第14話

第十四回

「トースターにパンを入れておいてよ。お兄さん。」

そう言われて吉澤ひとみの兄、村上弘明はステンレス製で銀色に輝いているトースターに六枚切りの山切りパンの二枚を入れた。そのあいだ木ひとみは洗面台の鏡の前で髪をとかしている。

「いくらひとみの方が学校に行くのが早いからと言って朝食の用意ぐらいはしておけよな。」

「兄貴、紅茶はいれてあげたでしょう。」

村上弘明はひとみのいれた紅茶をすすった。

「そうだ。兄貴、きのう、岬さんから留守電が入っていたよ。」

その言葉を聞いて弘明の頬は一瞬、緩んだ。

「また、でれでれしちゃって。」

「うるさいぞ。早く学校へ行け。」

「もう、まだご飯を食べていないでしょう。」

髪をとかし終わったひとみはテーブルについた。

「ひとみ、大人をからかうもんじゃないよ。」

そう言った弘明の頬は少しまだゆるんでいた。

「この前の日曜日、岬さんに会ったの。」

「うん。」

兄貴の面目を保とうとしているのではなく、内面があらわれているのだが、弘明の表情は落ち込んだ。この前の日曜日に村上弘明は岬美加に会うことになっていたのだが会えなかったのだ。吉澤ひとみと村上弘明は実の兄弟でこの栗の木団地の九号棟の三階に住んでいる。弘明はこの前の日曜日に弘明が自分自身では婚約者だと思っている岬美加に会うはずだったのが会えなかったのでその事を多いに気にしている様子だ。ひとみもそのことに気づいた。でもなんと言っていいのか、わからないので黙っていた。

