第3話 選点と点呼

 一般的な大学生は、夏休みといったら、海や花火大会などに行くのだろうか?たぶん行くのだろう。あかねは、麦わら帽子を手で押さえ、照り付ける太陽を見ながら考えた。

よく理系と文系の大学生の違いの話を聞くが、授業期間中はそうかもしれないが、夏休みなどの長期的な休みの場合、それは当てはまらないだろうと思う。すべての大学生がお内情な休みを過ごしているとあかねは思っていた。

蘭から、アルアルバイトの話を聞くまでは。

 毎年夏休みに、土木工学科の二年生を対象として、測量実習の集中講義が開かれる。もちろんあかねも一年前にこの実習を受けた。この実習は必修科目に指定されているため、受講しないということができない。受講しないことはすなわち留年を意味する。これも理系の大学生のつらいところだとあかねは思う。実験実習は、その多くが必修となりやすい。最近では選択制を採用し、いくつかの実習科目から数科目を選んで受講する、というような大学もあると聞くが、このR大学はすべての実験実習科目が必修となっている。

鬼のような所業だという声も同期から聞こえる。

最も実験実習が多いのがあかねの学年である三年生であり、前期後期併せて三科目もある。この他に、設計製図の実習もある。これは実験のような体を動かすようなものではないが、膨大な計算書と図面作製がある。これが通年で開講されている。

もちろん必修。

それに比べれば、二年生はコンクリート工学実験と測量実習しかない。当時は大変だったような記憶があるが、今の自分の現状に比べれば、大したことはないなと思った。

これは成長なのか、それとも慣れなのか、あかねは良く分からないが、前者であることを祈るばかりである。

 そんな測量実習にあかねは学生アルアルバイトとして手伝うことになった。ティーチングアシスタント(TA)である。実験実習は必修科目であることが多く、履修する学生の数もおのずと増える。私立大学の場合、一学年の学生数が百名を超えることもある。教員数人だけではすべての学生に対して指導することは物理的に不可能であるし、安全面で配慮が届かない場合もある。

そのために、教員の研究室の大学院生を中心に、TAとして実験実習の指導補助のアルアルバイトを行う。実際は、ほとんど学生が教えることが多いが、自分が理解していないと人に教えることは難しいため、学生にとっては良い勉強となる。そんなことを蘭から教えてもらった。

発端は一週間前、五号館の廊下で蘭に遭遇したことである。

「あかねちゃん」

あかねは五号館二階の連絡掲示板を見に来ていた。最近は、大学にポータルシステムが採用されるところも多く、直接教員が学生とメール等で連絡を取ることも可能であるが、未だに掲示板による連絡を取る教員も残っている。学生にとっては、否応なしに届けられるメールの方が見る可能性は高いとあかねは思っている。連絡掲示板は、ポータルシステムのようなものが採用されるまでは、履修上の注意、休講情報、定期試験の結果に至るまで、様々な情報が掲示板に張り出されていたと聞く。ちょうど古見澤さん達が大学に入学した時くらいまでだと聞いたことがある。

「ランランさん、こんにちは」

あかねは手を振って応える。昨年の測量実習の時にとても仲良くなった。それから、大学内で会う度に挨拶してくれていた。上兄弟のいないあかねにとって、本当の姉のように慕っていた。

「もう、定期試験よね?勉強大丈夫?ちゃんと単位取るのよ」

蘭は自分の肩をあかねにぶつけた。

「大丈夫ですよ。二年の時まではしっかり取れていますから」

「だんだん専門科目が多くなるからね。高校の時の延長で何とかなる時代はもう終わりよ」

その言い回しが、あかねは面白かった。

「あ、そうだ、あかねちゃんさ、定期試験終わった次の日から時間ある?」

「大丈夫ですけれど、なぜですか?」

「学部二年の測量実習あるでしょう?」蘭はニコリと笑っていう。

「それのTAをお願いしたいのよ」

「え、それって学部生がやっても良いのですか?」

「本当はダメ。だから、非公式ね」

「予定は、悲しいかな、特にないので問題はないのですが、三泊四日ですよね?」

「そうなの。ちょっと長いのだけれど」蘭は、困った顔をする。

それすらも可愛らしく見えるから、美人は得だと思う。私が男友達の前でやったら、きっと空き缶が飛んでくるだろう。

「あのね、今、うちの院生は女の子が私含めて二人でしょう?椎橋さんを入れても三人。学部生には女の子がいないの。男手が多いから、力仕事はとっても頼りになるのだけど。実習の時って、二年生の女の子の対応が大変なのよ」

「ああ、女の子って配慮がいろいろ大変ですからね」

あかねにも覚えがあった。あかねたちの時は、日射病で倒れる女友達もいたし、実習中のトイレ等の問題もある。トイレの問題は、あかねが手伝ったところでどうにもならないのだが。女手が多いほうが、何かあったときの対応が取りやすくなるということに、あかね自身も賛成であった。

最近の土木工学科は女子学生の割合が多い。もちろん蘭の時も多かったとは思うけど、教授たちの年代から見れば、かなり多くなっていると思う。社会的にも女性の進出が目を見張るようになってきて、卒業して働こうと思っていたあかねにとっては、嬉しいことだと思っていた。

建設業界にとっては、女性が働く現場はイメージも良く映るのだと思う。最近だと、土木系女子のことを『ドボジョ』と称し、イメージアップを図ろうとしている。まさに、蘭や私のような学生が、未来の『ドボジョ』を担っていると思う。その話を以前ばったり会った蘭に話したことがあった。

その時は、蘭は『ドボジョ』という言葉が嫌いだ、と言っていた。決して女性平等がどうこう言う人ではなく、むしろ、それぞれの役割があるから、自分の役割を見つけて動くことの方が重要と思うタイプの人なので、あかねは珍しく思い、覚えていた。曰く、男が働いたところで『ドボダン』とは言わない。あえて、『ドボジョ』ということのそれだけ建設業界で女性が働くことを特別視していると思い、意味が良く分からない、ということだった。

あかねは、蘭が言っていることは理解できるが、心から納得することはできなかった。あかねは土木の世界が好きであり、その世界をもっと世間の人に知ってもらいたいという思いがある。そのためになるのであれば、それくらいのことであれば、喜んで総称されようとも思っている。

「そうなの、手伝ってもらえないかしら?私もあかねちゃんが手伝ってくれたら、嬉しいのだけど」蘭はまだ困った顔であかねを見てきた。これは勝てそうにない。

「はい、では手伝わせてもらいます」あかねは笑顔で返す。

ありがとう、詳しいことはまた連絡するね、と言い残し、蘭は去って行った。

それが一週間前。

現在、あかねは五号館の前にたどり着いた。時刻は八時五十分、集合は九時なので時間はまだあった。

時計を確認していると、五号館の脇から、人影が現れた。

「あ、舎人さん?」

よく見ると、修士二年の小川雅人がいた。短い髪に色黒の肌が、夏を感じさせる。アメフトをやっていたそうで、修士になってもたまに部活に顔を出すのだそうだ。卒論時に行き詰まったら、筋トレをしていたというその体は、太ってはいないものの、引き締まった筋肉がタンクトップからのぞいている。

「お疲れ様です。今日からお世話になります」あかねは麦わら帽子を取って、挨拶した。

「いやいや、こちらこそ、大事な夏休みを消費させてすまないね」

小川は、笑顔を見せて近寄ってきた。手には籠を持っており、中に大きい巻き尺が整理されて入っていた。幅跳びなどで距離を測定するときに使用するタイプの大きい巻き尺だ。外側にハンドルが付いており、目盛りが付いたテープの部分を巻き取れる。

「これ運ぶのですか?お手伝いしますよ」あかねは持とうと近づく。

「ああ、良いよ。大丈夫。これ鋼巻き尺だから重いのだよ」小川が言う。

「ああ、そうだったのですね」

鋼巻き尺というのは、距離測量を行うときに使う道具である。外観は先ほど幅跳びで使うような大きいタイプの巻き尺と同じだが、目盛りが記入されているテープの部分が大きく異なる。一般によく使われる場合はビニール製や布製があるだろうが、これは目盛りの部分が金属でできている。そのため、ビニール製のものに比べると若干重い。それが籠に入っている。もちろん一つや二つではない。それを重そうにしてはいるが、小川は一人で持っている。

「あの、先輩が力持ちなのは良く知っているのですけれど、やはり安全面から言うと危ないですよ?」あかねは丁寧に言った。でも、本気で危ないと思ったからだ。

「うん、それもそうだね。言う通りだ。安全第一だね」

うーん、爽やかなのだけれど、ちょっと筋肉に頼りすぎだな。

「これから研究室にお邪魔しますけれど、誰か呼んできましょうか?」

「あ、そうしてもらえると助かるよ」小川はまた爽やかな笑顔で言った。

小川に挨拶をして。五号館に入ろうとすると中から、森田が出てきた。森田はあかねのサークルの先輩で、かつ計画研の修士一年である。

「あ、森田さん」

「おう、森田」二人同時に声を上げた。

森田は、二人に同時に声をかけられたためか、驚いた様子で立ち止まった。

「な、何ですか?」

「森田さん、タイミングよかったですよ。小川さんが重いものを一人で運ぼうとしているので、手伝ってあげてもらえませんか?」

あかねは森田のそばに近づいて言う。

「え、小川さん、さっき研究室で通り魔の話をしていたら、筋肉と対話したいって言って出て行ったじゃないですか?何しているのですか?」

森田は小川に言った後、あかねを見る。

あかねも森田を見る。

暫しの沈黙。あかねは溜息を一つ。

「森田さん、お願いします」頭を下げる。

「頼むよ、森田」小川も笑顔でお願いする。

うんざりした顔で森田は小川に近づき、籠の片側の取っ手に手をかける。

「どっちにしろ、セミナーハウスに行かなきゃいけなかったので、良いですよ」

「悪いな。じゃあ舎人さん、またな」

小川は、まったくうんざりした表情の森田と共に、歩き出していった。

あかねはその後姿を見送った。

小川は横を向き、何か森田に話しかける。森田は進行方向だけ見ている。小川が笑っている。その繰り返しだった。

良い先輩後輩じゃないか。あかねは思った。

振り返り、あかねは五号館へ入っていった。


 あかねが計画学研究室のドアをノックした時、時刻は八時五十九分だった。ギリギリセーフ。どうぞ、という声を耳にしてからドアを開ける。

「おはようございます」

あかねは肩にかけた大きめのポーチの紐をかけ直し、ボストンバックを持って入っていった。冷房が心地よく感じた。しばらく涼んでいたい。

部屋には、中村教授、脇坂さん、椎橋さん、工藤さんそして、修士一年が四人いた。修士一年の四人は、昨日寿の話を聞いていた、板倉と中村以外に、守屋太陽と鈴木拓也もいた。

「舎人ちゃん、おはよう。今日はよろしくね」中村教授がにこやかにやってくる。

「ご迷惑おかけしますが、よろしくお願いいたします」あかねは丁寧にお辞儀をする。

「いやいや、助かるよ。女手が足りないからね。アルバイト代は多く出せないけれど、お願いね」

「私がお手伝いして、ご迷惑でなければ良いのですが」あかねは恐縮した。いくら蘭からの推薦と言っても、自信があるわけではない。

「舎人さんなら、大丈夫よ。測量実習の時、とてもがんばっていたもの」椎橋が言う。

しかし、あかねは本当かな、と思っていた。自分はピンポールを持ちながら寝ていたのだ。椎橋さんはあまり見ていないな、と思った。しかし、それが嘘だとしても、このアルバイトは自分のためにもなるだろうと思って頑張ることにした。

これから始まる就職活動で、エントリーシートを書く時の良いネタになると考えたからだ。

あかねは恐縮した顔で、教員たちが座っているソファを通り過ぎ、適当な椅子に座る。その前に、修士一年の先輩方にも挨拶を忘れない。

座っていると、先輩方の方から話し声が聞こえてきた。

昨日の寿の話のことだった。

「その通り魔が、死体に刺していたのだってさ」板倉が言った。

「ピンポールを?」守屋が答える。夏なのにニット帽を被っている。

「そうそう」板倉が両手を頭の後ろに組んで、椅子にもたれかかっている。

「そうじゃないだろう?まだピンポールと決まったわけじゃないし」中村が訂正する。

「あの写真の形状を見る限り、俺はピンポールと思うね」

「それをあの刑事さんは聞きに来たのだろう?それに中村先生も断定できないって言っていただろう」中村が言う。

「そんなものを持って歩いている奴がいたら、近寄らなければ大丈夫だよ」板倉が強く主張していた。

「そんなもの手にして歩いていたら、誰も近寄らないし、確実に警察呼ばれるだろう?」守屋が目を細くして言う。

「あ、そうだな」

板倉がそう言った後、四人で笑った。

なんて緊張感のない会話をしているのだろうか。実際に被害に遭っている人がいるのに。

古見澤が言っていた言葉を思い出す。

曰く、人から聞いた話なんてそんなものだろう。確かに。

脇坂が壁掛け時計を見て、九時を回っていることを確認すると、立ち上がった。

「では、そろそろセミナーハウスに移動しましょうか?」

全員が椅子から立ち上がった。あかねも立ちあがる。

脇坂が院生とあかねのところに来た。

「じゃあ、部屋にいる院生と舎人さんはセミナーハウスに持っていくものを準備してください。当面、配布するテキストを持って行ってください。工藤さんは説明用の共有PCを持って行ってください」

院生が他の机に小分けされて山積みになっている紙の束を抱える。

「ある程度の機材は前日の内に小川君たちが運んでくれたからね。テキスト以外持っていくものはほとんどないのだけど」

テキストは、院生とあかねでちょうど持ち切る程度の量だった。

流石に百人程度の分量だとこれくらいの人数がいないとつらい。

教員たちは、宿泊用の荷物を持ち、部屋を出る。

脇坂が、扉を抑えていてくれたため、学生たちがテキストと荷物で一杯一杯であっても、スムーズに部屋を出られた。

「施錠してから降りるから、先に行っていて」脇田が鍵束を出して言った。

院生とあかねは、エレベータを使って一階に降り、五号館を出た。そのころには後ろから脇田も追いついていた。

予定としては、これからセミナーハウスへ移動し、午前中は学生への説明、いわゆるガイダンスが始まる。これが一コマほどある。それから、お昼を食べて、実習場所へ移動し、一日目の実習が始まる。

それにしても、テキストが重い。

先ほどテキストの持ち分を分配する時に、パラパラと中身を見てみた。

今回実習を受ける学生の名簿が記載されていたが、総人数が百二十名であった。つまり、百二十名分のテキストを五人で分担して持ち運んでいる。

女の子だから、持つ量は少なくても良いよ、と言われるかと思ったら、板倉がきっちり等分にしていた。

ちょっと気を使ってもらいたかったけれど。二の腕が逞しく見えたのかしらと思い自分の二の腕を見てみた。

重いテキストの束を持っているからか、パンパンに張っていた。これではランランさんと比較できないな。

そういえば今朝から姿を見ていないことに気が付いた。

五号館を出た時、五人は同時だったが、体力差があるため、次第に五人の間に差ができていた。あかねの横には、鈴木がいた。

「鈴木さん、テキスト重いっすよね」

鈴木は、あかねの言葉が耳に入っているのか、良く分からなかった。

「まあ、毎年学生が多いからね」

息が上がっているような様子だったが、答えてくれた。

「今日は、ランランさん来ているのですか?」

鈴木はテキストを持つ手を少し変えるような仕草を見せた。

「蘭は、もう来ているよ。今日は一番乗りじゃないかな?」

あ、もう来ているのか。セミナーハウスに行っているのかな?

