第2話 踏査と査定
C県可士和市から北に行くと、N市がある。可士和市は、C県の渋谷と言われるようなある程度発展した都市であるが、電車で数駅移動しだけで、様子ががらりと変わる。よく言えば風光明媚、悪く言えば田舎だ。そこに、私立R大学が存在する。駅から降りると、視界の先には、大学しか存在しない。
学生にとっては、遊ぶところがまったくと言ってよいほどない。実情は、可士和に遊びに行くのだが、なかなか電車に乗って遊びに行くとなると、面倒だという意見がチラホラ出てくる。その場合、ほぼ引きこもりの用になる。
保護者にとっては、勉学に打込む良い環境だと、喜ぶのであろう。
しかし、この瞬間しか青春時代はない、とか、夢のキャンパスライフをエンジョイするのだという、非常に強い心情を抱いている学生にとっては、親の気持ちなど関係なく、遊ぶことになる。
舎人あかねにとっては、あまり関心のない事柄であることに間違いはない。何が何でも四年間で卒業しなければならない。
私立のわりに授業料が他の大学に比べて安いR大学であるが、一般庶民である舎人家にとっては、決して安くはない。
父親からは、四年以上の学費は出さない、と入学時点で宣言されてしまった。そのため、遊びも重要だが、第一優先としては単位取得となる。
そして、今、あかねは駅から大学への道を全力疾走している。
その理由は、今の時刻が八時四十五分であり、一時限目は八時五十分から始まるためである。すなわち、遅刻するかどうか、瀬戸際なのである。なぜ、こんな状態になっているかというと、電車の遅延のせいである。もちろん、下宿で一人暮らし、というわけにはいかないので、実家から通学している。定期代が掛かるが、下宿に掛かる費用と比べると、大したことはない。普段であれば、十分間に合う時間に家を出ているのだが、今日は人身事故による電車遅延に巻き込まれてしまった。
あかねは、私立R大学理工学部土木工学科の三年生である。そして、今日は前期定期試験の初日である。講義に遅れて、すいません遅刻しました、というわけにはいかない。
このような電車の遅延の場合、遅延証明書があれば、再試験を受けられる制度があり、それを適用すれば、日を改めて再試験を受けることができる。手元に電車の遅延証明書は持っているが、試験期間外に再試験を受けるというのも気持ちが落ち着かない。なるべくなら、正規の期間内で試験を受けたいと考えていた。
駅から大学までは、多少距離がある。改札を抜けると、あかねはリュックに定期券を入れてしっかりと背負ってから、走り出した。周りをみると、同じように電車の遅延によって、試験時間に遅れそうな学生が走り始めている。
あかね自身は、時間にかなりルーズな性格だと思う。友達と待ち合わせするときも、時間を決めるものの、五分十分遅れることはよくある。時間にうるさい友達は機嫌を悪くするが、もちろん遅れることは連絡している。多少の遅れてもいいのにと思っているが、相手が機嫌を悪くする理由がわからないわけではないので、いつも平身低頭誤っている。
改札を抜けて、階段を降りると、線路脇を進む形でしばらく道が続く、そこを小走りに抜けていく。突き当りを道なりへ右に進むと、運河が見える。この運河の反対側が大学となる。学生の群衆はぞろぞろと橋を渡る。あかねも渡っていた。途中で携帯のバイブレーターが震えた。友達から着信が入ったのだろう。鞄越しに震えているのがわかった。確認しようとあかねは、鞄を覗き込んだ。
次の瞬間、あかねの体に強い衝撃が走り、後方にはじかれた。
体をさすりながら、体を起こすと、目の前が影に覆われていた。先ほどまでは日差しがきつかったはずだった。
それが、人の影によるものだと気が付くまでに数秒かかった。下から上に目線をあげると、ビーチサンダル、ハーフパンツ、Tシャツにアロハが目に留まった。その上には、精悍な、しかし、どこか抜けている顔があり、あかねを覗き込んでいた。
「ごめん、大丈夫?でも、君も良くないな。歩くときは前を見る、っていうのは、幼稚園の時に教えてもらわなかった?」その男は、倒れているあかねに手を差し出した。
「そうですね。ごめんなさい」あかねは、頭の整理が追いついていないのに言葉が口から出ていた。
「人生で必要なことは、そのほとんどが幼稚園の時に教わる」その男は、あかねの手を半ば強引に掴み、引き起こした。
「そう、ですか・・・」あかねはやっと状況を理解した。この男、独特だ。そして、あかねの心の中には、嫌な予感が靄のように広がっていくのを感じた。まだ、視界は良好だが。
「でも、あなたはなぜ避けてくれなかったのですか?」あかねは、言った。
正論を言っているのは、相手だということは理解していたが、腹の虫がおさまらない。電車遅延のこともあり、何とか相手からごめんなさい、という言葉を聞きたかった。
男は、あかねが落とした鞄から飛び出した教科書などの持ち物を拾い集めてくれていた。悪い人ではないようだ。男は、水理学の教科書を拾い上げた。今日の試験科目のひとつである。
「うん?君はCV科の学生?」男は、教科書とあかねの顔を交互に見ながら、尋ねる。
「はい、そうですけど・・・」あかねは恐る恐る答えた。
「そうか、じゃあ、後輩だな」あかねの嫌な予感は的中した。
「俺は、地盤研だから、実験は後期だな。その時にまだ会おう。俺、院生だから、実験の面倒みると思うからさ。あ、そうそう、電車の遅延で遅れたのだろうけど、試験でしょう?急いだほうが良いよ」男は拾ってくれたあかねの荷物を渡しながら言った。
「え?電車遅延のこと、話しましたっけ?」
「俺はこれから出張なんだよ。現地調査でね。だから、電車に乗り遅れてしまっては、良くないから、運行情報を調べただけだよ」男は、横を走り抜けていく学生を見て言った。あかねは、そんなことかと思った。しかし、遠出するならば、交通機関の運行情報を調べるのは当たり前だろう。
「では。試験がんばれよ」男は、あかねを無視して、片手を直角に曲げ、掌をあかねに向けて去っていった。今気が付いたが大きなリュックを背負っていた。
男が言っていた「CV科」というのは、あかねの所属している土木工学科の通称である。Civil Engineeringの頭文字を取っている。CV科はなぜか、癖のある人物が多く、大学院生ともなると、かなり突出した人物が多い。すべてというわけではないが。
自分はこれから試験を受けることを思い出して、地面を蹴るようにして走り始めた。
あの男は誰だったのか?
