉を忘れたかったのだ。さげまん女、そう云う評価は光太郎と結婚して下された評価だというばかりではない。たしかに飯田かおりと結婚してからの光太郎の幸福曲線は下降線を辿っている。光太郎の家は代々の大金持ちとして父親の事業をついで悠々自適の生活を続けるはずだった。しかし飯田かおりと結婚してから家の事業は失敗して父親は自殺した。そのことと自分が関係があるのではないかと飯田かおりは思った。そしてそれ以上に自分がさけまん女ではないかと思う事件が過去にはあったのだ。飯田かおりのこころには悲しみが広がった。その悲しみを振り払うために飯田かおりはすりこぎを力いっぱいまわしたのだ。それはまた自分はけっしてさげまん女ではないと云うなにものかに対する抗議の行動だったかも知れない。そのことを光太郎はわからなかった。夫婦で台所ですりごまをすると云うのどかな情景に身をゆだねて、飯田かおりがすりこぎを握る力もゆるんだので光太郎はある考えが浮かんだ。将来の映像として子どももいたほうがいいのではないかと云うことだった。
「子どももいたほうがいいな」
額のあたりに汗を浮かべていた飯田かおりは光太郎の顔を見た。
「地主の家のふたりの娘を見ただろう。あんな可愛い娘が欲しいと思わないかい。そうしたら庭にボート乗り場も作って弘法池に乗り出して行って釣りをするのもいいし、弘法池の真ん中にボートを浮かべて昼寝をするのもいいよ」
「地主さんがそんなことを許してくれるかしら」
「そのぐらい許可してくれるだろう。なにしろ自分たちの娘にあんな高価なおもちゃの自動車を与えて人の家の庭の花鉢を壊してしまうぐらいなんだから。あのおもちゃの自動車がいくらぐらいするか、きみは知っているかい。僕の給料の二ヶ月ぶんだよ。それに日本国中のどこを捜してもあんなおもちゃは売っていないよ。きっと特別のルートで取り寄せたに違いないさ」
「へえ、そんなにするの」
「きみの考えていることを当ててみようか。あのふたりの娘が可愛いと云うことには同意しかねると云うことなんだろう」
飯田かおりはなにも答えなかった。
「もちろん僕らの子どもはあんなふたりの娘よりずっと可愛いさ、僕は人並みだし、飯田かおりはとびっきりな美人なんだからな」
そう云われて飯田かおりはうれしそうにほほえんだ。そんなたわいもない話しをしているうちに飯田かおりは自分がさげまん女かどうかと云う命題はどこかにいってしまった。
ごまはすっかりとすれたので飯田かおりは食器棚のところから醤油壺を、棚の上から砂糖壺を出してすり鉢の中の中のすり胡麻の中に入れ、手早くしゃもじで混ぜ合わせた。こんろの方にはせいろが置かれ、怒った親父のはげ頭のように湯気をたてていた。そこには水でふやかした餅米が入っていてその湯気によって餅米はふける。胡麻をする前からその作業を始めていたのでちょうどよい具合に餅米は炊きあがった。それから飯田かおりは食器棚の中から輪島塗りの重箱を取りだした。まず餅米を丸めてそれを味をつけたすり胡麻にまぶして胡麻のおはぎにして重箱の中に並べる。その重箱はふたつ作るつもりだ。ひとつは背振無田夫の霊前に供え、ひとつは自分の家で食べようと思う。
光太郎の家の台所は弘法池に面している。台所の流しの窓から弘法池が見えると同様に流しの横の勝手口のドアを開けておくと弘法池が見える。このとき飯田かおりは勝手口の戸を開けたままでこの作業を続けていた。餅米を丸めて重箱に詰めていくと云う作業を続けているあいだ大きな岩と地面のあいだに潜んでいるがま蛙のの大きな黒い瞳に見つめられているような気が光太郎と飯田かおりはした。その瞳からはなんでも透視してしまうエックス線が出ているようだった。赤い車を停めてその前に地主のふたりの娘が立っていた。そのエックス線は重箱の中に注がれている。
「ふたりともどうしたの」
飯田かおりは餅米を握る手をとめてふたりの娘に声をかけたが前もって地主の家の家政が金包みと手みやげを持ってあやまりに来ていなかったらこんな態度もとれないだろう。
ふたりの幼い娘は指をくわえながら物欲しそうな表情をしてやはり重箱の中の未完成のおはぎを見つめてる。
「食べたいの」
飯田かおりはたずねた。ふたりはこっくりと頭を傾けた。大金持ちの家のふたりの娘とは思えない態度だった。もしかしたら健康上の理由から地主はふたりの娘に腹いっぱい食事を与えると云うことはしていないのかも知れない。
