第20話

第二十回

松村邦洋は今朝、新聞を読まずに学校に来たので失敗したと思った。少し離れた席に座っている真山誠司に今日の新聞を読んできたかと聞かれたからだ。別に読んでこなかったからといってたいした不都合があるわけではない。質問されたときにほんの少し肩身の狭い思いをするだけなのだが。教室の中ではみんながそれぞれ思い思いのことをやっている。鏡を見ながら髪の毛をとかしている女子生徒、ウォークマンを耳にあてて音楽を聴いている男子生徒、友達同士おしゃべりをしている生徒、もちろん、今日の授業の下読みをしている生徒もいる。滝沢秀明は何をしているかと思い、彼の方を見ると、電卓を出して盛んに何か計算していた。滝沢秀明の机の上には小銭入れが開かれ、小銭が机の上に広げられていた。吉澤ひとみの方を見ると彼女自身が作っている取材のためのメモ帳を開いて何か書き込みをしている。この前のK病院に行ったときの取材を整理しているのだろうかと松村邦洋は思った。何故、今朝の新聞を読んできたほうがよいかと思ったかと言えば一時限目に日本史の児玉京太郎の授業があるからだ。児玉京太郎は五十二才の日本史の教師で、教師をやっているかたわらに郷土史家のようなこともやっている。何度か彼の研究が「関西歴史探訪」という雑誌に掲載されたこともあった。最新の歴史の研究事情などに対しては非常にうるさくて新聞などで新しいおもに古代史などの発見があると必ず授業中聞いてくるのだ。別に答えられないからといってどういうこともないのだが。真山誠司は児玉京太郎が必ず今日一番の授業で古代史の新しい発見についてひとくさり何か言うに違いないと期待した。細身の児玉京太郎が入って来た。細身だが背はあまり高くない。物腰は女性的で声も女性的だ。

「今日の新聞を読んできましたか。たぶん全ての新聞に載っていたと思いますが、三脚銅製円筒の正しい解釈が確立されましたね。」

真山誠司は自分の思ったような展開にやっぱりなったなと思った。児玉京太郎はなおもとくとくとしゃべり続けた。

「三脚銅製円筒の記事を読みましたか。」

真山誠司は今朝読んできたその記事を思い出していた。要するに今までの日本の古代史学会ではそれが製鉄に関する道具なのだろうというのが学会の多数を占める見方だったのだが韓国で全く同じものが見つかってさらにそれの使用法まで書かれた記録までが見つかったのだ。それで今までの定説は全く崩れてしまう。相変わらず児玉京太郎は得々と覆った定説について話している。真山誠司はある計画を持っていた。児玉京太郎の授業が終わると図書館に走っていった。図書館の中に入るとある本を探し始めた。前に見たことのある本だった。図書室の入り口から入って右側にその本はあった。

「あった。あった。」

真山誠司はほくそ笑んだ。

「古代における製造技術。これだ。これだ。」真山誠司はその本を取りだした。真山誠司はある計画を持っていた。その本の中には三脚銅製円筒の古い解釈がのっている。今朝の新聞に載っている研究以前に書かれた本だから当然と言えば当然なのだが。その間違った記述を訂正しようという計画があった。早速、「古代における製造技術」という本を取りだしてその記述を書き直そうとする。その本を取りだして床の上に広げた。するとどういう事だろう。三脚銅製円筒に関する記述は最新の学説に変わっているではないか。そこには以前はこの器具が製鉄の道具だと考えられていたことがあったが、今は韓国から同様なものが発見され、これが祭祀の道具として使われていたことがわかった。と最新の学説が書かれている。おかしな事にその記述はちゃんとした製本印刷によってなされている。つまり誰かがいたずら心で手書きでそれを書いたということではないのだ。本の出版日を見ると第六冊改訂版、そして今日の日付が書かれている。これは一体どうしたことだろうか。こういう事はこれがはじめてではなかった。つい最近だが似たようなことがあった。真山誠司はわけがわからなくなった。ふと、図書館の入り口のあたりに誰かの視線を感じて振り返ると、そこには吉澤ひとみが立っている。真山誠司はあわててその本を棚の中にしまった。