「先にセミナーハウスに行って、説明の準備をしていると思うよ」

「そうなのですね。教えてくれてありがとうございます」

あかねは、ちょこんと頭を下げた。

鈴木は、人見知りするタイプかもしれない。さっきから私の方見てくれないし。

「舎人さん、ちょっと聞いて良い?」

そんなことを考えていたため、急に鈴木に声をかけられて驚いた。

バランスを崩して、テキストを落としそうになる。

「何でしょうか?」

「舎人さんは、古見澤とすごく仲が良いよね?」

「はい、大好きです」

あかねは素直に言った。隠す必要はないし、むしろ公言して行こうと思った。外堀を埋めてから本丸を攻める、という戦略がやはり定石だよね。

「ああ、そうなんだ。すごいね、なんの躊躇もなく言うんだね」

驚いた様子で、鈴木はあかねを見た。あ、初めて見てくれた。嬉しい。

「はい、隠す必要はないかなと思って」

「そうだよね。たまに五号館で見かけるけれど、まったく隠していない」

鈴木は笑った。

笑うとえくぼが出るんだ。なかなか可愛らしい。

彼女はいるのだろうか?彼女がいたら、きっと優しい人なんだろうな。

「それが何か?あ、不愉快でしたか?鈴木さんって、あまり人前ではイチャイチャしない方が良いと思う人ですか?」

「いや、僕はそうは思っていないよ。むしろ、うらやましく思っているんだよね」

「うらやましい?」

ちょうど、テキスト運搬組が大学裏門に差し掛かったところだった。ここから大学構内を一旦出る。すぐ前に車道があり、すぐにまた大学の敷地内に入ることになる。見た目は、ただ道を渡っただけである。

道を渡ったところは、インターロッキングブロックの歩道が並び、歩道の両脇は、芝生とちょっとした木々が並んでいる。五十メートルほど進むと右折するルートになっており、その先にはコンクリート打ちっぱなしのカフェテラスがある。

「なぜうらやましいのですか?」

「君みたいに、気持ちを素直に表現できることがさ。うらやましいと思うんだ」

「そんなに難しいですかね?思ったことを口にすれば良いんですよ」

「それが難しいんだよ」

「そうですか?今、気持ちを表現したじゃないですか?うらやましいって」

「それはそうだけれど」

「本当に言いたいことが言えないっていうことですか?」

鈴木は黙ったままである。きっと図星なのだろう。

深くは追及することはやめようと思った。

横を見ると、カフェテラスがあるが、ほとんど人は入っていないようであった。

店員が暇そうにしているのが見えた。

テキスト運搬班の五人と脇坂は、歩道の最後まで到着した。

そこはさらに車道となっており、それを渡ると、R大学の薬学部の敷地となる。

あかねたちは、車道に沿って右折した。薬学部を左手に見る形になる。

車に注意しながら進むと、下り坂になる。

普段は緩やかな坂だが、重たいテキストを持っていると下るのも一苦労である。

前を見ると、脇坂と院生三人が薬学部の方を見ながら話をしていた。

下り坂で歩く速度が遅くなったためか、話を聞き取ることができる距離まで近づいていた。

「薬学部って、女の子多いですよね」息を切らしながら守屋が言った。

「割合だと、確かに女子が多いのだけれど、大差ないのだよね」脇坂が言う。

まあ、土木工学科に比べれば、そりゃ多いでしょうよ。後ろにその中の一人が歩いているのだけれど。お分かりですか?

「最近ですよね?薬学部って」板倉が言う。

「五年だったかな?」

「先輩が言っていましたけど、元々ここの敷地は何もなかったんですよね?」

「うん、でも何もなかったわけではないよ。今は移動しているけれど、部室棟と機関室と液体窒素の保管庫があったかな。液体窒素の保管庫はまだあるよ。ほらこれ」

一行は、すでに坂を下りきっていて、道なりに左折していた。右前方にはセミナーハウスが見えている。脇坂は左方を指差して言った。フェンス越しに鉄製の大きな容器が設置されており、その周りをさらにフェンスが囲っている。薬学部の敷地の隅っこに設置されていることになる。容器にはバルブのようなものが見えるので、これが液体窒素の保管庫なのだろう。

「でも、ぼろいっすね」板倉が言った。

「いずれ建て直すでしょう。道路のすぐ傍だし、移動するかもしれないね」

テキスト運搬班一行は、道なりに進む。

右前方にはセミナーハウスが見えているが、あかねたちのすぐ右手にはフェンスがあり、その向こうには大きな池が広がっている。池と言ってもなかなか広い。古見澤が言うには白鳥池というらしく、季節になると白鳥が羽を休めに訪れるのだという。

古見澤は、胴長という、胸まですっぽり入るゴム製のつなぎのようなものを着て、ちょうどこの時期に、この池の生態系を調査したことがあるらしく、その時に白鳥がいるのを見つけたらしい。

しかし、繁殖期だったためか、非常に気性が荒い状態だった。目視で遠くにいたことを確認していたが、次の瞬間には、白鳥が古見澤を発見し、水面すれすれの低空飛行でこちらに向かってくるところだったという。からがら池から逃げ出してきたと話していた。

問題の池を横目に歩いていると、木々の間から大きな白い鳥がいるのが見えた。お、白鳥か?毛繕いをしているような仕草だった。

位置関係としては、セミナーハウスの裏手が白鳥池である。この時期、虫が発生して大変ではないだろうか?今日からあそこに泊まるんだよなぁ。

さらに歩くと、セミナーハウスの敷地の全容が見えた。

正面、敷地の入り口には、警備室が見えた。敷地の中には駐車場も見える。そのため、警備室の前には、街中にある駐車場の入り口のようになっていた。車で入場する場合は、発券してから、ポールが上がる仕組みである。歩行者は、警備室の前を通って中に入る。

脇坂を含めた六人は、警備員に挨拶をした。

「今日からお世話になります」脇坂が頭を下げる。

あかねたちも同時に頭を下げた。

「はい、よろしくお願いしますね。暑くて大変だろうけれど、がんばってね」

おじいちゃん、というにはまだ若いがよく見るとがっしりと筋肉質の警備員が、気さくに挨拶を返した。しかし、帽子をしっかりと取って挨拶していた。

 警備室を通り抜けると、左が駐車場で、右側に建物が三棟並んでいた。入口手前の建物が所謂セミナー棟である。この中には、全部で八部屋のセミナー室と大講堂がある建物である。この測量実習では、このセミナー室を使って計画を練り、測量した結果を整理する。

これから行うオリエンテーションの会場でもある。セミナー棟の隣、セミナー棟よりは小ぶりだが、二階建ての建物がある。これが女子用の宿泊棟である。さらに入り口から最も遠い場所にあるのが、男性用宿泊棟である。この建物が三つの中で最も大きい。この宿泊棟の中だけに食堂がある。

 六人とも宿泊の荷物があるが、オリエンテーションの時間が迫っているために、とりあえず、テキストを搬入することになった。時間的には実習を受ける学生はすでに大講堂に集まっている時間だ。

 脇坂に連れられ、あかねたち六人は、セミナー棟に入ることになった。

セミナー棟は地面から階段五段分上に建てられている。正面の階段を上がると庇があり、その奥に正面玄関がある。さらに正面エントランスホールがガラス張りとなっている。外部から見ると、二階のホールおよびそこへ上がる階段まで良く見える。さらに正面向かって右手の部屋一階部分がガラス張りとなっており、外から中が確認できるようになっている。今は、カーテンが閉められており、中は見えなかった。

あかねたちがエントランスに入ると、わずかに人の話し声が聞こえてきた。大講堂は二階である。セミター棟の一階は、エントランスの脇に大階段があり、二階へ続いている。一階は左右に廊下が伸びている。一階には、全部で六部屋あり、二階に大講堂と残り二部屋がある配置になっている。一階の配置としては、左右に伸びる廊下のエントランス側に、エントランスを挟んで二部屋あり、その対面に四部屋が配置されている。その四部屋は、エントランス正面に見えるトイレと講師控室および管理人室を挟んで、両脇に二部屋ずつ配置されていた。

 あかねたちは、エントランス横の大階段を上り、二階へ上がる。二階は二部屋の講義室と大講堂がある。階段を登り切った正面には大講堂の扉がある。入室は部屋の前後にある扉からである。よくテレビで見るような大学の大講堂のように傾斜が付いていることから、片方の扉は、十段ほどの階段を上って入室することになる。二階へ上がってきた階段の右脇には扉があり、それを開けると、短い廊下にでる。右側は一階からの吹き抜けになっており、セミナー棟の正面右手のガラス張りの講義室が下に見えることになる。短い廊下の先にはさらに扉があり、そこが二階の一つ目の講義室になっている。もう一つの二階の講義室は階段を上がって左手にある。大講堂の前方扉の正面に位置することになる。

 あかねたちは、大講堂の後方の扉から入ることになった。二階への階段もきつかったが、さらに階段を上がることになった。大講堂の扉を開けると、セミナー棟に入った時とは異なり、賑やかな学生の声が、あかねの鼓膜をたたき始めた。

「毎年、この時間だけだよなぁ学生がうるさいのは」守屋がつぶやいた。

「そうですよね。これから四日後には、無駄口叩かなくなるくらい、気持ちが制圧されますからね」あかねは笑って答えた。

本当に同情する。

恐らく現時点までであかねがやり直したくない授業科目と言っても過言ではないだろう。他の大学がどうかは知らないが、R大学はなかなかのスパルタだと思う。しっかり喰らいついて、単位をとれて良かったと思う。余程の事でもないと単位を落とすことはないと思うけれども。

大講堂を見渡すと、前方の壇上に、中村先生がいた。そばに工藤さんと椎橋さんがPCをプロジェクタに接続していた。また、前方扉付近には小川さんと森田さん、そしてランランさんがいた。

あかねと目が合い、笑って手を振ってくれた。

「じゃあ、テキスト配布しようか。学生は班ごとに座っているから、班ごとに仕分けてくれる?あと、あのイベント用にちゃんと仕掛けを入れておいてね」脇坂が言った。あかねには何のことかわからなかった。確かに、何かちょっとしたイベントがあったような。

 あかねたちは、運搬したテキストや荷物を、大講堂の一番後ろの席に置いて、テキストの仕分けを始めた。学生たちは強制的に前の方に着席させられている。これは、もちろんそのような指示があるためで、教員としても管理しやすくなる。だが、あかねからしてみれば、日常の講義の時間とは異なった状態のため、新鮮に映った。自分たちの時もそうだっただろうか?彼らと同じように、友達と喋ったり、スマートフォンをいじっていたり、していたのだろうか?そんなことを考えていると、先輩方はすでに仕分けを終えていた。あかねは多少気まずかったが、あまり先輩方は気にしていないようだった。

「舎人さん、はい。座席表渡すから、この束をあそこの一帯にいる学生に渡して」守屋からテキストを渡された。

あかねは指示された一帯にいる学生にテキストの束を手渡した。大講堂の後部に悖ると、テキストの束が、学生間に行き渡る様子を見ることができた。

 壇上では、中村先生がテキストの行き渡る様子を確認した後、話し始めた。

「テキストは行き渡りましたか?みなさんこんにちは」

会場内のいたるところから、返答があった。

「では、待ちに待った測量実習を始めたいと思います。いきなり皆さんに測量を始めてもらうわけにはいきませんので、午前中は、座学で授業の復習と測量機器の説明などをしたいと思います」

あかねたちは、場所を移動して、大講堂の前方に移動した。

「その前に、実習のスタッフ紹介をしたいと思います。まず、私中村と脇坂先生、椎橋先生がメインのスタッフです。そして、これから三泊四日で皆さんの実習のお手伝いをしてくれるTAの先輩方も紹介しておきます。彼らも実習中は我々教員と同じ立場のスタッフと思ってください」

それから、学生TAの紹介が始まった。淡々と進んでいたが、小川先輩の順番になり、突如Tシャツを脱いで、鍛え上げられた筋肉を見せて、「小川ですっ、よろしく」とファンキーな紹介をしてしまったため、失笑が会場を包んだ。最悪な空気で自己紹介が終わった。あかねも最初に挨拶すれば良かったと思ったが、修士二年から順番に行われたため、無理であった。何しろ、小川先輩以下、全員滑り倒したから、良しとしよう。

「TAのみんな、ありがとう。小川は、さっさと服を着てくださいね。うら若き乙女もいるのだから」

「はい、僕は紳士の筋肉を持ってして、みなさんを」

そこまで言って、工藤先輩から、テキストで叩かれ、耳を引っ張られて、会場から退場した。脇坂先生も苦笑しながら退出する。

脇坂先生と修士二年の二人はここから別行動になるそうだ。椎橋さんと修士一年とあかねは、中村教授の説明のサポートを行う。と言っても、測量機器の説明の時だけなので、それまでは、後方に座って、説明を聞くことになった。測量実習の内容をすっかり忘れていたあかねにとっては、良い復習である。

席に座ると、隣にはランラン先輩が着席した。

「ごめんね、変なもの見ちゃったよね」小声であかねに言ってくれた。さっきの筋肉のことだろう。

「あー、そうですね。まぁでも、良い仕上がりでしたね」

「そこ?筋肉フェチなの?」

「そういったわけではないのですけれど、有機的な美しさってあると思うのですよね」

「ああ、うん・・・」

あれ?コメントが良くなかっただろうか?でも、本当に思ったことだからね。仕方がない。

「あかねちゃんは、測量機器の使い方覚えている?」

ランラン先輩が首を傾げながら聞く。顔が綺麗なので、そんな仕草されたら、簡単に男の子は落ちてしまうだろうと思う。けれども、未だに彼氏がいるという話は聞いたことない。かといって、研究などにのめり込んでいるような雰囲気ではない。不思議な人だな。

「いえ、全く覚えていません。ここでお手伝いすることが申し訳ないくらい。だから、中村先生の説明を聞いてしっかり思い出そうと思います」

「そうね。しっかり思い出してね」

ランラン先輩やさしいな。壇上では、中村先生のスライドが始まっていた。

「さて、この実習で皆さんに実施してもらうのは、基準点測量というものです。一年生の時に話はしましたが、まぁ忘れているでしょうから、少し思い出してもらうために、この時間を使って、概要をお話ししたいと思います」

中村先生はPCを操作し始めた。

「まず、基準点とは何か、ということですが、これは、あらかじめ位置と標高が所与の精度で与えられている点のことです。我々が今、存在している空間を三次元座標として捉える場合に、その位置座標が既知の点のことを基準点と言います。基準点の中には、三角点、水準点や電子基準点等があって、現在の測量ではこれらの点をもとに測量が行われています。皆さんにはこの基準点を自分たちで新たに設けて、その点の座標を測量してもらうということになります」