「おはぎを作るのを手伝ってくれたら出来たおはぎを食べさせてあげる」
するとふたりの娘は未開人のようにすべて肯定と云うポーズをして両手を手の前で合わせ、首を前後に忙しく振った。この娘の手伝いによって完成したおはぎは大きさもかたちもまちまちだったがかたちや大きさの揃っているものを墓に供えるものとした。その他のものを家で食べることにしたが娘たちは大人なみの食欲を示した。光太郎は満足した。これが家庭の幸福と云うものだろうか。将来に持つだろうことになる自分たちの子どものことも現実味を持って想像出来た。
「あの車はお父さんが買ってくれたの」
「そうだべ」
大金持ちの子どものくせに言葉は下品だった。
「あの車は日本に一台しかないだべ。父ちゃんがイタリア大使館を通じて輸入してくれたんだべ。エンジンは三十八シーシーだべ」
「ずいぶんと中途半端な排気量だね」
「イタリア製のスクーターのエンジンをそのまま使っているだべ」
「それはイタリアでは公道を走っているの。そんな自動車を日本で走らせていいの」
「いいだべ」
ふたりの子どもの答えは明快だった。
「父ちゃんはイタリア大使とも友達だべ」
光太郎は背振栗太が地主の下平が万葉風の和歌を詠むと言っていたことを思い出した。
「きみたちのお父さんは歌を詠むと云う話しを聞いたことがあるけど」
「歌とはなんだべ。父ちゃんは都々逸が上手だべ」
すると小さな方の娘が手振りをまじえて変な調子で語りだした。
「うめがえの手水鉢、叩いてお金が出るならーばー、もしもお金が出たときはー、そのときゃあ」
ほっとおくとこのふたりの子どもはどんどん変な方向に進んでいくようなので光太郎は話題をもとに戻した。
「そうだ。飯田かおり、干し柿があったんじゃない。ふたりとも干し柿は好きかい」
「好きだべ」
「干し柿をあげるからきみたちの車に乗せてくれないかい」
「ええだべ」
光太郎はこのおもちゃの車を見たときから、この車に乗って見たかった。おもちゃと云っても三十八シーシーのエンジンはついているし、少しせまいが子どものふたり乗りで大人だったらひとりは乗れた。おはぎを食べて腹のくちくなったふたりの子どもはなにごとにも鷹揚だった。飯田かおりはその光太郎の様子をあきれるでもなく、見ていた。赤い車は遠い筑波山を背景にすくっと立っている。子供のおもちゃだとはとても思えない。光太郎がそのせまい座席に乗り込むとステンレス製で星の模様の刻印されたパネルにはエンジンの回転計やスピードメーター、始動用のチョークボタンやスターターモーターのスイッチがついている。ハンドルはレーシング仕様になっていて車の下のほうにはアクセルやブレーキ、横には変速レバーがついている。ふたりの子供はまるでレーシングチームの監督のようにその座席に頭を突っ込んだ。
「これがスターターだべ。クラッチを踏みながらスターターを入れるだべ」
ふたりの子供の言うとおりにするとエンジンはぶるぶると快適な音をあげた。光太郎はさすがに弘法池一周をすることはなかったが池のほとりを行ったり来たりして運転をした。光太郎は満足した。久しぶりに自分を解放したような気持ちになった。しかしじっと見ているふたりの子供の目のエックス光線に気付いた。その目は温かくもなかったが冷たくもなかった。しかし、自分が大人だと云うことを自覚させるには充分だった。ふたりの子供に干し柿を与えると無言でそれを受け取り、車に乗り込むとふたりは千亀亭のほうへ走って行った。
「まるで子供みたいだったわ」
台所の勝手口で腰掛けて庭のほうを見ていた飯田かおりがなかばあきれた口調で言った。
その晩の食事は夕方に食べた胡麻のおはぎですませて六畳敷きの居間でふたりはくつろいだ。飯田かおりは英語基本文型五百例と云う単行本をひらいて黒い活字の中に赤い文字の混じった本を読んでいた。飯田かおりは外国人と話したことはなかったが外国に行ってみたいと云う憧れを持っていて外国の小説なんかも読んだりする。英語の小説も辞書を使って読んだこともある。最初にそんな小説で読んだことのあるのはサイラス・マーナーだったが外国に住んだことのない飯田かおりにはその内容はよくわからなかった。飯田かおりはそんなむかしの時代遅れと云っても良い参考書を見ると昔のことが思い出された。