試験が終わったら、古見澤さんに聞いてみよう。
その日の午後、すべての試験が終わったあかねは、学食のテラスでコーヒーを飲んでいた。試験時間も最後の直線の加速が間に合い、一分遅れで間に合った。それくらいであれば、そのまま試験を受けても差し支えないだろうと判断し、再試験の申請はせずに、受験した。テラスにはあかね以外に人はいなかった。今日は金曜日だし、試験が終わった学生が、早々に帰っているのだろう。試験の結果に関しては、善戦した、と言って良い。
今日の試験は、午前中に教養科目が二つ、午後に土木の専門科目が一つだった。専門科目は、水理学だった。水理学というのは、水の流れに関する力学である。流体力学と何が違うのか、あかねにはよくわからなかった。流体力学の中でも、水に特化した学問、という程度の認識しかないが、講義では、歴史的に水理学は流体力学よりも前に存在していたらしい。内容としては、水の運動方程式やら、ナビエ=ストークス方程式やら、数式のオンパレードだった。大学入試に化学を選択したあかねにとっては拷問に近い。
今日はもう試験はない。来週月曜日の試験が終われば、念願の夏休みが始まる。それだけで嬉しい。
その時、食堂側のテラスが開いて、人が入ってきた。あかねが呼び出した人物である。
「用事って何?」その人物は、扉を閉めながら尋ねた。
「古見澤さん、呼び出してすみません。研究室の人に勘違いされませんでした?」あかねは立ち上がって、笑顔で尋ねた。
「うん、二つのパターンかな。嫉妬と羨望と嘲笑と」古見澤は応えた。
「三つのパターンになっています。嘲笑ってどういうことですか?」あかねは尋ねたが、古見澤は無視して、近づいてくる。
「空調が効いている場所にしようよ。あかねは、暑くないの?」言いながらも、あかねの向かい側に座った。
古見澤雄也は、R大学土木工学科水理学研究室の修士一年である。
「久しぶりですよね」あかねはコーヒーを飲んで言った。
「一週間じゃないかな?先週最後の実験授業でTAとして、会ったでしょう?」
「そうでした?でも、会話していないでしょう?私の場合、それは見かける、ってことですよ」
「あかねの会うということの定義は、とりあえず今度ゆっくり聞かせてもらうよ」
「でも、三か月前のことがあったから、そこまで寂しくはなかったですよ。あの事件で絆が強くなったことは間違いないですよね」
「人の話聞いている?」
「聞いていますよぉ。あの時の古見澤さん、格好よかったなぁ」
「・・・今日はどうしたの?」古見澤はあきらめたようだ。
「教えてもらいたいことがあるんです」
「水理学のテストは今日だったでしょう?出来はどうだった?俺も試験終わりで見せてもらったけど、大問の二つ目が面白かったね。プランドルの混合距離理論を・・・」
「あー、古見澤さん、その話はまた今度でよいですか。じっくり話を聞きます。今日は水理学の質問じゃあないのです」
あかねは、今朝あった出来事を話した。
「思い当たるフシはあるのだけど、もう一度、その男の特徴を聞かせてもらって良い?」
「ビーチサンダル、ハーフパンツ、Tシャツにアロハ、精悍な顔立ちで、髪も短髪」
古見澤の要望通り、あかねは、男の特徴を話した。
古見澤はビーチサンダルのところでピンと来たようだったが、あかねの話を最後まで黙って聞いていた。
「それは居石だね。居石要。地盤研の」
「そういえば、地盤研って言っていました」
「それを早く言ってね」
古見澤の話によると、地盤研の中でもかなり特殊な人らしい。日常生活はかなりグータラで、研究室に机などまともに掃除できず、足元にカップラーメンの容器などが転がっているらしい。見かねた隣席の学生が一緒に居石の机も一緒に掃除するようになったのだとか。しかし、一度実験に入ると、食べることも忘れるような集中力を見せるらしい。メインの研究テーマについて、古見澤から説明をしてもらったが、あかねはよくわからなかった。現地調査に基づく研究がメインだが、室内実験も行うということはわかった。
「そういえば、現地調査に行く途中だって言っていました。私に気付かなかったみたいだから調査のことを考えていたのですね」あかねは言った。
「背が小さくて見えていなかったってことじゃない?」古見澤は、スマートフォンを見ながら言った。メールを打っているようだった。
「なんか言いました?」
「言ったような気もするし、言ってないような気もする」相変わらず、スマホから目を離さない。
「あの、古見澤さん、私のこと見てますか?」
「それは、目でということ?」
「それ以外ありますか?」あかねは口をすぼめた。
「さあ、どうだろうね。見る、によるかな」やっとスマホから目を離した。
「ほら、目で見たよ」古見澤は微笑む。あかねはこれに弱い。本当に意地悪だ。
「ずるい・・・」あかねはつぶやく。
「メールなら、私が帰った後にしてください。メールって、時間が空いたときに返信できるから良いって、言っていませんでしたか?」
「言ったような気もするし・・・」
「いや、ごめんなさい、もういいです」あかねは拗ねる。
「ちょっと、急を要する内容でね」
「私といるよりも大事なことってあるのですか?」
「その自信のベクトルをもう少し、別の角度に向けてみてはどうかな?」
「良いのです。もう」
「神奈川の時に会った刑事さんいるでしょう?若いほうの」古見澤は、やれやれといった表情で言った。
「研究所の時に張り切っていた人?」
「そう、あの、やる気のベクトルが、君みたいに違った方向に向いてしまった人ね」古見澤は言った。なかなか辛辣な意見だ。しかし、間違っていない。
「確か、おめでたい名前でしたよね?」あかねは言う。
「寿さんね」
「そうそう、結婚式にいてくれるとなんだかおめでたい名前ですうよね。お葬式の時に。困らないのかな?」
「申し訳なさそうにしながら行くのだと思うよ」
「寿さんがどうかしたのですか?」
「うん、近くで事件があったみたいで、聞き込みの合間に寄るかもしれないって、メールしてくれたよ」
「事件ですか。最近物騒なのですね。ここらへん」あかねは言う。
「そういうセリフって実際に使う人いるのだね。初めて聞いたよ」古見澤は眼鏡を拭きながら言う。
「褒め言葉ですね。嬉しいです」
「どう受け取るかは、君の勝手だけど、果てしなくポジティブだね」
「そんなに褒め倒しても、何も出ませんよー。何か期待しているのですか?」あかねはニヤニヤしている。
「今、メールしていたのだけど、来るみたいだよ。前回はドタキャンだったからね」
「露骨に無視ですね。寿さん、そんなに暇なのですかね」
「忙しいから来るってことじゃないかな?また、力貸せって言われたら嫌だな」古見澤は、嫌そうな顔をしている。
「力貸してあげれば良いじゃないですか。事件の相談に乗って欲しいってことでしょう?」
「簡単に言うよね。僕は警察の相談役じゃないからね」
「そもそも、何の用ですか?」あかねは尋ねた。
「寄るとだけしか、聞いてないね」
「待ち合わせはどこですか?」
「大学に着いたら連絡する、って言っていたね」
「じゃあ、それまで独り占めできますね」
「発言に気を付けたほうが良いよ」
「気を付けるって、なぜですか?」
「いや、やっぱり良いや」古見澤はあきらめた。
おめでたい名前の刑事から、大学到着の連絡が古見澤に入ったのは、あかね曰く、お腹一杯となった時だった。その時には、西日が強くなってきたので、古見澤とあかねは、学食の中に入っていた。
寿は、学食に入ると、辺りを見渡し、二人を見つけると、手を挙げて近づいてきた。