学生たちは話が始まると、テキストを眺めながら、耳を傾けている。しかし、ほとんどの学生が話を聞いているだけだ。手にペンなどを持ってメモを取る学生はほぼいない。テキストがあれば問題ないと思っているのだろうか。そもそも実習だからメモなどがあれば良いということか。あかねにはわからないが、自分はそんなことはできないと思う。なんか話をしている人に対して失礼だと思うから。

そんなことを考えていても、誰に伝えるわけでもないし、意見したところで、何が変わるわけでもない。人一人の人間の考え方など簡単に変えられるわけはないと思う。

「今回の実習では、大学のグラウンド一帯を測量します。昨年までは運河でしたが、ちょっと趣向を変えました。測量方法は多角測量、水準測量そして距離測量の三つを実施してもらいます」中村先生がスライドを変える。

今年は楽になったなぁ、というのがあかねの率直な感想である。あかねの年代は(といっても一年前だが)、中村先生の説明通り、運河を測量した。本当に夏場は本当にしんどかった。

映し出されたスライドには三つの測量方法の簡単な説明が記載されていた。

多角測量とは、トラバース(折れ線)測量とも言われ、すでに国や市などが設置した既設基準点とは無関係に複数の基準点を折線上に新設する場合の測量を言う。比較的狭い土地の測量の用いられることが多い。この折れ線を構成する線分の距離と隣接する線分のなす角を測定し、両方の測定結果から新設基準点の位置座標を決定する方法である。トラバース測量には大きく分けると二つある。二つの既設基準点を結び付けるように、その間に基準点を設置する方法を『結合トラバース』と言い、一つの既設基準点から出発し、再びその点に戻ってくるようにその間にいくつかの新設基準点を設け、多角形を形成する場合を『閉合トラバース』と言う。今回は、結合トラバース測量を用いて、グラウンド一帯を閉合するように新設基準点を決めるようだ。

また、水準測量とは、高低差から標高を算出する測量方法である。トラバース測量では、角度ならびに距離を測らなければいけないために、実習としては、角度、距離、高さを測定できるということで、一通りの重要項目は網羅できるということになる。

 中村先生の説明は、その後結果の整理や測量時に気を付けなければいけないことまで説明があった。ラグランジュの未定係数法など、あかねにとっても懐かしい、もとい、ああ、そんな事習ったな、の時間が瞬く間に過ぎた。

「では、次に測量に使う器具について説明します。使い方などは、後程、TAから説明があると思いますので、概略ということで。では、お願いします」

中村先生がこちらに視線を向けた。院生とあかねは、一度外に出て、大講堂の前方の入り口付近に準備されている測量機器を持って前方から入室した。

あかねたちの準備が終わると、中村先生が壇上から降りてきて、説明を始めた。

「さて、まず、トラバース測量における角度と距離の計測ですが、実際の測量業務等では、トータルステーションと呼ばれる機器を使っています。これの利点としては角度と距離を同時に測定できるということですね。距離は光波を使って測定します。しかし、今回の実習ではこの機器は使用しません。理由としては、距離測量を自分たちで測って欲しいし、今から紹介するセオドライトを使えれば、トータルステーションの扱いは簡単ですからね。さて、こちらがそのセオドライトです。角度を測定する機器としては、トランシットとも言ったりしますが、これはアメリカで使用されていた転鏡儀のことです。セオドライトはヨーロッパで使用されていた経緯儀のことを指します。歴史的には両者は別の物として分類されていましたが、今現在、違いはほとんどないと思いますね。皆さんに使ってもらうものは電子セオドライトです。これは、角度の読みがデジタル表示になっています。昔のものは目盛りだったから、多少は楽できますよ」

中村先生はセオドライトを説明した。セオドライトは、三脚の上に鏡筒の短い望遠鏡が設置されている形状をしている。この小さい望遠鏡の部分は三脚の上でクルクル回転できるようになっており、望遠鏡を覗くとスナイパーの照準のようなマークがあり、そのマークを基準点に合わせてから手元のパネルを操作し、別の基準点に水平に望遠鏡を振って、照準を合わせてからまたパネルの操作をすると水平角度が測定できているというものである。電子セオドライトはこの角度の表示がデジタルであることが特徴で、望遠鏡を覗きこまずにクルクル回すと、それに合わせてパネルのデジタル表示も数字を変動させる。

「次に、距離測量ですが、こちらの巻尺を使います。ただし、普通の巻尺ではなく、鋼巻尺というものを使います。皆さんは知っている巻尺は、布やビニールだと思うのですが、これはその名の通り、鉄製です」

中村先生は、鈴木さんを呼び、鋼巻尺を引っ張るように指示した。

「さて、このように、使おうと思って引き出すと、その自重でたわんでしまいます。そうすると誤差が大きく出てしまいますので、測定する場合は常に張力をかけて、つまり引っ張りながら測定してもらいます。もちろん適当に引っ張るわけではなく、決められた張力で引っ張る必要があります。そのため、こちらのバネばかりを取り付けて、定められた張力になった瞬間に測定してもらうわけです」

あかねも思い出してきた。これを測定していた時は、ほとんど綱引きのように鋼巻尺を引っ張り合っていた。反対側にはバネばかりで張力を調整して、片一方では手を切らないように専用の持ち手のようなもので巻尺を挟み込んで測定していた。

「最後は、水準測量ですね。これはこちらのレベルという機器を使います。基準点と基準点の間にこのレベルを設置します」

レベルはセオドライトと同様に三脚の上に本体が乗っている構造である。レベル本体はほとんど望遠鏡と言っても良い。もちろん天体観測用の望遠鏡よりは鏡筒が短いが、セオドライトよりは若干長い。セオドライトと違う点は、レベルは水平方向のみの回転を許すということである。セオドライトの望遠鏡は縦回転も可能である。

「基準点の間に設置したら、それぞれの基準点の真上にこの標尺を置きます」

守屋さんが標尺を持ってくる。

「この標尺はスタッフとも言います。見てもらうとわかりますが、標尺の表面には数値が書いてありますね。大きめの定規だと思って下さい。表面の目盛りをレベルで測定して、その高低差を算出するわけです。座標が既知の基準点から、標高差をずっと算出していけば、最終的に各点の座標がわかりますよね」

ここまでの説明で、あかねは一時間前よりは測量実習の記憶が鮮明になってきた。その後も中村先生の説明が行われた。機器の扱いについて、簡単な注意が主であった。

あかね達TAは、それが終わると、測量機器を持って、先ほど入室した前方の扉から退出した。ほぼ同じタイミングで、脇坂先生と工藤さん、小川さんが戻ってきた。全員で後方扉から入室する。

「以上が、簡単ですが実習の概要となります。みなさん、外での作業は非常に暑く、しんどいかもしれませんが、こまめに水分を取って、休みなながら作業をしてください」

中村先生が、前方に座っていた椎橋さんに目で合図をした。

「では、次に、測量実習の班について説明があります。椎橋先生お願いします」

椎橋先生が中村先生に代わって登壇する。

「はい、では測量実習の班について、説明します。今、テキストの後ろにある班分け表の通り、班毎に着席してもらっていますね」

あかねはテキストを裏返してみる。確かに班分け表が記載されていた。一班十五人の計八班に分かれているようだ。

「はい、間違って座っている人、いませんね?」椎橋さんが念を押した。

「では、これから班長と副班長を決めます」

会場からどよめきが起こった。大した問題ではなかろうに。お前がやれ、とか私無理、といった会話が耳に飛び込んでくる。

椎橋さんを見ると、落ち着いていた。この展開を予想していたかのようにマイクを使ってしゃべり始める。

「はい、いいですか?今更、誰がその役をやるか、と言った無駄な時間は減らそうと思います。皆さんの手元にある、テキストの七ページを開いてみてください」

会場からさらにどよめきが起こる。数人から、あ、とか、うわ、とかの声が聞こえてきた。

「この中で数人、七ページが七ページになっていない人がいます。確認してみてください。具体的には、各班で一人が七七七ページでもう一人が七七ページと記載されていると思います。スリーセブンが当たった人は、おめでとうございます、班長です。ツーセブンの人は副班長です。はい、決まりました。各班の班長と副班長はそれぞれTAに報告してください」

なるほど、仕掛けとかイベントとかはこのことを言っていたのか。

それにしても芸が細かい。と言っては失礼か?なかなかスリリングだったに違いない。

その発言をきっかけに、学生たちは、またワイワイ盛り上がっていた。

先輩方は各班に聞きに回っていった。あかねには後程教えてくれるとのことだった。

「次に、測量する場所ですが、先程中村先生の話の中にも出てきましたが、国道沿いのグラウンド周辺を測量してもらいます。ただ、グラウンド一帯と言っても、野球、サッカー、アメフト、テニスコートすべて含んでいます。そのため、八班で分担して測量してもらいます。その班分けはテキストの三ページに記載されていますので、確認して下さい」

椎橋さんは、その後、班ごとに一度TAと打ち合わせを行った後に、昼食を摂ってから、担当の測量場所へ行くことを指示した。

「各班、担当の場所に着いたら周辺状況を確認する意味を込めて、踏査してください。これは基準点を設ける場所を決めるためのものですので、しっかり行ってください」

踏査によって、基準点を設ける場所を決めることを選点という。

つまり、担当する場所をよく見て回って、基準点を取りやすそうな場所を決めろ、といことである。

「ランランさん、選点したらどうするのですか?」

「選点したら、こちらで木杭を準備しているから、それを打込んで、基準点とするの。今日の作業はそこまでかな。あかねちゃんは、どこの班の担当とか決まっているの?」

「いえ、何も聞かされていませんけれど」

今日、研究室に着いたのもギリギリだったことは黙っていよう。

「そう。じゃあ、私と一緒にTAやろうか」

願ってもない。言葉より先に首が肯定の意思を示していた。

「はい、お願いします。やった」

「じゃあ、後で伝えておくね」

「えーあかねちゃん、俺と一緒にTAやると思っていたのに」

あかねの隣に座っていた板倉さんが拗ねたように言った。

「他の班も見に行きますよ。せっかくの機会ですから」

さすがに立場上ランランさん独占で、というわけにはいかないだろう。実際気になるし。

「本当?じゃあ、こっちにも来てくれるの?やる気が出るな。がんばろう」

板倉の隣に座っていた守屋が首を出して答える。案の定だな先輩方。

「血気盛んな、お二人はすでに学生の中にお目当てを見つけたんじゃないの?」

ランランさんが目を細め、頬杖をついて言った。

あかねの方を向いていた二人は、ゆっくりと体を元に戻した。

血気盛んだねぇ。出会いが無いと言われている理系学生の生活の一端が垣間見えた良い瞬間だと、あかねは思った。

先輩後輩で仲良く実習やることは、別に悪いことではないと思うけれどね。実習が滞らなければ。

学生たちは、大講堂を大きく使って、八班に分かれたので、あかねたちも分散して担当の班についた。

 自分が主に担当する測量班に向かうと、学生たちがお願いしますと頭を下げて丁寧に挨拶した。第一印象は良い。挨拶って大事だね。よく見ると、あかねと同じサークルの後輩の男の子がいた。やりにくくなるかもしれないと思ったが、逆に彼を窓口にして、溶け込めるかもしれない。

それからは、ランランさんと共に簡単な自己紹介をした。ランランさんがこの班が担当する測量場所を再確認しつつ、これからの作業を簡潔に説明した。

「じゃあ、早速、測量する場所に移動しましょうか。明日からは、測量器具を担いで移動しなきゃいけないから、男の子は重いものを持ってあげるようにね」

ランランさんが、一番手前に座っていた男の子の肩に手を置いて言った。別に彼が亭主関白な性格というわけではないのだろう。班員の男の子全員に言っているわけだし、肩に手を置いたのも、きっとなんとなくだと思う。けれど、それは卑怯だと思うよ。

「はいっ。わかりました」

手を置かれた男の子も含めた男子全員が元気よく返事したし、目の色も変わっていた。ランランさん以外のその場にいた女子全員は、はいはい、っていう雰囲気だった。でも、しょうがないと思う。ランランさんって、綺麗だしかわいいし、どっちだっていう話なんだけど、人によって違うんだよね。本当に。私は綺麗だと思うけれど、

 ふと、大講堂を見渡すと、どこも同じように活気にあふれていた。他の大学はどうか知らないが、この大学の土木工学科の実験実習の時間をあかねは好きだった。にこにこしながら見ていると

「やはり、活気があっていいな。舎人さんも、そう思うだろう?」

突然に耳元の、それもかなり近い場所で声がした。

その直後に、あかねの悲鳴が大講堂に響き渡った。先ほどまでの賑やかな雰囲気が嘘のように静まり返った。

「え?何?」

後ろを振り返ると、小川さんがにこにこしながら立っていた。あかねはさらに悲鳴を上げた。

「舎人さん、はっはっは、君は面白い人だな」

「あんたはこのリアクションが面白いと見えんのか!」

後ろからツッコミが入った。見ると、工藤さんが相変わらずテキストで頭を叩いていた。

「あ、ごめんなさい。でも、あまりにも顔が近かったもので」あかねはフォローした。

「ごめんね。バカで」工藤さんが小川さんの足元を蹴っていた。

「おいおい、戻ってきて早々騒ぎかよ」脇坂先生がやれやれといった表情で後ろから見ていた。

「皆さんお帰りなさい」ランランさんが言った。

「じゃあ、君らも仕事に戻りなさい」脇坂先生が修士二年の二人に言った。

「了解しました!」小川さんは敬礼をしてから、一人走って担当する班に向かった。

そちらの方向から、乾いた悲鳴が聞こえたような気がするけれど、顔を向けるのをやめた。ご愁傷さまです。運が悪かったね。そういえば、三人はどこに消えていたのだろうか?