「今日もいい天気みたいね。ほら、あんなに青空がみえるわ。」

食卓の向こう、弘明の向こうに三階から見える青空を見てひとみが感想をもらした。

「世界銀行が画期的な債務処理の方法を考えた。なになに、これはコロンビア大学のスタインバーグ研究員のアイデアによる。本当かいな。」

弘明はまたぶつぶつと言った。

「ごちそうさま。」

吉澤ひとみは一気に紅茶を飲み干すと席を立った。紅茶が入れられてから少し時間がたっていてさめているからできた芸当だった。

「遅刻しちゃう。私、鍵を持っているから戸締まりはしっかりしてね。」

吉澤ひとみは鞄を持つと玄関へ急いだ。弘明は自分の妹がマドンナと呼ばれていて全校の生徒のあこがれの的になっていることを知っている。他人から見ると自分の妹だから異性を感じないと思われるかも知れない。それはある部分では当たっていた。確かに普段は家族としてひとみに女としての色香を感ずることはほとんどなかった。しかし最近は彼女に自分の妹でありながら色香を感ずることがあるのだ。それはこの前の花火大会に行ったときのことだった。弘明自身は乗り気ではなかったのだがひとみのほうから誘ってきた。ひとみとしては自分自身では婚約者だと思っている岬美加と弘明が離ればなれになっている思いやりかもしれなかった。近所の歩いて十分くらいのところに大川と呼ばれる少し大きな川がある。川幅は二、三十メートルぐらいだろうか。あまり清らかとはいえない水が悠然と昼間は流れている。川岸も川の両側にあり、やはり二、三十メートルぐらいある。普段はそこは野球とか子供の遊び場に使われているのだが夏の盛りになると一度だけ花火大会に利用されるのだ。市の主催でおこなわれていてそこそこ盛大に行われる。大玉が五百発くらいうちあげられるだろうか。今年の夏は弘明が岬美加にあえなかったのでひとみが気を遣って兄を誘ったのだ。こんな兄弟はほとんど居ないだろう。妹が花火大会に兄を誘うなんてあまりさまになる兄弟なんてそう居ないだろう。これもやはり吉澤ひとみだから不自然さがないのだ。土手の上に上ってうちわで自分の顔の方に風を送っている自分の妹を見て普段はそんなことを感じないのに彼女がいつの間にか大人になっていて大人の色香を回りにふりまいていることにおどろいてしまった。それが彼女に異性を感じた一つのできごとだった。もう一つはロシアの方からバィオリンの天才少年というのがこの市にやって来てここのコンサートホールでリサイタルをひらいたことがあった。そのときひとみが彼に花を渡す役目を言いつかっていて彼女はまだ高校生だが黒いサテンの服を市役所の方から支給されコンサートホールの大広間でその天才ヴィオリン少年に手渡した。弘明も仕事の関係でその場所に居合わせたので彼女の黒い服を着ていた姿を目にしたのだがまるで自分の妹ではないような印象と大人の色香を彼女に感じたのだった。これならS高のマドンナと呼ばれるのも不思議はないと思って自分の妹ながら鼻高々だった。しかしその一方で心配もある。変な虫がつかないかという悩みだ。しかしこの悩みも現在のところ新聞部の仲間である滝沢秀明と松村邦洋という二人の毒にも薬にもならないような男子生徒とつき合っているということを知っているからそれほど心配でもなかった。この二人にはあったこともある。近所に住んでいるのでアパートを降りて花壇にはさまれた細い道を歩いているとき二人にあったのだ。二人にあったのは別々の時間だったが会った場所は同じ、二度とも彼らの方から話しかけてきた。吉澤ひとみさんのお兄さんですか。高校でひとみさんと同じ部に入っている者です。家に帰ってからひとみに二人のことを聞いてみると同じ部に所属していて彼らとは一番仲がよいのだと言われた。この二人があまり格好よくもなく高校生らしかったので弘明は安心した。とにかくマドンナなどと呼ばれる妹を持つと何かと苦労が耐えないのである。弘明は大急ぎで出て行ったひとみを見送ってから二つトースターに入れたのにひとみが一枚しか食べなかった残りのパンを口に突っ込んだ。俺も急がなくちゃ遅刻しちゃうよ。弘明が仕事に行くのに使っているものはバスだった。ひとみの方は歩いて通えるところに高校はあったが弘明の方はバスを使わなければならなかった。バスの停留所は団地の細道を抜けて大通りに出たところにある。大きなプラタナスの木の横に案内板が立っている。生あくびをかみ殺しながらそこに立っているとまもなく市営のバスがやってきた。弘明がパスを運転手に見せて中に乗り込むとバスの中は六割ぐらいの混み方だった。弘明は八つに折った今朝の朝刊をつり革にぶら下がりながら見ているとバスの中では雑音でも会話でもないバスに乗ったことのある人間なら誰でも感じたことのある自分の家庭、学校、会社でのうわさ話が行き交っていた。聞こうという気がないのに耳に入って来る。それはやはり聞こうという気持ちがあるからだろうか。

「ねぇ、風間みきって歌手、知っている。」

村上弘明は聞き耳を立てた。その話手の方を振り向こうかと思ったが理性がそれを躊躇させた。二人の女性が話しているらしい。

「風間みきって写真週刊誌に数ヶ月前にのっていた歌手でしょう。」

「そうよ。」

「何だったか日芸テレビの社員とホテルから出て来るところを追っかけカメラマンにとられた歌手でしょう。」

「そうよ。その歌手のことじゃないわよ。日芸テレビの大阪支社がうちの会社と同じフロアーにあるじゃない。だからいるのよ。その日芸テレビの社員が。」

村上弘明は多少固まった。どこの誰から見られているかわからないと今更のように思った。どんなことをはなされているのか興味もあった。

「なんかそれが原因で大阪支社に飛ばされたそうよ。」

「でも何でその歌手と一緒にホテルなんかから出てきたのよ。」

「それは決まっているじゃないの。つき合っていたからよ。」

村上弘明はますますその会話の方にふり向くことができなくなった。他人のうわさ話ほどたちのよくないものはない。とくに利害関係のない人間によるおもしろおかしいうわさ話はする方が気楽でされる方が重大な影響を与えられるという点において悪質な伝染病のようだった。話す方はいつの間にか忘れていても話題の中心はいつまでたってもその病原菌から解放されることはない。それは自分自身の細胞から発生して毒素を出して死にいたらしめる癌のようだった。