寿は、三十五歳と若手であるが、身長が百八十センチあり、高身長である。そのため、人ごみの中ですぐにわかる。眼鏡をかけており、髪は縮毛だった。パーマではなく、天然パーマらしい。
「刑事さんお久しぶりです」あかねは言った。
「久しぶりだね。あかねちゃんも一緒だったのだね」寿は、言った。
「古見澤君、前回はすまない、向かう間に呼び出しがあってね」
「いえ、お忙しいみたいですね」古見澤は言った。
「警察が忙しいっていうのは、良くないことなのだろうけどね」寿は言った。
「それにしても、学食って久しぶりに入ったけど、雰囲気やメニューが全然違うね。僕の学生時代は、カレーかラーメンか焼きそばしかなかったよ」
「海の家みたいですね。自販機のコーヒーで良いですか?」古見澤はそう言って、立ち上がった。寿の返事を待ち、古見澤は自販機へ向かおうとする。あかねが立ち上がったが、古見澤は手でそれを制した。
「この時間って、学生はあまりいないのか。僕が学生の時は、講義も出ないで、食堂で遊んでばかりだったけどね」
「今週は試験期間ですからね。今週はこれでおしまいだから、もう学生はほとんど帰ったと思いますよ」あかねは言う。
「ふーん、試験か。懐かしいなぁ。社会人になったら、試験なんてほとんどないからね」そう言いつつ、スーツから煙草を取り出す。
「当たり前だけど、中は禁煙だよね?」
あかねが頷くと、寿は喫煙所の場所を尋ねた。
「学食を出て、左手に建物を回って行くとあります」あかねは言った。
R大学は、理工学部、薬学部、基礎工学部の三つの学部が存在する。私立理工系単科大学である。
R大学の学食は、学部毎に三つ存在している。敷地が広いためという理由もある。一つは理工学部の正門付近で基礎工学部の学生の使用率が高い、もう一つは、薬学部の中、そして、最後の一つが、現在、古見澤たちがいる学食で、通称「カナル食堂」である。大学そばを運河が流れていることからこの名称がつけられた。この学食は三つの学食の中では、最も大きく、地上三階建てである。一階は食事スペースが大半を占めている。先ほどまで古見澤とあかねがいたのは一階の外テラスである。二階も食事スペースがあるが、一階の半分ほどの広さしかない。床の面積のおよそ半分は一階の吹き抜けとなっているためである。三階は会議室などが並び、学生の使用はまったくない。
寿は、一度学食から外に出て行った。あかねは、先ほどまで古見澤と向かい合って座っていたが、移動して古見澤の隣に座った。
「入ってくる前に、吸って来ればよいのに」あかねがつぶやく。
「喫煙所がここまでの道にないからね」古見澤が言う。
「ちょっと道を逸れると、喫煙所があるね。大学側が隠したいのだと思う。イメージダウンになると思っているのだね」古見澤は喫煙者である。
「タバコなんて、体に悪いだけでしょう」あかねは言う。
「もう何回もそんな議論されているけど、本人が吸いたくて吸っていて、もちろん法律に違反することなく、決められた場所で吸っていたら、何か文句言われることあるのかね?」
「でも、受動喫煙のリスクがありますよ。喫煙所が仕切られていなければ、煙が流れていきます」あかねは吸わない。
「だとしたら、なぜタバコだけなのか?と思う。ほかにリスクの高いものについては言及されないよね?排気ガスとかもそうだし。エアコンのフィルターに付着するカビの方が、余程体にとってリスクが高いのではないかな?どこの家庭に普及されているしね」
「よくわかりませんけど、最近は電気自動車が普及されてきていますよ。対策は取られているのです。タバコ、やめてくださいね」あかねは古見澤に向き直って言う。
「回答になっていないよ。まあ、やめる気はないね。同じこと寿さんにも言わないの?」
「古見澤さんは、今後の私との生活のこともありますし。体に気をつけてもらわないと・・・」
「お、お二人さん、結婚か?」寿が椅子に座りながら言う。
「しません」古見澤は即座に否定した。
「戻ってきたなら、言ってくださいよ」
「いや、仲良いなあ、と思って見ていたよ」寿はにこにこしている。
「式には来てくださいね」あかねは前のめりになって言う。
「しないよ」
「ああ、招待状出しておいてくれ」寿も前のめりになる。
「寿さん、なんで乗っかるの?」
「古見澤がうらやましいな」
「譲りますよ。いつでも」
「嘘でしょう、ねえ、コミー」あかねは古見澤の腕を引っ張る。
「引っ張るなって、コミーって何だよ。初めて聞いたよ,それ」
「合六さんが言っていた」
「あいつは・・・戯言に拍車がかかってきたな・・・あかねが真似することはない」
「寿さん、油売っているんじゃないって、笹倉さんから怒られますよ。そろそろ本題をお願いします」古見澤が言う。
「夫婦漫才はもう終わり?じゃあ、そろそろ真面目に」
寿はスーツのポケットから、写真を数枚出した。
「最近、可士和市周辺で、通り魔が出没しているっていう報道は聞いたことある?」
「あ、私、昨日ニュースで見ましたよ。二人殺されているって言っていたような」あかねが言う。
「大学側からも、研究室に遅くまで残っていないように、と学生に連絡が来ていましたね。大学のホームページにもトップに、ほら」古見澤はスマートフォンで、R大学のホームページを寿に見せた。
「うん、賢明だね。でも、試験期間ならば、学部生は問題ないかな。さっさと帰るでしょう」
「古見澤さん達のように研究室や実験室に遅くまでいるような大学院生や、卒論の実験をやっている四年生は注意しなくてはいけませんね」
「家に帰ることがあまりないからね」古見澤は言う。
「ここまでに二件発生している。でもな、報道規制されているが、単純な通り魔ではなさそうだというのが、捜査本部の見解だ」寿は、古見澤の発言を無視して言う。
「報道規制・・・というと、公にできないような状況があったということですよね?」
「ああ、遺体に装飾がされていたのだよ。君らも見れば、わかるものでね」寿は、テーブルの写真を人差し指で叩きながら言った。
寿の前に置かれた写真を、あかねは仰け反りながら、眺めている。
「え、寿さん、それ、遺体の写真ですか?」
「あかねちゃん、流石に、こんな夕暮れ時の、のどかな大学の学食のテーブルに、凄惨な遺体の写真をのんきに並べないさ」
寿は、それまで裏向きだった写真を、裏返して古見澤とあかねの前に並べた。
「それは、殺害されたすべての遺体の胸に刺さっていた。文字通り、地面に打ち付けてあった」寿は人差し指で自分の胸を数回突いた。
写真には、灰色の机の上に置かれた、細い棒状の物体が写っていた。棒状の物体は二本あった。先ほど寿は事件が二件あったといっていたので、それぞれの事件で使われたものだと推測される。棒状の物質は、鈍い光沢を持っていた。その棒の先端は、片方がわずかに尖っているが、これで人を突き刺そうとすることは難しそうである。その反対側は、棒が折り曲げられ、輪になっていた。裁縫に使う待ち針を大きくし、針の側の尖り度を落とし、糸を通す側の輪を広げたようなイメージである。
「写真ではわかりづらいと思うけど、長さが六十センチ、太さが六ミリだ」
「これは・・・ピンポールのように見えますね。測量機器の」あかねは言う。
「うん、捜査本部でも同じ見解だ。当初は単なる金属棒だと考えられていたのだが、捜査員から同じ意見が出て、現時点ではその方向で考えている」寿は言う。
「ピンポールって、測量する点に立てて使うのだよね?」寿は尋ねた。