「ランランさん、脇坂先生たち三人は途中で抜けましたよね?どこに行っていたんですか?」

「ああ、そうか、話さなかったね。三人はね自転車を取りに戻っていたの」

「自転車ですか?実習中に使うのですか?」

「うん、そうなの。実習中にそれぞれの班に連絡することとか、先生たちや私たちが見回りに行くときに、歩きじゃ大変でしょう?」

「ああ、なるほど。私たちの『足』っていうことですね?」

「そうそう。研究室で買った自転車が二台あって、プラス中村君の私物の自転車を使わせてもらうことにして、合計三台で回す感じかな」

「それだけ広い場所を測量するってことなのでしょうね。他人事みたいですけど。五号館とか、キャンパスの中とかで実習するのはだめなんですか?」

「それでも良いと思うよ。建築学科の測量実習では、建築学科の建物、二号館だっけ?それを囲むようにトラバース測量する実習内容になっているけど・・・土木ではねぇ。そこまで狭い範囲の測量ってあまりないと思うし、広い範囲を測量できるようにしておいた方が良いってことじゃないかな?」

そうかもしれないと思った。土木って対象とするものが橋やダムとかスケールが大きいしね。建築に比べると広い範囲を対象として測量しなければならない。この中の学生の何人が測量をするような職業に就くかはわからないけれどね。

周辺が騒がしくなってきたので見ると、打ち合わせが終わった班がぞろぞろと大講堂から出て行くところであった。

「そろそろ、他の班も説明が終わったところだね。じゃあみんな、準備しよっか」ランランさんがニコッと笑う。自然と班員の、特に男の子、が顔を綻ばせながらいそいそと準備し始める。

ランランさんの凄い、というか素敵だなというところはこんな調子なのに、女子にまったく嫌われないところである。自分の意図しないところで、男の子を骨抜きにしているにも関わらず、女子にも好かれる。自分もこんな女性になりたいものだね。

 班員の学生とランランさんと一緒に大講堂をぞろぞろと出て、セミナー棟から食堂に向かう。セミナー棟の前には、三台の自転車が停車していた。先ほど話に出ていた自転車だろう。三台のうち二台が所謂ママチャリで、本体にも錆が見えるような自転車だった。もう一台は異質なフォルムをしていた。

「あ、あれが自転車だよ。あかねちゃん」

「はい。一台だけやけに細いですけど、あれが中村さんの自転車ですか?私、自転車についてあまり詳しくないですけど、高級そうな自転車ですね」

あかねは、テレビなどでたまに見かける競輪や競技用の自転車を思い出していた。サドルが高く、フレームが細い。タイヤも細く、ホイールカバー(と言っていいのかわからないけど)が前後のタイヤを覆っていた。ママチャリのようにタイヤの中心から何本も伸びる細い棒が一切見えない。これ、私は乗ることができないな。そんなに足長くないし、たぶんタイヤがパンクするかも・・・

「いつも使っている自転車なんだって。アルバイト代を貯めて買ったそうだよ」

「好きなんですね。でも・・・これ見回りに使えるんですか?」

「う・・・ん、実質二台ってことで考えておいて」

ランランさんは困ったように笑う。ああ、その顔も綺麗だなぁ。

それからランランさんと班員の学生で昼食を摂りに行った。場所は男子宿泊棟内部の食堂である。わざわざキャンパス内に戻らなくて良いから楽である。

セミナー棟を出て、右に進むと二棟の建物が並ぶ。左を見るとセミナーハウスの入り口が見える。右に進むとセミナー棟の隣に女子宿泊棟、その隣が男子宿泊棟である。食堂は男子宿泊棟のみにあり、キャンパス内の学食を運営している会社から、調理師がここまでやってくる。宿泊のための荷物は一旦大講堂に置いてあり、今日の作業がすべて終わった段階で宿泊する部屋へ荷物を運び入れることになると、歩きながらランランさんから説明があった。

 男子宿泊棟に到着して、ガラス張りの扉を入ると、目の前には応接セットが四組ほどあり、革張りのソファが並んでいた。計画学研究室にあったものよりも豪華に見えた。扉を開けたところはすぐに三和土となっており、靴を脱いで上がるスタイルになっている。そのまま靴を脱いで上がっても良いが、大人数では三和土が使えなくなることになる。そのために、三和土の左手を見ると下駄箱があり、そこに靴を仕舞ってスリッパを代わりに履く。なんとも学校の施設らしい印象がある。応接セットがある奥には、広い空間がありそこが食堂となっている。特に扉などないため、入り口からしっかりと見える。中は学生たちが各々テーブルに着いて食べていたり、配膳の場所に並んでいたりしていた。

 あかねたちは下駄箱でスリッパに履き替え、食堂に向かった。

「あ、中尾さん」ランランさんが食堂入り口付近にいた初老の男性に声をかけた。

「蘭さん、おつかれさん」

中尾と呼ばれた男性は、笑顔でランランさんを迎える。

「みんなお昼ご飯食べてきて。十三時になったら、セミナー棟の前に集合ね」

ランランさんは学生たちを食堂に向かわせた。

「四日間お世話になります。昨日もご挨拶しましたけど」

ランランさんは、頭を下げて照れたように笑った。

「いえいえ。また賑やかな時期になりましたね。活気があってこちらも元気をもらいますよ」

中尾さんも笑顔で答える。

中尾さんは、中肉中背でなんとも平均的だ。頭には白髪が混じっているものの、まだ黒髪もあり、五十代前半と言ったところだろうか。

「中尾さん、昨日話しましたけど、今年は三年生の舎人あかねさんが手伝いに来てもらっているので、よろしくお願いしますね。あかねちゃん、こちらは中尾伸一さん。セミナーハウスの管理人をしているの」

ランランさんは私を紹介してくれた。私は、背筋を伸ばして自己紹介をした。

「三年生の舎人あかねです。よろしくお願いいたします」

「はい。よろしくお願いしますね。暑い中大変だろうけれど、がんばってね」

「ありがとうございます」

「私は、こっちの男子宿泊棟にいますので、何かあったら声をかけてくださいね。私の家内が女子宿泊棟の準備をしているので、後程声をかけてみてください」

「はい、ありがとうございます。ご迷惑かけないようにします」

「そうね。こっちは男の子ばかりだから、夜に騒がないように注意しておきますね」

「はは、元気で良いんですけどね。私もこっちで宿泊しているので、なるべく静かに騒いでもらえることを願っていますよ」

なんて矛盾した要望だろうか。でも、学生に悪い印象は抱いていないようだ。

「じゃあ、あかねちゃん、私たちもお昼食べようか」

二人で会釈をして、お昼の会場に向かった。ランランさんによると、中尾夫婦は、昼間などは二人で作業することはあるものの、夜はそれぞれ男子宿泊棟と女子宿泊棟に分かれて宿泊して、管理しているらしい。確かに女子宿泊棟に男の管理人というのも変な話だろう。

何とも大変な仕事だと思った。夫妻は大学の近くに住居があり、セミナーハウスを宿泊目的で使用しない場合は、そちらから通勤しているとのことであった。この男子宿泊棟一階に管理人室があり、日中は基本的にそこに常駐しているとのことであった。

「管理人室って、この建物入ってすぐ右手の部屋ですか?」

「そう。あそこだよ」

見ると、入り口右手に窓が設置されており、管理人室の中が見える。中はここから見る限り、あかねの想像する管理人室というよりは、事務室と言った方がイメージに合いそうだ。それにしても、一年前にも実習を受けたはずなのに、すっかり忘れているとはなんとも頼りない記憶回路だと自分でも思う。

食堂では、食事を受け取るための行列が少なくなっていた。二人で最後尾に並び、トレイを持って配膳の窓口へと向かった。

昼食は、各自でご飯やおかずが乗ったお皿をトレイに載せていく形式であった。厨房の中では五人の調理師がせわしなく動いていた。すでに食べ終わっている学生もいるために、下げられた食器を洗う調理師の方が多かった。

「はいよー、こちらから持って行ってね」

威勢の良いオヤジさんが良く通る声を発していた。

「ありがとうございます。いただきます」

あかねは順番に並べられたお皿を取っていった。

「あーちょっと待って。ごはんとお味噌汁は暖かいものを入れ直してあげるから」

オヤジの気遣いが嬉しい。

「ほんとですか?嬉しいです」

「ありがとうございます」

ランランさんと二人で感謝する。

「暖かいほうが美味しいからね。外は暑いからしっかり食べて倒れないようしてよ」オヤジがニコッと笑う。

「嬉しいです」ランランさんが微笑む。

「おかずは温められないんだ。ごめんね」オヤジが申し訳なさそうに言った。

「はい、大丈夫です」あかねが言う。

「俺が作ったハンバーグは適切な状態で提供している。それをちんたらやってきて食べようとしているこいつらのことが憎い。食べてもらわないで良い」

なにやら隣から物騒な声が聞こえる。おかずを受け取る場所からだった。

見ると、長髪を頭の後ろで結び、コック帽を被った調理師がこちらを見ていた。精悍な顔立ちをしており、あかねの印象としては、先程の発言もあったためか、皆さんご存知の闇医者だと思った。他の調理師は、灰色のキャップを被っており、先程のオヤジももれなくかぶっていた。しかし、この闇医者はコック帽を被っていた。また、他の調理師は(オヤジも含めて)お揃いの首から回すように止める黒いエプロンを着けていたが、闇医者はいわゆるフレンチのシェフが着用する腰で回すエプロンを着用していた。

「うるせーぞ新入り、お前だけなんで着てるもんが違うんだ」オヤジの怒号が響く。

「俺の腕を振るう料理にふさわしい格好をしているんだ。むしろ自分の作る料理に誇りと自信を持ってこの仕事をしている証といってもいいだろう」

自分で、いいだろうって言うのはいかがなものか?とも思うが、何とも面倒だということは良く分かる。

「お嬢さん方、ごめんね。こいつは昨日から入ってきたやつなんだけど、料理経験がまだ一年なんだ」

「え、一年?それであんなこと言ってるんですが?」あかねは思わず口に出してしまった。

「そうなんだよね。なんかよくわかんねぇんだよ」

「おい、小娘」

なんか言ってきた。完全に向いてきたよ。矛先ってやつが。

「はい」

「名は?」

「あ、舎人です。舎人あかねです」なんなのよもう。

「ふん、舎人あかねか」口の片方だけ上げて笑う。最も嫌いな笑い方だ。じっとあかねの方を見ている。この間は何なの?さっさとおかずを下さい。お腹すきました。

ふと、胸の白衣を見ると、今まで気が付かなかったが名札を着用していた。『田中』とある。意外と普通の名字だ。

目の前の勢いづいている、他人と足並み揃えることができない、勘違い料理人の名字が『田中』だと思うと面白くなってきた。ダメだ、ここで笑ってしまうと、もっと話がこじれる。ただでさえ、お昼の時間が刻々と過ぎていくことに焦りを感じていたところだ。せっかくオヤジが温かいご飯とお味噌汁を準備してくれたのに。ここは自分が折れよう。

「傷つけてしまったら、ごめんなさい」頭も下げた。

「いいんだよこんな奴、放っておいて良いよ」

オヤジさん、嬉しいのだけど今は黙っていて。

「謝るということは、心からそう思っていたということだな、舎人あかね。いいか、俺はお前から受けたこの屈辱、決して・・・」そこまで言うと、『田中』は膝から崩れ落ちていった。オヤジがアルミ製のトレイを持って後ろに立っていた。どうやら頭に一撃喰らわせたようだ。オヤジは手で、持っていけ、というようなジェスチャーをした。ランランさんと私はそそくさとお皿を手にして、配膳を離れた。

「あかねちゃん大丈夫だった?ごめんね。どうしようもできなかった。というより、こう、会話が通じる相手ではないように感じたんだよね」

「ランランさん、大丈夫です。ちょっと驚きましたけど。それにしても、キテレツな人でしたね」

「うん、何だろう。あそこまで突き抜けたら、逆に尊敬するよね」

「絡まれた方からすれば、ただただ恐怖ですね」

ランランさんが、あかね越しに後ろを見る。

「あ、まだ見ているよ。完全に目をつけられたね」

「ランランさん、楽しんでいませんか?」

「え?そう見える?」ニコッとした。

「笑っているじゃないですか」

「幸先の良いスタートね」さらにニコっとする。

そうして、怒涛のお昼は過ぎていく。



 さっきの新入りコックは、田中正雄という名前らしい。名前はオヤジが教えてくれた。済んだ食器を下げに行ったところ、オヤジから再度謝罪された。オヤジも(やさしい人ではあるが)腹が立ったようで、しかしその怒りのやり場がどこにもなかったのか、あるいはあかねにならば感情を共有できると考えたのか、フルネーム等の個人情報を教えてくれた。とはいっても、こちらも時間がないので簡単ないきさつだけだが。どうやら、田中正雄は「流れのコック」というものに並々ならぬ憧れがあるようで、いろんな職場を転々としているとのことだった。まぁ、それを知ったところで私は今後彼とは会うことはないような気がしていたので、そうですか、程度でオヤジの密告を聞いていた。

 ランランさんの食器もまとめて返却したので、ランランさんは食堂の外にすでに出ていた。ソファに座ってテーブルに並べてあった新聞を眺めていた。

「お待たせしました。ランランさん、さっきの暴言コックの情報仕入れてきましたよ」

えへへと、我ながら下衆な笑いができるものだと思う。

「通り魔は進展がないみたいね」

カウンターパンチで真面目なトーン。下衆な顔で固まった。気と顔を取り直して。

「被害者がまた出ていますか?」

「いえ、現時点ではそれはないみたい。やっぱり、詳細は書いていないね」

ランランさんが言う詳細とは、昨日の寿刑事との会話の中に出てきた。通り魔の被害者の胸にピンポールのようなものが刺さっていた点である。まるでドラキュラだ。殺した人が起き上がってこないように、杭を胸に突き立てる。苦悶の顔で叫ぶドラキュラ伯爵の顔がイメージできた。伯爵の顔は見たことはないけど。

「何もないのが良いことなのだけどね。ここら辺も出没地域になっているから、いつ出てもおかしくないよね」

ニコッと笑いながら言う。

ランランさん、そんな怖いこと、すてきな笑顔で言わないでください。

「あ、そういえばあかねちゃん、インターンシップってどうするの?行くの?」

インターンシップとは、学部の三年生が夏休みの期間を利用して、民間企業や官公庁などに職業体験をしに行くことである。その後やってくる就職活動に対して、気になる職種などをあらかじめ体験しておくことで、就職活動への意欲を高めるとともに、土木業界を知ってもらおうということも兼ねている。昔はほぼ強制に近かったようだが、現在の希望者のみということになっている。

「そうなんですよね。この業界にこだわっているわけではないのですけど、せっかくの機会だから、行ってみても良いかなって。ランランさんはどこに行ったんですが?」

「私はね、ゼネコンに行ったの」

「ゼネコンですか。ランランさんは建設会社希望なんですか?」

「ううん、そうじゃなくて。最も自分から遠いというか、優先順位が低い業界に行ってみようと思ったの」

「へー、なぜですか?」

「本当に自分が思うような業界なのか、自分の中で優先順位が低い理由と現実との誤差がどれくらいあるか確認しに行ったのよ」

「つまり、本当に嫌いかどうか確かめに行ったと」

「そう、思い込みは嫌だからね」

はあ、それもまた一つの理由というわけか。

「懐かしいなぁ。トンネルの現場だったんだよね。社員の方たちにはずいぶん良くしてもらったんだ」目を細めて微笑む。

きっと、ランランさんが綺麗だから、良くしてもらったんだろうなと邪推してしまう。でも、相手も人間だから綺麗な女子学生が現場に実習しに来ていたら嬉しいだろう。

「そりゃそうですよ。ランランさんがトンネル現場に・・・あ!」

「どうしたの?」

「トンネルで思い出した。夏休みの宿題が出ていたんだ」

「もしかしてトンネル工学?」

「そうです」

定期試験を行わない代わりに課題レポートを提出する科目も存在する。トンネル工学はその条件に該当する科目であった。普段では定期試験前に課題を提示し、試験期間中かその前に提出することが多い。トンネル工学は最初の講義で定期試験を実施しないという宣言を出していた。そのためか、受講人数も多い。予定では、定期試験の前に課題内容について説明があるはずだったが、担当する外部講師が体調を崩し、後程知らせるということがアナウンスされていた。それがまさかの定期試験最終日の昨日に出されたのだ。それをすっかり忘れていた。この話にならなかったら思い出さなかったかもしれない。危なかった。

