第21話

第二十一回

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S高の校長、大木章は風呂から上がって自慢の家の廊下を夕涼みしながら歩いていた。大木章は親が地主をしていたので住んでいる家も風格があって大きかった。昭和三十年頃に建てられた和風の数寄屋造りのような豪邸だった。昔に建てられた家だったが、未だに雨漏り一つしないぐらいの立派な作りで杉がところどころにつかわれている、現代の部品を工場で作っているような家とはわけが違っていた。風呂から上がって晩酌をするのが日課になっていた。廊下を歩くと庭の木が大木章の目を楽しませた。銭湯の内庭のような風情もある。大木章は廊下を歩きながら詩吟を唸った。今週の日曜日には詩吟の会で飛騨の高山に旅行に行くことを楽しみにしている。校長と言っても十人十色で、みな違った愉しみを持っている。中にはキャバレーが何よりも好きな人間もいる。極端に柔らかい方に走る人間もいるのだ。そしてその一方では、堅い方では茶道を趣味にしているものもいる。大木章はその中間ではないかと自分のことを思っている。そして何よりもこの古風な数寄屋造りのような家の主には詩吟のような趣味があっているのではないかと思っている。そして今週の日曜には詩吟の会で飛騨の高山に旅行に行くことになつている。そこで彼の属している詩吟の組織の大会があるのだ。その大会のことよりも飛騨の高山を旅行できるということが楽しみだった。江戸時代から続く町並み、からくり人形、それを乗せた山車、緑に囲まれた町、きれいな川の流れ、その川にかかる木製の橋、そこへ行く電車の旅行も楽しみだった。ずっと以前に一度、行ったことがあるのだが山間の線路を抜けていく電車の姿が目に浮かんだ。これほど今度の飛騨の高山行きを楽しみにしているのはそれなりの理由があった。つい二週間前にひと騒動が持ち上がっていた。それがやっと解決したのだ。大木章が雪見障子のある座敷に行くと妻が晩酌の用意をしておいたので座卓の上にはビールと枝豆、冷や奴、餃子がのっていた。餃子は少し異彩を放っていたが雪見障子のある家などそうないだろう。障子を開け放して庭を見ながら冷や奴の固まりをくずしていると妻が入って来た。

「高山へ行くとき持って行くボストンバックは紺色のでいいかしら。」

「うす茶色の東京での研修に持って行ったのがあっただろう。あれの方がいいだろう。」

「だめですよ。あれは薫が赤ちゃんのものを入れるのに丁度よいと言ってもって行ってしまいましたからね。」

「お前、何でもあげるんだなあ。自分の家の稼ぎで買わせろよ。」

「赤ちゃんが産まれて何かと物いりなんでしょう。そんなことを言うなら上沼くんに使ったお金のことを私も言いますよ。」

「ばか、あんな事を本当に信じているのか。あんなのはあいつらが勝手にに考え出して言っていることだ。」

大木章はたちまち不愉快になった。

「もう、全く、何を言っているのだ。」

大木章は枝豆のへたを強く前歯で咬んだ。大木章は少しだけ自分の地位を危なくさせることをやってしまったのだ。上沼幸平という十五才の少年がいた。彼は中学三年生だったがほかの中学三年生と違うところは卓球がずば抜けてうまいことだった。同じ年の少年ではほとんど勝負にならなかった。彼の通っている中学の彼の担任と大木章は知り合いだった。大木章はその天才卓球少年を自分の高校に入れたいと思った。担任と知り合いでなければほとんどそんな考えも生じなかっただろう。ある日、卓球少年、その担任、大木章とで会食を持った。その席でS高の校長、大木章は上沼幸平を自分の高校に入れたいこと、そして入れるための便宜をはかるようなことを言った。仮にもS高校は公立高校である。校長の一存でそんなことが実現するわけがなかった。それがどういうわけか、外部にもれたのである。会食をした店でS高の父母が働いていたとも、大木章が酔った勢いでどこかでそれをもらしたともいろいろなことが言われていた。しかし、それが外部にもれたのは事実である。それを日芸テレビがかぎつけ、何しろ、上沼幸平は将来のオリンピック候補だとか、中国に卓球留学させろだとか、いろいろと言われていたので格好のニュースねたになった。日芸テレビが特集を組んでこのことを取り上げたのだった。大木章のところにも取材が来た。適当に口を濁して口裏合わせと言い逃れを用意しておけばよかったのだ。しかし、文部省からの調査が来たときには大木章も青くなった。大木章は興奮のあまり、日芸テレビの記者に自分の持っているかばんを投げつけたほどである。それがどういうわけか、騒ぎが自然に収まってしまった。しかし、そんな事があったから大木章は飛騨高山への旅行が楽しみなのだった。