「吉澤さん、なんか、ようか。」

真山誠司は調子の狂った大阪弁で言った。

「あなたにちょつと聞きたいことがあって、こっちで話をしましょうよ。」

吉澤ひとみは外の景色が見える窓側の机の方に真山誠司を誘った。窓の外からは蘇鉄の青い葉が見える。吉澤ひとみから声をかけられるのは初めてである。真山誠司は少し緊張した。図書室は二階にあるので蘇鉄の青い葉の向こうには青空が見える。真山誠司はある期待を持って待っていたがそれがすぐにひとりよがりの空想だということがわかった。

「松田努くんのお兄さんのことは知っているわよね。松田政男さん、松田政男さんもうちの高校の出身なんですってね。」

「ああ、そうや、松田の兄さんの松田政男さんはうちの高校では成功者ってことになっていたんや。何や、知らんけど新しい薬を発明して大きな製薬会社に特許として売ったそうや。画期的な薬だって話やったな。週刊誌にもちろっとその事が載ったみたいやな。」

「それで松村くんから聞いたんだけど化学の時間に松田政男さんの話を聞くために一席開いたんだって。わざわざ化学の授業をつぶして教室で彼の講演会みたいな事をやったそうね。そのときどんなことを話したの。」

「どうやってその発見がなされたのか。どんなところでその研究をしていたか。誰とそれをしていたかなんて事だったと思うけど。詳しい話はみんな忘れてしまったけど。」

「松村くんの話によるとそのときの様子をビデオに撮っていたという話だけど、誰がビデオで撮っていたの。」

「それは俺や、教室の後ろの方でビデオを撮っていたんや。」

「わかったわ。じゃあ、そのビデオを見せてもらえないかしら。」

「あんときの化学の担当の松下先生から頼まれてビデオを撮っていたのやけど。残念やな。あのビデオは俺は今は持っていないわ。確か、校長のところにあったと思ったんやけど。」

真山誠司は自分で撮ったビデオの内容についてはあまり語ろうとしなかった。しかし、そのビデオカセットテープの行き先についてははっきりと覚えているらしく、それは校長のところにあると明言した。これは大きな収穫だ。吉澤ひとみは栗の木団地の自分の家で兄の村上弘明を待っていた。この話を聞いたら兄の弘明はどんな顔をするだろうかと思った。缶ビールも冷やして待っていた。もちろん、松田政男についての重要な情報を手に入れたからである。玄関の靴入れががさごそという音がして兄の村上弘明が帰って来た。

「兄貴、何か、新しい情報をつかんだ。」

ひとみはわざと勿体ぶってたずねた。兄の弘明は成果は上がらないが有意義に調査は進んでいるというような顔をした。実際にはそれは空威張りにすぎないのだろうが。

「主に福原豪がらみで調べているよ。全く煮ても焼いても食えない奴だぜ。今日もあいつのいろいろな噂を聞いて来た。福原豪のことを専門に調べているフリーライターがいるらしいんだが、その人物にそのうち会おうかとも思っている。ひとみがいつか言っていたじゃないか。福原豪は悪の元締めでいろいろ表沙汰にできないような悪いことを肩代わりをしてやっているって。」

「兄貴、あんなことを本当に信じているの。あんなこと、本当に冗談よ。口から出任せ。テレビの時代劇じゃあるまいし、そんなわけがないでしょう。」

「でも、ステーキ屋で見えない相手から脅迫をうけたじゃないか。そこいらの安アパートで潜伏している犯罪者じゃ、あんなことはできないぜ。松田政男はやっぱりあの病院に無理矢理、不当に入院させられたんだよ。何かの理由で強制的に松田政男は不当にK病院に監禁されたんだよ。」

村上弘明は缶ビールを飲んで唇についた泡を手でふきながら言った。

「でも、何で松田政男を監禁するの。別に何の利益もないじゃないの。」

弘明の前に座ったひとみは兄の顔を見ながら言った。

「それが謎なんだよ。それがわかれば全てが解決するさ。でも、松田政男は化学の大変な秀才なんだぜ。若くして製薬会社に自分の発明した新薬の特許を売るほどの男なんだ。きっとそこに鍵があるに違いないよ。」

「兄貴はそこに全てを持っていくのね。」

吉澤ひとみはテープルの上に置いてある福神漬けをひとつまみ口の中に放り込むとぼりぼりとかじった。今晩はカレーライスが夕飯なのだ。カレーと言ってもレトルト食品だが。福神漬けをぼりぼりとかじる姿をS高の吉澤ひとみをマドンナと仰ぐ男子生徒が見たらどう思うだろうか。

