第4話 観測と測定

 その日の実習は当たり前だがすべて中止となった。次々に起床してきた学生と院生はその事態の異常さから、ドッキリだと考え最初は事態を飲み込めなかった者もいた。

そんな学生たちも、パトカーのサイレンが鳴り響き、警察が乗り込んできた頃になって、やっと事態の重さに気が付き動揺する者が増えた。

あかねは、工藤由利を発見してから倒れてしまった。幸いに蘭が体を支えてくれたため、大事には至らなかった。今、あかねと蘭は男子宿泊棟ロビーのソファに座っている。あかねの体を蘭がずっと抱きしめてくれていた。

「ランランさん、もう大丈夫です。ありがとうございます」

「本当?」蘭はあかねの顔を包むように両手を当てた。

「うん。でもまだ顔が青白い」

「さすがに続けてあんなもの見たらそうなります」

「それはそうよね。まだ休んでいて」

遺体発見時に居合わせた他の関係者もそこに座っていた。気晴らしに付けていたテレビから、本日午前二時頃、連続通り魔が出没しOLが殺害されたニュースが報道されていた。

脇坂がすぐにテレビを消した。

中村教授は頭を抱えるようにしてソファに座り込んでいた。

その隣で椎橋が心配そうに見ている。他の院生はそれぞれソファに散らばって座っていた。

中尾伸一は、入り込んできた警察関係者に現場へ案内などで動き回っていた。

「あかねちゃん!ランランちゃん!」

二人が顔を上げると、寿刑事が入ってきたところだった。寿刑事の後ろには笹倉刑事もいた。

「寿さん」蘭が言った。

「大変だったね。二人は大丈夫?」

「はい。あかねちゃんはちょっと動揺しています」

あかねは二人の刑事に頭を下げた。

「無理ないよ。この事件は僕らも担当になるから、何かあったら言ってね」

寿と笹倉は、食堂へと消えていった。

食堂では数人の刑事と鑑識官が現場調査をしていた。そこに二人は混ざっていった。

それから十分ほどして、一台の車が男子宿泊棟の前に停車した。普通自動車であった。現在警察関係者しか入れないはずなので警察関係の人物ということになる。

「いいか、この建物にいる人間を一人も外に出すな」

怒鳴るように言いながら、スーツ姿の人物が入ってきた。

騒動になるために、実習を受けている学生は各自の部屋で待機することになっていた。その部屋から学生が何人か顔を出していた。それくらい声が大きかった。

寿が食堂から飛び出してくる。

「麻見警視、ご苦労様です」

「疲れてはいない。まだ朝の八時だ。お前はもう疲れているのか?」

「いえ、そういうわけでは」寿は口ごもる。

「遺体は?」

「こちらの食堂と途中にあったセミナー棟のセミナー室です」

「なんだ、途中にもあったのかよ。先に見ておくのだったな。まあ良い。早く見せろ」

寿に連れられて麻見は食堂へと入っていく。

「とても嫌な気分になる人ですね」あかねは言った。

「自分に自信がないのよ。そうでないとあんな風な口調で人に話さない」蘭は言った。

しばらくすると、麻見が寿と笹倉を従えて食堂から出てきた。

「第一発見者は?」麻見が聞く。

「このセミナーハウスの管理人をしている中尾夫妻のご主人です」

中尾が頭を下げる。

「よし、事情聴取をするから別室を用意してくれ。あと、当日この敷地内にいたもの全員にも事情聴取を行う。人員を振り分けろ」大きな声で麻見が言った。

「全員、ですか?百二十人はいますが」寿は狼狽えるように言った。

「そうだ。何か問題か?」麻見は心底不思議そうな顔で寿を見る。

「いいか、今朝方、例の通り魔がまた犯行に及んだ。そして、この通報だ。来てみたら同じような方法で殺害されているじゃないか。つまり、通り魔殺人の犯人がこの施設にいるということだ。一晩で三人も手掛けたのだ。ここで奴を捕らえるぞ」

麻見は鼻息荒くまくしたてた。

「あの申し訳ありません、一つ良いでしょうか?」中村教授が手を挙げた。

「あなたは?」

「この実習の責任者の中村と申します」

「そうですか。申し遅れました。私はC県警警視の麻見です。何でしょう」

「実習を受けている学生は解放させてあげてもらえませんでしょうか?」

「なぜでしょう?先ほども言いましたが、通り魔がこの施設に潜伏している可能性があるのです。もちろんあなたもその可能性がありますがね」麻見はニヤッと笑った。

「で、ですが」

「申し訳ありません、時間がありませんので。では中尾さん、部屋を用意してください。寿と笹倉さんは手分けして事情聴取の準備をしてください」

麻見は中尾教授の発言を聞かずに事情聴取の準備を進めようとする。

「あの、寿さん」

蘭は寿の後ろから袖口を引っ張って声をかけた。

「あ、はい何でしょう?」

「あの人の主張が非合理的かつ気に食わないのですが」

「あ、ストレートに言うのですね」

「はい、出ないと伝わりませんから」

「おいそこ、何をしゃべっているんだ?」

「あ、すいみません。あの、えっとこの子、いや関係者の一人がお話ししたいことがあると」

「え?普通に振るんですね。まあ良いですけど」

「お嬢さん、何か言いたいことがあるのですか?何度も言いますがこっちは時間がないのです」麻見は見下したように言った。

「初めまして、R大学土木工学科修士一年の蘭蘭と申します」

蘭は頭を下げる。あかねはソファでその行方を見守っていた。

「時間がないのはわかりました。でもあまり意味のないことに時間を使うのはどうかと思いますね。非合理的ではないでしょうか?」蘭はゆっくりと前に出る。

「ほう、非合理的ですか。ですが迅速に進めていかなければ犯人が逃げてしまいますよ」まだ見下した態度である。

「逃げてしまうかどうかは定かではないですが、迅速に進めていきたいという考えには賛同します。なので、ご意見したいと思っています。聞いていただけますか?」

「どうぞ」麻見はあきらめて、うんざりしたように促す。

「お時間頂ありがとうございます」そこまで言うと、蘭はゆっくり深呼吸をした。

「まず、ここにいる全員の事情聴取をするのは時間の無駄です。特に実習を受けている学生は連絡先を聞いてから解放してください。現時点で事情聴取を受けるのは私たちスタッフ側だけで十分です」

「中村先生と同じことを仰るのですね」

「はい、その理由なのですが、先程麻見警視は通り魔がここに潜伏しているとおっしゃいました。この施設内の人間が通り魔であるという認識なのですよね?」

「もちろんだ」

「では、警備員の話を聞きましたか?」

「まだだが?なぜだ?」

「それを聞かずにその判断をしたのですか?」

麻見は何も言わない。

「昨夜、また通り魔にOLが襲われたのですよね?」

「ああそうだ」

「それはこの施設にいる人間には無理です」

蘭は続ける。

「具体的な犯行時刻に関してはまだ私は知りませんが、先程テレビのニュースでは午前二時頃と言っていました。この宿泊棟は男女とも午前零時に施錠されます。その鍵は中尾夫妻しか所持していません。それに、この施設にいる人間が外に出るためには必ず警備員のいる入り口を通らなければいけません。この施設の裏は池です。簡単に外に出ることは難しいでしょう。それ以外、この宿泊棟の正面はコンクリート製の壁が囲んでいます。道具等があれば抜け出ることは可能かもしれませんが、警備員さんは気が付かないはずはありません。これだけ見通しが良いですからね」

麻見は黙ったまま蘭を見ているが、手の爪を噛んでいる。

「疑問であれば、警備員に聞いてみてはいかがですか?」

麻見は後ろにいた捜査員に何か伝えた。捜査員はすぐに外に出て行った。

「手の空いている捜査員は部屋にいる学生の連絡先を控えろ。そうしたら解放だ」そこまで言うとロビーに集合している関係者全員に向かって

「良いですか、後は現場の捜査員の指示に従ってください。そして、遺体の状況についてなど、事件については絶対に他言しないでください」

そういうと、蘭を睨み付けてその場を後にした。

麻見が出て行くのを見届けると、蘭は深呼吸をした。

「ランランさん、大丈夫でしたか?」あかねが駆け寄る。

「ランランちゃん、凄いな。いや、ごめん。俺が意見するべきだったね」

寿が言った。

「いやーごめんなさいね。うちの上司が本当にご迷惑おかけしました」

笹倉が近寄って頭を下げる。

「舎人さんは前にお会いしましたけれど、そちらのお嬢さんはまだでしたね。初めまして、C県警の笹倉と申します」名刺を出す。

「ありがとうございます。蘭蘭です」蘭は細かい紹介は省いた。

「お二人とも大変ですね。捜査が混乱しませんか?」蘭は麻見の事を言った。

「まぁそんな人でも上司ですから、フォローするのも部下の役目ってことです。いつもは現場には出てこない人なのですけど、今回は通り魔が関わっていると考えたんでしょうね」

「蘭さんも通り魔のこと知っているのか?」笹倉が聞く。

寿は昨日の事を笹倉に話した。古見澤とあかねに会った後、計画研で蘭と議論したこと、そして流れで研究室のメンバーにも話をしたこと。

「仕方ないとはいえ、捜査情報が簡単に漏れるとはな」笹倉は寿を薄眼で見る。

「麻見のお坊ちゃんには知られないようにしろよ」耳元で囁く。

「はい。申し訳ありません」寿は笹倉に謝罪した。

それから事情聴取とまではいかないが、昨夜の出来事について簡単な話を聞くことになった。笹倉から時間短縮のために関係者全員でまとめて行ってはどうか提案があった。中村教授がそれに賛同し、二階にある会議室を使用することになった。当初は遺体の搬出が済んだため、食堂でという話も出たが、流石に遺体が置かれていた部屋でというのは当たり前だが関係者から難色が示された。寿は研究室メンバー、笹倉はセミナーハウス関係者の話を聞くことになった。

「改めまして、C県警の寿です。この度は心中お察し申し上げます。最悪なタイミングになりましたが、一昨日に引き続きまたお会いすることになりました。この時間を使いまして、簡単で構いませんので昨日から遺体発見までに皆さんがどのように過ごしたのか、教えてください」