光太郎はSTARと正面に金色のプレートの貼ってある五球スーパーのラジオのスイッチを入れるとチューニングのパネルのうしろにある電球がついて受信している電波を示す文字盤がだいだい色に照らされた。文字盤の横の方には丸窓がついていてその中に電波望遠鏡を小さくしたような真空管が横向きについている。光太郎がその同調つまみをいじくると電波を受信するたびにその真空管の頭の上のほうに入っている電波望遠鏡のようなものに映し出されている蛍光塗料を電気的に発光させている円グラフのようなものが開いたり閉じたりする。五球スーパーの五球と云うのは真空管が五本ついていると云うことでこのラジオの場合はその同調指示器がついているので真空管が六本ついているのだった。真空管は熱が出るのでラジオの前にも後ろにも空気を抜くための隙間が出来ている。その隙間から真空管がついているのでそのついているオレンジ色の光が見える。
光太郎の子供の頃は真空管は三本か二本しかついていなかった。多くとも四本だけだった。真空管のまったくついていないラジオもあった。そんなラジオは電灯線もいらなかった。そのかわりスピーカーに工夫がされていて電気的ではなく機械的に音を大きくする工夫がなされていた。
あいかわらず飯田かおりは英語の本を見てなにかの例文を覚えようとしている。その横顔は女子学生のようでもある。外見がそう見えると云うことは彼女の内面の意識がそうなっていると云うことだろうか。相手にされない光太郎はラジオの同調つまみをいじるとラジオのスピーカーから音が出てきた。光太郎はすっかりとくつろいでいた。深山に住む野生の熊が人に知られていない温泉に入っているよりもくつろいでいただろう。今日は上田のところに行って多少不愉快な思いをしたがそのあとに良いことがふたつもあった。ひとつは胡麻のおはぎを食べたことでもうひとつはあの妖怪じみた地主の娘たちのゴーカートのようなエンジン付きの車に乗って運転を楽しんだことだ。もしかしたら背振無田夫の墓に墓参りに行ったので死んだ背振無田夫が彼にプレゼントをくれたのかも知れないといいように解釈した。
そしてラジオから光太郎の気に入った番組が始まっていた。それはトリオの漫才師のやっている番組で、そのトリオの漫才師はアメリカのさんばかトリオと云う番組にヒントを得て結成されていた。誰がそういう判断を下したのか知らないが外見が似通っていた。そのメンバーの構成がひとりがおかっぱ頭、ひとりはお茶の水博士をやせさせたもの、もうひとりはでぶで構成されている。その内容は伊勢物語を喜劇仕立てでやるムと云うものだった。主人公のおとこはおかっぱ頭がやっていた。ある文学者の話によると西洋の恋愛話に出て来る主人公は英雄であったり、男性的で運命と闘って買ったり負けたりして話しが展開していくが、日本の古典では社会的に力のないものが運命にひきずられてもののあわれをさそう展開になると云うものが多いそうだ。そういった点ではおとこは天皇の隠し子でいろいろなところで恋愛のごだごたをおこしてもののあわれをさそうのにはぴったりしている。この精神構造がどういうところから出ているのか、平安時代からはじまっていることなのか、光太郎にはわからない。舟の中で途方に暮れる主人公の姿が目に浮かぶ。もとの伊勢物語がちゃんとした話しなのでそれを滑稽にした漫才師たちの話しはおもしろかった。光太郎はすっかりと機嫌がよくなって台所からウイスキーの瓶を持って来てちびりちびりとした。
「光太郎さん、あなたがウイスキーを飲むなんて珍しいですわね」
飯田かおりが本から目を離して光太郎を見た。
「うん、気分がいいんだ」
光太郎は自分の姿を他人が見たら宮沢賢治のカイロ団長に出てくるあまがえるに見えるかも知れないと思った。光太郎がウイスキーをちびりちびりしていると光太郎の気に入っている番組は終わってしまい、今度は素人のインタビュー番組のようなものが始まった。このまえ聞いていたときは東京湾をぽんぽん蒸気で掃除していると云う人間が出て来て東京湾の底のほうにたまっているゴミがどんなものかと云う話しになっていて途中で光太郎は寝てしまったのだが、今日は日本国中の温泉を入りまくったと云う人間が出て来た。それを仕事にしているわけではないから休みの日にそのライフワークをおこなうそうである。比較的休みの多い仕事についていると云う話しだったがそれでも数をこなすために地図とくびっぴきになって近隣にある温泉をチェックして一日に三個も四個も入るそうである。