「電話ですよ。」

玄関から妻の呼ぶ声が聞こえる。

「子機を持って行きましょうか。」

妻は大木章のところに子機を持ってきた。

「もしもし、大木ですが。」

「夜分、すいません。日芸テレビに勤めている村上弘明といいます。」

大木章は日芸テレビと聞いただけであきらかに機嫌が悪くなった。

「日芸テレビさんがどんな用かね。」

村上弘明は機嫌が悪いのを押さえた、かつ警戒心が表れている大木章の声の調子を聞いて、おやっと思ったがかまわず続けた。

「松田政男さんという方をご存知でしょうか。S高校の出身者なんですが、今年の五月二十三日にK精神病院で不審な死を遂げた人物です。警察は自殺という線で捜査をうち切りましたが警察内部でもその判断に疑問を持っている人々が多くいます。私もそれに疑問を持っています。つまり他殺ではないかと疑っています。それで私たち日芸テレビでは松田政男氏のこの事件で番組を作ろうと計画しています。さっきも言いましたように松田政男氏はS高校出身です。それで耳よりな情報を手に入れたんです。松田政男氏が化学の分野で成功を収め、S高校の誇れる卒業生として数年前にS高校の化学の時間に講演を開き、それをビデオカメラに撮っていたということを聞きました。用件というのはそのビデオテープを見せて欲しいということなんです。」

村上弘明は相手が電話口の向こうで黙っているので一気にしゃべった。大木章はなおも沈黙していた。

「校長先生の指示でその講演の様子をビデオテープに撮っていたのではありませんか。」

「今、何時だと思っているんだ。日芸テレビさん。私は教育者です。学校の内部のことを興味本位で嗅ぎ回っているあなた方に教える必要なんてないじゃありませんか。」

村上弘明はつい最近の卓球少年に関してのS高の校長と日芸テレビとの軋轢を全く知らなかった。何故、急に大木章が怒り出したのか、わからない村上弘明は報道関係の仕事をするものとしては不用心のそしりを免れ得ないだろう。しかし、村上弘明はやはり何故、大木章が怒っているのかわからなかつた。ただ、単に報道機関に対する警戒心から、つっけんどうな態度をとつているのか、それとも急に電話をかけたことに対して起こっているのか、どちらかだろうと思った。しかし、実際は、卓球少年の件に関して、職務上の責任をとらされる直前まで行ったのだ。大木章は日芸テレビに対して怒り心頭に発していたのだ。電話口の向こうは全くの沈黙の状態だった。彼のそばにいれば彼のうなり声が聞こえたかも知れない。

「もしもし、聞こえていますか。こんな夜中に電話をかけたのは申し訳ありませんが、改めて、明日、S高校にお伺いしていいでしょうね。もしもし、聞こえませんか。あの、実は、私の妹がS高校に通っているんですが。」

