第22話
第二十二回
「そもそもどこであなたは松田政男さんと知り合ったのですか。」
矢崎泉はコップの中のオレンジジュースを一口飲んだ。南の島の民家をかたどった喫茶店の横では家族連れが楽しげに歩いている。不審な死の調査をここでやっていることは不思議な対称だった。
「このことは誰にも言わないでもらえますか。」
矢崎泉は思い悩んでいたことが少し吹っ切れたように話す気になっていた。
「今は失いたくないものがたくさん、あります。アメリカでの研究者としての地位も手に入れました。」
「家庭もですか。」
村上弘明は自分の身に引き替えていった。
「婚約者もいます。」
村上弘明の想像したとおりだった。
「彼女は私の過去のことなど何も知りません。」
「今の婚約者に知られたくない過去をお持ちで。」
矢崎泉の顔に苦渋の色が走った。
「私はあせっていました。早く、地位や業績をあげたいと、それよりも何よりも私は金が必要でした。ちょうどその頃、実家が手形詐欺にあって経済的にどん底の状態にあったのです。」
「別に犯罪に手を染めていたというわけではないんでしょう。」
「私が直接、犯罪に加担したというわけではないのですが。」
矢崎泉はまだ具体的な話にまで及んでこなかった。まだ話ずらいことがあるのかも知れない。
「具体的にはどんな場所で松田政男さんと出会ったのですか。」
「ええ、そのことをこれからお話します。私はやはり化学を専攻していました。洋々たる未来が約束されていると信じていました。大学院を出た時点で就職口はいくらでもあったのです。しかし、今、お話したように、実家が手形詐欺にあって私の将来に暗雲が立ちこめてきたんです。できれば私は研究を続けて海外に留学したいと思っていました。しかしその夢が危うくなりました。暗澹たる気持ちで町を歩いていると突然見知らぬ男に声をかけられました。
「矢崎さんですか。お宅に何度も電話をかけたのですが、電話に誰も出てこられないのであなたに直接会おうと思いまして。」
その男の物腰はひどく柔らかでした。」
両親の手から離れた五、六才の子供がおもちゃの魔法の杖を振り回しながら村上弘明のテーブルの横を通り過ぎた。
「その男に連れられてその男について行く事にしました。初めて会った人物でしたが、化学の知識にはかなり深いものがあって、私を何らかの研究で協力してくれればかなりの報酬を約束してくれるという話でしたから。何よりも私は今いったような理由で経済的に困っていましたし、その男が化学者の知識としても信用できるものを持っていたのでその話にのることにしたのです。その男につれられて行った場所は京都競馬場のそばにあるセメント工場の隣にあるビルでした。一見なんの変哲もないビルでしたがその中には最新の化学分析装置や反応機械がところ狭しと並べられていてまるでどこかの研究所のようでした。実際にそこは研究所だったのですが。そこで働こうと思ったときから私の銀行口座には信じられないくらいの大金が振り込まれていました。そこには私のような境遇の若者がたくさんいました。」
村上弘明は矢崎泉のその話を聞いてあきらかにうさんくさいものを感じた。就職したての若者にそんな大金を支給するなんてあきらかにおかしい。矢崎泉もそんな吉澤の印象を感じとっているようだった。
「私も何かおかしいという印象は感じていました。しかし、大金を必要としていたに目の前に金をつまれ、私が願っていた化学の職場についたので、私は自分自身のその会社に対する疑念は自分の心のどこかに押し隠してしまいました。」
「その研究所のようなところで何をやっていたのですか。」
「何か大きなプロジェクトがあってその部分部分をうけもたらされていくつかの化学物質の合成をやっていました。」
「その大きなプロジェクトというのがどんなものなのかは、わからなかったのですか。」
「いいえ。」
矢崎泉は沈黙した。はっきりとわかつていたのか、どうなのかは吉澤にはわからなかつたがそのまま、矢崎のいうことを額面どおりにうけとることはできなかった。
「とにかくそこで私は松田政男に出会いました。」
「じゃあ、松田政男さんも同じようなことをやっていたのですね。」
「そうです。」
「松田政男さんはどんなことを言っていましたか。」
「彼は人間の生理学に関したことにも興味を持っていたようです。しかし個人的なことはお互いにあまり話しませんでした。なるべくここで早くに実際的な経験をつんで私の方はアメリカに渡ろうと思っていましたし、彼も何か自分なりの計画を持っていたのでしょうが、そのことについては何も話しませんでしたから。」
「まだ、その研究所のような場所はあるのですか。」
「ありません。五年ほど前にその場所に行ったことがあるのですがビルの中は何もなくなっていてほかの会社の倉庫のようになつていました。」
「あなたはすぐそこをやめたのですか。何年ぐらいそこで働いていたのですか。」
「二年くらいでしょうか。それからアメリカに渡りました。松田さんは私がそこをやめたとき、まだそこにいました。」
いったい若い研究者に破格の待遇で何を研究させていたのだろうか。吉澤は化学者ではなかったからそのあたりのことはさっぱりとわからなかったが、何かあやしいものを感じさせた。
「じゃあ、松田さんが新しい化学薬品を開発して、その特許と製薬会社に売りつけたことによって大儲けをしたということはご存知ないんですね。」
「いえ、知っています。」
「その化学薬品の開発はその研究所に松田さんが勤めていたときになされたものではないのですか。そうなるとその以前、勤めていた会社のこともこの前の松田さんの事件に関係していると言わざるを得ないんですが。」
村上弘明はある仮説を立てていた。それによると松田弘明はその研究所で開発した成果を持ち逃げしたのだ。それでその研究所の誰かに殺されたという可能性もある。
「もし、そういうことがあったとしても彼は私がそこを出てから何年かはそこにいたのでそのあたりのことははっきりとはわかりません。」
松田政男はどんな研究をしていたのだろう。村上弘明は化学のことがさっぱりとわからなかつたのでそのことが残念だった。二人が座っている喫茶店の道を隔てた向こうにある海賊船のアトラクションの施設の上の方は大樹に覆われているのだがそこにとまっている烏が大きな鳴き声をあげたので吉澤はびっくりとした。
「じゃあ、そこで別れたきり、松田政男さんには会っていないのですね。」
「いいえ、会いました。」
何気なく言った矢崎泉の言葉に村上弘明はびっくりした。さらに矢崎の言葉が吉澤を驚かせた。
「いつ、お会いになられたのですか。」
「二年ぐらい前の七月だったと思います。」
二年年前の七月といつたら松田政男がK病院に収監される一年半ぐらい前だ。
それから松田政男はK病院に入ってその三ヶ月後に怪死をとげている。
「そのときの様子はどうだったんですか。」
村上弘明は身を乗り出して尋ねた。
「すごく、意気揚々としていました。具体的なことは何もいいませんでしたが、今度、学会が大騒ぎをするような学説を発表するというようなことをほのめかしていました。具体的なことは何も言いませんでしたが。」
「じゃあ、さっぱり何のことなのかはわからないのですね。」
「ええ、しかし生理学的なことに関しているのではないでしょうか。」
「じやあ、あなたと松田さんが最初に出会ったその研究所の住所を教えてくれますか。」
矢崎泉は住所は忘れてしまったが、どの駅で降りるのか、隣にあったセメント工場の名前を言った。矢崎泉は明日はアメリカに立つといった。
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