会場は第二会議室となった。偶然にも昨日の飲み会と同じ会場である。寿は窓側に着席した。寿に向かって右手に教員三人、後は開いている席に院生が着席した。あかねは寿から最も遠い扉近くに座った。

会議室では中村教授が基本的な説明を行った。その後、実習に出ていた脇坂講師、椎橋助教が昨日の実習について簡潔に説明を行った。寿はメモを取りながら聞いていた。

「なるほど、ありがとうございます。概要はわかりました。ほとんどみなさん一緒に行動していたのですね」

「はい、実習自体の終了は班ごとに異なっているのでバラバラですが、それでも一時間も違いはなかったです」椎橋助教が言った。先ほどより顔色が戻っている。

「こちらに戻ってきてからはいかがでしょう?」

「戻ってきてからは細かくは異なると思いますが、道具を片したり、それぞれの部屋に荷物を置いたりしてから夕食ということになると思います」脇坂講師が言った。

「そうですか、では夕食までに、今お話に出たような行動と大きく違った行動をされた方はいますが?」

中村教授が手を挙げた。

「先ほどはお伝えしませんでしたが、実習中に私は学内の会議に出ていました。会議のメンバーに聞いてもらえればわかります。大体夕食くらいの時間に合流しました」

中村教授は会議に出席していたメンバーの名前を手帳を見ながら挙げた。

「ありがとうございます。その他にはいらっしゃいますか?」

だれも手を挙げることはなかった。それを寿は確認してから、

「ありがとうございます。次に夕食後ですが」

「はい、この実習の習慣でその日の終わりに教員と手伝ってくれている院生たちと飲み会を毎日開催しています。場所はここの第二会議室です」中村教授が言った。

「なるほど、今日もお疲れ様っていう飲み会ですね。重要です」寿は笑顔で発言を受ける。

「その飲み会ですが、女性陣は十時半くらいに退出しました。我々男性陣は十一時頃にお開きにしました。二日目以降はもっと深夜まで飲んでいますが、初日は早めに切り上げることにしています」中村教授が言った。

「なぜ女性陣は早めに解散になったのですか?」

「この施設の宿泊棟は、男女ともに深夜零時で玄関が施錠されるのです。だからそれまでに宿泊棟に戻らなければいけないので。」椎橋助教が言った。

「なるほど、そういうことなのですね」

「男性側は会場の清掃を学生にお願いして、脇坂先生と私は自室へと戻りました。私はその後、入浴してから零時には就寝しています」中村教授が言った。

「私もほぼ同じですが、仕事のメール等を持ち込んだPCでチェックしてから寝ました。午前一時を回っていたと思います。最後の送信したメールを見てもらえれば、確認できると思います」脇坂講師が言った。

「後程提出していただけますか」寿はメモを取る手を止めて言った。

「女性側ですが、男性宿泊棟を出て女性宿泊棟に戻りました。その後は・・・」椎橋助教はそこで言い淀んだ。

「どうかされたのですか?」寿は椎橋助教の顔を見る。

「いえ、その後は全員で入浴しました」椎橋助教は顔を赤くして言った。

「全員で入ったのか」板倉がつぶやく。

「了解しました。その後は?」

「それぞれ自室に行きましたがそれ以降は個人個人で過ごしたと思います」

「なるほど。それから森田さんの遺体発見まではみなさんどのように過ごしていたのでしょう?」

学生を中心に各々がどのように過ごしてきたか話したが、概ね入浴してから深夜一時までには就寝したということだった。

「皆さまありがとうございます。今日はこのまま帰宅してください。またお呼びすることがあると思いますのでご協力をお願いいたします」寿は手帳をスーツにしまい込んだ。

「ここからは私個人の意見ですが、お二人は殺害されたと可能性があります。また、皆さんにアリバイがなく、この施設の状況から、誰でも殺害できたと考えられます」

全員が息を飲んで背筋を伸ばした。

「まだ司法解剖が済んでいませんので、具体的な死亡推定時刻および殺害方法についてなどは判明していません。それらの情報が集まって来れば、犯人逮捕へとつながると思います」

全体の事情聴取が終わったのは正午を回っていた。あかねはやっと空腹を感じた。朝食も摂らずに事情聴取を行っていたこともあるが、やっと状況を認識できたことも大きい。あかねは前から状況さえ把握できれば、最悪な状況であっても落ち着くことが出来た。

学生はすでに帰宅したようで宿泊棟は静まり返っていた。計画研のメンバーも荷物をまとめて帰宅することになった。食堂ではまだ刑事や鑑識官が動き回っていた。蘭とあかねは女子宿泊棟に戻り、荷物をまとめてロビーで待ち合わせをした。

ロビーであかねが待っていると管理人室が暗いことに気が付いた。中尾夫妻は対応に追われているのだろう。

「お待たせ」蘭がやってきた。

「ランランさん、お腹すきません?お昼にしませんか?」

「そうね。どこかで食べようか」

椎橋助教も誘おうかとあかねは提案したが、教員として大学に報告したり緊急会議が開かれるようで、大学側の対応を協議するとのことだったのであきらめた。

外に出てどうしようかと考えていると、呼び止められる声がした。

「ああ、良かった。もう帰っちゃったかと思った」寿が走って近寄ってきた。

「お疲れ様です。大変ですね」蘭は言った。

「いやいや、そんな労いの言葉は必要ないですよ。大変だったのはそちらでしょう。大切な仲間が二人も」そこまで言うと寿は口を閉じた。

「そうですね。非常に残念です」蘭が淡々とした口調で言った。

「あ、寿さん、これからランランさんとお昼なんです。一緒にいかがですか」あかねは寿を誘った。

「そうですね。ちょうど一段落したところだし。一緒に行くよ」

ちょっと待っていてと言い残し、寿は男子宿泊棟に戻っていった。数分して戻ってきた。笹倉に許可を取ってきたのだそうだ。あかねと蘭は夏休みで営業している学食で昼食を摂ろうと思っていた。しかし、寿がせっかくだから車で行けるところにしようと提案してきた。

「大丈夫なのですか?」あかねは心配そうに聞く。仕事中ではないのかという意味だ。

「昼ご飯ぐらい食べさせてよ」おどけたように寿は言った。

「それにさっきも言った通り、解剖の結果がまだだし、鑑識も現場が二ヶ所あるからかまだ終わっていない。それに笹倉さんから学生さんのケアも仕事だよっていうことで、お供させていただきます」シートベルトを締め、寿はエンジンをかけた。

「どこにする?僕の奢りだから、好きなところ言って良いよ」寿は聞く。

蘭が国道沿いのファミレスの名前を挙げたのでそこへ向けて移動する。

セミナーハウスの駐車場を出て、国道への道を進む。三分ほど走ると、通行量の多い国道に出た。車は可士和市とは反対方向へと進む。

「一応聞くのですけど」蘭が後部座席から声をかけた。

「何だい?」寿はバックミラー越しに蘭を見た。

「私たちは容疑者ですよね?」

「うん、そうだね」寿はあっさりと言った。

「まだ被害者二入の身辺を洗っていないし、それぞれの関係も同じ研究室ということ以外はわからない。でも、事件当夜同じ施設にいた君たちは容疑者であると言える」

「そんな容疑者たちを帰してしまって良かったのですか?あのまま拘束しておけば良かったのでは?」

「まだ捜査は始まったばかりだから。連絡先は押さえてあるし問題ないと思う。それよりあのまま拘束しておいて不満が出ることの方がデメリットになる」

寿はハンドルを切る。車はファミレスに入っていった。

三人は席に通された。全員でランチメニューを注文した。ドリンクバー付きだったので、それぞれ飲み物を取ってきてから再度着席した。窓際のテーブルに店の奥側が寿で手前側が蘭とあかねだった。

「寿さん」蘭が言った。

「何でしょう?」寿が聞き返す。

「先ほどロビーで演説を打たせてもらいましたが、あの時言わなかったことがあります。あのタイミングで言うことではないかなと思いましたし、学生を開放できれば良かったので言いませんでした。あの残念な上司の方は全く気付いていなかったようですけど」そこまで言うと蘭は寿を見た。

寿はアイスコーヒーに刺さったストローを咥えて固まっている。

「え?言ってないこと?」あかねは首を傾ける。

「あの高圧的な人を追い返した時のことですよね?」

「ちょうどタイミング良く・・・と言ってしまうと被害者の方に申し訳ないのですけど。セミナーハウスで起きた事件と同じ日に通り魔も事件を起こしていたことが幸いして、それだけを根拠に追い返しました。あの人は通り魔がここにいると考えていたようなので、不可能であることを示せば帰ってくれると思ったのです」

でも、と蘭は言って続ける。

「本当はその前にもう一段階プロセスがあって、その結果学生を開放できると判断しました。つまり実習を受けていた学生の中には、森田さんと工藤さんを殺害できる人はいないと私の中で結論できたのです」

そこまで蘭が言うと、料理が運ばれてきた。

とりあえず議論は中断してお腹に入れようということになり、まずは昼食を平らげた。

色とりどりの料理が並べられたプレートは十分程度で白色となった。食後のコーヒーを飲んでいると、寿が口を開けた。

「通り魔の事件とセミナーハウスでの事件は別物だと判断したということですよね?んー何だろう」

「寿さんも係わっていますよ」

「わからないです」あかねはギブアップした。

「クイズではないからお話ししますね。殺された二人にピンポールが刺さっていたことです」

「ピンポールが刺さっていた・・・どういうことですか?」あかねは蘭を見る。

「通り魔の犯行の特徴は被害者を殴打した後にピンポール状の杭を突き刺すのですよね?」

「そうだよ。写真を見せに行った時に話した・・・あ」寿は口を開けた。

蘭はまっすぐ寿を見て言った。

「報道制限がある以上、あの形状の杭が通り魔の犯行に使われたことを知っているのは、通り魔と警察関係者と一昨日に寿さんの写真を見た人間だけということになります」

「ああ」あかねは納得した。

「そうか。それだけだと学生の中に本当に通り魔事件の犯人がいる可能性もある」寿は言った。

「そうです。だからあのニュースがテレビから流れた段階で通り魔はこの犯行に係わっておらず、かつ実習を受けた学生の中にはいないということになります」

寿は納得したように頷く。

「あ、でも」寿は顎に手を当てながら言う。

「写真を見て以降、誰か他の人に話した可能性はないですか?それこそ実習中とか、家の人やバイト先とか」

「外部の人は無理だと思います。セミナーハウスに入ることが難しいと思うので」

先程麻見へ意見した内容と同じ理屈ということだ。

「実習中の学生に話して、何らかの理由で犯行を行った可能性ですが」蘭はミルクティーを飲む。

「まったくあり得ないとは言えません」蘭は寿を見た

「しかし、同じ日に二人の人間をあのような装飾までして殺害したのです。突発的な行動とは言えないと思います。つまり計画的な行動だと思うのです」

そこまで言うと蘭はまたミルクティーを飲んだ。

「なるほど。今度時間をとってゆっくりと二人だけでお話しできませんかね」

「寿さん、何言っているんですか?」あかねが目を細くして言った。

「ごめんなさい。ちょっと興味本位で」寿は素直に謝る。

「それで一つ思い出したのだけれど、最初に写真を見せた時にいなかった学生がいたよね?」

「はい、小川さんと守屋君と亡くなった森田君ですね」蘭は言った。

「でも、研究室で通り魔について話していたみたいですよ」

「あれだけ他に漏らさないで、と言っていたのに」寿はやれやれといった表情で言った。

「研究室内は仕方ないところもありますけどね。刑事さんが意見を聞きに来るということも滅多にないですし。こちらも言わせてもらえば、それなら写真見せなければ良かったのですよ」蘭は言う。