そこで初めて大木章は返事をした。

「君の妹がうちの高校に通っていようがどうしようが関係ないじゃないか。君にはもっと言いたいことがあるが、電話じゃ、しようがないから、とにかく切らせてもらうよ。」

電話口の向こうでがちゃりと電話の切れる音が聞こえた。

「`````」

「畜生、何て奴だ。あれでも教育者か。」

そのとき玄関の呼び鈴の鳴る音がした。

「ひとみ、誰か、来たぞ。」

村上弘明は食堂の方にいる妹を呼んだ。大木章の怒りが弘明に伝染していた。

「兄貴、何を怒っているのよ。うちの校長に電話をかけたの。ちょっと待っていてね。玄関に誰か、来ているの。」

苦虫を噛みつぶしたような顔をして電話の前に座っている村上弘明を後目にひとみは玄関に出て行った。

「こんばんわ。」

「こんばんわ。」

玄関には同時に二人の声が聞こえた。そこには松村邦洋と滝沢秀明の二人が立っていた。

二人は二人とも手提げかばんのようなものを持っている。手提げかばんの口からは大きなはさみやのりのようなものが見えている。

「二人ともどうしたのよ。」

「何や、うちに来てくれって言っていたのは吉澤さんやないか。学校新聞のレイアウトを一緒に考えようと言ったやないか。」

奥の方から缶ビールを片手にのれん越しに村上弘明がのっそりと顔を出した。

「おじゃましています。」

松村邦洋も滝沢秀明もひとみの兄が朝のテレビでときおり顔を出していることを知っている。その声の調子には多少の尊敬がこもっていた。

「なーに、今日は新聞のレイアウトをやるんだって、わからないことがあったら何で聞いて。こう見えても社会学を専攻して卒論に新聞を取り上げたこともあるんだから。」

村上弘明は妹の友達にあきらかに興味を持っていた。というより、妹と彼らの間の関係に興味を持っていた。まさか、彼らとの間でキスなんかはやっていないだろうが、そんな兄をひとみはうとましく思っている様子もなくはなかった。

「さっき、うちの校長に兄貴、電話をかけたのよ。」

「何故ですか。」

滝沢秀明が杓子定規にたずねた。

「松田政男のことよ。松村くんが松田政男さんがうちの高校で講演会のようなことを開いたと言っていたじゃない。それでその様子をビデオカメラで撮っていたという真山誠司くんに聞いたのよ。そうしたら、確かに、その講演の内容をビデオに撮ったって。でも、それは校長先生が引き取って校長室の応接間の戸棚の中にしまわれているって教えてくれたのよ。真山くんもそのテープが確かにそこにあることを確認しているって。それで兄貴はそのテープを借りるために大木校長のところに電話をかけたのよ。」

「ええっ。」

松村邦洋は素っ頓狂な声をあげた。

「それはまずいがな。」「何がまずいのよ。」

吉澤ひとみが松村邦洋に問いただした。

「大木校長はがちゃんと電話を切ったよ。」

「そうでしょう。」

松村邦洋の口調は新しく修行に入ってきた小坊主に住職の話をしている古株の小坊主のようだった。

「上沼幸平っていう中学生を知っていますか。大阪では名前の知られた中学生なんですが。」

松村邦洋は事情通らしい口振りで話した。

「そいつは卓球の天才で将来のオリンピック候補なんです。どういうわけか、その天才卓球少年とうちの校長が接点があって、そいつをうちの高校に引っ張ろうとしていたのや。しかし、うちの高校は公立やろ。校長がいくら頑張ってもそいつをうちの高校に入れるような権限はないわけや。でも飲み屋で酔った勢いか何かで、上沼幸平をうちの高校に入れるとか、何とか、体言壮語していたら、うちのPTAか何かに聞かれたんやな。それがテレビ局に伝わって、テレビ局の方では上沼幸平がらみで特別番組を組むわ、校長を追い回すわ、そのうち文部省の役人の耳に入って、うちの校長は事情聴取をうけるわ、で何もかも、てんやわんやになってしまったんや。それもみんな日芸テレビのおかげということで、うちの校長は日芸テレビが親のかたきというわけやな。だから、日芸テレビの人間がうちの校長に接するなんてもってのほかなんや。」

「そういうことだったのか。」

村上弘明はようやく事情が飲み込めた。それで、校長の大木は何も言わずに電話をがちゃりと切ってしまったのか。しかし、そうすると、これほど便利な講演テープが手に入らないということなのか。そうなると手間のかかることをやって松田政男の周囲を調べていくほかない。

「テープは手に入りますよ。」

突然今まで黙っていた滝沢秀明が太平楽に言って松村邦洋の顔を見てうなずいた。

「なあ。」

「夜中に忍び込んで、持って来ちゃえばいいんですよ。」

「松村くん、それってどろぼうじゃないの。」

「校長が見せてくれないのなら仕方ないやないか。」

「でも、どうやって忍び込んじゃうの。」

村上弘明はかなり乗り気だった。

「うちは夜中に警備員を雇っているわけじゃないんです。どこかの警備会社が自動車でパトロールに来て外側をちよっと見て回るだけなんです。学校の中の警備は主に機械でやっているんですが、今度の土曜日の夜にその機械の交換をやることになっていて日曜日は一日中、警備の機械は役に立たなくなっているんです。だから、今度の日曜日の夜に忍び込めば校内には誰もいないし、防犯の機械が作動するおそれもないんです。校長室の戸棚の扉には全く鍵がかかっていないというし。」

