鎖と折れ線~Chain and Traverse~

八家民人

第1話 プロローグ

 今日のアルバイトは、いつもより早めにあがった。最近夏が近づき、気温が上昇しているためか、お客が多く、ビールが飛ぶように売れた。ビールが飛ぶように売れているために、おつまみとしての料理も飛ぶように売れている。そのため、厨房では人が駆け巡っていた。しかし、明日から定期試験で、アルバイト終わりに友達とファミレスで勉強する予定になっていたので、シフトを早番にしていた。

「お疲れさまでした」

 河合美緒は、誰に向けて言うわけでもなく挨拶した。実際、居酒屋の厨房にいた他の従業員やアルバイトから、次々に同じ言葉が美緒に投げかけられた。

 このアルバイトは、大学入学して間もなく、友達になった同級生に紹介してもらった。

 美緒自身は、大学生と言えば、アルバイトとサークルで四年間を費やしながら、就職して社会にでるものだと考えていた。しかし、現実はそういうものではなかった。美緒の認識が甘かったという理由もあるが、理系大学生とは、そういうものではなかった。美緒は、私立R大学化学工学科に入学し、現在三年生である。飲み屋のアルバイトのため、夜にシフトが入ることが多く、日中にレポートや実験などが入ると、疲労感の中で仕事をしなければならない。しかし、アルバイトをしなければ生活ができない。親からの仕送りは、家賃と光熱費に消える。携帯代金を払わなければいけないし、友達と遊びたいから、アルバイトを減らすことはできなかった。それでも、ここまで続けていけたのは、お店の店長、従業員やアルバイト仲間に恵まれたためだと美緒は思っている。

 私立R大学は、千葉県可士和市に位置している。美緒のアルバイト先は、そこから電車で二駅隣にある。美緒自身は、可士和市で一人暮らしをしている。美緒のアルバイト先は駅前に位置しているため、店を出てから三分後には電車へ乗り込んでいた。アルバイト先は可士和駅から二駅であり、かつ仕事が終わった時間には電車が動いていないこともあったため、普段自転車で移動していた。今日はまだ電車が動いている時間帯だったので、楽することにした。十分ほど乗っていると、可士和駅に到着した。待ち合わせまでまだ時間があったので、美緒は一度自宅へ戻ることにした。

 自宅への道は、駅から十分ほど歩いた住宅地の中にある。線路沿いにしばらく歩き、途中で住宅地へと続く道に入った。

 道は、進むにつれて緩やかに右へと湾曲しており、道へ入った直後には、先を見通すことができない。また、街灯がほとんどなく、全体的に薄暗くなっていた。いつもなら、自転車で駆け抜けるために、多少怖くても何とかなった。しかし、今は徒歩で移動しているため、とても心細い。

 最初は、すぐに自宅マンションへ着くと思っていたが、歩を進めるにつれて自分が細くなっていくのを美緒は感じていた。やはり自転車を使えばよかったと、少し後悔していた。

 途中にある街灯が、唯一、安心に浸れるかといえば、そうではなく、周囲の闇が強調され、さらに不安に駆られた。

 歩いていると、後方に気配を感じた。振り向いて、目を凝らす。何かがいる。街灯のところに立っていたため、周辺が見えない。かすかに金属音がしている気がする。金属が小刻みにこすれているような音がした。美緒は後ずさりをする。

 街灯が切り取った面積の外へ出る。

 闇に目が慣れてくると、人影が見えた。

 手に長い棒を持っている。金属音の原因はこの棒であることがわかった。

 人影は、無気力に体をふらふらさせながら、手に持つ棒をアスファルトに引きずるように歩いている。

 美緒は頭で警告音が鳴っていることに気づく。

 早く走って、早く。

 実際の行動に移るまでには、わずかに時間差があった。

 人影は、先ほどまで美緒が立ち止まっていた街灯のひとつ前にある街灯の手前で歩みを止めた。持っていた棒のようなものを、ゆっくりと持ち上げて、美緒の方に向けた。野球のバッターが予告ホームランをするときのような格好である。その棒が、街灯に照らされる形となって、初めて、その棒が金属バットであることがわかった。