逆に怒られた寿は頭を下げて、ごめんなさい、と言った。謝罪してばかりである。

「でも、これで研究室の全員がピンポールを使っていたことを知っていたわけか」

「あの気になっていることがあるのですけど」あかねは蘭を見て言った。

「森田さんと工藤さんに突き刺してあったピンポールですけど、あれはピンポールですよね?」

「ん、どういうこと?」寿は言う。

「中村先生もランランさんも通り魔が事件で使っていたのは、あくまで『ピンポール状のもの』という判断だったじゃないですか。それは写真に写っていたのがピンポールの形状をしていた鉄の棒だったからですよね」あかねは二人の顔を見ながら言う。

「つまりあかねちゃんはなぜピンポールそのものを使っていたのか、っていうことを聞きたいのね?」

「そうです。意味ない質問ですかね」あかねは恥ずかしそうに笑った。

「いえそうではないわ」蘭はあかねに微笑む。そして、肩に手を回して頭をなでなでした。

「ちょっとそれは余計です」

「君らは・・・まあ、いろんな形があっても良いよね」寿は視線を落としてアイスコーヒーを飲んだ。

「そのセリフももういいです。そういうのじゃないです。ランランさんもう頭は良いですか?」その間まだ頭をなでなでしていた蘭ははっと我に返ったようになった。

「あ、ごめん、つい没頭してしまって」

「没頭しないでください」

「なんだっけ?ピンポール使った理由?多分、当初の予定では通り魔の犯行にしようと思っていたのではないかな?」

「でも」

「そう。結局今朝のニュースで通り魔の犯行が否定されてしまった。残念でしたということですね」

「鉄の棒の問題は?」寿は聞く

「まだわかりません。単純にその場にあったから使ったのか、別の理由があったのか?」

「そうだな。現状として判明していないことがまだ多い。当日の各人の動きや凶器も良く分かっていないからな」

「さて、昼ご飯分くらいはお返しできたでしょうか?」蘭は寿へ微笑む

「ごめん、そういった意味で連れてきたわけではないのだけど。でもいろいろ話せて助かったよ」

「いえ、古見澤君の知り合いでなければ、刑事さんでもここまではしません。古見澤君が助けてもらったって話していましたから」蘭はまっすぐ寿を見て言った。

「いや、助けてもらってばかりだよ。麻見警視の前でも僕が写真を見せたことを言わないためにあそこまでの推論で追い返したのだろう?いつか恩返ししなければな」

「土木はこうした人と人の繋がりということも一つの要素になっていますよ。でも土木だけではないですよね。人に良くしてもらったから、何らかの形でお返しするっていうのは、持っていたい美徳だと思います」

ランチ会はお開きになり、寿はあかねと蘭を可士和駅まで送った。

蘭は可士和市に住んでいるが、あかねはここから電車で東京方面へと向かう。電車内で親に連絡していないことを思い出した。ネットのニュースではすでに今日の事件のことは報道されていたが、やはり遺体の詳細、つまりピンポールが刺されていたことは伏せられていた。あの麻見警視が必死の形相で報道規制している顔が思い浮かんだ。

それにしても、自分の人生で殺人事件に遭遇するとは思ってもみなかった。しかも短期間で二回も。日頃の行いが悪いからだろうかと車窓から流れる家や瞬く間に通り過ぎる電柱を見てあかねは思った。



 事件から一週間が経った。あかねは夏休みを満喫しているとは言えなかった。大学の関係者とは、古見澤を含めて全く連絡を取っておらず、寿からの連絡もなかった。ただ日々をアルバイトと家で寝ることの繰り返しだった。

繰り返しの毎日が終わったのは、そんな一週間後のお昼だった。あかねのスマートフォンに寿刑事から着信があった。

鑑識の結果が出たことと、また話を聞きたいということであった。蘭にも連絡をしているから、一緒に同席してくださいとのことだった。あかねは了解の返事をした。

指定された場所は可士和駅の近くのカフェだった。蘭とあかねと寿の三人の移動距離を考慮して決めた場所であったが、あかねにとっては何の問題もなかった。毎日の繰り返しを終わりにしたいと思っていたからだ。

指定された時刻は十三時。夏休みなので十時まで寝ていたあかねは時計を見て、すぐに準備を始めた。今から行けば十分に間に合う。身支度を整え、駅に向かった。

あかねの最寄り駅から可士和駅までは特急を使えば二十分程度で着く。ホームの電光掲示板を見ると特急までは運悪く十分ほど待たなければいけない。待っていても間に合う時間だったが、その時間が惜しく感じた。そのため普通列車で行くことにした。

通学にも特急列車を使うので、久しぶりの普通列車だったが普段と違うスピードで過ぎていく車窓は逆に新鮮に感じた。

可士和駅に着くと、午前十二時を回ったとところだった。駅ビルの中で適当にお昼を済ませ、目的のカフェまで移動した。可士和駅から歩いて十分ほどで目的のカフェに到着した。あかねがあまり行かないようなお洒落な外観をしたカフェだった。蘭が指定したのかもしれないと思った。時間は五分前だったが、構わず入店した。

入店すると同時に鼻をコーヒーの香りが包んだ。頭が目覚めるような感覚がした。コーヒーの匂いはきつくもなく軽くもないあかねにとってはちょうどよい香りだった。一瞬でまた来ようと思っていた。店員も最低限の挨拶のみで黙っている。空いているお席にどうぞ、ということである。店内を見渡すと、ひときわ白い顔の蘭が奥のテーブルに座っていた。長い黒髪を後ろで一つに縛ってTシャツ一枚にジーンズを履いていた。蘭以外にお客はいなかった。

あかねの顔を見つけて、にっこり笑って手を振った。あかねは蘭の正面に座る。

「寿さんがそこ座った方が良いのじゃない?」蘭が言った。

「あ、そうですね、来たら代わりますよ」

「どう最近は?」

「あれからはずっとバイトと寝るのとの繰り返しですね。でもずっと事件のことが心には引っかかっています」

そうだよねと言って、蘭は口を閉じた。店員が注文を取りに来たので、ホットコーヒーを注文した。蘭はカフェオレを飲んでいるようだった。

店の扉が開いて寿が入ってきた。汗をハンカチで拭いている。天然パーマの頭から湯気が出ているようだった。

「ごめんね。お待たせしたかな?」

寿が来たので、あかねは席を移動する。蘭の隣に着席した。寿はアイスコーヒーを注文した。

「今日はごめんね。鑑識の結果が出たから報告しようと思って」

「一応聞きますけど、聞いて大丈夫なのですよね?」あかねは言った。

「もちろん笹倉さんには聞いてきているよ。前回ファミレスで話した内容を報告して、鑑識の結果を報告して良いか許可を取ってきている」

「ちなみに麻見警視は?」蘭が聞く。

「言ってない」さらっと言った。

大丈夫、と強く言ってから鞄を開けて資料を取り出している。

蘭はやれやれと言った表情だが、聞く姿勢になった。

寿は資料をめくる。

「まず、死因だけど、工藤由利の方は頸部の圧迫による窒息死だった」寿は自分の首を絞める真似をした。

「森田雄介の方は、後頭部への殴打が致命傷になっている。それと森田雄介は食堂で、工藤由利はセミナー棟の第二セミナー室で殺されたことは間違いない。死亡推定時刻についてだけど、工藤由利の方が午前一時から午前二時の間で、森田雄介が午前一時半から二時半の間になっている。ほぼ同時刻と言えるが、若干工藤由利の方が早いと言えるだろうな」寿は一度書類から視線を蘭とあかねに戻す。殺害された二人は間違いなく発見された場所で殺されたということだ。遺体の移動はなかったということになる。また、死亡推定時刻に幅はあるものの判明したことは大きい。

「その時刻だと、どちらの宿泊棟も施錠されていますね。工藤さんはどうやってセミナー棟に入れたのだろう?」あかねは空中を見てつぶやいた。

蘭はそうね、と言って「森田君の方の凶器は何ですか?」と聞いた。

「凶器はね、凶器というか頭を打ち付けたことによって死亡したようだ。食堂の中にある柱に痕跡があった」寿は書類から一枚取り出して、二人の前に差し出す。

その書類には食堂の図面が描かれていた。問題の柱は、正方形の空間の中央付近にある四つの柱の内、窓側の一つで北東にある正方形の柱だった。その四つの柱は食堂の空間を正方形に四等分した時にそれぞれの正方形の中心に配置されるようになっている。