「どんな課題?」

「まだわからないのです。メールで送られてくると思うのですけれど」

「ということは、トンネル工学の成績が着くのは後期の終わりかな。前期の成績には間に合いそうにないと思うし」

「そうですね」さっさと送ってくれることを願うが。

「さて、そろそろ行こうか?」

ランランさんが壁に掛けられた時計を見ながら新聞を畳んだ。集合時間の十分ほど前になっていた。食堂からはぞろぞろと学生が出てきた。集合場所へと向かうようである。ランランさんと話している最中でも時折、食堂から何やら怒声が聞こえてきたから、きっと流れのコック志望とオヤジとの掛け合い漫才が繰り広げられているのだろう。本当に面倒な人だな。

 ランランさんと集合場所へ向かう。すべての班がセミナー棟の前に集合というわけではないのだそうだけれど、結構な人が集まっていた。

 ランランさんが声をかけて、班員を集める。時間が早かったが、班の学生は全員そろっていた。真面目だな。

「お昼ちゃんと食べましたか?」優しい笑顔でランランさんが聞いた。安らぐなぁ本当に。その問いかけに対して、学生が元気よく返事をしたことをランランさんは確認して、

「それじゃあ、行こうか。暑いから自販機で飲み物を買っておいて。セミナー棟の一階に売っているから」

学生から、授業中に飲むのは大丈夫なのか?と質問が来たが、「当たり前でしょう?死ぬよ?」とさっきと同じ笑顔で言った。ランランさんって、外から見える穏やかな雰囲気は自身の感情とは別のもなのかもしれない。怒っている時も悲しい時も雰囲気は同じ。そんな人もいるだろうし、私の地元にもいるけど、ランランさんはそれとは違う。感情を内に秘めておくということではないような気がする。

今はまだわからないけど、ランランさんの底、深淵が見えることはあるのだろうか。

「選点用の杭も取りに行かなきゃいけないからみんなで行こうか」

ランランさんはじめ私たちはセミナー棟の一階に向かった。セミナー棟の一階には先ほど出るときには気が付かなかったが、杭が大量に並べられているのに気が付いた。これが選点用の杭だろう。見ると、木製で直方体の形状をした杭である。片方はかなり鋭利にできている。木杭が並んでいる脇には大きな木製のハンマーが班の数分置いてあった。このハンマーを使って杭を打ち込んでいくのだろう。木製のこれだけ大きなハンマーを私は見たことがない。ゲームのキャラクターが持っていてもおかしくないと思った。

「みんな飲み物は買ったかな?ここから持っていくものはここに置いてある木杭が八本とそこのハンマーね。さ、男の子の出番だよ。さっきも言ったけど女の子に持たせちゃダメだからね」

ある種の方向性を持った紳士たちにはきっとたまらないセリフだろう。この班にいるかはわからないけれど。

ランランさんのありがたいお言葉に従い、男子が率先して木杭およびハンマーを持って移動することになった。

「私たちの班はグラウンドのどこを測量するのでしたっけ?」

「野球場?野球グラウンドって言ったらよいのかな。野球部が使うスペースね。そこを囲むように選点する予定」

今回測量するグラウンドは国道に面しており、運動系の部活専用のグラウンドがひしめき合っている。大学のキャンパスやセミナーハウスからは、体育館や民家が並んでいる一帯にある路地を通って進むことになる。

みんなでぞろぞろとセミナーハウスを出てすぐに左手に折れる。キャンパスとは逆方向に進むことになる。セミナーハウスを出るときに警備室にいる警備員さんに挨拶をした。

「あーい、行ってらっしゃい。暑いから気を付けてね」

帽子を深くかぶった浅黒いおじいちゃんが言った。

ん?そのまま素通りしてしまったが、朝の警備員と同じだっただろうか?朝に比べるとおじいちゃん感が増したというか。数時間で急激に年を取る人なのだろうか?わざわざ戻るわけにはいかないし。すると、

「あかねちゃんどうしたの?」私の様子がおかしかったのかランランさんが話しかけてきた。

「えーっと。警備員さんいますよね?急激に年を取ったような気がするんですけど、そんな人いますかね?」

ランランさんはニコッとして、

「警備員さんは交代制だからさ。夕方から朝までの担当が三木さんで、朝から夕方までが今の深津さんだったかな。おじいさんていうけど、まだ四十代後半だよ」

言われてみればそうか。一人でずっとあの小屋にいるのも合理的ではない。というよりも無理だ。交代制を取るのが普通だろう。

あかねの納得と共に、道は開けてグラウンドが見えてきた。

あかねは運動系の部活ではなく、サークルに属しているため、グラウンドに来ることは全くと言って良いほどなかった。というのは、前期の実験授業であった水理学実験の実験項目の中にペットボトルロケットの作製があった。この実習と同じように、いくつかの班に分かれて、作製したペットボトルロケットの飛距離を競うコンテストが開催され、その会場がグラウンドのラグビー場だったのだ。その時に来ているはずだが、覚えていない。

確かにあの時はペットボトルロケットに夢中になった。班のみんなで協力して、入れる水の量や重りの位置などを考え、いかに飛距離を伸ばすかといことに没頭していた。結果は十二班中三位と良い成績だったと思う。そっちに記憶の領域を使ったのか、場所の記憶が一切ないということになっている。

今、あかね達はグラウンド入り口と書かれたフェンスの切れ目が扉状になっており、そこに立っている。グラウンド内部へのアクセスは、今あかねたちが立っている場所のほかに、国道沿いに一ヶ所さらに同じ並びに駐車場があり、その駐車場の中からもアクセスできるようになっている。合計三ヶ所からのアクセスが可能である。

フェンスの扉から中に入ると、すぐにテニスコートがあった。

「入学してテニスサークルに入った同じ学科の友達がいたんですけど」

「うん。うちの大学のテニサーって練習が大変らしいね」

「課題とか理系は大変なのに、なんでそんなサークル入っているの?って聞いたんですよ」

「うん」

「そしたら、思い描いていたキャンパスライフとは程遠いことが入学してわかったので、何とか意地でもそんな生活をしてやろうと思ったそうですよ」

「切ないね」

「そうですね」

太陽が私たちを照り付ける。これから私たちは野球グラウンドを測量しに行く。

テニスコートの脇を抜けて、国道側に、つまりグラウンドの奥へと進むとサッカーコートが三面見えた。流石、田舎の大学である。敷地だけは困らない。フットサルではなく、フルコートで三面は普通の大学の施設としてあるのだろうか?きっと町のサッカー場などを借りるのではないだろうか。これは地元の友達にも自慢できそうだ。

サッカーコートの脇を通っていくと遠回りになりそうなので、コートを突っ切って行くことにした。三面ある内の真ん中のコートを突っ切る。横を見ると、奥にラグビーコートがさらに三面あるのが見えた。この大学にはどれくらいの人数のラガーマンがいるんだ?あのコートはしっかりと使われているのだろうか?この分だと、野球グラウンドも嫌な予感がする。

野球グラウンドは国道に面しているといっても良いほどの距離だった。野球グラウンドは二面だった。良かった。

学生たちに荷物を木陰に置くように指示する。熱持ってしまうからね。そこで一息つく。

「野球グラウンドは二面なのですね」

「そうね。もう一面は別の班が測量するよ」

テキストを見直すと、確かに別の班が測量することになっていた。全八班でこのグラウンド全体を測量することになる。その内訳は


一班 テニスコート①

二班 テニスコート②

三班 サッカーコート①

四班 サッカーコート②

五班 ラグビーコート①

六班 ラグビーコート②

七班 野球グラウンド①

八班 野球グラウンド②


 となっている。私達は八班なので、野球グラウンド②である。グラウンドの中では最もセミナーハウスから遠い。

 天気は雲のない快晴である。木陰にいると温度が穏やかになり、とても気持ちが良い。あかねはお行儀は良くないが両足を投げ出し、野球グラウンドの脇に生えている木にもたれかかっていた。ランランさんはいわゆるお姉さん座りである。これがお行儀が良い座り方に入るかはわからないが、少なくとも醜くはない。

 「ランランさん、もう選点とかやめましょうよ」

 「そんなセリフを吐きたくなるくらい気持ち良いね。でもね、そろそろほら、他の班が到着してきているから、動かないとね」

 視線を移すと、同じように杭とハンマーを持った集団がグラウンドに入ってきているところであった。こうしてみると、これから行うことを知らない人から見れば異様な集団であろう。

 さて、と腰を上げたランランさんが同じように木陰で休んでいる学生たちに言った。

「さあ、選点しましょう。とりあえず、杭やハンマーはここにおいて構わないので、みんなでグラウンドの周囲を歩き回って、標点になりそうな場所を見つけてください。八点分の標点が必要なので、それを頭に入れて歩き回ってください」

学生たちが、指示通りに動き始める。今自分たちが休んでいた場所を起点として、グラウンドを回るようにしたようである。

「場所が確定したら、自分たちでわかるように目印をつけておいて。方法はお任せします」

私達は、学生が歩き回る後ろに一緒に付いて回り、困ったことが起きたらアドバイスをする役回りだ。今のところ、ランランさん効果だろうか、そのような状況にはなっておらず、テキパキと位置を決めているようだ。

「どんな感じ?」

隣のグラウンドとの境界あたりに一行が差し掛かってきたとき、隣のグラウンドを担当している守屋さんが声をかけてきた。守屋さんはハーフパンツにTシャツを着ていた。頭にはタオルを頭巾のように被っていた。

上半身をみるとかなりがっしりとしている。守屋さんは小柄だけど筋肉質のようだ。運動系の部活にでも入っているのだろうか。

「どうって、まだ始まったばかりでしょう?見ての通り、まだ選点中よ」

ランランさんは丁寧に答えている。守屋さんは「そうか」と言って、こちらを見ている。

「どうしたんですか?何か問題ありますか?」口を閉じて腕組みしながらこちらを見ている守屋さんに聞いてみた。

「いや、美人さんが二人もいるなんでそっちの男連中はうらやましいなって思って」

「よく私のことも美人に入れましたね」

「うーん、そうかな。俺は美人さんだと思うけどね」

炎天下で後輩を持ち上げようとしてくるのってどうかと思うんだけど、悪気があって言っているわけではないのだろうと思う。にしても、女性がほんとに好きなんだな。

「そんなこと言って、ちゃんと見ているの?そっちの班の子たちなんか困ってそうよ?」

ランランさんは守屋さんの後方を指差して言った。

「あ、マズい。じゃあ、がんばって」そういうと守屋さんは戻って行った。

グラウンドの奥ではラグビーコートで森田さんと中村さんがそれぞれの班で選点中であった。中村さんは高価な自転車をコートの脇に止めている。自転車に乗ってここまで来たのだろう。

視線を右に移すとサッカーコートに鈴木さんと小川さんがいた。小川さんの声は聞こえてこないが見ているだけで暑苦しくなってきた。担当している学生たちも、選点お足取りが重く感じるし、心なしか表情がなくなっているように見える。私の気のせいだと思いたい。小川さんの付いた班の学生達よ、重ね重ねご愁傷さまだ。

さらにその奥、テニスコート周辺には板倉さんと工藤さんだった。ここからでは人影は小さいが、確かにいることは確認できる。はっきりとはわからないが二人はそれぞれの担当班の学生から離れ、面と向かって何やら話をしているように見えた。

私たちの班では、選点作業が終ったようであった。次にランランさんにチェックをしてもらうために、再度選点した場所を回る。ほとんど問題がなかったが、一点野球グラウンドの中にわずかにはみ出して選ばれている点があったので、そこは外すことをランランさんが指示した。

選点が終了したので、次は木杭をハンマーで打込み、造標する。この木杭が目印となり、明日からの測量が本格的にスタートすることになる。

木杭を打ち込む作業は、全く女性陣は役に立たない。男性陣の文字通り手腕にかかっている。さて、私たちの班ではどうだったかというと、なかなかがんばっていた。恐らく日常生活で木杭を打ち込むなどしたことはないだろうから、それぞれが試行錯誤していた。

木杭が打ち込み終わると、杭そのものに班の番号をマジックで書き記した。これは測量が終了し、木杭を回収した時に打込んだ本数をしっかり管理するためである。

試行錯誤しながらも、最後の一本の杭を打ち込む作業に入っていた。すると、耳障りがする金属音がしたので、顔を上げると自転車に乗った脇坂先生がいた。

「お疲れさま。こっちの班は順調みたいだね。一番かな?」

脇坂先生は自転車に乗ったまま言った。麦わら帽子をかぶって、首にタオルを巻いている。そのタオルで顔の汗を拭った。

選点と木杭の打ち込み作業は私たちの班が最も早かったようである。早い方が良いというわけではないが、この天候でダラダラと作業する気にはならない。それを学生たちもわかっているのだろう。

「脇坂先生、お疲れ様です。なかなか年代物の自転車なのですね。さっきセミナー棟の前に置いていたのを見た時はそう感じなかったのですけど」

よく見てみると錆が浮いているし、塗装も剥げている箇所が見受けられる。

脇坂先生は、上半身をハンドルに預けるように前かがみになって、

「年代物だからね。僕が学生のころから使っているから、もう十年選手だと思うよ。ブレーキも効きが悪いし、錆もあるしね」

脇坂先生はハンドルをまるで犬を撫でるかのようにさすった。

「でも、僕は好きなんだ。愛着があるし。今でもたまに弁当を買いにこの自転車を使うよ」

「先生、他の班の進捗はいかがですか?」ランランさんが聞いた。

「うん、今日の工程の七割は終わっているかな。ちょっと工藤さんと板倉の方が進んでないね」

「何かあったのですか?」そういえばさっき遠目に見た限りはちょっと変な空気で話していた。

「暑いから気が立っているんじゃないか?学生も言うことを聞かない感じだったしね」

ティーチングアシスタントとは言え、通常の実習とは違うのだろう。院生になると大変だな。そこまで言うと、脇坂先生はまた自転車で去って行った。

「私たちも自転車使えるって聞きましたが、結局先生方が自転車を使う方が多いみたいですね」

「そうね。何だかんだ私たちは自分の担当班に付きっ切りだし」

改めて周辺を見渡すと脇坂先生は隣の守屋さんの方を訪ねていた。遠くのラグビーコートでは、椎橋さんが自転車で見回っているところだった。

「とりあえず、私たちの担当班をしっかり見ましょう。二人が揉めていることは気になるけどね」

そこまで言うとランランさんは私の目を見た。

「スタッフ同士は連携を取ることは必要だけれど、それ以前の最低限の務めよ。二人ともそれはわかっているから」

ランランさんはにっこり笑って心配かけないように言ってくれた。正直心配はしていなかったがその心遣いが嬉しかった。



 作業が終了したら、改めて全員で杭を見て回った。最終チェックだ。木杭は地面から十センチほど出すように打込んでいる。選点は十分に行っているので、あっさりと確認が終わった。

 確認作業が済んだ時には、すでに日が傾き周囲をオレンジ色に染めていた。夏とはいえ、日が傾きだしたらなかなか早い。

 作業は終わっていたので、私たちの班は片づけをして、飲み終わったペットボトルなどのごみを始末してからセミナーハウスへと戻った。他の班も作業が終わりつつあり、片付け等をしているところもあった。