「どんな人なの。そうね。わりといい男よ。でももうだめよ。大阪支社に飛ばされるようじゃ。もう東京にもどれないんじゃないの。仕事もろくにしないで歌手との恋愛にうつつを抜かしているようだから大阪に飛ばされるのよ。」

話の主は華やかな芸能界に弘明が関わっているというだけで許せないような感じだった。しかし、吉澤はその相手の主のところへ言って抗議しようかと思うほどは単純ではなかった。彼は体面のある一流企業の社員だったからだ。弘明と風間みきのあいだには何もなかった。そう思えば、そんなうわさ話に一瞬でも腹を立てたということが自分でも納得がいかなかった。しかし自分が一種の懲罰処分をうけて大阪支社に飛ばされたというのは事実である。そのため婚約者の岬美加とは離ればなれになっている。そこが納得がいかないのだ。そもそも村上弘明は愛想のいいほうで人当たりが柔らかい。テレビ局の中でも他の社員はほとんどプロデューサーやディレクターをのぞけばほとんど個人的なつき合いはないのに弘明の場合、芸能人に知り合いが多かった。風間みきとはどんな関係かと言えば風間みきがご主人様で村上弘明が召使いという対応だった。風間みきのほうが三つ年下だったが裏返せばこのいつも性的魅力を振りまいているかわいい顔をした風間みきに信頼されているという喜びや見栄のようなものがあつた。写真週刊誌に撮られたというのも風間みきのほうから心配事があるというので呼び出されたのだ。そこがホテルの一室だということに村上弘明の注意は確かに足らない部分はあった。弘明を呼びだした風間みきの心配事というのも今度ドラマに出ることになってそのせりふ覚えが悪いということから始まって最後は共演者たちの悪口に落ち着いた。とくにディレクターの何とかいう人物が気にいらなくて携帯電話の番号を聞かれてむかついたという話でお開きになった。風間みきを追いかけている週刊誌があるとは知らなかった。ホテルを二人で出てくるとき写真を撮られたのだ。この事件を知ったときの婚約者の岬美加の態度は意外と思えるほど冷静だった。********************************************************************************************

村上弘明は職場の自分のデスクの引き出しをあけると婚約者の岬美加の写真を眺めた。つい二、三日前にも彼女の留守電に伝言を入れておいたのだが今日も返事がなかった。

「吉澤さん、**町の服部さんという人が来ていますよ。今日の十時半に会う約束をしていたと言っていますが。」

「服部さん、ああ、していた。していた。」

「応接室にお通ししていますから。」

村上弘明が応接室へ行くと三十前後の女性がソファーにこしかけて待っていた。彼女は資料の入った書類袋を持っていた。

「今回、お世話になります。ここに資料ももってきました。写真も撮ってありますから。」

中学の女教師というタイプだ。

「とにかく、私たちの近所のゴミ捨て場に同じようにゴミを捨てられてもこまるんですよ。理事長らしい人に抗議しても一向にらちがあかないんですから。うちの近所にも小さな子供なんかがいるでしょう。注射器の針なんかに何がついているのかわからないし。本当に心配ですわ。」

「これがその病院ですか。」

吉澤は書類袋の中に入っている病院の全貌が写っている写真をながめた。白亜の御殿ならいいのだがまるで白亜の城塞だ。むかし、こんなような建物を見たことがあることを思い出していた。計画だけで終わった旅だったが中世イタリヤの古城を訪ねるとかいう旅行ガイドにむかしのイタリヤの貴族がたてた城塞にこんなものがあった。むかしの除雪車や明治時代の軍艦のような形をしている。