「まぁ、大まかにいえばそうですね。それを目印にして、高さや地点間の距離、角度などを測ります」古見澤は言った。
「それにしても、よく覚えていたね。ピンポールのこと」古見澤は言う。
「好きだったのです。測量実習が。ピンポールを持つ担当だったのですよ」あかねは、古見澤を見て言う。
「私、立って寝ていられるのです」
「そんな自信たっぷりにいわれてもね・・・。それで、これがどうしたのですか?」古見澤は言う。
「ここら辺一帯の測量会社や調査会社など、ピンポールを使う可能性のある場所で、管理している機器に紛失したものはないかなど、聞き込みしているのだが、大学でも使うことを忘れていてね。この一帯で、測量実習の授業があるのはこの大学だけということがわかった」寿は説明した。
「だから聞きに来たと。でも、建築学科でも測量実習はありますよ」古見澤は言った。
「建築学科でも授業があるのか?土木だけだと思っていたのだけど」
「建築学科で管理している測量機器、というのはなかったはずです。土木工学科のものを建築の実習でも使っています」古見澤は言う。
「なるほど、結局、土木の方で管理しているものがわかれば良いってことか。古見澤の方で調べられないか?」
「ちょっと、僕の方ではわかりませんね。測量実習を担当している研究室の教授に聞いて方が良いかもしれませんね。同期を紹介しますよ。これから時間ありますか?」
「大丈夫だ」
「じゃあ、向かいましょう。連絡を入れます」古見澤はスマートフォンを持った。
三人は、学食を後にした。古見澤が連絡をとり、土木工学科の計画研究室へ向かうことになった。学食から、車道を渡り、再び大学の敷地内へ入る。目の前の建物を通り抜け、中庭へ出た。日が長い夏といっても、暑さはだいぶ落ち着いてきた。
「連絡は取れたのか?」寿が古見澤へ聞いた。
「はい、自分の同期で、計画研究室の修士一年の蘭蘭というやつに連絡を取っています。」
「アララギラン?どういう字?」寿は聞いた。
「『蘭』を二回です」古見澤は簡単に答える。
「通称、ランランです。あだ名はかわいらしいのですけど、とてもクールな人ですよ」あかねは言う。
「小さいころ、名前で悩んでそうだな。親近感が湧くよ」
名前で悩んで経験のありそうな刑事が、空を見上げながら言った。
三人は、中庭を抜けたところにある、長方形の建物に近づいた。
「ここが土木工学科の建物です」古見澤は言った。
「上の方に五って書いてあるけど、五号館ってこと?」寿は指さす。
長方形の短辺の壁の上方に数字の五が書いてある。私立R大学は各学科の建物に数字が割り振られており、それが建物の名前になっている。土木工学科の場合は五号館ということになる。
「でも、玄関先にわかりやすく書いてありますよね」あかねは言う。
見ると、玄関脇の柱に木の看板がつけられている。両方の柱にそれぞれ設置されている。片方には、筆書きで「五号館」もう片方には「土木工学科」とある。
「これは、土木の建物だけ?」寿は言う。
「そうですね。OBから贈られたみたいです。でも、格好良いですよね」あかねは言う。
「他の学科にはないですね。うちの学科が勝手につけたみたいですよ」古見澤も言う。
「確かに、格好良いね」寿が学科の看板をじっくり見ていると、建物の中から、騒がしい声が聞こえてきた。
「だからさぁ、ちゃんと試薬確認しろっていったでしょ?このバカ!」
声の主は、上下ジャージ、茶色の髪を後ろで束ねて、ポケットに手を入れながら、前を歩いている男をケンカキックしている女の子だった。
「すいません、すいません、忘れていました」男の子は、身を屈めながら、それでも蹴りを受けていた。
「んだよぉーもー、また、試料作り直しじゃんか、時間かかるんだぞ。お前全部やれよ。コンクリート切断して、砕いて、ミルにかけて。私手伝わないからな!」
玄関先で。激しいバトルが繰り広げられていた。しかし、一方的に女の子に男の子がやられている構図になっている。男の子はかなり体格が良く、アメフトをやっています、と言われても納得できるだろう。女の子は、逆に背が低いため、見ていて異様な光景である。
「一人だと、すごい時間かかってしまうので、その、申し訳ないのですが、手伝ってもらえませんか?」大きい体格をこれでもかと屈めて、男の子が言う。
「いやだ。やらないって言ったでしょ」女の子が言う。
「本当に、ごめんなさい、お願いします」男の子が頭を下げる。
「・・・甘いものが、食べたいなぁ・・・」女の子がつぶやく。
「買ってきます!何がいいですか?」男の子の目が輝く。
「ブラックサンダーがいい。ほら行くよ」
「はい!」男の子は嬉しそうだ。
一部始終を三人は見ていた。
「なあ、俺は何を見ているんだ?」寿が言う。
「同級生として、謝ります。ごめんなさい」古見澤が謝る。
「合六先輩、かわいい」あかねは、にこにこしている。
「あれがツンデレってやつなのか?」寿は言う。
「ん?あの子がさっきあかねちゃんの言っていた、合六ってやつ?女の子だったのか」
「はい、僕の同期で、コンクリート工学研究室の修士一年です」
合六がこちらに気が付いたようで、こちらに歩いてきた。
「あれーコミーだー。なんか久しぶりに見かけた気がするなー。あんた、先週の飲み会来なかったでしょう?」合六はべたべたと古見澤を触っている。
「ああ、立て込んでいたんでね」古見澤は言う。
「何を立て込んでいるんだか・・・」
合六は寿に気が付いた。
「こちらの、イケメン天パは、どなた?」
「褒めているのか、貶しているのか、どっちなんだ?」古見澤は言う。
合六は後ろについてきている男の子を指差す。
「あいつみたいに、キモ格好悪い、よりかは良いでしょう?」
「もうね、ただの悪口だから、それ」
「初めまして、C県警の寿と申します」寿は名詞を差し出す。
「へー刑事さんって、名刺もっているんだ」合六は、じっくりと名刺を見ている。
「警察手帳を、見せると思っていた」
「最近はバッジですけどね」寿が言う。
「コミーは刑事さんと知り合いなの?」合六が言う。
「話さなかったっけ?久里浜の研究所の事件の時にお世話になった」
「あー、飲み会の時に言っていたねー。私と関係なかったからすぐ忘れた」
「殺人事件の話をすぐ忘れられるんだ・・・私、今も夢に出るときがあるけど」あかねは言う。
「人から聞いた話なんて、そんなものだろう。自分が体験しているわけでも、ましてや飲み会の席での話だ」古見澤は言う。
名刺を見ていた合六が顔を上げた。
「あ、自己紹介していない、ごめんなさい、合六です。合六菜々子と言います。よろしくお願いいたします」合六は丁寧にお辞儀をした。
「あ、ご丁寧にどうもありがとう」寿もお辞儀を返した。
「これから実験?さっきの会話の様子だと」古見澤が言った。
「そーねー。仕方ないから」
「また今度見学に行くよ」
「わかった。また、モルタルで補修したいところあったら言ってね。あ、あと、袈裟丸がね、話があるって言っていたから、時間作ってあげて」
合六と後輩は、二人で五号館の裏手に向かって歩いて行った。
三人はその後姿を見送った。
「古見澤、お前の同期には、凄いのがいるな」寿が言った。
三人は五号館の中へ入った。入ってエントランスを抜けるとすぐ、左右に廊下が伸びていた。それぞれの廊下の端には階段が見えるが、正面向かって右手の階段は、廊下の途中にあるエレベータによって半分ほどしか見えない。エレベータは、壁から廊下へせり出すように設置されているため、エレベータのあるところで、廊下が狭まっている形になっている。また、エレベータの乗降口が、廊下の進行方向に垂直になっており、しかも片側にしかない。つまり、エントランス側からは乗降口が見えるが、その奥の階段側からは乗降口は見えないことになる。