 その瞬間、美緒は振り返って、走り出した。それと同時に、人影も走り出したことがわかった。

 走りながら、美緒は迷っていた。民家に助けを求めるか?視界に移る民家は、すべて光が消えていた。叩き起こして、開けてもらうまでに、追いつかれる可能性がある。鞄の中から携帯を取り出して、警察に連絡するか?美緒は後ろを振り返る。人影は、服装まではっきりとはわからないが、金属バットを首の後ろに水平に当てながら、走り込んで来る。 

 電話をかけることで走る速度が遅くなるのは、避けたい。

 自宅まで走ることに決めた。

 湾曲した道を抜けると公園が見える。自宅は公園を抜けたところにある。

 入口の車止めで失速するが、公園に入った。

 中ほどに来たところで、足に激痛が走り、転倒した。見ると、金属バットが転がっている。転ばせる目的で後ろの人物が投げたのだ。立ち上がろうとした美緒の背中に衝撃があった。

 人影はすでに美緒に追いつき、美緒の背中を踏みつけていた。首を回して、その人物の顔を見ようとするが、見ることができない。かろうじて、ブーツにジーンズ、黒っぽいパーカーのフードをかぶっていることがわかった。

 公園に逃げたのは、失敗だったかもと思った。叫び声をあげても、届かない可能性があるし、公園ではしゃいでいるだけだと思われる可能性もあった。

 お互いの息が切れる音だけが公園に響いていた。

 パーカーの人物は、ゆっくりと足を背中から下し、傍らに転がっている金属バットを取りに行った。美緒は、逃げ出そうと体を起こすが、体の痛みに負ける。しかし、がんばって体を起こし、座り込んだ。その間、黒パーカーは、拾い上げた金蔵バットの砂埃を払っていた。

 相変わらず、顔を見ることはできない。黒パーカーは、体の向きを変えて、美緒を正面から見据える。正確には、顔が確認できないため、正面を向いているということしか美緒にはわからない。

「な・・・何?何なの?」美緒は声を震わせて訊いた。

 黒パーカーは、何も言わずに、金属バットで地面を小刻みに叩いている。

「何が目的なの?」

言い終わる直前に、黒パーカーが動いた。大きく体を左にひねり、同時に右足を踏み込んだ。そして、金属バットで美緒の左足を振りぬいた。

 美緒は悲鳴を上げた。しかし、実際は声になっていなかった。

 すでに左足の感覚はない。

 這うようにして、距離を取る。

 黒パーカーは、沈黙のまま、迫ってくる。

 その距離は瞬く間に縮まった。

 黒パーカーは、美緒の腰のあたりで跨ぐ様に立った。

 美緒は、動きを止める。

 黒パーカーは、金属バットを美緒の頭頂部に当てた。

 美緒は、じっと黒パーカーを見据える。最後に自分にとどめを刺す人物の顔を見たかったが、叶わないようだ。

 黒パーカーが、金属バットを振りかぶる。

 あー、みんなにお別れできなかったな。やけに冷静になれている自分がいた。

 顔は黒パーカーに向けたまま、美緒は目を閉じた。




 寿は、車を停車するところを探していた。現場に近づくと、見張りをしている警官が近寄ってきた。

「お疲れさまです」制服警官は、すぐに寿に気が付いたようだ。

「お疲れ様です。申し訳ないのだけど、車、どこかに止められないかな?」パワーウィンドウを下げて、寿は言った。

「あ、自分が探して、停めておきますよ」

「本当?申し訳ないけど、お願いできるかな?ここら辺わからなくて」寿は車を降りて、制服警官と交代する。

「帰るときに、車は回しておきますね。では、失礼します」制服警官は、軽く会釈しながら、発進させる。

 車が行くのを見届けてから、寿は周囲を見渡す。住宅街の中にある公園が現場だ。

寿は、C県警の捜査一課警部補である。血なまぐさい現場に、おめでたい名前のため、自己紹介の際に雰囲気が悪くなることがごく稀にある。良い点と言えば、逆に忘れられないということくらいだった。

 公園に近づくと、制服警官に話をしている女性が見えた。おそらく、野次馬の一人が警官に詰め寄っている、といったところだろう。子犬を抱いている。寿が制服警官に近づくと、主婦との会話を遮って、お疲れさまです、と挨拶された。