 帰りがけ、テニスコートを担当している工藤さんと板倉さんの近くを通った。

 「板倉君お疲れさま。終わった?」ランランさんが尋ねる。

 「おう、ランランお疲れ。まぁ、ひどいな。チンタラやっているのに早く帰りたいとか文句ばっかりだ。最終的にはこっちの手際が悪いっていうことになっている。やってらんねぇよ」

 板倉さんは遠目から学生たちの作業を見ている。かなりイライラしているのはわかる。曰く、自分も帰りたいがあえて放置させて、自分たちでやらなければ意味がないということを気付いてもらうようにしているとのことだ。その効果があるのかどうかはわからないが。

 「ランランの方は良いよな。学生のみんなスゲーがんばってたじゃん。そっちと交換してくれよ」

 そう言いたい気持ちは痛いほどわかる。

 「難しいね。たまたま私の班の学生たちは全員率先してやってくれる子達だったから良かったけどね。授業だからやってもらわないと意味がないし。かといってこっちが口うるさく言ってもうるさいだろうし」

 「そうだよなー何とも言えないわ」

 最後は簡単な挨拶をして別れた。工藤さんの班は私達から距離があったし、わざわざ行ってまで話す必要はないということか、ランランさんもあえて行かなかったようだ。それにしても二人は何を揉めていたのだろうか?板倉さんとの会話ではそれを測り知ることはできなかった。

 セミナーハウスの入り口に到達するころには、空はすっかり朱色に染まっていた。朱色に染められた世界で、セミナーハウスの外観はまた違った景色を見せていた。このまま異界に入り込むような、そんな景色であった。

 また警備室の脇を通り抜けると、警備室には明かりが灯っていた。

「おかえりなさい。暑いところご苦労様」

朝に見かけた警備員さんだった。確か三木さん。時刻は十六時半を回っていた。すでに交代は終わっていたようだ。

 「ただいま帰りました」ランランさんをはじめ、私たちは口々に挨拶をした。

 そのままセミナー棟へ向かい、ハンマーを入り口付近に立てかけて置いた。ハンマーだけはセミナーハウスの備品らしく、すべて集まってから管理人の中尾さんが物置にかたづけるのだそうだ。

 次にセミナー棟へと入り、荷物を自分たちの宿泊用の荷物などを回収してから、セミナー棟内のゼミ室へと向かい、明日以降の測量計画を話し合う。

 セミナー棟内部の、大講堂以外のゼミ室は全部で八部屋ある。ちょうど今回の実習班の数と同数である。一階エントランスを入ってすぐに東西に横断する廊下の左右に六部屋は位置され、大講堂がある二階に二部屋設置されている。一階は建物の北側に四部屋、南側は玄関のスペースがあるために二部屋となっている。

私たちの担当班は、一階の東側奥の部屋である。部屋の前まで来て、ランランさんがドアノブを回した。

「うん?鍵がかかっている。帰ってくるのがちょっと早すぎたかな。あかねちゃん、男子宿泊棟に行って第六セミナー室の鍵を持ってきてくれるかな?」ランランさんがお願いされた。

第六セミナー室というのが、私たちに割り当てられた部屋である。ゼミ室の鍵は男子宿泊棟の管理人室の前にかけられている。これを持って来れば良いわけだ。簡単な仕事だけど、頼まれることが嬉しかった。人間は必要とされる時に居場所ができるのではないかと思った。難しいことはもちろんのこと、子供に頼むような簡単なことでも。

そこまで急ぐ必要はなかったかもしれないけれど走って男子セミナー棟に向かった。

飛び込むように扉を開けた。三和土から下駄箱へ行くところだ。しかし、鍵は三和土の壁に設置されている管理人室への窓の脇にL字フックで簡単にかけられていた。

これ管理とか大丈夫なのか?簡単に盗まれやしないか?まあ、現時点で鍵はここにあるから問題ないのだろうけれど。

管理人の中尾さんに一声かけてから行こうと思ったが、窓から室内を覗いても人の気配はなかった。宿泊の準備などで忙しいのだろうか?

このようなタイプの宿泊所でもある程度のベッドメイキングは必要なのだろう。そう思うようにした。それでも食堂の方からは人の気配がしているが、オヤジや変な調理師が夕食の準備をしているのだろう。

ゼミ室の鍵はセミナー棟の玄関の鍵と共に束になっていた。鍵束は鉄の輪にキーホルダーの付いた鍵が通されている形状となっている。キーホルダーはホテルのルームキーのようにアクリル製の直方体となっており、そこに部屋の名前が書いてある。鍵本体は小さめのカラビナに通すように繋がっている。それがゼミ室八部屋分と玄関と大講堂で合わせて十本ある。鉄輪に通す際は、アクリルと鍵本体をつなぐ輪に通す形になる。そのためか、鍵束を形成している鉄輪は少なくとも直径三十センチはあると思う。まるで侵入者を知らせる鳴子のようだと思った。

鉄輪にはその円周にヒンジが付いており、ヒンジと反対の円周には溝が切ってあることで、そこから輪が割れるようになっている。そのようにしてゼミ室個々の鍵を取り出すようにできていた。

鍵束のまま持って行っても意味ないかなと思い、そこから第六セミナー室の鍵を外して持っていくことにした。

残りの鍵束をもとのフックに戻したところで、後ろから人の気配がした。

「あの、実習の学生さん?」

振り向くと、五十代前半の女性が立っていた。しっかり艶がある黒髪を後ろで簡単に束ね、ピンクのシンプルなエプロンをかけている。その下はTシャツにジーンズという動きやすい格好だ。

「あ、はい、ごめんなさい、セミナー棟の鍵を借りようと思いまして。声をかけたのですけど誰もいなかったようだったので後程報告しようと思っていました」

別に悪いことをしているわけではないと思うのだけれど、なんとなく言い訳がましくなってしまう。

「ああ、ごめんなさいね。女子宿泊棟の掃除をしていたの。五時くらいになるって聞いていたからゆっくり掃除しちゃってたわ」にっこりと笑う。

この人もランランさんっぽいな。なかなか可愛らしい。

「いえ、問題ありません。あ、えっと、申し遅れました。土木工学科三年の舎人あかねと言います。中尾さんの奥さんで良かったですか?」

「はい、信子と言います。実習の学生さん?」

「えっとお手伝いを頼まれたんです。だから、計画研の学生ではないんです。」

「あら、そうなのね。夏休みなのに大変ね。倒れないように頑張ってね。泊まる部屋は綺麗にしておいたから、今日はゆっくり休んでね」

「ありがとうございます」ちょこんと頭を下げた。

「あ、では鍵は持って行っても良いですか?」

「うんうん、もちろん大丈夫よ」

「あの、興味本位で聞くんですけど、ここにずっと鍵を置いているんですか?」

「そうなの。セミナーハウスの使用があった場合、特にセミナー棟だけれど、その場合はつねにここに掛けておくわ」

「持っていかれたりしないのですか?」

「実習の期間でなければ、管理人室の金庫の中に入れておくのだけど、実習中は何かと自由に使えた方が便利じゃない?それに実習期間であれば人がいるから逆に盗られにくいと思うし」

「そうかもしれませんね」

「でも、もちろん宿泊棟の門限があるから、それまでの時間で自由に使ってね、っていうことよ」肩をポンと叩く。

「そういうことなんですね」

「さ、がんばってきて。夕飯は十八時半からね。」また肩を軽く叩かれサンダルを脱いで管理人室に入っていった。昼にあったご主人とお似合いだな。あんなに穏やかなご主人だし、幸せなのだろうなと思った。こんな素敵な管理人さんがまったく記憶にないのはどういうことだろう。一年前に実習受けているはずなのに。

自分はこんなに思い出に残らないタイプの人間なのだろうか?

実習の内容は申し訳ないがすっかり忘れている。ただ、友達と夜話し合ったり、朝方まで無駄口叩きながらレポート用紙に計算していたような楽しかった記憶はあるのに。

年齢を重ねると今まで気づかなかった物事に感動したりすると聞いたことがあるが、そういうことなのだろうか?

それは感覚が鋭くなったのだろうか?

それとも鈍くなったのだろうか?

それもきっと今の私には感じ取れないことなのかもしれない。考えて理詰めで説明できるかもしれないけど、きっとそれは私が感じたことではないような気がする。

今度古見澤さんにも聞いてみよう。

あの人ならなんて答えるのだろうか?

自然と口角が上がっていることに気が付く。

このまま戻ったら間違いなく暑さで頭がやられたと思われる。

ゆっくり深呼吸。

気持ちを落ち着かせる。空の色はすっかり朱色の面積割合が少なくなった。

セミナー棟に戻り、遅くなったことをランランさんにお詫びした。

「大丈夫。待っている間にこっちも話で盛り上がったから。まぁくだらない話だけどね」

ランランさんが学生の方を向くと、なぜか男子諸君は顔を赤らめて俯き、女の子たちはキラキラした目をランランさんに向けている。

何したの、ランランさん?彼らが心配になってきた。

私たちがゼミ室に入ってからしばらくして、助教の椎橋さんが鍵束を肩にかけてやってきて、各部屋の鍵を開けて回っていた。やはり少し早かったらしい。

他の班も帰ってきたのだろうか、部屋の外がにぎやかになってきた。

これからは、今日行った作業を振り返りつつ、明日からの測量計画を立てるという時間である。これは実習期間中毎日あるとのことだ。

ゼミ室は簡素なもので、部屋に入るとすぐ脇には流しがあり、向かいの壁は一面に窓というよりガラス戸が設置されている。今は暗いがその奥は白鳥池があるのだろう。窓に向かって右手には黒板がある。壁全体は吸音壁とでも言うのだろうか、細かな穴が開いている壁になっている。床はリノリウム製であった。室内の什器としては、教卓、パイプ椅子に折り畳み式のテーブルがいくつか置いてある。四十人程度が授業できるだろうか。他の部屋もほとんど同じデザインで黒板の位置が違うくらいである。唯一入り口側にある第二セミナー室のみ、テラスのようなデザインで全面ガラス張りになっていて、内装も他の部屋違うらしい。それにしても部屋の中の空気が悪い。ちょっと換気をしようとガラス戸を開けて網戸にした。クーラーが効くまでしばらく開けておいた。

測量計画といっても、これからの実習でやることは決まっている。

確認程度の今日の反省と明日からの作業の確認が済んでから、ランランさんが持っていた鞄からクリアファイルを取り出し、中から用紙と地図を取り出した。

地図は、グラウンド周辺のものである。取り出した用紙は平板測量を行って最終的な測量結果をまとめて、地形図として残すためのものである。

「最終的にこれにまとめて成果物としてもらうから、管理しておいてね」

その受け渡しが終わり、初日の実習は終わりとなる。時刻は十八時。夕飯までは自由時間となった。やっと、部屋へ荷物を置けることになった。

ランランさんと荷物を抱えて、女子宿泊等へと向かう、

「お疲れさま。大変だった?」今朝と全く変わらない表情でランランさんが聞いてきた。

「お疲れさまでした。日差しが大変だったのですけど、今日は何とか。でも今日が最も楽なのですよね?」

「そうね。本当に炎天下での作業だしね。あ、日焼け止め持ってきた?」

「忘れました。そうなんですよね。大学に来る途中に気が付いて。駅前のコンビニで買って来れば良かった」

「一応まだ外出可能だから、買ってきても問題ないけれど」

「そうですね。門限って何時でしたっけ?

「午前零時だよ。男子宿泊棟も女子宿泊棟もその時間に閉められちゃう」

「そうかぁ、今の時間がベストですね」

「うん、でも、ご飯食べたら、私たちは飲み会があるよ。今日から毎晩飲み会だね」

それは聞いていた。日中は体を動かし、夜は酒を浴びるように飲む。土木らしい。飲み会を非常に大切にする。お酒の席を強要することが問題となっているこの世の赤ではあるが、この土木工学科だけは飲めない人でもウェルカムなのだ。

なぜそのような風潮になったのかはわからない。私も入学するまでは土木と言えばガンガンお酒を飲み、そのままお酒に飲まれるようなイメージがあった。しかし、入学しお酒が飲める年齢になって参加した学科の懇親会は、とても穏やかな飲み会だった。至って普通の和気藹藹な飲み会だったのだ。もちろん、若気の至りか羽目を外してしまう学生もいるにはいるが、フォローが非常に手厚い。

特徴はまだあるが、この辺で。

私はカクテル一杯で活動停止してしまうくらいお酒に弱いが、飲み会に誘われたら参加する。ソフトドリンクでも誰も文句は言わないし、楽しい時間が保証される。

そのため、今回の飲み会も楽しみにしていた。

「そうですね。ぜひ参加したいです。日焼け止めは明日の昼休みに階に行きます」

「わかった。じゃあ、私の貸してあげるよ。使いたいときに言って」

ちなみにランランさんは非常に沢山お酒を飲む。古見澤さんたちと飲むときは必ず最後まで生き残るのだそうだ。

「ありがとうございます」

女子宿泊棟入り口の扉を開ける。男子宿泊棟よりも小さいが三和土があり、下駄箱がある。すでに終わっている班の女子たちの靴がいくつか並んでいる。私たちは靴を脱ぎ、下駄箱に入れてから、スリッパに履き替えた。

目の前は男子宿泊棟と同じように応接セットやソファがあったが、食堂はない。入口が建物左手側にあるため、廊下は右手方向に伸びている。男子宿泊棟とは異なり、ソファなどが置いてあるところの右手に管理人室がある。そのさらに右隣に階段があり、二階へ行けるようになっている。

「お疲れさま」管理人室から中尾夫人が出てきた。

「先ほどはどうもありがとうございました」私は頭を下げた。

「あかねちゃんに信子さんを紹介したっけ?」

先程の鍵を借りた時の話をする。

「そういうことね。そういえばゼミ室の鍵は持っているよね?」

「はい、大丈夫です。ちゃんと鍵をかけて出てきました」

「ありがとう、夕飯食べるときに返しておいてくれる?」

「はい」

「じゃあ私からは部屋の鍵ね。失くさないようにね」信子さんから鍵を受け取る。ゼミ室の鍵とは異なり、楕円形のキーホルダーが付いている鍵であった。鍵には『牡丹』と書いてあった。

「部屋には花の名前がついているのですね。ランランさんは?」

ランランさんがキーホルダーを私に見せる。そこには『薔薇』とあった。なんとも言えない気持ちになるのはなぜだろうか。

ランランさんと私は一階の部屋だった。女性スタッフはすべて一階であり、学生は二階となる。一階も二階も共に廊下の左右にそれぞれ十部屋ずつある。この実習の女性スタッフは一人一部屋が割り当てられるが、学生は三人一部屋である。だからかなり部屋数が余ることになる。これは男子宿泊棟も同じ人数配置だが、流石に男子は人数が多い。余ることはないとのことだった。

『牡丹』と『薔薇』は隣同士の部屋だった。『牡丹』が階段に近く、その隣が『薔薇』であった。工藤さんや椎橋さんも同じ並びの部屋だというので見てみると、『椿』と『百合』であった。この花の名前の付け方はどういう意図なのだろうか。