三人は、エレベータの前に並び立ち、古見澤が上昇ボタンを押す。
「彼女は、突出している方ですかね。でも、優秀なのですよ。僕が言うのもなんですけれど」
「優秀。そういう風には見えないが、どういう意味で?」寿が言った。
「大学院生のように研究がメインとなる生活になると、勉強ができることって、あまり意味をなさないって思うのです」古見澤は言った。
「学校の成績が良い人が良い研究ができないわけではないですが、良くなかったから、良い研究ができないってこともないと思います。そういう意味で、彼女は努力していますし、それが形になっています。いくつかの学会で優秀発表賞や論文賞を獲得していますし」
寿は古見澤を見ずに、細かく頷いた。
エレベータが到着し、三人は乗り込んだ。
「そういうものかねぇ」
エレベータは三階に到着した。
エレベータを降りると、エントランスがない以外は1階と同じだった。廊下の左右に部屋がいくつかあり、扉に設置されている部屋名を見ると、学生の机が並べられている、いわゆる学生部屋と、教員が個人で使用している部屋に分けられているようだった。
学生部屋かそうではないかは、おそらく初めて来た人間でも判断可能であっただろう。学生部屋の扉は、もれなくアニメのポスターや、実験風景などの写真で飾られていた。
「理系の大学生って感じがするな」寿が首をきょろきょろさせながら言った。あかねは特に何も感じていないようだった。
「扉のポスター等のことを言っているのなら、たまたまですよ。年代によって、流行りのようなものがありますからね。張られていない年もあります」古見澤は言った。
「古見澤の研究室はどこにあるの?」寿は言った。
「確か水の研究をしていたよな?」
「その通りです。所属は水理学研究室です。場所は上の階にあります」
三人はエレベータを降りて、エレベータを回り込むように後方へ回った。
そこに計画学研究室はあった。計画学研究室は、二部屋あり、両隣であった。
「計画学研究室(1)と(2)があるな」寿は言う。
「学生が多いのです。教員の人数で研究室に配属される学生数が決まるので」古見澤が言う。
古見澤は(1)の方の部屋をノックする。中から返事が聞こえた。古見澤はドアを開けた。
「失礼します。蘭いますか?」
部屋の中には、机が並んでおり、すべての机にはPCが設置されていた。壁には様々な書籍が本棚に並べられていた。別の壁には、ファイルがいくつも並べられており、ファイルの背表紙には、文字がびっしりと書かれていた。PCの中に一人学生が座っており、何やら作業をしていた。
「あ、こんにちは」学生は顔をPCから古見澤たちに向けた。
「蘭さんですか?まだ見ていませんが」
「そうか。今日は君一人?」
「いえ、他のみんなは、今ゼミ中です」
「なるほど、蘭も今日はゼミ?」古見澤は言った。
「いや、今日は脇坂先生のゼミなので、蘭さんは参加していないと思います」学生が言う。
「なるほど、待たせてもらっても良いかな?」古見澤は言った。
「はい、それは問題ないです」
三人は入り口近くの応接スペースのソファに腰を下ろした。入口近くに古見澤とあかね、奥側に寿である。
「蘭に連絡してみますね。研究室にいると言っていたのだけどな」古見澤は携帯を持って研究室の外へ出た。
寿とあかねは、しばらく部屋を見渡していた。よく見ると観光地で見かけるようなペナントや提灯といった、一昔前のお土産品まである。二人が観察に時間を使っていると、古見澤が戻ってきた。先ほどの学生は、部屋の隅にある流しでポットに水を貯めている。
「今、こっちに向かっているようです。蘭はこの近くに住んでいるので、すぐ来ると思います。ちょっと待っていましょう」古見澤が言った。
「そうか、すまないね」寿は言った。
「あの、こちらよろしければどうぞ」
学生がお盆にコーヒーを載せてやってきた。
「あ、お気遣いなく。ありがとう」寿はお礼を言った。
「君はゼミに行かなくてよいの?」
「あ、僕も蘭と同じ理由です」学生は言った。
「脇坂先生のゼミは出なくてもよいってことなの?」
「計画学研究室は、教授の中村泰雄先生と講師の脇坂透先生、そして助教の椎橋美香さんの三人の教員がいます。ランランはそうですが、彼もおそらく指導教員が中村先生なのだと思います。指導教員が別でもゼミに出て全く問題ありませんが、強制ではありません」
古見澤が言った。
寿が頷くのを見て、古見澤はまた携帯に目を落とした。
「ちょっとすみません」
古見澤はまた外に出て行った。
「古見澤、忙しいのか。なんか申し訳ないな」寿は古見澤が出て行ったドアを見て言った。
「最近特にですよ。相手してくれなくて。すぐ電話かけに行っちゃうし」あかねが言った。
「あかねちゃんのアタックがしつこいのじゃない?」
「ちょっと何言っているか、わかりませんけど」
寿があかねをからかっていると、古見澤がまた戻ってきた。
「忙しかったか?本当にすまないね。ランラン?に会わせてくれたら、もう大丈夫だから」
「そうですか。ごめんなさい。急なのですが、人と会わないといけなくなって。ランランを紹介したら、僕は帰ります」寿は言った。
五分ほど三人で雑談していると、研究室の扉が開いた。
「お待たせしました」
扉には、背の高い、髪が腰まである女性が、息を切らしながら立っていた。
「時間に間に合わないなんて珍しいね」古見澤が応接スペースのソファから振り返る。
「昨日研究室に泊まったから、家に帰ってシャワーを浴びたくて。午前中は打ち合わせがあったから帰れなかったし」蘭は言う。
「いつもみたく、逆算して遅れずに家を出るだろう?」古見澤は言う。
蘭は、自分の机に荷物を置いて、ソファのあるテーブルに椅子を持ってくる。
「道中いろいろね」
寿の隣には座らないようである。蘭は、寿に顔を向けた。
「初めまして、R大学理工学部土木工学科計画学研究室修士一年の蘭蘭と言います」蘭は淀みなく言った。
寿はソファから立ち上がった。
「C県警の寿と言います。忙しいところ、時間を作ってもらって申し訳ない」寿は会釈する。
蘭は自分の分のコーヒーを先ほど古見澤たちに持ってきてくれた学生に頼んだ。蘭の分のコーヒーを入れた後、学生はアルバイトがあるということで帰宅した。
「簡単なお話は、古見澤君から聞いています」蘭はジーンズで手を拭くようなしぐさをしながら言った。
「捜査のことで、お話を聞きたいことがあるから、教授を紹介してほしいということだったと思うのですが」
「おっしゃる通りです。今日は、今担当している事件で使われた物品のことについて、ご意見いただければと思い、伺わせていただきました。本音を言ってしまえば、それは目的の半分で、残り半分の目的は、古見澤君にお世話になったので、会ってみようと思ったからです」寿は、手帳を取り出しながら言う。
蘭は、目を丸くさせて、口元に手を当てた。
「ごめんなさい、勝手な思い込みなのですけれど、刑事ってもっと横柄だと思っていました」蘭は言う。
「この人はね、聞いてくれる人だよ」古見澤は言う。
「じゃあ、僕はこの辺で帰るよ。ランラン、後はよろしく。寿さん、今度は飲みに行きましょう。僕もお礼がしたいので」古見澤は言った。
「ああ、忙しいところ悪かったね。また」寿は古見澤に手を挙げる。