「次に刺されていたピンポールだけど」寿はまた資料をめくる。

「鑑定の結果正式にピンポールだと判明した」

「これで『ピンポールのようなもの』から『ピンポール』と言えますね」あかねは言った。

「ちなみにそのピンポールは研究室が管理していたものでしょうか?」蘭は聞く。

「当時持ってきていた測量器具をチェックさせてもらったけれど、ピンポールが二本無くなっていたよ」

「管理している方からすれば、残念と言わざるを得ないです」蘭は残念そうに言った。

「確かにすぐに使えるように玄関脇に置いておいたのはちょっと良くなかったと思うけどね。起こってしまったことは仕方ないさ」寿は慰めるように言った。

「このピンポールだけれど、特に変わったところはなかったのだけれど」そこまで言うと顔を上げて、周囲を見渡す。

「ここから遺体の状況も踏まえて話すので、気分悪くなったら言ってね」寿は小声で言った。

「鑑識はここで首を捻っているのだけど、どうやってピンポールを遺体に刺したのかってことがわからない」

「そうか、ピンポールは先端が尖っていない。普通に突き刺せないのか」あかねは言った。

「その通り。これが参った」寿は後頭部に埴輪のように手を当てた。

「鑑識によるとピンポールが突き刺さっている周辺の筋肉や皮膚組織が、穴の中に引き込まれるようになっていたそうなんだ」寿は両手で組織が引き込まれている様子をジェスチャーで示した。

「つまり、しっかり刺さっているってことですね」蘭は言った。

「あと、まあこれは関係あるかわからないけど、森田雄介の方はピンポールが背中の組織まで貫いて床のカーペットに到達していたのだけど、工藤由利の方は先端が体内で留まっていたとのことだ。貫いてはいない」

「なんで違うのだろう。犯人が諦めたってことですかね?」あかねは蘭に聞いた。

「犯人のみぞ知るってところだと思うけど」そこまで言って蘭は考え込んだ。

「あとは、持ち物だけど工藤由利と森田雄介ともに携帯電話が見つかっていない」

そこまで話すと寿はアイスコーヒーを飲んだ。

「とりあえずここまでかな。明日現場検証にもう一度行こうと思っている」寿は言った。

「ピンポールを突き刺す方法か」あかねはつぶやいた。

「どうしたら出来ますかね?」

「それがわかれば犯人特定に繋がるけどね」

「ちなみに警察としてはどのように見ているのですか?」蘭が言った。

「とりあえずそれは保留にしている。犯人を捕まえればわかることだから、徹底的に容疑者である君たちの行動を精査しているよ」寿はやれやれとした様子で言った。

「では先生方や先輩たちも事情聴取されているのですね」あかねは言った。

「そうだね。あの時は実習を受けている学生は帰したけど、結局一人一人当たっているそうだよ」

「何とも手間ですね」蘭もうんざりした様子で言う。

「仕事だからね」寿は言った。

「あと、脇坂透は学内のLANを使ってメールを送っていたことが分かった。モバイルWi-Fiルーターも期限切れで持ち込んでいない。ちなみにセミナー棟にはLANコネクタはない」

「脇坂先生は間違いなく自室にいたということですね」蘭は顎に手を当てる。

「あの、ピンポールを刺した方法について考えているのですけど」あかねが話題を変える。

「例えば、弓矢のように、こうピンポールを飛ばすってこと出来ないですかね?」

「そんな道具ってセミナーハウスにあった?」寿が言う。

「食堂の前にベルトパーテーションがあったじゃないですか。行楽地とかお店で見かけるようなやつです」あかねは身を乗り出す。

「あれを食堂の入り口の脇の壁に何らかの方法で固定しておいて、パーテーションの部分に矢のようにピンポールをセットして、ベルトの反発力を利用して飛ばすんです」あかねは弓矢をいるようなジェスチャーをした。

「想像力豊かね。あかねちゃん凄い」蘭が手を叩いて褒める。あかねは照れたように笑った。

でも、と蘭は続ける。

「拳銃って、弾をどれくらいの速度で発射するのですか?」寿を見る。

「拳銃の弾?弾や拳銃の種類によって多少違うだろうけど・・・時速九百キロメートルくらいは出るんじゃないかな?」

「そんなに速いのですね。ベルトパーテーションのベルト部分がどれだけ反発するかわかりませんけど、あまり現実的ではないですね。それに工藤さんの方のセミナー棟にはベルトパーテーションがないわ」

あかねは褒められて否定された。頭を項垂れる。

それに、と蘭は続ける

「さっきの死因を思い出して、食堂で殺された森田君は後頭部を柱に殴打されて殺害されているわ。その後にその方法でピンポールを打ち込むことは難しいと思うの」追い打ちをかけられたあかねは机に俯せになる。

「ひどい」あかねはテーブルに伏せたまま言った。

「ごめんね、でもこれは議論だから気にしないで。さ、他には何が考えられる?」

「えー、じゃあ、そうだな」あかねは体勢を元に戻して言う。

「寿さん、死因は森田さんが殴打で工藤さんが絞殺って言っていましたけど、間違いないですか?ピンポールが先ってことはないですか?」

「それは間違いないよ。殴打・絞殺されて亡くなっている。その後だね、ピンポールが突き刺さったのは」寿は言った。

あかねは腕組みをして考える。

「では、殺害した後にピンポールを床に突き立てて、その上から落とすっていうのはどうでしょう?」

「なるほどね。被害者の体重を利用しようっていうわけか」寿が頷く。

頬杖ついて聞いていた蘭が口を開いた。

「仮に床に固定できて突き刺さったとしたら、床に何らかの痕跡が残ると思う。そのような痕跡はありましたか?」寿に視線を向ける。

「その報告はなかったね。それに犯人が一人ではできない。最低二人はいないとある程度の高さまで持ち上げることは難しいね」

「やっぱりだめかぁ」あかねは天井を仰ぐ。

「もっと言ってしまえば、さっきの鑑識結果を満足する状態にならないと思うの」

「というと?」寿が聞く。

「工藤さんの方はピンポールが貫いていて、森田さんの方はピンポールが貫いていなかったのですよね?あかねちゃんの方法だと体重が重いほうが深く突き刺さると思うから、現実と合致しないわ」蘭は言う。

確かにとあかねは思った。あかねはまた考える。なぜ自分だけが考えているのかという点は考えないようにした。

「ではこういうのはどうですか?」あかねは身を乗り出す。

「薬学部に窒素の保管庫があったじゃないですか。確か古くなっていて、実は簡単に中に入れるのですよ。そこの液体窒素を使って死体を凍らせたのではないでしょうか?そうすれば先端が鋭利でなくても突き刺すことが出来ると思うのです」

「液体窒素?どうやって運ぶの?」蘭が言った。

「夏場ですからね、小型の水筒を持っていてもおかしくはないと思います。それを使ったのですよ」

「まあ、魔法瓶のような構造の水筒だったら持ち運びはできそうね」蘭は言った。

「でも、寿さん、死体に液体窒素をかけて表面だけ凍らせることは可能ですか?」

寿は腕組みをして首を傾ける。

「鑑識の人の方が詳しいだろうが、たぶん表面が火傷するだけじゃあないか?」

「え?そうなのですか?」あかねは小声で言った。

「極低温の状態だったら、霜焼けのひどい状態になるだけじゃないかな?」

あかねはまたソファに崩れた。だが、すぐに復帰して、

「そういえば研究室のメンバーにちゃんとした事情聴取はしたのですか?前回は簡単なもので一時的に帰されましたけど」と言った。

「何回か話を聞きに行っているよ。でも当日聞いたことと大して変わらないな」

「かえって、あかねちゃんとかが聞いた方が良く話してくれるかもしれないわね」蘭があかねを見る。

「え?私ですか?ランランさんの方が詳しいはずじゃないですか」

「私が知っていることなんか他の人と変わらないと思うわ。でも、あかねちゃんならもう少しガードを下げて話してくれると思うのよ」

だからね?いいでしょ、とあかねの肩をポンと叩く。

「君らの関係って・・・面白いね」寿は目を細めながら二人を見比べた。

「面白くはないと思うのですけど・・・わかりましたよ。話を聞いて来れば良いのですよね。じゃあランランさんは何するのですか?」

「私はもう一度現場を見せてもらえますか?明日行かれるのですよね?」

「ああ、行くよ。では明日一緒に行こう」

それにしても、と寿は続ける。

「ここまで協力してくれるのは申し訳ないね」

「いえ、あかねちゃんが」蘭はそう言うとあかねを見る。

「納得していない、っていう顔だったから。これを決着着けなければ、たぶん前に進めないのかなって思ったの」ニコッと笑ってあかねを見た。

「いつからそう思っていたんですか?」あかねは聞く。

「あなたがこの店に入ってきたときから」

すっかり冷めきった飲み物と温まった飲み物を各々胃に流し込み、寿と蘭はメールアドレスを交換した上で解散となった。寿はそのまま車で署に戻っていった。この後、蘭は帰宅するとのことだった。事件から一週間、計画研の学生は自宅待機が続いており、教員は後処理に奔走しているとのことだった。時計を見ると十五時だった。この店で約二時間話していたことになる。アルバイトは夜からであるため帰宅するには早すぎる。ドラッグストアに寄って日焼け止めを買って帰ることにした。



翌日、あかねはR大学へと向かっていた。同日、寿と蘭はセミナーハウスの現場検証に向かうとのことで、それぞれ別行動の後、後で情報を持ち寄って議論ということになった。

あかねは、まず教員の話を聞くことにした。大学側の対応のため、教員は奔走されているとのことだったので、時間が取れない可能性もあった。しかし、あかねがアポイントメントを取ると時間指定の条件があったが話を聞く機会を作ることが出来た。

中村教授が午前中の早い段階に来てくれれば都合が良いとのことだったので、あかねはいつも通り起床し、いつも通り電車に飛び乗って、いつも通り時間に間に合わなくなりそうになり、運河に架かる橋を疾走していた。

疾走した結果、約束の時間五分前には五号館が見える所まで来ることが出来た。汗が噴き出してきたので、タオルで拭いた。五号館に向かう途中で自販機コーナーがあったので、お茶のペットボトルを購入した。やはり夏休みの間はキャンパスが閑散としている。ほとんど人気がない。たまに歩いている学生はほとんどが院生だろう。理系の大学院生には夏休みもなく研究室に籠って研究ばかりしている。TAや授業に時間が取られない分、研究が捗るのだろう。