部屋に荷物を置いたら、ロビーに集合するという話になったので、室内に入る。部屋はベッドが一台と机と椅子が一組置かれており、非常に簡素だった。研修施設なので、ホテルのような内装ではないがそれは期待していない。しかし、ベッドがあるのは嬉しかった。布団では寝つきが悪くなるタイプなのだ。床はリノリウム製であり、土足で入っていく。外国方式である。

部屋には金属製のロッカーが設置されていたので、そこに荷物を簡単に置いた。汗で気持ち悪かったので、制汗シートを荷物から出して体を拭いた。身体にやっとひんやりした感覚を与えられた。

部屋には洗面台がなかったので、外に出て洗面所に向かう。洗面所とお手洗いとお風呂は一階にしかないようだ。洗面台で顔を見るとやはりちょっと焼けているかもしれない。明日は、ランランさんから借りてしっかり日焼け止めを塗ろう。

外に出ると、ランランさんがすでにソファに腰かけていた。

「ごめんなさい。遅れました」

「大丈夫よ。私も今来たところだから」

二人して、食堂へと足を運ぶ。さっき来た時はよく見ていなかったが、下駄箱に男子宿泊棟の見取り図が貼ってあった。男子宿泊棟は女子宿泊棟と部屋の配置が異なっているなとみていたら、ランランさんが説明してくれた。

まず、一階は建物に入って正面に食堂、玄関と食堂の間にソファや応接セットやその日の新聞が並ぶロビーがある。その場所を起点に東西に廊下が伸びている。東側には、事務室兼管理人室とトイレそしてリネンや倉庫が並んでいる。西側は宿泊のための部屋が十九部屋とトイレや浴室が並ぶ。東側は事務室とリネンとの間、西側はトイレの横、下駄箱出てすぐのところに階段があり二階へと続く。

二階にも一階と同じ場所にロビーがある。ここにはテレビや大学が出版している書籍が並ぶ書棚、囲碁将棋などのボードゲームが置かれている。ここもロビーを起点にすると、まずロビーの両脇に会議室がそれぞれ置かれている。

東側が第一会議室で西側が第二会議室となっている。それぞれの会議室を超えると浴室と宿泊部屋が並ぶ。二階はほとんどが宿泊部屋である。東側は第一会議室の隣に階段があり、その向かいにトイレとお風呂、その先に五部屋ある。西側は第二会議室の隣にトイレ、その向かいにお風呂があり、その先に二十部屋ある。この東西に延びる廊下の左右に置かれている部屋が学生の宿泊部屋である。女子宿泊棟は西側の部屋がないためとても広く感じる。

ロビーの南側は窓になっているが北側は壁である。しかし、その壁を西に伝っていくと第一会議室の前あたりで途切れ、扉が見えてくる。これは館長室とあった。見取り図でも広く書かれているから、恐らく中村先生の部屋だろう。その館長室の並び、つまり先程のロビー北側の壁の裏にも部屋が六部屋存在している。ここが脇坂先生や院生の部屋ということだ。

「飲み会は、第二会議室でやるからね」ランランさんが教えてくれた。

「わかりました。お酒とか準備は何時ごろから始めればよいですか?」

「夕飯が大体一時間半くらいで、八時でしょう?それくらいからの準備でよいと思う。みんなバラバラと集まってくるから」

「わかりました。あれ?そういえば、お風呂入る時間って決まっていませんでした?」

「学生はそうね。夕飯後にお風呂入る時間が二時間あって、それ以降は入れないの。ボイラーの火を落とすそうよ。女子もね。でも女子棟のスタッフは一応、午前零時までは入れるようにしてもらっているわ」

「良かった。安心しました」

「だから、施錠前に帰らなきゃね。お風呂で洗いっこしましょう」

どこまで本気で言っているのだろうか。

「そうですね。でも、男子棟のみなさんは、結構遅くまで飲むんですよね。お風呂は隙を見て入りに行くのですか?」

「ううん、二階ロビー奥にある部屋は全部部屋の中にお風呂がついているの。本当は教員が複数いる場合にその部屋が割り振られるわけね。そこだけはガスが個別に通しているんだって。だから、男子棟で唯一その部屋じゃない森田君だけは夕食後の時間で入らなきゃいけないわね」

なるほど、かなり優遇された部屋な訳だ。森田さんは大変だな。

「でも、それは嫌だっていうことで、一日交代で部屋をローテーションしたいって森田君が提案したの」

「ああ、そうすれば平等になりますね」

「うん、でも他の四人が猛反対したってことで、話は流れたそうよ。最悪よね」

つくづく運がないというか、無慈悲というか。

「お酒とか、おつまみは買って来れば良いのですか?」

「昨日の準備の段階で持ち込んでいるわ。第二会議室に冷蔵庫があるんだけど、中に冷やせるものは満杯になるまで入れてあるの。余りは脇に置いてあるから、その都度冷蔵庫に補充ね。冷蔵庫の上におつまみがスーパーの袋に入れて置いてあるから、テーブルに適当に並べて置いて」

なんとも準備の良い。前日から仕込んであったとは。例年、初日に準備したお酒は早くてその日に消費され、消費されなかったとしても次の日には無くなるのだそうだ。本当に酒飲みが多い。

食堂に向かうと、すでにテーブルに配膳されており、テーブルごとに取り分けるような形式だった。ランランさんに言わせると、初日だけで後は昼食と同じように窓口に受け取りに行く形式に戻るとのことだった。私としては自称流れの料理人に会わなくて済むから良かった。配膳の窓口から何やら不穏な視線を感じるが、そっちの方は絶対に見るまい。見ても良いことはないのだ。

先程は変な人に絡まれたのでよく確認していなかったので、食堂を見渡す。入口(といっても扉はなく開放されている)から見ると右手に配膳窓口がある。奥にオヤジやら自称流れの料理人がいる。

あ、目が合った。すぐに逸らす。

正面北側と西側は大きな窓になっている。どちらも夏草?雑草?が腰の高さくらいまで伸びていた。草で見にくくなってはいるが、北側の窓の奥には白鳥池があるようだった。

テーブルには何人かの学生が着席していたが、全員集まっているというわけではなさそうだった。

院生の先輩たちの姿がテーブルに散らばって座っていた。どうやら実習班で分かれて座っているようだった。ランランさんが見渡し、担当班を見つけたので、一緒にそのテーブルに着席した。

「十八時半になりました。まだ部屋にいる方がいましたら、食堂に集まってください」

放送が入った。首を動かして探すと、食堂の入り口に中尾伸一さんがいて、マイク片手にしゃべっていた。その音声は女子棟にも届くのだろうかと考えたが、奥さんがいたことを思い出した。そうか、そっちは奥さんが伝達しているのか。

放送からしばらくして、遅れてきたのであろう学生がぞろぞろと集まってきて着席した。時刻を見ると定時である。

次にマイクを持ったのは助教の椎橋さんだ。

「各班の院生、点呼を取ってください」

なるほど、だから振り分けてあったのか。各班の先輩たちが点呼を取る。私たちの班は十分ほど前から集合していたので、指示があってすぐに全員いることを報告した。

点呼はすぐに終わり、全員揃っていることが確認でき、椎橋さんに報告された。

「はい、では、始めましょう。中村先生お願いします」

いただきますの挨拶は中村先生か。

「はーいでは、みなさんよろしいですか?」

ざわついていた食堂がゆっくりと静かになる。

「初日の実習お疲れさまでした。熱中症になった人はいないですね?恐らく今日は唯一の体力を使う日です。明日からはじっくりと測量機器の扱い方やデータの処理などを学んでください。今日は体力を使った日ということでね。夕食はできる範囲で豪華にしてもらいました。明日からは梅干しとたくあんとめざしです」そこで笑いが起きた。調子のよい学生が味噌汁もつけてください、と叫んでさらに笑いが起きる。

「もちろん、冗談ですよ。今日、やってみてわかったかと思いますが、本当に長時間炎天下にさらされることになります。無理はせずに、交代しながら作業をしてくださいね。無理は禁物ですよ。さて、早く食べさせろという顔ですね。それでは、満を持して、いただきます!」全員がいただきますの合唱をして食べ始めた。先生方は、適当に散らばってテーブルで食事をしているようだった。

そこからはおいしい料理に舌鼓を打った。お腹に溜まるものが多いにも関わらず、味付けがちょうどよく、橋が止まらなかった。流れの料理人、やるな。

食べ始めていると、またも中尾伸一さんがマイクを握った。

「お食事中失礼いたします。まだ若干ですが、ご飯とスープが残っていますので、お代わりをご希望の方は配膳の方で受け取ってください。夕食が終わりましたら食器をまとめていただいて、テーブルに置いたままでご退席ください。そして、夕食後八時から十時までが入浴時間となっていますので、その時間に済ませてください」

その放送が終わってしばらくして、体格の良い学生を中心にわらわらと配膳窓口に向かっていくのが見えた。運動系の部活をしているのだろうか、これでも足りないよね。私はもうお腹一杯だ。

一時間ほどもすると、席を立つ学生も出てきた。先にお風呂に入ってしまおうということだろう。

「ランランさん、ごめんなさい、お片付けの方をよろしいですか?私は飲み会の会場を準備しておこうと思っているのですが」

「うん、大丈夫よ。よろしくね」

ランランさんに送り出され、さっと食堂を出て、二階の第二会議室へと向かう。下駄箱横の階段から二階へ、右に折れるとロビーが見える。会議室の入り口はどちらもロビー側にある。そちらの面から室内へ。

部屋の中には長机を六つ組み合わせたテーブルが中央に置かれ、その周りに木製の椅子があった。テーブルにはグラスやお皿栓抜きなども準備されている。部屋の奥には窓があり、その脇に冷蔵庫が置かれていた。そばまで行って中身を確認する。缶ビール、酎ハイ、日本酒やウィスキー、ジュースやお茶といったソフトドリンクもある。飲めない人もいるのだろうか?私だけのために準備してくれたのだとしたら、逆に申し訳ない。自販機で飲み物を買っておこうと思っていたのに。

冷蔵庫のそばには入りきらなかったビールや酎ハイの缶が段ボールに入っていた。冷凍室も見てみると、ロックアイスの袋がぎっしり詰まっていた。どこまでも準備が良い。慣れていないとここまでできないだろう。

扉が開いた音がしたのでそちらを見た。

「お、お疲れさん。早いね」森田さんが中村さんと一緒に入ってきた。二人ともシャワーを浴びてきたのか、さっぱりしている。中村さんは腕が真っ赤になっていた。

「お疲れ様です。ごめんなさい。すぐ準備しますね。中村さん日焼け止め塗り忘れましたね?」

「大丈夫だよ。僕らも手伝うから。日焼け?これは草アレルギーだよ。実習中に触っちゃってね。しばらくしたら引くから大丈夫」

「舎人さん偉いね。うちの四年生でも俺らより早く動くことないよ」

そんなこと言っているが、この研究室の四年生は優秀な学生が多いって聞いたことがある。きっと一年間研究室で揉まれることで成長していくのだろう。

三人でテキパキとお酒を並べる。最初はやはりビールだろう。そうしているうちに守屋さんと板倉さんの悪友コンビがやってきた。五分ほどして工藤さんと笑っている小川さんが入ってくる。これは階段を上ってくる時から気づいていた。そう、小川さんの笑い声だ。

そして、中村先生、脇坂先生、椎橋さんが入ってきて全員かと思ったが、ランランさんが最後になった。

「ごめんなさい、一度部屋に戻っていました」

「おう、ランラン、始めるぞ」中村先生が声をかける。

それぞれがテーブルに着席し、缶ビールを手に取って、プルタブを開ける。炭酸の抜ける心地よい音がする。

「みんな、お酒持ったか?」中村先生が声を出す。

ほとんどが缶ビールだったが、私と椎橋さんと小川さんはお茶をグラスに注いでいた。

「よし、いいな。では、初日お疲れさまでした。明日からもがんばりましょう。乾杯!」

部屋にいる全員の声が揃ったところで、缶やグラスが触れ合う音が響いた。それぞれが直ちに琥珀色の液体を喉に流し込む。

みんな照り付けるような日中の日差しからやっと解放されたかのように、缶を傾けていく。

「お前ら、いつも言っているが一気飲みはするなよ。酒は大事に飲むもんだ」中村先生が、すでに空になった缶を潰してテーブルに置いた。

「そんなこと言っている先生の方が早いでしょ」板倉さんが突っ込む。

「これは、最初から空だったんじゃ」と言ってガハハと笑い。みんなつられて笑う。

「わかりましたよ。先生、次どうします?」板倉さんが席を立って冷蔵庫へと行く。

「今日は暑かったからなぁ、もう一本缶ビールをくれるか?」

先生方が小難しい話をするわけでもなく、進んで学生とバカな話をするような空間となる。これは学生たちの息抜きの意味もあるということをランランさんから聞いたことがある。何かと忙しい理系学生でかつ、体力を使うし小さいコミュニティだが上下関係もある。学生たちにとってみれば、息が詰まるような空間になっては研究自体も進まなくなるという考えかららしい。私から見れば先生方がただ飲みたいだけだと思ってしまうが。

「せっかくの機会だから舎人さん、何か聞きたいことがあれば質問してみたら?授業くらいしか中村先生に会ったことないでしょう」椎橋さんが言った。

「なんでもどうぞ。真面目な話から、恋の相談までエニシングオーケー」中村先生もう酔いが回っているのだろうか。いきなり振られてしまった。うーん、ここはあえてド直球の質問をしてみるかな。

「あの、この期に及んでこんな質問なのですけど、土木工学って何なのでしょうか?」

一瞬、空気がピンとしたのが感じられた。

「ほう、これはまたなかなか放り込んできたな」脇坂先生が眼鏡をクイっと直す。

「うん、たぶん院生になっても良く分かっていない人も多いだろう」中村先生が院生を見渡す。面白いように全員下を向く。

中村先生は新しく受け取った缶ビールのプルタブを開けた。プシュっと音を立てて飛沫が噴き出す。飲み口に口をつけて噴き出した泡と中身を吸い出すように飲んだ。そして、あくまで僕の個人的な見解だが、と前置きしたうえで話し始めた。

「土木の仕事っていうのは社会基盤、いわゆるインフラストラクチャーに対して責任を持つ仕事のことだね。それを体系的に学ぶことが土木工学を学ぶっていうことだよ。インフラストラクチャーについて一応説明しておくと、道路、鉄道、港湾・空港、海岸、河川、ダム、橋梁、通信設備、上下水道といったことだね。人々が社会生活を送る上で基盤になる施設の事だ」

「基盤ですか」

「そう。例えばダムは水を制御して洪水から人々の生活を守り、河川堤防なども川の氾濫から人々の生活を守る役目があるね。上下水道は生活用水の供給、雨水や汚水を浄化設備に送ったりするのに必要だね。トイレしない人っていないでしょう?」

橋や道路はもちろんのこと、しっかりと整備されていなかったら現代社会ではなかなか生活しにくいのではないだろうか?