「よし、決めた。忍び込んでそのテープの内容を調べよう。」

「兄貴、そんなにすぐにそんなことをするのを決めてもいいの。」

「人が一人死んでいる殺人事件の調査だよ。それくらいの事をやってもいいさ。」

しかし、さすがにビデオテープそのものを持って来れば夜中に校長室に賊が忍び込んだことがわかってしまう。

そこでビデオカメラを持って行ってそのテープを録画してくることに決めた。

土曜日の夜にS高校のそばにある神社に四人は集まった。四人は四人とも目立たない格好をしている。夜中に金庫破りで忍び込むどろぼうのようなカーキ色のような格好をしている。村上弘明は背中にリュクサックを背負ってその中にはデジィタルビデオカメラが入っている。昨日はそのカメラの電池の充電をやった。本番でカメラが回らなかったら目も当てられない。神社の境内には誰もいなかつた。この神社はS高校の校舎の南側に塀を一枚隔てて建っている。そしてS高校の校舎は敷地の南側に建っている。つまり神社の境内から塀をよじ登って高校側に出れば校舎の裏側に出る。さらに都合のいいことには神社の高校に接している方は雑木がたくさん立っていて、木の根元には下草がたくさん生えているのでヤブ蚊が多くてよほどの暇人でなければこんなところには来なかった。まして真夜中である。警官でさえこんなところは通らなかった。

「いい具合やな。」

モスグリーンのTシャツを着た松村邦洋がGパンを履いている吉澤ひとみの方を振り返って言った。まわりには人っ子一人いなかった。

「早く忍び込みましょうよ。ヤブ蚊に食われちゃうわ。」

吉澤ひとみは二の腕のあたりを蚊に食われたのか、腕にピンク色に点がついていてそこを掻いている。

「滝沢、校長室の物置の裏の窓ガラスの鍵を開けておいたんやな。」

「もちろん、ばっちりだよ。」

校長室の一郭に囲いがしてあってそこに普段使われないような大型の業務用掃除機や電気式の床洗い機がしまわれていた。特別に汚れた床を洗うという口実で昼間、滝沢秀明は校長室に入り、その物置から床洗い機を取りだした。そしてそれを返すとき囲いの中の窓の鍵をはずしておいたのだ。まず、再び近日中に誰かによってその窓ガラスが閉められるということはないだろう。塀と言っても大人の胸の高さぐらいしかない。その上金網だったので四人とも金網に足をかけて塀を乗り越えた。四人は校舎の裏側に立った。校舎の裏側のちょうど校長室の前だった。校長室の中は当然、真っ暗だった。今頃、校長の大木章は何をしているのだろうか。たぶんもう眠っているだろう。もちろん、この四人が校長室に忍び込んでいることも知らずに。

「開いてる。開いてる。」

滝沢秀明が昼間あけておいた窓ガラスを細めにあけて鍵がかかっていないことを確認した。四人はその窓から校長室に侵入した。校長室に入って電気のスイッチを吉澤ひとみが入れようとするのを滝沢秀明が制した。

「待って、部屋の中が明るくなると外の誰かにわかってしまうから。」

滝沢秀明は校長室のカーテンをしめた。

「滝沢くん、こんな薄いカーテンではこの部屋の明かりをつけたら外に光りが漏れてしまって、ここに僕たちがいることがわかってしまうだろう。」

松村邦洋が自分のリュックサックのふたをごそごそといじって何かを取り出した。

「こうなるだろうと思って用意してきたものがあるんや。」

松村邦洋はリュックの中から乾電池式のランタンを取りだしてスイッチを入れた。部屋の中はぼんやりと明るくなり、薄いカーテンだったが光が外に漏れる心配はなかった。

「私たちだって懐中電灯ぐらいは持って来ているのよ。」

「それより、早くビデオを見よう。」

村上弘明はこの部屋は初めてだったが、他の三人はある程度、この部屋の間取りや置いてあるものを知っていた。

「こっちや。」

松村邦洋が大きな柱時計の横に置いてある戸棚のところへ行った。

戸棚のところには確かにビデオカセットが何本も置かれている。主に学校行事を記録したものが多かったがその間に松田政男氏講演記録とタイトルがつけられたビデオカセットがそれらの間に倒れて置かれている。