「あなたはもしかして吉澤ひとみさんのお兄さんではありませんか。」

服部良子は突然聞いてきた。

「目鼻立ちがひとみさんに似ているからひとみさんのお兄さまじゃないかと思いまして。甥っ子がS高に通っているんですが、ひとみさんって有名でしょう。」

弘明はひとみが有名と言われて言葉がなかった。

「あの病院はいろいろと変なことをやっているらしいんですよ。S高校に通っている生徒のお兄さんがあの病院で変死したことをご存知ですか。」

栗の木団地の自分の家に帰ってきた村上弘明は応接間で野球中継を見ながら台所のテーブルで辞書を片手に外国の歌手の作った歌の歌詞を翻訳している吉澤ひとみに話かけた。

「今日、テレビ局でひとみのことを知っている女性に会ったぞ。K病院のことで苦情にきたんだ。」

「報道番組にとりあげろって。」

「そのとおり。まず最初に話しだしたのはゴミ問題だよ。自分たち住民のごみ置き場のそばに病院のごみ捨て場を作るなという話からはじまったんだ。」

「なぜ作っちゃいけないの。」

「病院だから、いろいろなごみが出てくるだろ。使用済みの注射針だとか。確かにそのゴミ捨て場のそばには幼稚園があったりして、小さな子供が多いだろうから変なものを捨てておけないということは確かにあるよね。それからその病院の煙突から変な色をした煙が出ていて翌日、付近の住民の目がちかちかしただとか、いろいろな事を言ってきたよ。それからひとみの高校の生徒のにいさんがあの病院で変死したんだって。」

「えっ、何て人。」

「松田とか言っていたよ。」

ひとみは転校してきたとき担任の畑が松田兄弟のことを言っていたのを思い出した。自分でもそのことに興味を持って松村邦洋に松田努のことを聞いたことも思い出した。そのときは松村邦洋から松田兄弟のことについては何も詳しいことは聞けなかったのだ。

「あれは私が転校してきたとき聞いた話で実際に松田の兄のほうが死んだのは数ヶ月前だろうから、そうだ兄貴、新聞の縮刷分を持っていたじゃないの、あれを調べればすぐわかるじゃないの。」

Kという精神病院のゴミ問題から出発して弘明は松田政男の変死問題のほうに興味が移っていた。たしかに弘明は新聞の縮刷版を家に保管してある。日芸テレビの系列の新聞社がだしている新聞の縮刷版だ。弘明は東京にいたときは芸能分野の担当だったが大阪に来てからは報道分野に変わっていたので勉強と資料集めのためにただでそれを家に持ってきていたのだ。

「私も手伝うから、それで探せば。」

弘明は妹の協力も得ることができたのでその作業に取りかかることにした。四十分後にその成果は出たがその結果ははなはだ期待はずれのものだった。出ていたのは大阪版の新聞だったが取り扱いは二、三行ではなはだ要領を得ない。新聞には松田政男という昔、製薬会社の研究所に勤めていた二十八歳の男性が精神病でKという精神病院に入院していたが夜中に不審な侵入者が病院の中に不法侵入して殺害されたという記事が載っていた。そしてその続報として同じ新聞が訂正を出して実は自殺だつと結論づけている。変死事件を扱ったにしてはくるくるとよく変わる事件だ。松田政男の事件に関してはそれからあとの続報はどの新聞にも載っていなかった。

「これじゃ、何もわからないじゃないの。兄貴。結局、犯人は捕まったのかしら。」

「何も書いてないところを見ると捕まっていないんだろう。」

「じゃあ、兄貴の出番じゃないの。」

「よしてくれよ。」

そう言った弘明の口調にはまんざらではないものがあった。しかしそれではあまりにも最初の目的からは離れてしまう。

「あくまでもゴミ問題が主眼なんだぜ。その病院が不法にゴミを捨ててないか、衛生上ちゃんとしたことをやっていないか調べるのが目的なんだよ。」

「いいスクープができたら岬さんも東京で見ているかもね。」

弘明は最後の言葉には絶句した。彼自身なんと言っていいのかわからなかった。

「またまた、照れちゃって、照れるなよ。」

これがS高のマドンナと言われている女かよと弘明は思った。

「お風呂、わいているから、わたし、さきに入るから。そうだ。明日、学校へ行ったら松田兄弟のことを聞いてみるね。」

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