昨日、あかねのスマートフォンに古見澤からメールが来た。内容としては連絡が遅れて申し訳ないということと、現在あかねが置かれている状況に関して心配であることが書かれた後に、でも不運だね、何事もなく解決することを願っています、というあっさりとしたものだった。知恵を貸してください、というあかねの返信には、ランランがいるでしょう?なら大丈夫、との答えだった。蘭に投げたとも取れるが、あかねはむしろ二人の信頼の高さを感じた。

五号館に入ると、まず二階へと階段で上がった。二階には事務室と学年毎の掲示板がある。あかねの目的はこの掲示板だった。トンネル工学の課題が出ていないか確認するためだった。受講生にメールで連絡があると思っていたのだが、現時点で連絡はない。友達に確認すると掲示板に出たということだった。大学近くに下宿している友達に写真を送ってもらえば良いのだが、ついでに確認しに来たのだ。掲示板を見ると課題が書いてあった。今度は自分のスマートフォンを出して写真を撮る。昔はノートやメモに書いたのだろうが、携帯電話のカメラが普及してから、写真で記録する方が確実になった。耳にした話では世間では講義のノートも携帯電話の写真で済ます学生もいるとのことだった。撮影する学生もそうだが、取られる先生はいい気分はしないだろうとあかねは思う。あかねはノートをとることが好きで、自分で工夫して見やすくノートを作ることに楽しみを覚える。後で見返した時に楽しくなった方が良いと思っていた。実際見ることはほとんど無いとしても。

ちゃんと写真が取れていることを確認してから、あかねはエレベータに向かう。上昇ボタンを押したところすぐに扉が開いた。夏休みは使う人間がほとんどいないためすぐに来る。時計を見ると、ちょうど時間であった。エレベータに入って四階を押す。四階は教員の個人研究室である。エレベータを降りて、廊下を見渡す。『教授中村泰雄』の文字が見えたので、ドアをノックする。中から返事が聞こえた。

 「おはようございます。舎人です」ドア越しにあかねは声をかけた。

「どうぞ」

「失礼します。中村先生こんにちは」

「やあ、久しぶりだね。一週間ぶりかな。どうぞ」促されてあかねは入室する。中村先生の部屋は奥に窓があり、その前に窓を背にするように机が置かれている。左右の壁には本棚があり、和書洋書がずらりと並んでいる。

「そこのテーブルで。ちょっと散らかっているね。すぐに片づけるよ」中村教授は席を立ち、机と扉の間に置かれているテーブルの上に積まれている書類や書籍を片付けた。今回の事件の後に増えた書類というわけではなさそうなので、元から片付けられていなかったのだろう。二人は向かい合って着席した。

「さて、電話では聞きたいことがあるっていうことしか言ってなかったけど、測量学について、というわけではないよね?」中村教授は冗談を言ったが、髪や服装が随分くたびれており、顔も疲労が隠せない。

「はい、残念ながら」あかねは言った。

「だろうね。事件についてだろう?」

「はい」あかねは声を落として言った。

「警察に話すことは話したのだけど、今度は君からか。僕でわかることであれば、どうぞ」中村教授はあかねの正面に着席して言った。

「殺害された森田さんと工藤さんについてなのですが」

「工藤さんについては、ゼミ以上の時間はあまり過ごしていないよ。脇坂先生に聞いた方が良い」

「わかりました」

「森田君は指導教員だったよ。森田君に限らないが非常に真面目な学生だよ。ただ、少し真面目すぎるように感じた」中村教授はテーブルに両肘をつき、手を組みながら話した。

「彼には四年生の時に交通流のモデル化をテーマに与えた。解析がメインではあるが、自分で調査も行いたいと提案するなど積極的だったのが印象的だったね。早い段階で大学院に進むことを希望していたから、研究者を志していたのかもしれないな。今後のことについてはいずれじっくりと話をしようと思っていたのだが残念だよ」

最後の『残念だよ』はか細く言った。あかねはつくづく損な役回りだと思った。中村教授とは講義の時しか会うことはなかった。講義では快活に世の中や学生への辛辣なコメントを挟みながら進めていたのが印象的だったが、今や疲弊しきって自分の前で肩を落としている。そんな姿は見たくはなかった。

「そうですね」あかねもトーンを落として言う。

「最近の森田さんで気になったことはありますか?」

「そうだな。板倉君や守屋君のように元気な方ではないが、それでも最近は元気がなかったな」

「悩み事でしょうか?」

「わからん。自分のことはほとんど話さない奴だったからな。それでも気が利くし、言うべきことは言うから、指導教員としては気にしていなかったな」

「そうですか。他に気になることってありますか?」

「実習の数日前から、かなり思い詰めていたように見えた。日常生活や飲み会では特にいつも通りだったので心配はしなかったのだが。今思うと、殺される予感のようなものがあったのだろうか?」

疑問形だったが、あかねに聞いたわけではない。あかねはその発言への返答はせずに次の質問に移った。

「飲み会の後、中村先生はどう過ごされましたか?」

「あの刑事さんに話した通りだよ」

「部屋にいた時に気になったことありますか?」

「あの部屋はかなり防音性が高い。外で何が起こってもわからなかっただろうな」

中村教授は時計を見た。

「舎人さん、すまない。時間になった」

「お忙しいところありがとうございました」あかねが席を立つ。

「舎人さん」中村教授が声をかける。

「少し、気持ちが整理できたよ。ありがとう」

あかねは黙って微笑み、頭を下げて部屋を出た。蘭のようにうまくできただろうかと思った。

中村教授の部屋を出たあかねは、その足で脇坂講師の部屋に行くことにする。脇坂講師の部屋は一階下にある。計画研究室の学生部屋の正面に位置している。そのまま階段を下りて、部屋へと向かった。アポイントは取っていなかったので、在室かわからなかったが、部屋の扉にあるガラスのスリットから覗くと、PCに向かっている姿を確認できた。あかねは扉をノックすると返事が返ってきたので、扉を開けた。

「こんにちは、舎人です」

扉を開けると脇坂講師は窓に対して直行するように机を配置しており、本人の横顔が見えた。

「ああ、舎人さん、久しぶりだね。今日はどうしたの?」

「急に来てしまって申し訳ありません。今お時間大丈夫ですか?」

「うん、どうぞ。事件以来だね」あかねは中に通される。

中村教授の部屋より書籍書類の類はなかったが、部屋の中央に置かれたうち泡で用のテーブルには、書類が散乱していた。脇坂講師は手早く片付けて綺麗にした。テーブルの天板がガラスだったことに気が付いた。

「今日はどうしたの?」

「はい、工藤さんのことについて聞きたいことがあるのですが」

「事件のことについて調べているのか?そんなもの警察に任せておけば良いだろう。なぜ素人の君が調べる?」語気をわずかに強めて脇坂講師は言った。

「そういえば、君は刑事さんと仲が良かったな。その刑事に調べてこいと言われたのか?」

「違います。どんな人だったのか知りたいのです。そうすれば、あの二人が殺害された理由がわかるのではないかと思ったからです」聞いて来いと言われたのは厳密にいえば蘭からなので、嘘ではない。また、理由としては苦しいと思ったが、あかねにとってはそれも理由の一つなので、嘘ではない。

「それで素人探偵の真似事か」そういうとすっかり力が抜けたようになった。

「工藤さんには、僕の研究テーマを手伝ってもらっていた。非常に活発で良い子だったと思うよ。良く手伝ってくれた。ただ本人としては、直接聞いたことはないが、うちの研究室の就職率が高いから来たようだったね」そこまで言うと、体をソファに預けた。

「ちなみに就職先はどこを希望していたのですか?」

「広告業界と言っていたかな?」

「僕としてはそれでも良かった、四年生で決まらずに院に上がることになっても、この分野のことを楽しんでくれるように努めたのだがね」

「他の学生に聞くと、やはりそこまで楽しんでいなかったようだ」

「不真面目な学生だったのですか?」

「そういうわけではないよ。こちらが調べて欲しいことや、論文執筆の上でどうしても追加で解析して欲しいことがあった時は、締め切りが迫っていても泊まり込んででもやるような学生だった。やらなければいけないことはしっかりやるタイプなのだろうな」

「あの、実習中に板倉さんと実習の事で口喧嘩というか、口論していたのですが、二人の仲はどうだったのですか?」

「そういったことはちょっとわからないな。いつも学生部屋にいるわけではないし、学生もそういったことは飲み会の席とかフランクな場で話すことはなかったね」

「そうですか、では事件の日の飲み会の後、何か気になったことはありませんか?」

「刑事さんに話した通りだけど、一時ちょっと過ぎにメールを送信して寝たよ」

「他に思い出されたことはありますか?宿泊施設の中の事とか」

「毎年実習の一日目は学生が疲れ果てて宿泊棟が静かだ。その日以降は慣れてきて夜もうるさくなるがね。今年も同じだったと思うよ」

「そうですか」あかねは腕組みして考える。

「もう終わりで良いか?素人探偵さん」脇坂講師は髪をかき上げて言った。

「あ、はい、お時間取っていただいてありがとうございました」あかねはソファを立って出口に向かった。

「失礼いたします」退出する時に声をかけたら、脇坂講師はソファに座ったまま無言で手を挙げて挨拶した。

あかねは同じフロアにある椎橋助教の部屋も訪れたが不在だった。早起きのためか、指導教員二人の話を聞けたことは運が良かった。学生部屋も覗いてみたが、やはりまだ学生は来ていないようだった。途方に暮れたあかねは、一旦五号館の外に出てみた。日が昇ってきて、肌が焼かれるような気がした。避難しようと図書館へと向かった。せっかくだからトンネル工学の課題の資料を調べて帰ろうと考えたからだ。図書館は五号館から出て、中庭を挟んで向かいにある。中庭は今あかねがいる所から階段を使って降りる形になっている。周辺地面より低い場所にあることになる。そのために中庭を通り抜けることは遠回りになってしまうので、あかねは中庭を迂回するように図書館へと向かった。

図書館の入り口から中に入り、盗難防止用のゲートをくぐる。一階の貸し出し受付前のスペースを通り抜け、理学関係の書架を通り抜けると、自習スペースがある。数週間前は定期試験期間であったため、図書館全体の学習スペースが学生で埋まっていたが、現在は閑散としていた。自習スペースは個別のものもあるが、あかねは広いテーブルが置かれている場所を選んだ。荷物を降ろして、資料を探しに行こうとすると、テーブルを一つ挟んでノートPCを叩く二人の学生が目に入った。