「これや、これや。」

松村邦洋は戸棚の中からビテオカセットを取りだした。懐中電灯の明かりに照らされて、松田政男講演記録の文字があやしく光っている。

「早速、見よう。」

「テレビは、あっ、あそこやったな。」

隣の部屋が応接室になっていて、そこにテレビとビデオデッキも置いてあった。村上弘明はリュックの中からビデオカメラを取りだした。今日のために使用説明書を読んだり、バッテリーを充電したりしておいたのだ。ビデオデッキに接続するコードも説明書を読んで用意しておいた。

「つなごう、つなごう。」

松村邦洋と滝沢秀明の協力を得て、何とかビデオカメラとビデオデッキを接続し終えた。

「じゃあ、ダビングを始めます。ダビングと同時にテレビの方も見えるはず。」

松村邦洋がカセットをビデオデッキに挿入した。横に置いてあるビデオカメラの録画中を示す赤い表示ランプが点灯した。テレビの方ににラスターが流れていたが、やがて映像と音声が流れ始めた。村上弘明も写真で見たことのある松田政男がテレビの中に出て来た。写真で見ただけではあまりよくわからなかつたのだが思ったより背が低くて猫背だった。

「今度、蓮海先生に言われて、ここで自分の高校時代のこととか、自分の開発した化学薬品のことを話すことになった松田政男です。」

松田政男の話しぶりはよどみなくというわけにはいかなかった。あまり人前で話すのは慣れていないようだった。

「あっ、あっ、もちろん、僕はこの高校の出身です。高校のときから化学が好きでした。」

四人は無言でテレビを見ていた。ブラウン管の光が四人の顔を照らした。それから松田政男の話は自分が発明して製薬会社に売りつけた薬の話になったが、専門的な話なので詳しくは話さなかったがどうも筋肉と老化に関する薬の話らしかった。それに自分の開発した高性能な油の話もした。そしてその後も松田政男はそういう研究をやっているらしかった。その話のあとで松田政男の話を聞いていた生徒の一人が質問した。

「僕もどちらかと言うと化学が好きなんですが、松田さんは最初、どんな会社か研究所に勤めたのですか。」

その質問には松田政男はあやふやにしか答えなかった。話を違う方向に持って行った。

「ちょうど、同じぐらいの年の、同じ目的や、同じ傾向の友達を持つことは大切なことだと思います。」

松田政男の答えは質問の答えには全くなっていなかった。

「僕にもそんな人間がいます。僕と同い年の人間なんですが、名前を矢崎泉と言います。」

その言葉で彼の講演は終わっていた。時間にして四十分、具体的なことはあまり出てこなかったので収穫がないようだが、重要なことがいくつか出てきた。

「松田政男の開発した新薬って人間の老化と筋肉に関することだつたんだ。」

「それに具体的な名前が出てきたじゃないか。矢崎泉って。」

「女の子の名前みたいね。女の子なのかしら。」

「いいや、男の子だろう。」

「男の子という言い方もおかしいんじゃないの。男の人よ。きっと。」

「それより、何故、松田政男は最初に入った会社、それはたぶん化学に関した会社だろうが、そこのことを言わなかったんだろう。」

「きっと、そこで何かがあったのよ。たとえば自分が売って儲けた新薬にしてもその会社に雛形があって、それをちょっと変えただけで自分で発明してどこかの製薬会社に売りつけたものだから、都合が悪くて何も言えないのよ。」

「とにかく、具体的に名前が出ただけでも大収穫だ。矢崎泉、覚えておこう。」

しかし、実際は覚えておくだけではない。矢崎泉から調査を始めなければならなかった。四人はこのカセットテープの戦利品を手にして誰もいない深夜の校長室を後にした。もちろん、校長の大木章が翌朝やって来ても昨日の夜にこの四人が校長室に忍び込んで松田政男の講演のテープをダビングしたなどということは知るはずがないだろう。次の日、吉澤ひとみたちは学校があるのでこのテープから得た情報から松田政男の事件を調べることはできなかったが、村上弘明の方はK病院のごみ問題を隠れ蓑にして調査を続けることができるのだった。矢崎泉、この名前が手がかりだった。しかし、意外と早くこのてがかりは解明された。電話帳を調べると矢崎泉の名前がのっていたのだ。すぐに電話をかけた。