「あかねちゃん、明日からよろしくね」蘭は、あかねに言う。
あかねは蘭に手を挙げて了解の意思を示した。
古見澤とあかねは部屋を出ていった。あかねは、寿と蘭に笑顔でお辞儀をして出て行った。
今日くらいは古見澤さんと一緒にお話ししようと思っていたのに、あかねとしてはちょっと残念に思っていた。まさか、こんなことを頼まれていたとは。
「寿さん、有益な情報仕入れることができますかね?」
二人は、三階から階段で降りていた。客人もいないわけだし、帰りは階段で良いだろうと古見澤が言ったからである。上がってきたエレベータの方向に行かず、逆側の階段で降りる。
「警察はもうすでにあれが何かわかっているよ。寿さん言っていたでしょう?」
捜査本部でも同じ見解だ、ということを学食で話していたことを思い出した。
「そういえばそうですね。あれ?ではなぜここに聞きに来たのだろう?」あかねは素直に思った。
「恐らくね、目的は僕だ」古見澤が言う。二人は二階を通り過ぎていた。
「どういう意味ですか?」
「そのままの意味だよ。彼の目的はたぶん僕さ」
あかねは古見澤の言葉を反芻する。
二人は一階に到着した。
「そんなに二人は仲良かったのですか?嫉妬します」
「嫉妬は勝手にしてもらって良いよ」
古見澤は正面玄関ではなく、階段脇の非常口から外に出るようだ。そこを出ると、喫煙所があり、五号館前の道に出ることになる。
古見澤に続いてあかねが出ると、さすがの夏でも日はすっかり暮れていた。顔を前に向けると、喫煙所に人影が見える。タバコを吸っているようだ。
ふと、古見澤が足を止める。
「あかね、今日はもう帰りなさい」古見澤の声のトーンが落ちていた。
いつもの古見澤さんじゃない。
「もう暗くなっちゃいましたしね。また、連絡しますね。じゃあ、お疲れさまでした」
精一杯元気に喋る。わがままを言ってはいけない気がした。
「うん、またね。お疲れ。明るい通りを帰った方が良いよ」
「子供じゃないですよ」精一杯笑顔で答える。
手を振る。
歩き出したら、段差に躓いた。
転びかけるが、体勢を立て直す。
視界に人影が映る。喫煙所の椅子に座っている。
黒。最初に思った。
いや、違う。
自分の服を直す振りをして。横目で人物を捉える。
頭に黒いタオルを被るように巻き、上下は黒い作務衣である。作務衣の下はハーフパンツぐらいの長さになっている。夏用だろうか。足には雪駄を履いている。
顔は見ることができなかった。
見てはいけないと思った。
怪しかったが怖かったわけではないのに。
知り合ってはいけないと思ったのだ。
こんな得体のしれない人と古見澤さんは交友があるのだろうか?
あかねは古見澤が心配になったが、その場を去ることにした。
視界の端で、黒い人物がにやりと笑った気がした。
背筋が寒くなったが、がんばって歩を進める。
少ししてから走り出した。
しばらく走って、後ろを振り向いたら、その人物と古見澤が並んであかねと逆方向に歩くのが見えた。
「完全に怖がられちゃったねぇ」漆黒の男が古見澤に言った。
二人は、あかねが走り出した方向とは逆方向に歩き出した。
「そんな格好していれば、怖がるでしょう。人でも殺めそうな雰囲気を出して」古見澤は答える。男は、にこにこしていた。
「顔、見てくれなかった。久里浜で会っているのに。でも、怯えている顔もかわいいよねーあかねちゃん」
「素敵な趣味しているよね」古見澤は男の顔を見ずに言った。
「それで塗師さん、どうなっている?」
塗師と呼ばれた男は、それまで笑顔だったが、真面目な顔になった。
「群馬の方は、明日発つよ。もう行っているのだろう?」
「今朝出発したみたいだよ」
「了解、追いつきますよ」
「よろしく。今回の方は?」
「衝動的ではないね。理性的に動いていると思うよ」
「人を殺しておいて?」
「それ、関係ある?」塗師は古見澤を見る。
「やったことは理解できない」
「そんな話はしていないだろう?」
塗師は笑う。
「そいつの中では普通なのさ。それは理解できているだろう?」
古見澤は何も言わない。
塗師は無視して続ける。
「自分の頭で考えて、自分の中のルールに従って動いている。僕らと何か違うか?」
「先をどうぞ」うんざりした様子で古見澤は先を促す。
「特定はまだできていない。次もわからない」
「打つ手なし」
「まぁ。そうだね」塗師は片足を上げて、踵を掻いた。
「動きがあれば必ず場も動くと思うから、また洗いなおすよ」
「よろしく」古見澤は言った。
手を挙げると、古見澤は大学裏門からさっと出て行った。
いつの間にか、大学の裏手まで来ていた。
古見澤は、すでにオレンジ色の面積が少なくなった空をずっと見つめていた。
寿と蘭は、応接用のテーブルに置いた写真を挟んで、向かい合って座っていた。
教授が来るまでに蘭から話を聞くことになった。
寿が、古見澤とあかねに学食で話した内容を蘭に伝えたところであった。
「聞いておいてこんなこと言うのも、と思いますが、良いのですか?捜査情報を刑事さんが一般市民に漏らして」蘭が言う。
「漏らしてというのは、なかなか手厳しいね。古見澤からの紹介だから、信用できるだろうと判断したよ。あなたの意見は参考意見とさせてもらうから、畏まらずに話してください」
「信用されているのですね、古見澤」蘭が微笑む。
蘭は再度写真に目を落とした。
「この写真から、私が言えることは、少なくとも測量に使われるピンポールに形状が近い、ということですね」
「まったく同じ、とは言い切れませんか?」寿は、メモを取りながら聞いている。
「この物体は、鑑識に調べてもらいましたか?差し支えなければ教えてもらうことはできますか?」蘭は寿の発言を無視して言う。
寿はメモを左に捲り、該当箇所を探した。
「問題ないですよ。ただ、内密にお願いしますね。成分分析の結果が出ています。いわゆる鉄製ですね」
「塗装のことについてはいかがでしょう?」
「物体表面に削った痕跡が見られるとのことです。ディスクサンダーというのでしょうか?電動で回転する円盤状のやすりを使って研磨する工具ですね。それは重要ですか?」
「写真を見る限り、わずかに濁っていますが、光沢のある色をしていますよね」
「そうだね。発見時はもう少し光沢があったと思う」寿は写真に目を落とす。
「金属の表面の被覆を剥がしたために、酸化が進んで、くすんでいるのだと思います」
「なるほど、それは考えられますね」寿は言った。
「可能性として、市販されているピンポールの被覆を剥がした場合と、棒状の鉄を加工した場合があると思います」蘭は言った。
「ピンポールの形状って、結局、建材の鉄筋の片方の端を丸めて、もう片方の先端を半球状に加工したものです。材料と加工できる環境があれば、作ることはできます。それに、市販されているピンポールは、紅白に色分けされていますので、被覆を剥げば写真と同じようになります」
「どちらかは判断できませんか」寿は言った。
「現時点では、断定はできません」蘭は首を振る。
「そうですか・・・」寿は言った。
「仮にこのピンポール状の物体が、鋼材を加工して作られたものだったとします。その場合、先端を丸くしていることが不思議なのです。死因は、撲殺なのですよね?」
「そうですね」
「ということは、亡くなった後、遺体にこれを刺したということになります。だとすると、先端を尖らす方が、簡単ではありませんか?」
「確かに」寿は頷く。
「もちろん、被覆を剥がせるならば加工は簡単ですからね。この写真を見る限りは、先端は鋭利ではないですね。人を刺すことはちょっと難しそうです」