守屋太陽と鈴木拓也だった。



運河の夏は都心よりも二度ほど暑く冬は二度低いと言われているそうだ、と笹倉が言っていた。寿はじりじりと焼ける肌をペットボトルで冷やしながらその言葉を思い出していた。ただ単に運河が都心より高層ビルがなく、影がないために直射日光が直接肌に届きやすいだけだろうと考えていた。寿は今セミナーハウスの前にいた。蘭と待ち合わせてセミナーハウスの中を調べることになっていた。車で来れば良かったが、今日は電車で来ていたので空調の聞いた車内にいることが出来なかった。待ち合わせ時刻の五分前に着いたため、どこかに避難するわけにもいかず影のないこの場所にいる。セミナーハウスには警備員も通常通り待機しているのだが、今寿が立っている門の前にも警察官がいる。

セミナーハウスの前の道をきょろきょろしていると、自転車に乗った蘭がやってくるのが目に入った。

「暑いですね。おはようございます」自転車を停めて蘭が言った。キャップを被っている。

「おはよう。遮るものがないからね。余計に暑くなってくるね」

「もしかして、結構お待たせしてしまいましたか?」

「いや、五分前くらいに着いたところだよ」

「良かったです」

「では行きましょうか?」寿は警備員室に向かった。

「C県警の寿です」警備員の詰め所の窓を覗く。

「ああ、はい。聞いていますよ。ご苦労様です」警備員室から深津が顔を出した。

警備員への事情聴取から事件当夜は深夜零時以降、目の前を通って施設を出るものはおらず、また入るものもいなかったとのことだった。また、蘭が指摘した通り、周辺の地形や施設のフェンスと言った条件から、この警備室の前を通らずに出入りはできないということが警察の調べで証明されたのだ。

警察内部では麻見警視が蘭に対して憤慨していたが、いずれの捜査員もその意見に対し同調する者はいなかった。

警備員が駐車場にあるようなポールを開けてくれたので、二人は中に入る。

「最初にどこを見たい?」寿が言った。

「まるで動物園に来たカップルみたいな会話ですね」ニコッと笑って蘭が言った。

「それ以外に言い方ないだろう?」

「では、セミナー棟から」

二人はセミナーハウス入り口に近いセミナー棟から見て回ることにした。セミナー棟前に着くとセミナー棟入り口には自転車が三台停められていた。

「自転車はまだ返却されていないのですね」

「測量器具もそうだが、念のためまだ置いてもらっている。各人の荷物は中身をチェックさせてもらってから帰ってもらったけどな」

「中村君大変だろうな。足がなくなってしまって」中村は自転車で通学しており、日用品を買いに行くなど、日常生活でも自転車を多用していた。

「もう少ししたら返却する予定だけどね。それにしてもなんで一台だけ高価な自転車なの?」

「これが中村君の自転車です。自分の自転車を出して貢献してくれていたので」蘭は説明する。

「なるほど、他の二台には計画研1と計画研2っていうネームシールが貼ってあるね。これは公用車っていう扱い?」

「はい。研究室のメンバーだったら誰でも乗れる自転車ですね」

五段ほどある階段を上がって玄関へと向かう。蘭はそこで歩を止め、上の庇を見ていた。

「何か?」寿が聞く。

「この上も調べておいた方が良いですね」

二人は講義とへと入っていく。

「セミナー棟の扉の鍵って一括管理だったよね?」寿が言う。

「そうですね」蘭はセミナー棟玄関のドアを引くが鍵がかかっていた。

「中尾さんから鍵を借りてこないといけませんね」

「わかった。俺が行ってくるよ」

寿は男子宿泊棟へと走っていき、数分後戻ってきた。

「中尾さんはまだいるのですか?」

「家から通いできてもらっている。私達だけではわからないことがあるからね」

寿は鍵束からセミナー棟玄関と書かれた鍵を見つけて鍵穴に差し込んだ。

「この鍵束って、今日は事務室から出してもらったけれど、通常は事務室脇の壁に掛けてあるのだよね?」

「そうですね。具体的な管理の仕方は中尾さんに聞いてもらえればよいと思うのですけど。私たちが良くセミナー棟を使うので、いつもこの実習中はすぐに使いやすいところに出してもらっています。信用の上で使わせてもらっているってことですね」

セミナー棟に入ってから直射日光は避けられたが、空調は効いているわけではないので気温は高い。寿は鞄からハンドタオルを取り出して額の汗を拭った。

蘭は、玄関ホールを見渡し、第一セミナー室から時計回りに順番に室内を見て回った。室内に不審なものが落ちていないか、窓の施錠はしっかりされているかを二人で確認していった

「部屋の状態は事件当時のままですか?」蘭は聞いた。

「そのままにしているよ」

第六セミナー室の番になった。

「確かここって、ランランちゃんとあかねちゃんが担当していた部屋だね」

「そうですね」蘭は部屋に入ると、他の部屋と同じように並べてある机の裏や椅子を一つずつ丁寧に見て回った。

「不審なものはないですね」

蘭は窓に向かう。窓といっても壁の面積の大半を占めるもので、ベランダに出るための窓ぐらい大きい。人が出入りすることは容易である。その窓に手をかけて力を籠めると簡単に開いた。

窓の外からは草の間からかろうじて白鳥池が見えた。草の匂いが立ち込めている。

「来てから思ったのだけど、池と施設との間って夏草がひどいな」

「今年は手入れが間に合わなくて大変だったみたいです。本来ならば事件の次の日に業者を入れて刈り取る予定だったって中尾さんが言っていました」

「生え放題だな。ちょっと本部に聞いてみるよ。これは大変だよな」寿が蘭の横から顔を出して言った。

「そうしてもらえると助かると思います」

二人とも顔を引っ込めて窓を閉めた。

「さて、次が問題の工藤由利殺害現場だな」

「いえ、第二セミナー室です」蘭は寿を見ずに言った。

鍵を開けて中に入ると薄暗い室内に、光がわずかに差し込んでいた。テラス側窓に閉められたカーテンからわずかに漏れる光がその光景を生んでいた。室内が高温であることを想定していたが、そのカーテンが幸いして他の室内とさほど変わらない室温となっていた。寿はそれでも室内の電灯をつけた。薄暗かった室内に温かみのあるオレンジ色の光が広がった。

二人は靴を脱いで入り口わきの下駄箱に置いた。

「あのカーテンは遺体発見時も閉じられていたっていうことは、やっぱり殺害の様子を見られないためだったのだろうな」

「そうだと思います。でも警備員さんが巡回する時に不思議に思わなかったのでしょうか?普段は開けられていたのでしょうから」

「夜の警備担当の三木さんに聞いてみたが、この部屋を使用していた学生たちが閉め忘れたのだろう程度にしか思わなかったとのことだよ。他の部屋でも昔にそんなことがあったそうだ」

二人は部屋の中心に移動する。そこには人型に白いテープが貼られている部分があった。その部分のカーペットには赤い染みが滲んでいた。

「ここですね。工藤さんが倒れていたのは」蘭はしゃがみこんで観察した。

「年頃の女の子でそんな風に血の染みを見ているのはきっと普通ではないよね」寿は言った。

「そうでしょうね。こんなこと普通の女の子はしないでしょうね。私もできればしたくないですよ。今はやらなければいけないって思っているから出来るのです」蘭は寿を見上げながら言った。寿は何も言わなかった。

部屋は扉を入って正面に天井まで届いているガラス張りのテラス部分があり、床には他の部屋で見られるようなテーブルと椅子ではなく、クッションが並べられており、床もカーペットが敷かれているため、ここで作業を行う場合は必然的にカーペットに座り込んでの作業となる。そのために入り口に三和土があり、そこで靴を脱ぐのである。入口から左手にある壁には二階に向かう階段がある。

「一応、あかねちゃんの説を検証してみますか?」蘭は周囲を見渡す。

「この部屋の中で弓のように射ることが出来る場所と言ったら二階かな」蘭は上を見上げる。

この部屋の二階部分には東西方向に延びる室内廊下があり、階段を上がって右手には第八セミナー室。左手には扉があり、開けると二階の大講堂の入り口前のスペースに出る。この廊下から弓を射るようにピンポールを突き刺す可能性を考えた。

「でも、かなり無理がないか?」寿も見上げながら言った。

実際に二人で二階部分の廊下に上がってみると、人が一人すれ違うことが出来るスペースは無く、体を半身にしなければならない。ここで廊下にある手すりにゴムなどの弾性体を引っ掛けて弓のように射るには、引きが足らないことになる。

「そうですよね」蘭は言った。二人で一階に降りる。

次は、固定したピンポールに上から遺体を落として突き刺した可能性である。蘭は白いテープが貼られた場所に顔を近づけてカーペットを確認したが、それだけの衝撃を受けた時にできるであろう痕跡は発見できなかった。寿にも確認したが、警察の鑑識の結果もそれらしい痕跡を発見できなかったという。

「あかねちゃん、本気で残念でしたと」蘭は立ち上がって言った。

「実際に殺害現場を見てみてどうだろう?」寿は言った。

「森田君の方も見てみないとわかりませんね。同じ突き刺し方をしたはずなので、場所が違っても同じようにできないと意味ないと思うのです」

そうして、二人はセミナー棟から男子宿泊棟に向かうことにした。



守屋と鈴木は図書館の自習スペースで論文を書いていた。秋に開かれる学会へ投稿予定の論文の締め切りが来週なのだという。あかねは、彼らと同じテーブルに荷物を移動して話を聞くことにした。

「自宅待機に耐えられなくなりましたか?」あかねはPCのキーボードを叩いている二人に言った。

「家で論文書くには限界があるよ。データはあるけど文献は図書館にいないとみることが出来ないじゃん」鈴木がPCの隣に積まれた書籍を見ながら言った。

「それに自宅待機と言っても見張られているわけじゃないからな。刑事さんに連絡して外出の許可が出るって中村が言っていた。中村は実家に帰るって言っていたよ。あいつ東北だからな。関東みたいにジメジメはしなくて良いな」守屋が言った。守屋は黒のニット帽、黒のTシャツに黒の短パンと黒づくめだった。