「もしもし、矢崎さんのお宅ですか。」

「申し訳ありません。矢崎は今、アメリカに行っています。」

「この電話番号でよろしいんですね。」

「ええ、ちょっと、待ってください。」

最初に電話に出たのは男の声だった。すぐに女の声に電話が変わった。

「もしもし、矢崎の家の留守を預かっているものなんですが、矢崎がアメリカに行っていたのは事実なんですが、つい二日前に日本に戻って来ていまして、明日、うちにも、戻ってくると思います。何なら、携帯電話の番号を教えましょうか。」

村上弘明はその女から矢崎泉の携帯の電話番号を教わった。矢崎泉はアメリカに行っていたのだ。きっと彼も化学の仕事をいかしてアメリカに行ったのかも知れない。講演の中で松田が矢崎を同じような仕事をしている仲間と位置づけているからだ。そうなると矢崎泉は松田政男に関してもっといろいろなことを終えてくれるかも知れない。教えて貰った矢崎の電話番号をかけると今度は矢崎本人が出て来た。

「日芸テレビさんですか。日芸テレビさんがどんな用ですか。」

電話に出た矢崎の声にはとまどいの背後に何かしらの不安な調子があった。矢崎の精神状態が不安定なのは彼自身の現在の生活、もしくはそれ以前の生活に何か人に知られたくないものを擁しているからかも知れなかった。

「日芸テレビの村上弘明と言います。ディレクターとリポーターを兼務して、報道番組を作っています。アメリカにいらっしゃったようなのでご存知ないかも知れませんが。」

「日芸テレビさんが、一体、僕に何の用なのですか。僕は数年間、アメリカに行っていたので日本のことはあまり、知らないのですが。」

あきらかに矢崎の言い方には迷惑だという調子があった。

「松田政男さんのことをうちの番組で調べているのです。K病院で不審な死を遂げた人物です。警察では自殺という線で落ち着いているのですが、そのことについては私たちは疑問を持っています。彼のことを調べていくうちに、彼の生前の姿が映っているビデオテープを発見しました。その中で松田さんは自分の過去を語っているのですが、協力しあえる、理解しあえる仕事上の友人として、あなたの名前を挙げているのです。それであなたにお会いしていろいろとお話をおうかがいしたいのですが。お会いしていただけますか。」

電話の向こうの矢崎泉は思い悩んでいるようだった。しばらく沈黙が続いたのち、矢崎泉は何か、決心したのか、電話口の向こうからまた声が聞こえてきた。

「キンダーランドを知っていますか。」

キンダーランドは大阪市内にある私鉄の経営する大型の娯楽施設だった。

「そこで会いましょう。今から三十分ぐらいでそこに行くことができると思いますから、十時半にキンダーランドの入り口のところで待っていてください。」

村上弘明は地下鉄を乗り継いでそこに着いた。キンダーランドの正門入場口の方に着くとそれらしい三十代くらいの男性が入場口の横の方にいた。子供連れの家族客か若い恋人同士ばかりだったので矢崎の姿はすぐにわかった。

「とにかく、中に入って話しをしましょう。」

矢崎泉の方から言ってきた。二人で入場券を買い、中に入るとこども連れの親子でいっぱいだった。大きなドームの中に水をいっぱいたたえたプールがあってその中に幽霊船を浮かべているというアトラクションの横にある赤煉瓦の壁の上に麦藁屋根を載せた南米の家の形をした喫茶店の中に二人は入った。セルフサービスなので二人はカウンターのところに行ってオレンジジュースを買い、壁側の席に座った。

「何故、私の名前が出てきたのですか。」

矢崎泉はためすような表情で彼に聞いた。

「松田政男さんが、自分の母校であるK高校で講演のようなことをおこなったのです。その様子がビデオテープに撮ってあって、その中であなたのことを信頼できる、有能な友達だと言っていたからです。もちろん、あなたは松田政男さんのことを知っていますよね。」

矢崎泉はうなずいた。

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