 第一発見者は、近所の交番の制服警官だという。この公園はパトロールのコースになっているらしく、今日もいつも通りに公園に差し掛かったところ、異様な雰囲気がした。よく見渡してみると、砂場に人が大の字で寝ている。大学が近くにあるから、飲みすぎて学生が寝ていると最初は思ったが、違和感があった。近づくと、胸のあたりから、何かが飛び出ている。それは、金属製の杭のようなものだったという。視界に公園内の遊具があったため、遠目には杭だと判断できなかったとのことだった。駆け寄ったときに、女性だったことに気が付いた。これは足元から見ていたために、判断が遅れたようだ。その後は、すぐに本庁に通報した。すぐに応援の警官たちが到着して、現場を封鎖したということである。これが死体発見から、今までの経緯である。

 寿は現場の公園に入る。ブルーシートに囲まれた砂場の中に、被害者が横たわっていた。傍らには、上司の笹倉が立っていた。

 笹倉は、C県警捜査一課の警部である。オールバックにした髪に、ぼーっとした顔つきが特徴である。しかし、人の懐に入ることが得意で、すぐに人と仲良くなる。聞き込みに同行してもらいたい人材として、冗句ではあるが、他の捜査班からも声がかかることがあるという。

「ご苦労さん」掌が見えるか見えないか程度に片手をあげて、笹倉は挨拶をした。

「申し訳ありません、遅れました」寿は靴にビニールのキャップを被せて答えた。現場保存のためである。

「大丈夫よ。俺もさっき来た。発見者の警官に話聞いた?」

「はい、先ほど」

「事件の第一発見者になることなんてほとんどないだろうからねぇ」笹倉は、立ち上がりながら答えた。

「そうですね。一般市民が第一発見者になるよりかは、騒動にならないから、そういった意味では良かったですね」

 寿は笹倉と入れ違いに、被害者のもとでしゃがむ。

「死因は、出血多量によるショック死だ。頭部へ殴打した跡があるが、致命傷ではない。恐らく、バットのようなものだろう」

「しかし、ひどいですね。まだ若いし」

「大学生だそうだ」

「一番楽しい時期ですよね」

「うん、それで何よりわからないのは・・・」笹倉は、指で自分の心臓を二回突いた。

 被害者の左胸から、金属製の棒が飛び出ていた。先ほどの警官の証言と一致している。金属棒の飛び出ている部分は、胸から三十センチほど飛び出ており、その先は輪になっていた。

「その金属棒は、殺された後、刺された可能性が高いそうだ。心臓が止まってから金属棒を刺したのだろう」まだ、方法は不明だけどね、と付け加えて、笹倉は、着けていた手袋を外し、鑑識に後は解剖に回して、と告げた。

 鑑識が遺体を搬送する。金属棒は、体を突き抜けてはおらず、全長五十センチから六十センチくらいと推定される。砂場には血が多くしみ込み、跡になっていた。こういう場合に砂はすべて取り換えるのだろうか?と寿は疑問に思った。

「とりあえず、今は周辺の聞き込みかな」笹倉は、囲まれた砂場から出て、寿に伝えた。「他のメンツと一緒に動いてくれ」

「了解しました。笹倉さんはどうされますか?」

「いったん本部の戻るわ。報告してくる。捜査本部が作られるだろうからね」笹倉は、口に出して言わなかったが、猟奇的殺人であることは、間違いない。マスコミ関係への対応など、やることはたくさんある。

 それがひと段落してから、現場に戻ってくるのだろう。

「そういえば、ここ可士和市ですよね」寿は言った。

「そうだよ。何か気になるか?」

「いや、あいつの大学が近くだったなと思って」寿は言った。

笹倉は、あごに手を当てて首をひねっていたが、気が付いたようだ。

「久里浜の研究所の事件で会ったあの子か。助けてもらったからな。そういえば、殺された子も、その大学の学生だ」

聞き込みついでに行っておいで、笹倉はそう言うと、現場を後にした。

久里浜の事件から三か月、会いに行ってみるか、寿は公園の出口へ体を向けた。

そこには、車をすでに回して、扉を開けて待っている先程の警官がいた。

どれだけ、早いんだよ。

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