蘭は写真を指差す。
「合理的に考えると、これから使う目的に対してわざわざ先端を丸く加工する必要はないです。でも実際は先端が丸いですね。この場合、最初から丸かったという場合と、刺しにくいことを踏まえた上で、別の目的のために丸くしたという場合の二通りが考えられると思います」
「別の目的?それは?」
「それは何かわかりません」蘭は微笑む。
寿は苦笑いをした。
「色を塗った理由についてはどうでしょうか?」寿は仕切り直す。
「そもそも研磨する、磨くという作業はどういう目的で行うかということです」
「表面を綺麗にするとか、滑らかにするとかでしょうか?」寿は言った。
「単純に考えればそうでしょうね」蘭は微笑む。
「この場合は、その理由とは思えませんね」寿も微笑む。
「そうですね。使われた理由を考えれば」
蘭は写真を見る。
「想像ですが、市販されたピンポールの被覆を剥がした場合では、やはり市販されているものということを隠す意味合いがあると思います。結果としては、警察はピンポールではという推測に至りましたが、見る人によっては、単なる杭として見ることもできます。保険のようなものでしょう」
寿は頷く。
「鉄の棒から加工した場合についてですが、写真を見た段階では、材質がわかりませんでした。でも、写真からこの物体の表面がわずかにくすんでいたので、おそらく酸化が進んでいるのだろうと思いました。だから、頭の中では、八割がた鉄製だろうと推測していました。材質が気になったのは、アルミ材でも同じ光沢を持っている加工品ができるためです。その場合、研磨する理由がわかりませんし、研磨されているという分析結果とも合致しません。また、成分分析で鉄製ということがわかりました」蘭は言う。
「最近だな、結果が出たのは」寿は付け足した。
「その結果を踏まえると、考えられるのはやはり表面を研磨したかったのだと思います」
「単純に研磨するのは考えづらいのでは?」寿が言う。
「そうです。だから、単純な理由ではないのだと思います」
寿が不思議そうに見る。
「一般的に鉄筋には、鉄筋加工時に表面に黒錆が発生します。これは、錆の一種ではあるのですが、鋼材を腐食から守る錆なのです。この分野は、コンクリートの研究者の方が詳しいのですけど」
「合六さんに聞けば詳しくわかるかな?」寿が言った。
「あ、菜々子のことご存じなのですね?」蘭の目が輝く。
「例えばですが、この時の黒錆を排除したいという考えから、研磨したという可能性があります」
「そんな理由で、研磨しますか?」寿は言う。
「だから、可能性です。そんなことも考えられる、という程度ですよ。それに、それがわかったからと言って、犯人に直結するわけではないと思います」
「それはそうだと思いますが」
寿はそんなことを言いながら、メモを取った。
「そういった意味で、このようなものを残した犯人の行動原理については、よくわからないということです。ご期待に沿えなければごめんなさい」蘭は頭を下げた。
「いえいえ、こちらも参考意見として聞いていましたから、大丈夫ですよ」
二人の会話が落ち着いたところを見計らったかのように、研究室の扉が開いた。
「あーお腹すいたー」
ボブカットを揺らして、女子学生が入ってきた。
「工藤先輩。お疲れさまです」蘭が言う。
「ランランお疲れー。どうして、ゼミ終わると、こう腹減るのかねぇ」工藤と呼ばれた女の子が言う。
工藤はすぐさま蘭と一緒にいる寿に気付いた。
「ランラン、こちらは?」工藤が体を硬くして言った。
「こちらはC県警の刑事さんです」蘭は寿の方に手を差し出して言った。
「え、刑事?ランラン、何かしでかしたの?」工藤は目を見開いて蘭を見る。
「いえ、そうではなくて」
蘭が弁明しようとしたところに、三人の男子学生が疲弊した顔で入ってきた。
「お疲れさまです」先頭の学生がぐったりした声で言う。
「工藤さん、お菓子なにかありました?」最後に入ってきた学生が言う。
三人の男の子は工藤の硬直した様子に気が付いた。
「工藤さん、どうしたのですか?ランラン、工藤さんどうしたの?」先頭に入ってきた学生が言う。
「板倉、ランランが逮捕されるかもしれない」工藤はまだ目を見開いた状態で言った。
「逮捕?ランラン何かしたのか?」板倉と呼ばれた学生が言う。
「痴漢か?」三番目に入ってきた学生が言った。
「鈴木、ランランの場合はされる方だろう?ランラン、こちらの方は?」二番目に入ってきた学生が言う。
鈴木と呼ばれた学生は、それにコメントすることなかったが、板倉と目を合わせた。
「中村君、こちらはC県警の刑事さんです」
「一気に賑やかになったね。みなさん初めまして、C県警の寿と申します」寿はソファから立ち上がって挨拶した。
入ってきた学生たちは、皆礼儀正しく頭を下げて、それぞれ自己紹介をした。
女子学生が工藤由利、男子学生は、入室した順番に、板倉凌、中村健、鈴木拓也ということだった。
「みなさん、この時間に帰ってきたということは、脇坂先生のゼミに出ていたの?」寿が尋ねる。
「はい、そうです。今終わったところです」中村が言う。
「そうですか、皆さん大学院生?」
「はい、工藤さんが修士二年、あと僕らが一年です」中村が言った。
「あの・・・刑事さんはどうしてここにいるのですか?」工藤が言った。
「やっぱり、誰か捕まえに来たとか・・・」
「えっと、誤解されているみたいですけれど、今のところその予定はありませんので、ご安心ください」寿は微笑みながら言った。
「とはいっても、事件のことで来たのは間違いないですよ」
そこまで言うと、研究室のドアがまた開いた。
「工藤、先週頼んだ解析だけど、出来ている?」
小柄な男が入ってきた。メガネをかけ、髪を中央で分けている。
「あ、脇坂先生、お疲れ様です」工藤が言う。
「さっきまでゼミで会っていたでしょう?当たり前に疲労しているよ」脇坂が言った。
脇坂は寿に気づき、意表を突かれたような顔になった。
「あ、えっと、こちらは・・・」脇坂は、学生の顔を順番に見ながら、説明を求めるような仕草をした。
また、ドアが開く。
「中村先生、早く原稿仕上げてもらえますか?協会から催促の電話が来ています」
「ああ、あそこの担当者は、僕の教え子だから大丈夫、原稿ぐらい待ってくれるよ」
髪を茶色の染めた女性と白髪交じりの頭髪をオールバックにした男性が入室した。
研究室の寿以外の人間が一斉に挨拶をした。
それに対して、男性は軽く手を挙げ、ソファに接近し、寿に気づいて驚くように軽く飛び跳ねた。
「え、どちら様?ランランこちらは?」男性が蘭と寿を交互に見ながら言う。
「まとめてご挨拶した方が良いでしょうね」蘭が寿を笑顔で見る。
「ですね」寿も微笑む。
寿はソファから、再度立ち上がって、スーツのボタンを留めて話し始める。
「先ほどまでいた方々には重複してしまいますが、ご了承下さい。私はC県警で刑事をしております、寿と申します」寿は頭を下げた。
「え、刑事さん?」脇坂が訝しむ。その横で茶髪の女性が手に持ったファイルを胸の前で抱きしめた。
「ほう、刑事さんですか、これまでの来客の中でも珍しい。いや、これまで警察の厄介になった学生は知っていますが、こちらからお邪魔することはあっても、来てもらうことはほとんどないですからね」オールバックの男性が言った。
「そうそう、私は教授の中村と言うものです」
中村教授は、後ろの茶髪の女性に手を出した。
「椎橋君、僕の名刺持っている?」
椎橋と飛ばれた女性は、持っていたファイルの中から、名刺を取り出し、中村へ渡した。