それで温泉に入る醍醐味もくつろぎもないのではないかとインタビューアが聞くと、そうではなく温泉の醍醐味はやはり味わえると言うのである。ここでインタビューアと云うのは茶話会の司会者と云うくらいの意味である。この話しを聞きながら光太郎は感心した。電気も来ていない山里でランプの明かりの中でこの人物が温泉に入っている姿が目に浮かんだからである。そしてあまり意味のないようなこの仕事か趣味かはっきりしないような行動がその温泉名人にどう作用しているのだろうかと思った。それほど温泉が好きなのだろう。ここで光太郎は経験と云うことばが浮かんだ。経験が人を形作ると云うことだ。そう思うと自分は毎日なにをしているのだろうかと思う。
そしてその番組は二部構成になっていてその温泉研究家の次の出演者が登場した。つぎの出演者はある映画会社の社長の息子で日本から出て世界的な映画プロデューサーとして世界を飛び回っていると云う人物が出て来た。その世界中に映画を配信する裏話とかスターの知られざる横顔を紹介するのが題目になっている。なぜかその出演者は夫婦で出てくるらしい。ラジオから流れてくる声が聞こえた。司会者がそのふたりを紹介すると夫婦はその返事をした。光太郎はその声を聞くと出口のない路地裏の行き止まりに追いつめられてなにものかに恫喝されているような圧迫感を感じた。自分の心臓が脈打っているのかわかった。名字が変わっていたので最初光太郎はわからなかったが、その名前のほうは知っている。声も聞き覚えがあった。光太郎がまだ大金持ちで光り輝く世界にいたとき知っていた女だった。知っていただけではない。深く関わった女だった。女の声はピンク色に響いていた。
その女は大金持ちの光太郎とつき合っていたのだが、大金持ちと云っても所詮地方の名士に過ぎない光太郎を捨てて、東京に住むある大会社の御曹司に鞍替えした。そしてその女は金だけでは物足りなく思ったのか、今度は名声も追求し始めた。彼女がどんな手腕を持っていたのかは今もって光太郎にはよくわからなかった。彼女に金の面でも時間の面でもすっかりとあやつられていた自分の過去の姿が情けなくも恥ずかしくもあった。その女がたとえ大金持ちの世界的な映画プロデューサーの婦人として収まっていたとしても光太郎の状態が今のようでなければこんな感情は起こらないだろうと彼は思った。今までの上機嫌はすっかりと消えてしまってみるみる光太郎の表情は森の暗がりに住むみみずでもこうはならないだろうと思えるぐらいに暗くなった。光太郎のこころを絶望が占めた。酒の酔いが変なふうに作用して本来は心地良いもののはずの酩酊状態がみぞおちのあたりが黒くどす黒いものがたまっているような不快感で満たされた
「寝る」
光太郎はぽつりと言った。いっしょの部屋で英語の参考書を読んでいた飯田かおりはなにが起こったのかわからずぱたんとその本を閉じた。
「ふとんはひいてありませんよ」
「自分でひくよ」
光太郎は暗闇に生息する夜行動物のようだった。夜行動物の目は獲物を追い求めてらんらんと輝いているものだが、光太郎の目は死んでいる。となりの部屋が寝室になっているので光太郎はよろよろと立ち上がるとふすまを開けて隣りの部屋に入った。ふとんはおりたたたまれて置いてあった。光太郎は敷き布団だけをひろげるとその蒲団の中に倒れ込んだ。飯田かおりはなにが起こったのかわからなかったがいっしょにラジオを聞くともなく聞いていたのでその原因がわかった。いぜんに何度かその女の名前を聞いていたし、その女が光太郎といぜんつき合ったことがあると想い出話しで光太郎が話したのを聞いたことがある。なにかのおりにその女がその映画プロデューサーと結婚したということも別の機会から知っていた。電気もつけないその部屋に入ると光太郎は掛け布団もかけず向こうを向いて寝ている。
「かぜをひきますよ」
光太郎のつむじが見えた。光太郎はなにも言わずにかけぶとんもかけないまま穴の中に住むレッサーパンダのように丸くなっている。
「俺の人生は失敗だったよ」
向こうを向いたまま光太郎がぽつりと言った。
飯田かおりは無言で薄がけをかけると酔っぱらった光太郎はいつの間にかすやすやと寝息をたてている。
「この人は弱い人なんだ」
飯田かおりは思った。
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