「そうなんですか。それは知りませんでした」

「あの、ここで会ったのも何かの縁ですから、ちょっと事件のことについて聞いても良いですか?」

「何だよ縁って」守屋がPCの画面から目を離さずに言った。

「お前がいると人が殺されるっていう縁か?」

あかねは息ができなくなりそうだった。まるでプールの中で息をしているように感じていた。あかねは何も言えずに膝の上で握った拳を見るしかなかった。

「おい、守屋、舎人さんがやったわけじゃないだろう?俺らと同じだよ」鈴木が守屋の目を見て言った。

「わかってるよ」守屋は苛立ちながら言った。

「舎人さんごめん、こっちも参っているんだ」守屋は座り直した。

「忘れるように論文書いているけどさ。向き合わないと自分の中で整理ができないってわかっているんだ」よく見ると守屋も顔がやつれている。

「いえ、それは良く分かっているつもりですし。いや、わかってなかったかな。だから守屋さんを傷つけているのですよね」あかねは落ち着いてから声を振り絞って言った。

「俺らも、どう折り合いをつけたら良いかわかっていないんだよ」鈴木が二人をフォローするように言った。

あかねは後悔した。何も考えずに簡単に引き受けてしまったこと、人の気持ちを考えずに踏み込んだこと。古見澤がいなくても何とかしなければと思って、あかねなりに折り合いをつけてこの事件と向き合っていたつもりだった。それは思い上がりも甚だしく、ただのエゴでしかなかったこと。こんなに自分の頭が回るのかというぐらいにそんな考えが通過していった。中村教授も脇坂講師も自分なりにこの事件を消化した上であかねに話してくれたのだ。それが人生経験に基づくものなのかどうかはあかねには判断できなかったが、先輩方を見ているとそんな簡単に消化できるものではないのだ。さっきまで息をして会話して笑いあっていた友達が無残な姿になることを簡単に理解できるはずはない。

「舎人さん、何が聞きたい?」守屋が言った言葉であかねは現実に戻ってきた。

「あ、はい、すみません」あかねは涙していなかった自分を褒めたいと思った。ここで泣いていたらきっと話してもらえなくなる。ここでしっかりしなければいけない。

「では、飲み会の後のお二人の行動を教えてください」

「あの日はおれが飲み足りなくてな。飲み会の余りを少しもらって部屋飲みしようと思ったんだ。そしたら鈴木も飲みたいっていうので二人で俺の部屋で飲んでいたよ。何時までやってたっけ?」守屋は言った。

「んー二時ぐらいじゃないか?そのままお前の部屋で寝たんだよ」鈴木が言った。

「刑事さんには自分の部屋に居たって言っていたけどな。まぁお互いが間違いなく一緒にいたよ」守屋が言った。

あーそういえば、と鈴木が言った。

「小川さんがうるさかったな?」

「そうそう。午前一時回っていたかな?小川さんは端部屋だったんだけど、その隣が守屋で、筋トレの音がうるさかったんで文句言いに行ったよ。俺が仲裁に入って収まったけど」

「あの、森田さんと工藤さんってどんな人でしたか?」声を振り絞って質問する。

そこから二人に聞いた森田裕也と工藤由利の人物像は、中村教授と脇坂講師から聞いた人物像とあまり違いはなかった。

「最近の二人の様子はどうでしたか?」あかねは聞く。

「森田は最近悩んでいたな。元気がなかった」守屋が言った。これも中村教授が発言していた。

「なんで悩んでいたかわかりますか?」

「俺は聞いてないな。鈴木わかる?」

「詳しくは聞いてないけど、これらしいよ」鈴木は右手の小指を立てる。

「表現が古いですね。森田さんって彼女いらっしゃるんですか?」

「そんな話聞いたことないけどな」守屋が言った。

「直接聞いたりしたわけじゃないけどな。なんとなく匂いというか、説明難しいけど彼女出来ると雰囲気が変わるじゃん?」鈴木が言った。

「直接聞いたわけじゃないのですか?」

「うん、人に彼女ができたことより、自分の彼女を作ること考える方が優先順位は高い」鈴木が言い切った。

「はあ」あかねは内心あきれたが、顔に出ないように努めた。

「では工藤さんの方はどうですか?ランランさんに聞いた方が早いですかね?」

「工藤はそんなにランランと仲が良いわけではないと思うよ」鈴木が言う。

「そうだな。ランランはあまり人とつるまないというか、深く入り込まないっていうか。イベントごとの飲み会はしっかりと参加して気が利くし、話していても良いやつだなって思うんだけど、日常でちょっと夕飯食べに行くかとか、みんなでカラオケ行こうかとかっていうときにはいないからな」

ここで蘭のことを言われるとは思わなかった。

「工藤さんが実習中に板倉さんと口論していたように見えたのですが、何かあったのかわかりますか?」

「いや、わからないな。こっちもそれどころじゃなかったし」守屋が言った。

「板倉と二人で実習終わってから帰ったのだけど、何も言わなかったけどな。あいつは不満があったら本人にも周りにも言って共有しようとするんだ。買った弁当に箸が付いていないってことまで喚くからちょっとやりすぎな気がするけど」鈴木が言った。

「理不尽なことしかあいつは喚かないだろう?」守屋が言った。

「正義感が強い人なのですね」あかねは言った。

「正義感か」と言って二人とも腕組みをした。

「ちょっと違うかな」

「そうだな、ちょっと違う」二人とも続けざまに言った。

「正義感っていう言葉を使うなら、『自分が正義と思っている』ことに対してはなりふり構わないって感じか?」鈴木が言った

「簡単に割り切れないですね」あかねは言った。

「人なんて簡単に割り切れないだろう?枠に収まった人間っているか?」守屋はPCを閉じた。



蘭と寿は、男子宿泊棟に入った。下駄箱を使わずに三和土で靴を脱いで上がる。寿が事務室に鍵を返却しようとすると、室内は管理人不在であった。

「あれ?いないや」

「そこのフックに鍵束をかけておきましょう」蘭が言った。

寿が首肯して、フックに鍵束をかけた。

「部屋の鍵って個別に持っていけるのだな」

「そうですね。大きな鉄輪から外せば良いのですよ。考えていることはなんとなくわかりますけれど、これは外して持っていくことは可能ですけど、人を殺そうとしている人にとって見たら、かさばりますよ」蘭は言った。

「そう・・・ですよね」寿は言った。

「森田雄介の殺害現場だよな?」寿が言った。

男子宿泊棟はまだ数人の捜査員がいるようだった。寿が、お疲れ様です、と挨拶をする。

食堂の入り口は平常通り、ベルトパーテーションで区切られていた。

「一応」と蘭がベルトパーテーションに手をかけた時、その手を寿が掴んだ。

寿はゆっくりと首を振った。あかねの説は確かめなくてよいのではないか、と態度で示している。

二人は食堂へと入っていった。

喫茶店で見た図面通り、北側と西側の壁は一面ガラス張りとなっており、東側は配膳スペースである。今はシャッターが下りていて、そのシャッターは施錠されている。

「配膳スペースは空きませんね」蘭が言った。

「盗難防止だろうな。中には包丁とかあるだろうし」

「実際にはそういった凶器は使われていませんものね」

「それにしても広い食堂だな。さすが大学の施設だ」

「実習の時はここが全部埋まりますからね」

「実習する方も食事作る方も大変だな」

二人は食堂の中央に着いた。セミナー棟の時と同様にまだ床のカーペットに白いテープが貼られていた。その中央、蘭が目を凝らして見ると、カーペットにピンポールの痕跡がうっすらと確認できた。

「ピンポールの跡がありますね」蘭は立ち上がっていった。

「うん、これが良く分からないのだよね」

「たまたまってことはないですか?」

「たまたま?」

「セミナー棟の方は偶然に床に後が残らなかったということはありませんか?」

「遺体自体に痕跡が残っているからね。前にも話したけれど、本物の通り魔はピンポール状のもので遺体を地面に縫い付けるように突き立てていた。仮にこの事件の犯人が通り魔の犯行に見せかけようとしているのならば、食堂だけではなく、セミナー棟も貫通させないと意味がない」

「なるほど。ごもっともです」蘭は言った。

「では何らかの理由があるわけですね」

蘭はそう言うと、食堂北西の柱へと向かった。

「ここで頭を打ち付けられて殺されたということですよね」

蘭は柱を触って言った。蘭は視線を北側の壁前面に設置されているガラスに移した。

そのままガラス戸に近づく。ガラス戸からは先ほどセミナー棟で見たような夏草が生えている。セミナー棟よりも一段床レベルが高いので、白鳥池が良く見えた。蘭はガラスの前を横に移動して鍵を見つけた。開いていたのでスライドさせてみる。セミナー棟で嗅いだより草の匂いが強いと思った。

「夏だねぇ」寿が蘭の上から顔を出して言った。

「夏ですね」

蘭は顔を引っ込めて扉を閉めた。

二人は食堂から出てそのままの足で男子宿泊棟から出た。容赦なく太陽が照り付けている。

「どうだろう?何か気になることでもあった?」寿は聞いた。

「そうですね。まだ何とも」

蘭が腕を組んで考えていると、寿のところに制服警察官がやってきた。

「寿さん、お取込み中、申し訳ありません」

「お疲れさん。どうした?」

「あの、ちょっとお話ししたいっていう方が来ているのですが」警官が手を指し示すとセミナーハウスの入り口に眼鏡の女性が立っていた。椎橋美香であった。



二人に話を聞いたあかねは礼を言ってから自分の資料を探しに行った。これが本来の目的だったことを忘れていたのだ。

目的の資料を探し、さらに詳しく書かれていた資料も見つけたが貸し出し禁止だったので、コピーを取った。寿と蘭がセミナーハウスを調べているが、まだ連絡がなかったのでこちらから合流しようと思った。図書館から出てセミナーハウスへ向かう。途中の薬学部前の道に出ると、自転車のベルが聞こえた。振り返ると、セミナーハウスと反対方向から小川が自転車でやってきた。タンクトップにジャージという姿である。