「福原豪の噂を聞きたい。」

村上弘明もビールのつまみに福神漬けをぼりぼりとかじった。

「聞きたい、聞きたい。」

「福原豪はやはり中央政界入りを狙っているらしいんだよ。前の政友党の幹事長の宮升宗治に近づいているといううわさなんだ。」

「宮升宗治って。」

そう言われても吉澤ひとみにはさっぱりとわからなかった。そういう名前は聞いたことがあることにはあるのだが。

「今の政権を執っているのが政友党、幹事長というのはそこの大番頭みたいな人のことだよ。この前、選挙をやったじゃない。隣の県に宮升の一の子分が出馬したんだけど、大部、資金面で福原が応援していたみたいなんだな、何でそんな大金が融通できたのか。大阪の七不思議の一つなんだ。」

「別に、そんなこと不思議でもなんでもないじゃない。福原豪は大金持ちなんでしょう。」

「確かに福原豪は大金持ちだよ。資産としてはね。資産というのは札束や金じゃないわけだよ。すぐに換金はできない。山や畑や土地だもん。もちろん、書画や骨董もあるだろうけど、すぐにはお金にかえられないわけだよ。その金をどうやって融通したのかというのが謎なんだよ。さっきいった福原豪を調べているフリーのライターがいるって言ったじゃないか。そいつもきっとそのことを調べていると思うんだ。その一端だけでも教えてもらうよ。」

「福原豪はそんなに中央政界に進出しようとやっきになっているんだ。でも、兄貴、七不思議ってあとは何よ。」

「ひとみが何でマドンナって言われているかってことだよ。」

「何よ。うるさいわねぇ。兄貴だからって、私をからかうと承知しないわよ。わかったわ。兄貴、岬さんに会えないから欲求不満なんでしょう。」

「うるさいなあ。」

今度は村上弘明の方が閉口した。東京に残して来たかつての恋人、岬の名前を出されるのが村上弘明には何よりもつらいのだ。吉澤ひとみも少し言い過ぎたかも知れないと反省した。そこで少し声音を変えて、まるで弘明の恋人のように話しかけた。

「今日、学校でいい情報を得て来たのよ。前に松村くんが松田のお兄さんがうちの高校に来て講演のようなことをやって行ったと言っていたじゃない。そのことは本当だったのよ。私は知らなかったんだけど松田政男はわが母校ではけっこう、成功者として知られていて、それでうちの高校で化学の時間に講演みたいなことをしていったんですって。同じクラスに真山誠司という生徒がいるんだけど、その生徒のお兄さんが化学の担当の先生にたのまれて、そのときの講演をビデオテープに撮っていたんですって。」

村上弘明は目を丸くした。

「本当。」

「本当です。」

「そのテープを真山のお兄さんが持っているのかい。」

「残念でした。そのテープは校長先生が押収して校長室の戸棚の中に入っているそうよ。」

「じゃあ、ひとみの高校の校長先生に頼んで、そのビデオテープを見せて貰えば、松田政男のぼやけていた部分はだいぶはっきりとするんだ。校長先生の自宅の電話番号は。」

吉澤ひとみは自分の部屋へ行くと学校関係者の住所録を村上弘明のいるダイニングの方へ持って行った。ダイニングのテーブルの上でその本を開くと、職員名簿録の後ろの方にS高の校長の住所氏名電話番号が載っていた。

「ここよ、ここ。これが校長の電話番号よ。」

吉澤ひとみは校長の家の電話番号を指で指し示した。

「真山くんの話によるとそのビデオテープが校長のいる応接室にあるのは確実だと言っているから。そのビデオテープさえあれば松田政男の実像ははっきりするに違いないわ。つい最近も真山くんは校長室に掃除に入ったとき、そのビデオテープが応接室の戸棚に入っていたのを見たんですって。」

「そうか、わが優秀な助手くんの、お手柄だな。今日から君を小林少年と呼ぶか。」

「兄貴、ぶっているわね。それじゃあ、まるで兄貴が明智小五郎みたいじゃないの。」

「明智小五郎みたいな名推理とはいかないけど、相手は怪人二十面相みたいな、すごい奴かも知れないよ。あははは。」

「何よ、二十世紀も終わろうとしているこの時期に芝居がかりみたいなことを言っているの。電話よ。電話。」


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