「通信設備も土木なのですか?」守屋さんが聞いた。しっかりと手を挙げている。講義みたいだ。

「通信ネットワークの技術的な面は電気電子とかそれを重点的に学んでいる人が活躍するだろうけれどね。例えば通信ケーブルを地中に埋設する時に、ケーブルが切断しないようにするためには土木技術が役に立っているよね」脇坂先生がフォローする。

「電力土木という分野もあるね。特に水力発電はわかりやすいかもしれないけど、ダムと切っても切れない関係がある。施設整備のこともあるし土木工学の分野だよ。」

「そう、その点から言えば生活だけではなく、産業も支えているといっても良い。自動車は運転するかな?」中村先生が言う。

「あー免許は持っていますが、ペーパーです」私が元気に発言したため、良く響いた。

「そうか、僕らの頃は車に乗って遊びに行くのが主流だったけどね。時代かねぇ。まぁ良い。例えば道路の整備がしっかりとしていなければ、自家用車の普及はここまで進まなかっただろうし、道路を使った運輸もここまで進んでなかったと思うよ。極論かもしれないが、ネット通販が指定時刻にちゃんと届くことは道路の整備がしっかりとしているためと言っても良いね。同じことが鉄道や港湾空港にも言える」

「なるほど、もっと感謝しなきゃいけませんね」本当に感謝だな。その意識は土木を学んでいる身なのに、今までなかった。

「あまり押しつけがましくは言いたくないがね。人々の生活が楽になったり、もっと豊かになるために仕事していると言い切っても良いかもしれないな」そこまで言うと中村先生は二本目のビールを飲み干して缶を潰した。潰した缶はすぐに守屋さんが引き取る。

確かに生活に非常に密着している。そのような技術者を排出する学問なのだろう。

「ところで」中村先生は氷を入れたグラスにウィスキーを注いでいる守屋さんに言った。

「『土木』という言葉の語源を知っているか?」

「語源ですか?」そういうと守屋さんは少し考え込んだ。

「土と木ですよね」

「そうだよ」

「自然と共に生きるぞーっていう意志表明ですか?」

「何だよ『生きるぞー』って」板倉さんが言った。

「まぁ、それも重要な考え方だと思う。土木工学の対象はいわゆる自然だ。守屋の言う通り土と木だな」グラスを傾ける。

「だが、僕の問に対する答えではないな」

「面目ないです」頭を下げる。律儀に脱帽するのが体育会系だ。

「こんなもんは知っているかどうかだ。これはな、『淮南子(えなんじ)』という本に記載されている。紀元前二世紀頃の本だと思う。確か十三巻だったと思うがそこに記載されている『築土構木』という言葉を先人が詰めて『土木』としたと言われている」

「なんて書いてあったのですか?」守屋さんが言った。

「覚えてないわ。読んだのも昔だからな。本のタイトルくらいは合っているが中身までは責任持てないね。むしろここまで話したのだから、気になるならば後は自分たちで調べなさい」

はい、と守屋さんは言った。

「そんなわけで『土木』という名前が付いたわけだが、では次に英語で『土木工学』は何て言うかわかるか?」

「はい」中村さんが手を挙げる。講義のようになってきた。

「Civil Engineeringです」

「そうだね。では何故Civil Engineeringというのかわかるかい?」

これにはみんな沈黙する。

「これはねローマ時代に遡るのだが、歴史的にみると軍事工学(Military Engineering)が最初と言われている。ここで言う軍事工学とは要塞や城壁といった軍事施設の建設に関する工学のことだ。だから道路も軍事施設という位置づけだね」グラスを傾けて喉を潤した。

「ローマ時代は法律の整備と社会基盤の整備が文明の基礎となっていた。だから、道路、橋、水道、港湾などは全て Military & Civil Engineeringだったってことだな。さらにそこから社会基盤の整備・維持のための工学と言う意味で Civil Engineering と命名されたということだ」

土木はローマ時代まで遡るのか。確かにあれだけの大帝国を築き上げたのだから建設技術も発達していたとしてもおかしくはない。その技術力も高度だったことは、現在も残っている構造物があることで証明済みだろう。

「もっと言うとCivilってあるだろう?これをCivilizationとすると文明って意味だ。だから、Civil Engineering とは、Civilization(文明化)のためのEngineering(工学)と言えなくもない」

「とても壮大な話になってきましたね」椎橋さんが言う。

「歴史が長いからな。どんな学問でもそうだと思うけど最初は手探りだった。その手探り、今風に言うとトライアンドエラーかな、その積み重ねで今があるってことだよ。昔よりは多少探る方法洗練されて回数が減ったくらいかな。でもその手探りはこれからもずっと続けていかなきゃいけないからね。何せ相手は自然だから」グラスを傾けてテーブルに置いた。氷とグラスが何回も接触する音が聞こえた。

自然と共にある学問か。

自然と共に発展していった学問と言っても良いのかもしれないな。

考えている間に話はがらりと変わっていた。

話の主役は今朝の講義で裸になった小川さんだ。

日頃の筋トレメニューと食事制限について一人熱く語っているところにみんながツッコミを入れていた。中村先生もウィスキーを傾けながら楽しく会話に混ざっていた。

もっとたくさんの人の話を聞かなければいけないと思う。この分野に進むのかどうかはまだ決めかねているけど、知っておかなければいけないことのように思う。

飲み会が始まって一時間ほど経過した。

なんとなく、脇坂先生のゼミ生と中村先生のゼミ生に分かれてきたように思った。

特に集まって飲んでいるというわけではないけれど、会話をしている様子をみると中村先生の話を楽しく聞いている学生はやはり中村先生のゼミ生で、脇坂先生に人生相談している工藤さんの話を一緒に聞いているのは脇坂先生のゼミ生だ。そういうものかと思う程度だった。私はランランさんと中村先生の方に顔を向けていたが、脇坂先生の方にも顔を向けて会話に参加していた。

「おおそういえば舎人さん、初日お疲れさま。どうだった?」中村先生が聞いてきた。

「非常に勉強になりました。この機会を作っていただいてありがとうございました」

「研究室はどこに行きたいとか決めているの?」椎橋さんが聞く。

「椎橋さん、野暮ですよ。あかねちゃんは古見澤一筋ですから」

「守屋さん、ちょっとストレートすぎますよ」

「否定はしないんだ」中村さんがつぶやく。

「中村!」顔を赤くしている脇坂先生が言った。

「ツッコミは声を張れ」

中村さんは何とも言えない顔をしている。

「やっぱり、研究所の事件で仲良くなったの?」板倉さんが酎ハイの缶を潰しながら言った。

 やはりその話になる。ある程度学内では有名になったが、詳細を聞かれることは友人であってもなかった。きっと気を使ってもらったのだろう。

「いえ、そういうわけではないですけど」と言って、簡単にこの夏に起きた事件を話した。あの海のそばの研究所で起こった事件の顛末を。

自分でもつたない話し方だが、その場の全員の視線を受けながら話し切った。その場の全員が吐いた溜息の音が聞こえた気がした。

「そうか、大変だったね。そんな経験するのは貴重とは思うけど、できればしたくはないわな」中村先生がウィスキーの入ったグラスを傾けながら慰めてくれた。

「大変だったろうけれどさ、無事で良かったよね。変な話だけど、今ここにいなかったかもしれないわけで」鈴木さんが言う。

「鈴木君やめてよ。仮定の話としてもあまり気分が良いものじゃないわ」椎橋さんが真剣な顔で否定する。

「あかねちゃんはしっかりと古見澤君が守っていたようだから、問題なかったわよ」ランランさんがフォローする。

「運が悪かったとしか言いようがないね。確かに無事だったのは良かったけど」脇坂先生はすでに顔が真っ赤だ。

「さて、また飲むか」中村先生がワインのコルクを抜いた。今何種類目のお酒だろうか。

「すいません、お風呂あと三十分なので閉まる前に行きますね」森田さんが部屋を出た。

「お前ら風呂貸してやれば良かったじゃないか」脇坂先生が他の院生たちに言った。

「やっぱりお風呂ってプライベートスペースっていう感じあると思うんですよ。俺はちょっと貸せなかったな」板倉さんが腕組みしながら言った。他の院生は発言はしなかったが、いずれにせよ貸したくなかったのだろう。

飲み会はワイワイと続いた。時刻を見ると十時半を回っていた。

「そろそろ女性陣は戻りますよ」椎橋さんが言った。

「えーもう帰っちゃうの?まだ大丈夫じゃない?」中村先生が言った。だいぶ寄ってらっしゃる。

「はい。お風呂入りますし、明日も早いですからね」

「あかねちゃん、約束通りお風呂で洗いっこしようね」ランランさんが私の肩を組んで言う。正直背中がびくっとなった。それ以上に男性陣の目が見開かれた気がした。

「ランランさん、約束はしていません。変なこと言わないでください」即刻否定する。

「二人は・・・あ、ごめん。いろんな形があっても良いよね。こっちの勝手な価値観を押し付けてはいけないね」脇坂先生が言った。

まてまて。

「脇坂先生、違いますよ。誤解です。そういった関係ではないです」こっちも必死だ。

「そうか、こっちも舎人さんへのアプローチを変えるよ」守屋さんが目を細めて言う。

「変えないでください。今までの通りで」

「さ、あかねちゃん行こう。お風呂が閉まっちゃう」

私はランランさんに無理やり手を引かれて第二会議室を後にした。

女子宿泊棟に戻った私たちはお酒のせいもあってか、みんなでお風呂に入ろうとなり、女子四人でお風呂に入ることになった。

お風呂の温度が火傷しそうなくらい熱く入るのに大変だったが、幸いにも洗いっこはせずに済んだ。

そして、やっと一日が終わる。自室に戻ってからTシャツとハーフパンツに着替え、布団に潜り込む。冷房をタイマーにして、タオルケットをお腹にかけて別途に横になる。本当に一日大変だった。明日からもっと大変になるんだよね。

そこまで考えて思い立ち、デスクのライトをつけて、テキストを引っ張り出してきて横になって見始めた。中村先生の言葉に感化されたわけではないが、ちょっと頑張ってみようと思ったのだ。せっかくTAとしてお手伝いできるチャンスなのだ。足手まといにならないようにしよう。

でもテキストなんて面白くはない。

まだやる気と本心がバランスしていないなぁ。

ゆっくりと瞼を閉じていった。



騒がしいスマートフォンのアラームで目が覚めた。毎朝予約しているアラームである。時刻は六時半。いつも通学で起きている時間である。

窓の外を見るとすでに明るい。夏の朝日は容赦ない。デスクのライトをつけっぱなしにしていたようだ。やってしまった。そこまで意識が持たなかったのだ。

上体を起こし、ベッドの上で座り込む。ぼーっとした頭がゆっくりと動き始める。身支度を整え、テキストなどを持って部屋を出る。スマートフォンの時刻は七時になっていた。管理人室の前を通りかかるが、中尾夫人は不在だった。男子宿泊棟の方にいるのかもしれない。靴を履いて男子宿泊棟に向かう。まだ日が十分昇っていないせいか気温は低めに感じた。ただ湿度は感じていた。昨日は女子宿泊棟に帰ってきても、学生たちはだいぶ静かだった。さすがに一日目で疲労が溜まっていたのだろうか。それは私の方も同じだけど。男子宿泊棟の扉を開ける。

目の前に食堂。しかし、何か変だ。食堂の入り口にオヤジや流れの調理師といった食堂スタッフ中尾夫妻もいた。皆棒立ちで食堂の中を覗いている。靴を脱いで下駄箱に入れる時間も惜しく、すぐに正面の入口へ行った。

「おはようございます。皆さんどうかしたんですか?」トーンを落とした声で聴いてみた。

中尾夫妻が振り返って私を見る。顔が強張って血の気は引いているのがわかる。

すぐに二人は顔を正面に戻した。

食堂の入り口はベルトパーテーション一組で簡単に仕切られていた。その赤いテープの向こう側。

食堂の中央に人が倒れていた。

寝ているわけではないことは一目でわかった。

寝ている人物の胸部に見覚えのあるものが見えたからだ。

嘘だ。なんで。駆け寄ろうとしたところを、腕をつかまれて止められた。

振り向くと流れの調理師が私の腕をつかんでいた。

「行ってどうする?あれはどう見ても死んでいる。余計なことをしない方が良いんじゃないか?」顔は私なんか見ていなかった。

その視線の先には、森田さんが胸にピンポールを突き刺して死んでいた。

「どうして」なんとか声を振り絞る。

「け、警察は」調理師を見た。

調理師は、はっとしたように中尾夫妻を見た。

夫妻も気づいたような表情を見せた。まだ連絡していないのか。

そこに、勢いよく宿泊棟の扉が開いた音がした。

全員で振り向くとそこには警備員の三木さんが立っていた。

顔が青ざめている。

「三木さん、どうしたのですか?」中尾さんのご主人が言った。

「ひ、人が、倒れている。セミナー棟で。死んでいるかもしれない」震えた声でそう言って、指で方向を示した。

「おはよう。なんだみんなどうした?」中村先生と脇坂先生がやってきた。

「先生、森田さんが」私は食堂を指し示す。

「え?」二人とも顔をしかめて私を見る。

すぐにふたりは食堂を確認した。一目見て狼狽していることがわかる。

「先生方、すみませんが、ここにいて学生が入らないようにしてください。調理スタッフのみなさんもここにいて学生を入れさせないように。私はセミナー棟の方へ行きます」中尾主人が指示した。

「セミナー棟でも人が死んでいるのか?」中村先生は驚いている。

「私見てきます」脇坂先生が玄関へ向かう。

中尾主人は事務室の外にある鍵を取り、三木さんと脇坂先生とセミナー棟へと向かった。

私も着いていくことにした。ここにいても不安になるだけだ。

怖いけれど、何が起きたか知りたいとも思った。

前を走る三人についてセミナー棟へと向かう。その途中、女子宿泊棟から出てきたランランさんと出会う。

「おはようございます。急いでどちらへ?」恐ろしく場違いな笑顔だ。

三人はそれを無視してセミナー棟へと向かった。

「ランランさん、あの、えっと、食堂で森田さんが亡くなっていて、セミナー棟でも誰か倒れているみたいで」私もすれ違いざま説明する。

ランランさんはその説明が終わらないうちに、私より先に走り出していた。私も続く。

先行していた三人は、セミナー棟の鍵を開けて中に入り込んだ。私たちも続けて入る。

「どこに?」中尾さんが聞く。

「こっちです」三木さんが廊下を右折する。

その廊下の右手すぐの部屋を示す。

「この部屋です」

「第二セミナー室か」中尾さんは鍵束から該当する鍵を探し出し、ドアノブのカギ穴へと差し込んだ。

この部屋は一室だけテラスになっている、外から丸見えの部屋である。

開場されたドアを中尾さんが開けた。

中を見た中尾さんは喉から息を漏らすような声を出し、その場に尻餅をついた。

その上から私たちは部屋の中を見た。

カーテンの閉じられた薄暗い部屋の中、やはり中央にいた。いや、あったの方が日本語としては正しいのかもしれない。

薄暗い部屋の中央に横たわっていたのは、まるで聖人のように両手を広げ、そして胸にピンポールが打ち込まれた、工藤さんの体だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る