「どうも、これ名刺です」中村教授は寿へ名刺を渡す。
「ありがとうございます。こちらは私の名刺です」寿も名刺を渡す。
「企業の人みたい。警察手帳とかないのですか?」工藤が言った。
「刑事ドラマの見すぎですね。持っていますが、こういった場面では出しません」寿は言った。
「今度見せてもらえますか?」鈴木が言う。
「機会があればね」
「遅れましたが、こちらは講師の脇坂です。隣のハムスターみたいの女の子は助教の椎橋君です」中村教授が後ろに立っている二人を紹介する。
「講師の脇坂です」
「助教の椎橋です」
二人はお辞儀をする。手には名刺を持っていたので、寿も名刺を取り出しそれぞれと名刺交換をする。
「さて、どういったご用件でしょうか?」中村教授は言う。
「はい、今捜査している事件のことでご意見を頂きたいことがございまして、お時間ありますでしょうか?」
中村教授は椎橋を見る。
「あと、五十分したら、学科会議ですね」椎橋はスマートフォンを見ながら言う。
「今日は何もないようなので、大丈夫ですよ」中村教授は言った。
椎橋は、天井を見上げた後、大きく頭を下げた。脇坂が肩を慰めるように叩く。
「はい、えっと・・・」寿は周りを見る。
「学生は席を外した方が良いでしょうか?」蘭が言う。
「SNSとか、友達に漏らさないでくれればいても良いのだけれど。ちょっと報道規制がかかっている内容なので」寿が言う。
「あれ、でも蘭には話していませんでした?」工藤が言う。
「それも、そうですね・・・では、本当に内密にお願いします。僕の首が飛んでしまうので」
「そんな簡単に飛ばないだろう」中村教授が言う。
「こちらの写真なのですが」寿は写真を見せながら、先ほどまでの説明をした。
先ほどまでとは異なり、ソファには寿の正面に中村教授、その両脇に脇坂と椎橋が座っており、その後ろに蘭以外の学生が座っていた。
説明では、蘭と議論した内容は省いていた。
蘭を除く全員が写真を手に取り眺めた。一通り全員が見終わった頃、中村教授が口を開いた。
「専門家としての意見を聞きたいのでしょうけれど、ピンポールかどうかの判断はつきませんね」
蘭と同様の回答をした。
「形状は確かに似ていますから、捜査に関してはその方向性で調べても差し支えないのではないかと思います」
寿は頷く。
中村教授の意見に続く者はいなかった。みなそれぞれ中村教授の発言に頷いていた。
「そうですか、今日はありがとうございました」寿は言った。
「いえ、刑事さんも大変ですね」中村教授は言った。
「大学の先生も大変ですよね」
「大学の先生もなかなか大変ですよ。定期試験の採点をしなければいけませんし、レポートも見なければいけませんしね。あと、明日から、測量実習が始まります」
「測量実習ですか?明日から夏休みでは?」寿が言った。
「短期集中でやるのですよ。三泊四日で」中村教授は言った。
「そうですか、建築学科の測量の授業も担当されると聞きましたが、その実習は土木工学科だけですか?」
「そうですね、建築の方は、後期の授業時間内で行います」中村教授は言った。
「そういえば、明日の準備はできているのか?」
「今、小川君を中心に、機材準備とテキストの印刷をしてもらっています。今日は工藤さん達がゼミでしたから」椎橋が言った。
「そうか、セミナーハウスの予約は?」
「一か月前に予約しています」椎橋がファイルを見ながら答える。
「じゃあ、予定通りだな」中村教授が頷く。
「合宿形式というわけですね」寿が言う。
「そうですね。大学の敷地のはずれに、セミナーハウスという宿泊施設と、ちょっとした講義ができるセミナー棟があるのですよ。そこで寝泊まりしながら測量を行います」
「どこを測量するのですか?」
「昨年は運河でした。今年は大学のグラウンド一帯を測量しようと思っています。運河は大学へ来られるときに見てきたと思うのですが」
「あの川ですね」寿は思い出しながら言う。
「正式には川ではないのですが、そう見えますよね」中村教授は言う。
「そうなのですか?てっきり川だと思っていました。土手の上に公園などありましたけれど」
「あの川は、正式には利根運河と言って、利根川と江戸川をつなぐ一級河川です。河川とは言っても、人工河川で、日本初の西洋式運河なのですよ」
寿は頷く。
「利根川と江戸川の高水位の差を利用して、台風が来た時などの高水時に利根川の洪水を江戸川へ放水することが目的の一つですね」中村教授は言った。
「そうだったのですか、単なる川だと思っていました。ちょっと反省ですね」
「いわゆる土木構造物というものは、使用用途を考えると、生活に密接にかかわっていることがほとんどですからね。そこにあることが当たり前になってしまう」
寿は中村教授の目をじっと見ていた。
「刑事さんもそれに気付けたら、帰りの運河がまた変わって見えるでしょう」中村教授は歯を見せて笑った。
「中村先生、そろそろ会議の時間です」椎橋が横から言った。
「えー、出なきゃダメ?」中村教授は言った。
「ダメです。今日は、予算員会の報告をしなければいけないのですよ?」
「いいじゃない。脇坂さん報告しておいてよ」
「先生、行きましょうか」
脇坂はそういうと、椎橋と共に中村教授の脇に手をやり、立ち上がらせた。
「では、寿刑事、今日はこれで失礼させていただきます」椎橋が言った。
「はい、お時間撮らせてしまって申し訳ありませんでした。失礼いたします」寿はそう言って、ソファから立ち上がった。
中村教授は、若手教員二人に連行されて、部屋を出て行った。
「結局、逮捕されていったな」板倉がつぶやくように言った。
蘭は口に手を当ててかすかに笑った。
「古見澤、お前どうしたんだ?」
急に声をかけられた。きれいな空を見ていたのに。自分にとって良い状態にいるときに邪魔されるのは、人間にとっての復元力の変わりになるのだろう。人は一人ではどうにもならないっていう傍証だろうか。
そんなことを考えていると、声の主が近づいてくる足音が聞こえた。
無津呂風音が胴長を着て、大学の裏門から入ってきたところだった。
「今にも夕日に向かって走り出しそうな勢いだったぞ。何か困っているのか?俺で良ければ相談に乗るぞ」
無津呂は、見た目も暗く陰険そうな声色で話すが、自分が知る限り、同期の中では最も面倒見が良いやつだ。
「大丈夫だよ無津呂、何も悩みはない。夕日がきれいだったので見ていただけだよ。標本採取の帰りか?」
「ああ、そうだ。今日はセミナーハウス裏手の池からすぐ裏の山まで行ってきた」
無津呂は表情を変えなかったが、安心しているように古見澤は感じた。
「古見澤、お前は温和で常に中立の立ち位置を守ろうとするやつだ。それはすごく大変だと想像するし、その生き方を俺は尊敬する。しかしな、誰よりも中身が見えない。俺はそれが怖い時がある」
無津呂は本当に自分を心配しているのだなと思った。
「ああ、そうだな。自分で抱え込まずに、すぐにお前に相談するよ。ありがとう」
しかし、それは嘘である。
まだ、何もできない。
「本当だな。約束だぞ」
無津呂は、そう言うと大学構内へと歩いて行った。
泥だらけの足跡を残しながら。
「そういうところをしっかりしたら、もっとお前のことを好きになるやつ出てくると思うのだけどな」
夕日に向かい茶色い足跡を残して、のっそりと歩いていく同期を見ながらつぶやいた。
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