「やあ、舎人さん」良く通る声で小川が言った。また、自宅待機できない一人である。

「こんにちは」あかねは挨拶した。

「舎人さんも筋トレ?」

薬学部の敷地内には体育館がある。これはR大学の全学部の共通施設であり、基本的にいつでも開かれているので、時間が空いたときにいつでも施設利用ができるのである。

「なんで運河まで来て筋トレするのですか。自宅近所でやりますよ」

「運河を見ながら筋トレも良いもんだぞ」小川は口を大きく開けて笑った。

「運河は室内からじゃ見えませんよ。小川さんって毎日筋トレしているのですか?」

「もちろんだ。あの事件の時もやっていたよ。流石に自室の中でできるサーキットにしたけれどな。工藤も森田もとても残念だった。警察には一刻も早く事件を解決してもらわなければいけないな」

「あの日って事件の日ですか?部屋なんかで筋トレして怒られませんでしたか?」

「俺の部屋の下に部屋はなかったけど、横の部屋が守屋でね。みんな俺の筋トレに理解があると思っていたんだが、うるさいって怒鳴り込んできたよ」小川は笑う。

「とてつもない思い込みですね」

「でも、鈴木が仲裁に入ってくれてね。鈴木は俺の筋肉を良く理解してくれていたよ。そういえば森田も俺の筋肉に理解を示してくれていたね」

「仲裁が終わったのは何時くらいですか?」

「二人からの説教が終わったのは零時半だったかな。二人とも帰って行ったよ」

「そうですか」

「舎人さん、筋トレしていくか?」道端でタンクトップを脱ぎだしたので、あかねは小川の太い腕を必死で押さえつけた。

「ごめんなさい、ちょっと予定があるので」

「そうか、筋トレしたくなったらいつでも言ってくれ」小川はタンクトップを着てくれた。



「椎橋さん、どうされたんですか?」寿は太陽で焼けそうになっている椎橋を日陰に入れた。

「いえ、あの、えっとちょっとお伝えしておいた方が良いというか、謝罪をしておきたいことがあるのです」椎橋は歯切れが悪く言った。

「お疲れ様です」蘭が言った。

「蘭さん、自宅待機では?」

「ちょっと諸事情ありまして」蘭は言った。

「警察の方に協力をしてもらっています」寿は言った。

椎橋は少し迷っている顔をしたが、決心したように言った。

「あの、先日事件当日の行動をお聞きになって、お答えしましたが」そういうと、椎橋は眼鏡を直した。

「正確ではなかったので訂正させていただきたいと思って来ました」

「ほう、誤りがあったということですか。では正確に教えてください」寿は手帳を取り出す。

「はい、飲み会が終わって女子棟に戻り、入浴をした後ですが、その、私の部屋に中村先生が来ました」

寿は手帳から顔を上げた。蘭は後ろを向いた。

「なるほど。詳しく教えてください」

「男子宿泊棟での飲み会が十一時頃に解散になった後、十一時五十分ですかね女子棟に中村先生が来ました」

「中尾夫人はいなかったのですか?」

「常にいるわけではないですから。私が十一時くらいからロビーにいて、中尾さんがいない時を見計らって電話で連絡しました。その後、時間通りに施錠されたようで数分遅れていたら危なかったですけど」

「学生に見つかったらどうするつもりだったのですか?」

「明日の実習に関して渡したい資料があるとでも言えば理由は付きます」

「なるほど。えっと言いにくいかもしれませんが、それはいわゆる逢引っていうやつでしょうか?」

「古いな」蘭がボソッと言った。

「ええ、まあそうです」椎橋は冷静に言った。

「なるほど。では中村先生はいつ帰られたのですか?」

「朝ですね。早起きして、私の部屋の窓から外に出ました」

「では中村先生は男子宿泊棟に戻った時に食堂の遺体を見ていたということでしょうか?」

「そのことなのですが、実は森田君はこのことを知っていたようなのです」椎橋は寿をまっすぐ見ながら言った。

「だから、一人だけ一階にいた森田君の部屋の窓から入って、自室へ戻る予定だったと言っていました。森田君の携帯電話にその事をメールで送っていました。中村先生は午前三時ごろまた窓から戻って行ったのですが、あの夜、一階の森田君の部屋の窓は開いていなかったみたいなのです。だから、中村先生は戻ってこられて私の部屋で朝を迎えました。早起きして、窓から出て、その後は男子宿泊棟の開錠を待って、こっそりと戻ってきたと言っていました」

「では、その時に森田雄介の死体に気が付かなかったのですか?」

「入ってすぐに下駄箱側に行って、その脇の階段で上がったから気が付かなかったと言っていました」

「森田雄介にメールを送ったのは何時頃か覚えていらっしゃいますか?」

「零時半頃だったと思います」

中村教授は本日学内処理で忙殺されているために、後日謝罪があるという。

「状況はわかりました。中村教授は妻帯者ですから、倫理的なことの問題は多々あるとは思いますが、それはそれとして、お二人には犯行時間にアリバイがあると言いたいのですね?」

「はい」

「しかし、口裏を合わせている可能性もありますので、残念ながらあまり有効な証言ではないですね」寿は言った。

「そうなのですか」椎橋は肩を落として言った。

「逆に中村先生が秘密を守るために森田君を殺害したとも考えられますよ」

「そんなことはありません。私との関係も奥様との関係が整理ついてから真剣に考えると言ってくれていました」椎橋は取り乱して言った。

「うーんそれだけではね」

「寿さん、中村先生は工藤さんを殺害する理由がないですよ」蘭が後ろを向いたまま言った。

「確かにそうだね。まぁここで結論は出せませんので、後程捜査員がお二人の所に向かって話を聞きますので、その時はよろしくお願いいたします」寿は言った。

椎橋は照り付ける太陽に身を焦がされながら帰って行った。

「驚きだったね。ランランちゃんにとっては複雑だと思うけど」

「そうでもないですよ。勝手にすれば良いことじゃないですか?お互いもう大人じゃないですか。人に掛ける迷惑とか、社会的な問題とか考えても一緒に居たいっていうことだったら他人がとやかく言う必要はないでしょうし」

「でも、疑わしくない人がいないな」

寿が手帳を仕舞っていると、道の奥から椎橋とすれ違ってあかねがやってきた。足取りは重く見えた。

「外を少し歩いただけで身体が削り取られるようです」あかねはぐったりとして言った。

「椎橋さんが、見たこともない表情で歩いていきましたけど、何かあったのですか?」

「何かあったかと言われれば何かあったかな」寿は言った

三人は太陽を避けるために男子宿泊棟に向かった。ロビーにあるソファに座って休憩する。ロビーの端っこには未だ回収されていない測量器具があった。しばらく落ち着いた後、寿と蘭が得た情報とあかねが得た情報を共有した。

「中村先生と椎橋さんが・・・そうですか」あかねは口に手を当てて言った。

「さすがにあかねちゃんにも言わなかったみたいね。若い子に言うべきことではないと判断したのでしょうね」

寿が何か冷たいものを飲もうということで、自分でセミナー棟の自販機に飲み物を買いに行った。二人共ロビーで待機していた。あかねは手に持っていた本を鞄に入れようとしていた。

「あれ?あかねちゃん、その本は?」

「トンネル工学の課題が出たのです。結局掲示板に貼られていましたよ。それで大学来たついでに図書館で資料を探そうと思って」

あかねは本の表紙を蘭に見せる。『山岳トンネルのQ&A』と書かれていた。寿が戻ってきてペットボトルの水を二人に渡す。

「あかねちゃん、何の本?山岳トンネル?」寿も覗き込んでくる。あかねは課題の事を説明した。

「山岳トンネルの何が課題になったの?」蘭が言った。

「えっとこれです」あかねはスマートフォンを蘭に見せる。

「ほう。えっと、一つ目がトンネル工法の一つであるNATM工法について説明をしなさい、と。これって講義で話してくれなかった?」蘭が言った。

「そうなのですけど、ちゃんと調べようと思って」あかねが言った。

「NATM工法って?」寿が言った。

「山岳トンネルで用いられていることが多い工法なのですが、最近は都市トンネルでも使われる工法ですね。新オーストリアトンネル工法の英語の頭文字を取ってNATM工法と呼ばれています」

「へー、トンネルって全部あの回転する平坦なドリルみたいなもので掘るんじゃないの?」

「トンネルボーリングマシンですね。まぁそれもシールド工法の場合はシールドマシンと呼ばれているんです。シールド工法以外で使われる場合の呼ばれ方ですけど。違いはマシンが進む反力の取り方です」

「ほう、全部シールドマシンと思っていたよ」

「随分詳しいですね」あかねが言う。

「一応、院生ですから」蘭はあかねに本を返却して言った。

「NATM工法はシールドとは違うの?」寿が聞いてきた。

「自然なアーチ状のトンネルってその山が安定していれば支持力があるからつぶれないのですよ。NATM工法の特徴はトンネル周辺の地山がトンネル自体を支える機能を持っていることを利用したっていう点です。昔の山岳トンネルは壁面に骨組みとなる支保工を作って、そこに木や鉄板などを当てて、さらにその上にコンクリートを分厚くした壁のアーチでトンネルを支えるのですが、木や鉄板の腐食などでコンクリートにひび割れが発生する問題がありました。それをオーストリアの技術者たちが考えたこの工法が変えたといわれています」

「それって私の課題の答えですね」あかねが言った。

「NATM工法ってどうやってやるの?」寿が言った。

「まず、ダイナマイトや機械で掘削します。そこに壁面全体に吹付けコンクリートを吹き付けて壁面全体を固めます。そうしたら、地山内部に向かってロックボルトを」そこまで言うと蘭は止まった。

「ランランさん?どうしたんですか」

蘭はそのまま動かない。

「ランランちゃんどうした?具合悪いのか?」

「ランランさん?」

蘭は冷たく笑った。

いつものような笑顔ではない。その雰囲気にあかねも寿も一言も発することはできなかった。

「寿さん」とても小さい声で蘭が言った。

「は、はい。なんでしょう?」

「もう、大丈夫です」

「え?大丈夫って?体調が?」

「これをやった人のことです。わかりました」

寿もあかねも腰を浮かせた。

「本当ですか?」寿が言った。

「私ちょっと確認したいことがあるので外に出ます」蘭はソファから立ち上がって言った。

「誰がやったのですか?」あかねが蘭の背中に言った。

「それは・・・本人に直接出てきてもらいましょう」

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